心を切りとるは身を知る雨
 泥まみれのタイヤをじっと見つめるしぐれの視線の先には、同じように汚れる未央の靴が映っているだろう。そして、汚れ一つない彼女自身の靴も。靴を汚してでも、自分の足で歩きたかったのだろう。だから、彼女は悔しがる。ほんの少しのへこみにつまずいたことが、大きな挫折に感じたのかもしれない。

「みんなに迷惑かけて、私なんか生きてる価値ない……」

 すぐさま、未央は首を横にふる。

「もう一生、立てないかもしれない。兄は好きだった仕事をもう二度とできないかもしれない。私のせいで……」
「もうじゅうぶんだから、言わないで。苦しいのはつらいと思います。それでも、生きていてよかったと思いますよ」

 生きてさえいれば……。未央はそれを何度思い、願っただろう。

 しぐれは口を強く結ぶと、手を伸ばした。肩をつかれたと気づいたときにはバランスを崩し、一歩二歩と後ずさっていた。

 しぐれと距離があく。焦燥感を覚える。離れたら、それが心の距離になりそうだった。

「しぐれさん……」

 間違っていただろうか。しぐれの苦しみを自身の経験と照らし合わせ、わかったような気になっていただろうか。だけど、生きていてよかったと思うのは真実だ。ただ目の前にいてくれる。そこにいてくれる。たったそれだけが尊いことなんだと知っている。

「あの……」

 誤解があるなら解きたい。その一心で近づこうと足を踏み出す。

「綺麗事言わないで」

 未央を突き放すように淡々と乾いた声でしぐれは言うと、やるせない感情に満ちた表情で、力いっぱい車椅子をこいだ。
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