心を切りとるは身を知る雨
 別れを告げ、婚約者として会うことはもうないと彼がようやく気づいたあのときも、わずかな雨が降っていた。お互いに見つめ合い、息をひそめていた。いっそ、声をあげて泣き濡れるようなどしゃ降りになってしまえば、その場を立ち去ることができたかもしれない。けれど、ぎゅっと胸をつかまれた痛みにこらえながら泣くような、そんなほろほろとした雨の中、未央は静かに彼の目を見つめていたのだった。

「未央さん、おつかれさまでしたぁ」

 ぺこりと頭を下げ、アトリエの裏口から帰っていくしぐれを見送ると、未央はほろほろと空から降ってくる雨に気づいた。

 今日もすぐにやむだろう。しぐれもそれをわかっているから、薄手の防水パーカーを着ていた。傘を持って追いかけなくてもよさそうだ。そう判断して、未央は店の中へと戻る。

 いつもと変わらない日常。閉店準備を終えた店内はしずまり返っている。しかし、連日の雨が未央の心を揺さぶったのだろうか。文彦を思い出すと必ず、あの作品を見たくなる。自身の足音だけを響かせながら、奥へと進む。

 ワンピースを着た少女と手をつなぐ野球帽の男の子の後ろ姿に、わずかに降る雨。『ほろほろ雨』と題した作品の前で足を止め、未央はそっと指を伸ばす。

「文彦さん……」

 その名を呼んでも、文彦はもう応えてくれない。
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