心を切りとるは身を知る雨
 朝晴に連絡した方がいいだろうか。家に帰ってるかもしれないし、病院から帰る途中なら、寄ってもらえるかもしれない。しかし、出てくるときに店の鍵とポストカードしか持ってこなかった。店に戻らないと、彼に連絡できない。

「苦しいんです」

 しぐれがやっとというように深い息を吐き出す。

「大丈夫ですよ。すぐに井沢さんに来てもらいますから」
「兄なんて呼ばないで」

 きつめの口調に驚いて、未央は口をつぐむ。

「ひとりでも大丈夫だから。私……、ひとりでやれるから」

 朝晴の手を借りたくないとばかりに、彼女は言う。まるで、自身に言い聞かせるように。

 身をかがめ、しぐれと目を合わせる。すぐにそらされたが、苦しそうにゆがむ瞳の中には涙が足りなかった。

 泣けないつらさを、未央は少しは理解しているつもりだった。苦しくて悔しくて、自分ひとりではどうすることもできずにもがいて。

 苦しみを生み出す相手が変わらなければ、永遠に消えない苦しみもある。その相手は、未央にとっては別れた婚約者だったのか、それとも、あの人だったのか……。それはいまだにわからない。しぐれにとっての苦しみを生み出す相手は誰なのだろう。

「ずっと苦しんでるんですよね」

 そっと声をかけると、しぐれはぽつりぽつりと話し出す。

「兄は東京にいたころ、有名なホテルで働いてたんです。高級志向のお客様相手に、プライベート展示会を企画するような仕事だって言ってました。忙しく働いて、家族を顧みるどころか、マンションには寝るために帰るだけみたいな、自分の身体の世話もできないような毎日だったみたいです」
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