ヘメリアのエトランゼ 〜冬晴るる空に想い馳せて〜
1-2
梯子を登った先は路地裏のような場所だった。
数本の木々から漂う酪酸とエナント酸の独特な匂い。
そう、銀杏の匂いだ。
きっとここも秋なのだろう。
この前日本でもハロウィンという僕にとっての地獄イベントが終わったばかりだったから合点がいく。
瞳を焦がすくらいの太陽光に照らされ手で遮光する。
「ここは?」
「王宮につながる裏道のひとつです」
見上げると宇宙まで伸びるかのような高く聳える真っ白な城があり、その周りを囲むような壁の端々には噴射口のような穴がいくつも見える。
ここがレーゲンス城。
「あの穴は?」
噴射口を指差してロベールに問う。
「わたくしたち天空人は羽が濡れることをひどく嫌います。敵から身を守るため、近づいてきたものに対し、あの穴からシャワーのような硫酸が出て肌や羽を溶かします」
シャワーのような硫酸な壁から吹きつける。想像するだけで怖くなった。
「羽の美しさはその人の美しさを示すひとつの指標でもあるので、とくに王族や女性は羽が汚れることに対し敏感なのです」
この世界では羽が美しい人がモテるというわけか。
じゃあ羽のない僕は絶対モテないじゃん。
そう思うとなんだか一気にげんなりしてきた。
「カナタくんどうしたの?」
「あっ、いや、なんでもない」
王族の娘であるシルフィにはきっと許婚とか心に決めた人とかいるんだろうなと思うとさらにげんなりしてきた。
「いろいろとご説明したいのですが、追っ手が来る前に身を潜めましょう」
ロベールを先頭に路地裏を歩く道は王宮とは逆方向。どんどんと遠ざかっていく。
「あの〜どこに向かっているんでしょう?」
なぜか敬語になってしまった僕に対し、「私の家だよ」と冷静に答えるシルフィ。
そうか、王族の娘だから王宮と離宮に部屋があって、今日は離宮の方に向かっているんだ。
しかし、それは全くの見当違いだった。
路地裏をさらに進んだ先にあったのは深い茂み。
二人の顔はどこか楽しそうにも見えた。
まさか、ここで斬り刻まれて棄てられる?
そう思うと急に足が震えだした。
「カナタくんどうしたの?」
不安な様子で顔を覗き込む彼女の顔は違う感情で見えていたらものすごく可愛かっただろうが、いまはこの状況がサスペンスドラマの展開にしか思えない。
しばらく歩くと、そこには茅葺き屋根の古民家が一つあった。
かなりの年季を感じる。
「ここが私の家」
私の家って、王族の娘が住む部屋には到底思えないようなボロい家ですが。
本当にここに住んでいるの?
扉を開けた部屋は思っていたより広かった。
古びたシングルベッドや暖炉が置いてあり、壁の近くには多くの本が堆く積んである。
その横には鋭利な槍が立てかけられていた。
やはりここで殺される。
この二人は天使ではなく悪魔だったんだ。
今度こそさようなら、清阪 奏達。
この見知らぬ地でわずか十七年という短い人生に終焉を迎える。
一度でいいから彼女がほしかった。
一度でいいから叙々苑の焼肉が食べたかった。
別れを告げるため静かに目を瞑ると、パッヘルベルのカノンが脳内で流れてきた。
それを聴きながら残りの命を噛み締める。
「今日はこちらでお休みください。明日の朝お迎えに参ります」
申し訳なさそうな表情のロベールの言葉は、死へのカウントダウンのように思えてならなかった。
僕は恐怖で身震いしていた。
「さっきからどうしたの?様子が変だよ?」
「もしかして風邪を引かれたのではないでしょうか?」
「あっ、いや……」
「大変。すぐに暖炉つけるね」
てっきり風邪を引いて震えていると思い込んだ二人は僕を古びたベッドに寝かせてくれた。
「あの、僕は一体どうなるのでしょう?」
このままあやしい薬を飲まされ、槍でズタズタに斬り裂かれ、翌朝には屍になっているのだろうか。
「こちらに来てからまだ間もないでしょうし、混乱されているのも無理はありません」
「そうそう、とりあえずここでゆっくり休んで」
シルフィは暖炉に火を灯すと、あったかーいと言って両手を火に翳している。
このまま風邪を引いている体でいたほうが良いだろうか。
その方が何かと都合が良いかも。
「清阪殿はもちろんおわかりだと思いますが、お嬢様は清らかなお方ですので、決して粗相をしないようお願い申し上げます」
真っ直ぐ見つめながら慇懃な言葉遣いで突き刺す言葉の奥に潜む警告音が重く鳴り響いた。
「も、もちろんです」
安心してください。
殺される間際とはいえ、僕にそんな勇気は微塵もありません。
コミュ力もなければ免疫もないのだから。
「ここね、昔ロベールが住んでいたんだけど、私の家がないことを知って譲ってくれたの」
王族の娘に家がないことに疑問を抱いたのはほんの一瞬で、それよりもはじめての異性の家+人生最期の瞬間に落ち着かなかった。
「それではお休みなさい」
それは永遠にという意味で言っているのだろうか?
踵を返したロベールの後ろ姿は殺人鬼にしか見えなかった。
「風邪大丈夫?」
思い出したように僕のところに来ておでこに手を当ててきた。
ちょっと待ってくれ。
これ以上鼓動が早まったら心臓がいくつあっても足りない。
頭をフル回転させて思考を整えた結果、引いてもいない風邪を引いていることにした。
面倒だからではなく、この設定にしていないと翌朝まで情緒が安定しないのだ。
「私はこっちに寝るからカナタくんはそこで寝ていいよ」
人差し指を地面に向けて当たり前のような顔でそう言った彼女に驚いた。
いやいや、王族の娘を床で寝かせるなんてことをしたら後でどんな罰を受けるか。
雑念を払うため何か話そうと考えていると、ぎゅるるという音が部屋中に響き渡る。
その音を聞いたシルフィが目を細めてくすくすと笑い出した。
そういえばここに来てから何も食べていなかったっけ。
「何か作るね」
そう言って徐に立ち上がりキッチンの前に立った。
鍋に火をつけて何かを煮ている。
手際よく手を動かすその後ろ姿はまるで、彼氏が泊まりにきて張り切っている彼女のようだと思いたかったが、いまの心境だとそうもいかない。
しばらくすると、できたと言ってテーブルに料理を並べる。
「はじめて作ったからちょっと失敗しちゃったかも」
えへへと少し笑ってそう言ったが、卓上に乗せられた料理に戦慄する。
「あの、これは?」
スープということはわかる。
しかし、見たことのない食材たちが、嗅いだことのない臭いが充満し、洟が捥げそうになる。
「ヘメリアポテトとブラウンメリノのスープだけど」
当たり前のようにそう言う彼女だが、その料理名を知らない。
毒を盛られていたらどうしよう。
一瞬逡巡したがミントグリーンの大きな瞳で真っ直ぐ見つめられ、食べないわけにはいかなかった。
湯気の立った白いスープを口に入れた途端、身体中の神経細胞が悲鳴をあげた。
「これはこういうものなの?」
「わかんない。お料理自体はじめて作ったから」
料理をしない僕にでもわかる。
スープの中にはポテトの芽や皮がそのまま入っているし、臭みも取っていない。
口には出せないが、ただただ美味しくない。
もしかしてシルフィは料理が苦手?
それなのにまるで得意料理を作るかのようにキッチンに立った。
手際よく見えたのは慣れているのではなく、テキトーにやっていたからそう見えただけだった。
満腹中枢は満たされず、視覚と嗅覚は壊されたと言っても過言ではない。
結局、水を大量に飲んでその日の食事は終わった。
気がつけば外からの光は消えていた。
夜になったとわかった途端、疲れがどっと出てきて眠気が襲ってきた。
夜行性の僕もいろいろあって心身ともに疲れている。
さすがにお姫様を床に寝させるわけにもいかず、布を敷いて寝ることにした。
暖炉のバチバチという木の燃える音が静かな部屋木霊する。
火は人の心を癒すはずなのに、このシチュエーションは全然落ち着かない。
疲れているはずなのに、はじめて入る異性に二人きり。
しかも朝まで。
緊張で目を瞑ることもできなかった。
「ねぇ、カナタくん」
「は、はい」
反射的に出た声は悪さをして先生に怒られている生徒のような素っ頓狂な返事になってしまった。
「私のこと変って思わない?」
急に何を言い出すのだろう。
「どこが変なの?」
まだ知り合ったばかりだし、彼女のことは何も知らない。
でも何に対して変だと思ったのかは本当にわからなかった。
「私、王族の娘なのに王宮の一部にしか入れないし、黒い羽で、片翼で生まれてきて空を食べなくて、他の人が持っていない力を持っているなんて変じゃない?」
清阪家はごくごく普通の家庭だった。
サラリーマン(役職はそこそこ上だった気がするけれど、詳しくはよくわからない)の父親と主婦の母親。
贅沢もせず休みの日には家族でご飯を食べる。
年末年始には親戚が遊びに来てパーティーをする。
思い返してみると、そんな日常が一番幸せだったかもしれない。
僕に友達がいなくて不登校なことを除いては。
価値観はさまざまだから何が変わっているかは人によって違うけれど、少なくとも彼女のことを変だと思ったことは一度もない。
「変じゃないよ。だってシルフィは天使だから」
一般的には天使=白い羽のイメージが強いけれど、一目見たときから彼女は輝いていた。
とくに笑ったときの表情はきっと他の誰よりも可愛いと思えた。
同じ十七年でも僕と彼女では背負っているものが違う。
味わってきたものが違う。
嫌なことから逃げずに向き合っている姿は勇ましく逞しい。
「カナタくんは優しいね」
「そうかな?」
「この見た目のせいで何もしてないのに邪険にされて変な噂流されて。だからカナタくんみたいに羽の色で差別しない人は好き」
好きというたった二文字は前後の会話を打ち消すくらい強く重い。
ましてやこんな可愛い子に言われたら余計意識してしまう。
「私って昔から向こう見ずなところがあって、思い立ったらすぐ行動しないと気がすまないの」
幼いころ、ロベールの目を盗んではいろいろなところに出かけて怪我をしたり、いたずらして怒られていた話を楽しそうにする彼女をじっと見ているうちに、その可愛さに吸い込まれそうになった。
「やっぱり好きだ」
「……えっ?」
どうした清阪 奏達。
今日で人生が終わるかもしれないってときになぜ告白をした?
自問自答したが時すでに遅し。
何の脈略もなく人生初の告白がこんな意図していないこととは自分でも理解できない行動だった。
「えっと、いや、違くて」
「違うの?」
「そうじゃなくて。違わないんだけど。その、なんというか」
落ち着け。落ち着くんだ。
まだ出会ったばかりでいきなり告白するバカがどこにいる。
「その、今日で人生が終わると思ったら感情がコントロールできなくて」
「人生が終わるってどういうこと?」
一目惚れした人に殺されると思い込んでいまに至った経緯を話すと、シルフィはお腹を抑えながら大きな声で笑い出した。
「アハハハ」
「何がおかしいの?」
「ごめんごめん、あまりにおかしくて」
目元に浮かぶ泪を指で拭いながら必死に笑いをこらえる彼女だったが、僕の心は張り裂けそうなくらい早鐘を打っていた。
「急に様子がおかしくなったと思ったけど、そういうことだったのね」
そう言って笑い続ける彼女。
恥ずかしくてどこを見ていいかわからなかった。
ふぅーっと深呼吸し、気持ちを落ち着かせた後に訊いてみる。
「ねぇ、この世界のこと教えてくれない?」
ここは一体どこなのか?
天空人の住む世界だということはわかった。
ただもっと情報を得る必要がある。
シルフィは引き出しから世界地図を取り出してテーブルの上に広げ、僕の横に座る。
「ここはヘメリアって言って、地上のはるか上空に存在する世界」
さっきのポテトの名前にも使われていた名だ。
そして彼女は指を差しながら一つずつ国を説明する。
「これが私たちの住むシェラプト王国。豊富な水と空気が美味しい国よ」
シェラプトと呼ばれるこの国は不思議な形をしていた。
鳥が大きく羽を広げ、真正面からこちらに向かって飛んでくるようなイメージ。
僕たちはいまその中心にあるレーゲンス城という王宮から少し離れた茂みにある茅葺き屋根の古民家にいる。
「でね、この国の北にある無数の島々が雪のソルニア帝国」
ここシェラプトの北側に大きな島から小さな島で無数の島が連なっている。
これらはすべてソルニア帝国でこのヘメリアの世界の三分の一を占めているそうだ。
独裁的な王国の命により、強大な軍事力と多くの人口で年々領土を拡大していって、近隣国とも現在紛争状態らしい。
「で、いまこのソルニア帝国と紛争中なのが、ここから南西にあるスティネイザー王国」
石と鉄を多く保有するスティネイザーは他国に武具や鉄を売ることで栄えてきた小さな国だが、現ソルニア王国国王であるハロルド・ソルニア・ドゥ・ローリアの武力強行によって数年前に一方的に戦争となった。
もともと寒冷地で資源の少ないソルニアにとって、多くの石と鉄を保有しているスティネイザーは欲しくてたまらないはず。
「シェラプト内の西側(黒い羽を持つウィグロ人の住むエリア)は両国のちょうど間に挟まれているから、上空で戦争が起きると何の罪もない人や動物たちが亡くなってしまうの」
この世界の人たちは空を飛べるが故に他国の上空でドンパチをするのが珍しくない。
ひどいときにはそのまま地上に落ちてしまうこともあるそうだ。
年々ソルニアの武力行使は勢いを増し、領土拡大を狙うハロルド王の暴君ぶりに他国のみならず、自国の民からも畏れられているという。
「でね、この国の東側にあるのがアンピエルス共和国。ヘメリアのちょうど中心にあって、唯一の中立国でもあるわ。そのアンピエルス共和国の南にあるのが風の国ヴェールブルーム。景色が綺麗で観光でも有名な国よ。そしてアンピエルスの北東にあるのが氷の国ランカウド。ここは最先端の医療で多くの薬を作っていて、優秀な科学者たちが集まる国でもあるわ。ただ、とにかく寒いから行くときは防寒対策していかないと凍えちゃうよ」
はじめて耳にする横文字フェスティバルに頭が痛くなってきた。
県庁所在地はおろか、都道府県もすべて覚えていないのだから。
ただでさえ横文字の羅列に苦手意識があるのに。
「カナタくん、ついてきてる?」
「一夜漬けでサーティーワンの種類をすべて覚えるくらい難しいよ」
「そのサーティワンっていうのはよくわからないけど」
そう言いながらも一つずつ丁寧に説明してくれる優しいシルフィだったが、後半半分は訊いている余裕がなかった。
真横で長い髪を耳にかけ、その隙間から見える頸が青少年の心を乱していたのだ。
大きな瞳とぷくっとした唇を見るたび、鼓動がさらに早くなる。
高校生じゃなくてもドキドキするくらいの美しさに唾をごくりと飲んで深呼吸する。
「まぁこんなとこかな。駆け足だったけど、ちょっとずつわかってくると思うわ」
地図を見返しながら彼女の説明を思い返す。
要は、天に浮かぶ島がある世界で、いまは北にあるソルニア帝国と南西にあるスティネイザーの戦いにこのシェラプトという国が巻き込まれているという状態。
「ヘメリアには綺麗な景色がいっぱいあってね、みんな空を飛んで見に行くの。空を飛べない私には叶わないことだけど」
「さっき出したガルーダとかで空を飛ぶことはできないの?」
「あれはね、神様を経由して生き物たちに直接話しかけることで一時的に力を借りているんだけど、その分、私の血を奪うの」
「血を奪う?」
「簡単な治療や解除系の力なら問題ないんだけど、召喚系は使えば使うほど大量の血を奪うからロベールにはきつく止められているの。このまま安易に使い続ければ私の命は長くもたないわ」
一見羨ましく思える特殊能力も、当の本人にとっては厄介だったりする。
この世界に輸血の技術はなく、一度失った血を取り戻すことはできない。
召喚をすればするほど彼女の命は削られてしまうそうだ。
「この力に助けられたこともあったけど、どうせなら空を飛べるようにしてほしかった」
羽を持って生まれてきた天空人にとって空を飛ぶということは日常で、その日常を味わえない彼女が本当に欲しいものはこの力では得られない。
空を飛べない僕ら地上人には到底計り知れないことなのかもしれない。
「ここにもドラゴンボールみたいなのがあればいいのにね」
「そのドラゴンボールというものを知らないけど」
それもそのはず。
ドラゴンボールはおろか、四次元ポケットから何でも出してくれる猫型ロボットがいたらいまごろ僕は地上に戻してもらっているだろうし、彼女も空を飛んでいる。
「いつか自分の力で空を飛んでみたいな」
その切実な言葉にどう返しかいいかわからなかった。
彼女にとっては一生をかけて向き合っていかなければならない問題。
僕にはそんな重くのしかかるものがないから薄っぺらくなってしまうけれど、それでも彼女の力になりたい。
彼女が空を飛ぶところをこの目で見てみたい。
それまでは地上に戻ることは考えないようにした。
梯子を登った先は路地裏のような場所だった。
数本の木々から漂う酪酸とエナント酸の独特な匂い。
そう、銀杏の匂いだ。
きっとここも秋なのだろう。
この前日本でもハロウィンという僕にとっての地獄イベントが終わったばかりだったから合点がいく。
瞳を焦がすくらいの太陽光に照らされ手で遮光する。
「ここは?」
「王宮につながる裏道のひとつです」
見上げると宇宙まで伸びるかのような高く聳える真っ白な城があり、その周りを囲むような壁の端々には噴射口のような穴がいくつも見える。
ここがレーゲンス城。
「あの穴は?」
噴射口を指差してロベールに問う。
「わたくしたち天空人は羽が濡れることをひどく嫌います。敵から身を守るため、近づいてきたものに対し、あの穴からシャワーのような硫酸が出て肌や羽を溶かします」
シャワーのような硫酸な壁から吹きつける。想像するだけで怖くなった。
「羽の美しさはその人の美しさを示すひとつの指標でもあるので、とくに王族や女性は羽が汚れることに対し敏感なのです」
この世界では羽が美しい人がモテるというわけか。
じゃあ羽のない僕は絶対モテないじゃん。
そう思うとなんだか一気にげんなりしてきた。
「カナタくんどうしたの?」
「あっ、いや、なんでもない」
王族の娘であるシルフィにはきっと許婚とか心に決めた人とかいるんだろうなと思うとさらにげんなりしてきた。
「いろいろとご説明したいのですが、追っ手が来る前に身を潜めましょう」
ロベールを先頭に路地裏を歩く道は王宮とは逆方向。どんどんと遠ざかっていく。
「あの〜どこに向かっているんでしょう?」
なぜか敬語になってしまった僕に対し、「私の家だよ」と冷静に答えるシルフィ。
そうか、王族の娘だから王宮と離宮に部屋があって、今日は離宮の方に向かっているんだ。
しかし、それは全くの見当違いだった。
路地裏をさらに進んだ先にあったのは深い茂み。
二人の顔はどこか楽しそうにも見えた。
まさか、ここで斬り刻まれて棄てられる?
そう思うと急に足が震えだした。
「カナタくんどうしたの?」
不安な様子で顔を覗き込む彼女の顔は違う感情で見えていたらものすごく可愛かっただろうが、いまはこの状況がサスペンスドラマの展開にしか思えない。
しばらく歩くと、そこには茅葺き屋根の古民家が一つあった。
かなりの年季を感じる。
「ここが私の家」
私の家って、王族の娘が住む部屋には到底思えないようなボロい家ですが。
本当にここに住んでいるの?
扉を開けた部屋は思っていたより広かった。
古びたシングルベッドや暖炉が置いてあり、壁の近くには多くの本が堆く積んである。
その横には鋭利な槍が立てかけられていた。
やはりここで殺される。
この二人は天使ではなく悪魔だったんだ。
今度こそさようなら、清阪 奏達。
この見知らぬ地でわずか十七年という短い人生に終焉を迎える。
一度でいいから彼女がほしかった。
一度でいいから叙々苑の焼肉が食べたかった。
別れを告げるため静かに目を瞑ると、パッヘルベルのカノンが脳内で流れてきた。
それを聴きながら残りの命を噛み締める。
「今日はこちらでお休みください。明日の朝お迎えに参ります」
申し訳なさそうな表情のロベールの言葉は、死へのカウントダウンのように思えてならなかった。
僕は恐怖で身震いしていた。
「さっきからどうしたの?様子が変だよ?」
「もしかして風邪を引かれたのではないでしょうか?」
「あっ、いや……」
「大変。すぐに暖炉つけるね」
てっきり風邪を引いて震えていると思い込んだ二人は僕を古びたベッドに寝かせてくれた。
「あの、僕は一体どうなるのでしょう?」
このままあやしい薬を飲まされ、槍でズタズタに斬り裂かれ、翌朝には屍になっているのだろうか。
「こちらに来てからまだ間もないでしょうし、混乱されているのも無理はありません」
「そうそう、とりあえずここでゆっくり休んで」
シルフィは暖炉に火を灯すと、あったかーいと言って両手を火に翳している。
このまま風邪を引いている体でいたほうが良いだろうか。
その方が何かと都合が良いかも。
「清阪殿はもちろんおわかりだと思いますが、お嬢様は清らかなお方ですので、決して粗相をしないようお願い申し上げます」
真っ直ぐ見つめながら慇懃な言葉遣いで突き刺す言葉の奥に潜む警告音が重く鳴り響いた。
「も、もちろんです」
安心してください。
殺される間際とはいえ、僕にそんな勇気は微塵もありません。
コミュ力もなければ免疫もないのだから。
「ここね、昔ロベールが住んでいたんだけど、私の家がないことを知って譲ってくれたの」
王族の娘に家がないことに疑問を抱いたのはほんの一瞬で、それよりもはじめての異性の家+人生最期の瞬間に落ち着かなかった。
「それではお休みなさい」
それは永遠にという意味で言っているのだろうか?
踵を返したロベールの後ろ姿は殺人鬼にしか見えなかった。
「風邪大丈夫?」
思い出したように僕のところに来ておでこに手を当ててきた。
ちょっと待ってくれ。
これ以上鼓動が早まったら心臓がいくつあっても足りない。
頭をフル回転させて思考を整えた結果、引いてもいない風邪を引いていることにした。
面倒だからではなく、この設定にしていないと翌朝まで情緒が安定しないのだ。
「私はこっちに寝るからカナタくんはそこで寝ていいよ」
人差し指を地面に向けて当たり前のような顔でそう言った彼女に驚いた。
いやいや、王族の娘を床で寝かせるなんてことをしたら後でどんな罰を受けるか。
雑念を払うため何か話そうと考えていると、ぎゅるるという音が部屋中に響き渡る。
その音を聞いたシルフィが目を細めてくすくすと笑い出した。
そういえばここに来てから何も食べていなかったっけ。
「何か作るね」
そう言って徐に立ち上がりキッチンの前に立った。
鍋に火をつけて何かを煮ている。
手際よく手を動かすその後ろ姿はまるで、彼氏が泊まりにきて張り切っている彼女のようだと思いたかったが、いまの心境だとそうもいかない。
しばらくすると、できたと言ってテーブルに料理を並べる。
「はじめて作ったからちょっと失敗しちゃったかも」
えへへと少し笑ってそう言ったが、卓上に乗せられた料理に戦慄する。
「あの、これは?」
スープということはわかる。
しかし、見たことのない食材たちが、嗅いだことのない臭いが充満し、洟が捥げそうになる。
「ヘメリアポテトとブラウンメリノのスープだけど」
当たり前のようにそう言う彼女だが、その料理名を知らない。
毒を盛られていたらどうしよう。
一瞬逡巡したがミントグリーンの大きな瞳で真っ直ぐ見つめられ、食べないわけにはいかなかった。
湯気の立った白いスープを口に入れた途端、身体中の神経細胞が悲鳴をあげた。
「これはこういうものなの?」
「わかんない。お料理自体はじめて作ったから」
料理をしない僕にでもわかる。
スープの中にはポテトの芽や皮がそのまま入っているし、臭みも取っていない。
口には出せないが、ただただ美味しくない。
もしかしてシルフィは料理が苦手?
それなのにまるで得意料理を作るかのようにキッチンに立った。
手際よく見えたのは慣れているのではなく、テキトーにやっていたからそう見えただけだった。
満腹中枢は満たされず、視覚と嗅覚は壊されたと言っても過言ではない。
結局、水を大量に飲んでその日の食事は終わった。
気がつけば外からの光は消えていた。
夜になったとわかった途端、疲れがどっと出てきて眠気が襲ってきた。
夜行性の僕もいろいろあって心身ともに疲れている。
さすがにお姫様を床に寝させるわけにもいかず、布を敷いて寝ることにした。
暖炉のバチバチという木の燃える音が静かな部屋木霊する。
火は人の心を癒すはずなのに、このシチュエーションは全然落ち着かない。
疲れているはずなのに、はじめて入る異性に二人きり。
しかも朝まで。
緊張で目を瞑ることもできなかった。
「ねぇ、カナタくん」
「は、はい」
反射的に出た声は悪さをして先生に怒られている生徒のような素っ頓狂な返事になってしまった。
「私のこと変って思わない?」
急に何を言い出すのだろう。
「どこが変なの?」
まだ知り合ったばかりだし、彼女のことは何も知らない。
でも何に対して変だと思ったのかは本当にわからなかった。
「私、王族の娘なのに王宮の一部にしか入れないし、黒い羽で、片翼で生まれてきて空を食べなくて、他の人が持っていない力を持っているなんて変じゃない?」
清阪家はごくごく普通の家庭だった。
サラリーマン(役職はそこそこ上だった気がするけれど、詳しくはよくわからない)の父親と主婦の母親。
贅沢もせず休みの日には家族でご飯を食べる。
年末年始には親戚が遊びに来てパーティーをする。
思い返してみると、そんな日常が一番幸せだったかもしれない。
僕に友達がいなくて不登校なことを除いては。
価値観はさまざまだから何が変わっているかは人によって違うけれど、少なくとも彼女のことを変だと思ったことは一度もない。
「変じゃないよ。だってシルフィは天使だから」
一般的には天使=白い羽のイメージが強いけれど、一目見たときから彼女は輝いていた。
とくに笑ったときの表情はきっと他の誰よりも可愛いと思えた。
同じ十七年でも僕と彼女では背負っているものが違う。
味わってきたものが違う。
嫌なことから逃げずに向き合っている姿は勇ましく逞しい。
「カナタくんは優しいね」
「そうかな?」
「この見た目のせいで何もしてないのに邪険にされて変な噂流されて。だからカナタくんみたいに羽の色で差別しない人は好き」
好きというたった二文字は前後の会話を打ち消すくらい強く重い。
ましてやこんな可愛い子に言われたら余計意識してしまう。
「私って昔から向こう見ずなところがあって、思い立ったらすぐ行動しないと気がすまないの」
幼いころ、ロベールの目を盗んではいろいろなところに出かけて怪我をしたり、いたずらして怒られていた話を楽しそうにする彼女をじっと見ているうちに、その可愛さに吸い込まれそうになった。
「やっぱり好きだ」
「……えっ?」
どうした清阪 奏達。
今日で人生が終わるかもしれないってときになぜ告白をした?
自問自答したが時すでに遅し。
何の脈略もなく人生初の告白がこんな意図していないこととは自分でも理解できない行動だった。
「えっと、いや、違くて」
「違うの?」
「そうじゃなくて。違わないんだけど。その、なんというか」
落ち着け。落ち着くんだ。
まだ出会ったばかりでいきなり告白するバカがどこにいる。
「その、今日で人生が終わると思ったら感情がコントロールできなくて」
「人生が終わるってどういうこと?」
一目惚れした人に殺されると思い込んでいまに至った経緯を話すと、シルフィはお腹を抑えながら大きな声で笑い出した。
「アハハハ」
「何がおかしいの?」
「ごめんごめん、あまりにおかしくて」
目元に浮かぶ泪を指で拭いながら必死に笑いをこらえる彼女だったが、僕の心は張り裂けそうなくらい早鐘を打っていた。
「急に様子がおかしくなったと思ったけど、そういうことだったのね」
そう言って笑い続ける彼女。
恥ずかしくてどこを見ていいかわからなかった。
ふぅーっと深呼吸し、気持ちを落ち着かせた後に訊いてみる。
「ねぇ、この世界のこと教えてくれない?」
ここは一体どこなのか?
天空人の住む世界だということはわかった。
ただもっと情報を得る必要がある。
シルフィは引き出しから世界地図を取り出してテーブルの上に広げ、僕の横に座る。
「ここはヘメリアって言って、地上のはるか上空に存在する世界」
さっきのポテトの名前にも使われていた名だ。
そして彼女は指を差しながら一つずつ国を説明する。
「これが私たちの住むシェラプト王国。豊富な水と空気が美味しい国よ」
シェラプトと呼ばれるこの国は不思議な形をしていた。
鳥が大きく羽を広げ、真正面からこちらに向かって飛んでくるようなイメージ。
僕たちはいまその中心にあるレーゲンス城という王宮から少し離れた茂みにある茅葺き屋根の古民家にいる。
「でね、この国の北にある無数の島々が雪のソルニア帝国」
ここシェラプトの北側に大きな島から小さな島で無数の島が連なっている。
これらはすべてソルニア帝国でこのヘメリアの世界の三分の一を占めているそうだ。
独裁的な王国の命により、強大な軍事力と多くの人口で年々領土を拡大していって、近隣国とも現在紛争状態らしい。
「で、いまこのソルニア帝国と紛争中なのが、ここから南西にあるスティネイザー王国」
石と鉄を多く保有するスティネイザーは他国に武具や鉄を売ることで栄えてきた小さな国だが、現ソルニア王国国王であるハロルド・ソルニア・ドゥ・ローリアの武力強行によって数年前に一方的に戦争となった。
もともと寒冷地で資源の少ないソルニアにとって、多くの石と鉄を保有しているスティネイザーは欲しくてたまらないはず。
「シェラプト内の西側(黒い羽を持つウィグロ人の住むエリア)は両国のちょうど間に挟まれているから、上空で戦争が起きると何の罪もない人や動物たちが亡くなってしまうの」
この世界の人たちは空を飛べるが故に他国の上空でドンパチをするのが珍しくない。
ひどいときにはそのまま地上に落ちてしまうこともあるそうだ。
年々ソルニアの武力行使は勢いを増し、領土拡大を狙うハロルド王の暴君ぶりに他国のみならず、自国の民からも畏れられているという。
「でね、この国の東側にあるのがアンピエルス共和国。ヘメリアのちょうど中心にあって、唯一の中立国でもあるわ。そのアンピエルス共和国の南にあるのが風の国ヴェールブルーム。景色が綺麗で観光でも有名な国よ。そしてアンピエルスの北東にあるのが氷の国ランカウド。ここは最先端の医療で多くの薬を作っていて、優秀な科学者たちが集まる国でもあるわ。ただ、とにかく寒いから行くときは防寒対策していかないと凍えちゃうよ」
はじめて耳にする横文字フェスティバルに頭が痛くなってきた。
県庁所在地はおろか、都道府県もすべて覚えていないのだから。
ただでさえ横文字の羅列に苦手意識があるのに。
「カナタくん、ついてきてる?」
「一夜漬けでサーティーワンの種類をすべて覚えるくらい難しいよ」
「そのサーティワンっていうのはよくわからないけど」
そう言いながらも一つずつ丁寧に説明してくれる優しいシルフィだったが、後半半分は訊いている余裕がなかった。
真横で長い髪を耳にかけ、その隙間から見える頸が青少年の心を乱していたのだ。
大きな瞳とぷくっとした唇を見るたび、鼓動がさらに早くなる。
高校生じゃなくてもドキドキするくらいの美しさに唾をごくりと飲んで深呼吸する。
「まぁこんなとこかな。駆け足だったけど、ちょっとずつわかってくると思うわ」
地図を見返しながら彼女の説明を思い返す。
要は、天に浮かぶ島がある世界で、いまは北にあるソルニア帝国と南西にあるスティネイザーの戦いにこのシェラプトという国が巻き込まれているという状態。
「ヘメリアには綺麗な景色がいっぱいあってね、みんな空を飛んで見に行くの。空を飛べない私には叶わないことだけど」
「さっき出したガルーダとかで空を飛ぶことはできないの?」
「あれはね、神様を経由して生き物たちに直接話しかけることで一時的に力を借りているんだけど、その分、私の血を奪うの」
「血を奪う?」
「簡単な治療や解除系の力なら問題ないんだけど、召喚系は使えば使うほど大量の血を奪うからロベールにはきつく止められているの。このまま安易に使い続ければ私の命は長くもたないわ」
一見羨ましく思える特殊能力も、当の本人にとっては厄介だったりする。
この世界に輸血の技術はなく、一度失った血を取り戻すことはできない。
召喚をすればするほど彼女の命は削られてしまうそうだ。
「この力に助けられたこともあったけど、どうせなら空を飛べるようにしてほしかった」
羽を持って生まれてきた天空人にとって空を飛ぶということは日常で、その日常を味わえない彼女が本当に欲しいものはこの力では得られない。
空を飛べない僕ら地上人には到底計り知れないことなのかもしれない。
「ここにもドラゴンボールみたいなのがあればいいのにね」
「そのドラゴンボールというものを知らないけど」
それもそのはず。
ドラゴンボールはおろか、四次元ポケットから何でも出してくれる猫型ロボットがいたらいまごろ僕は地上に戻してもらっているだろうし、彼女も空を飛んでいる。
「いつか自分の力で空を飛んでみたいな」
その切実な言葉にどう返しかいいかわからなかった。
彼女にとっては一生をかけて向き合っていかなければならない問題。
僕にはそんな重くのしかかるものがないから薄っぺらくなってしまうけれど、それでも彼女の力になりたい。
彼女が空を飛ぶところをこの目で見てみたい。
それまでは地上に戻ることは考えないようにした。