幽霊巫女の噂
2
朝の教室内で涼佑は気分の悪い噂話を聞いてしまった。クラスの女子達がひそひそと話している内容を又聞きしただけだが、それでも吐き気のする話だ。一人の男が女の胴体に付きまとわれ、最終的に同じ姿にされてしまう話など、気分が悪くならない訳が無い。こんな話はさっさと忘れてしまおうと頭から追い出そうとしながら鞄から筆記用具とノートを取り出す涼佑だったが、徐に隣に現れた巫女さんに気付き、手を止めて視線を移す。巫女さんは何か思案している様子で腕を組み、神妙な面持ちで呟いた。
「鹿島さん、か。……ふむ、丁度良いな」
「巫女さん? どうしたんだよ?」
周囲に気付かれないような音量で発された涼佑の質問は、ちゃんと彼女の耳に届いていたようで、巫女さんは「ん? いや、なに」と言いかけたが、それは慌ただしい足音に遮られる。すぐ背後まで走って来たその足音の主を涼佑は振り返った。
「おう、ギリギリだったな。直樹」
「おお。いや、参った。最近始めたゲームがおもろくて……ねみぃ」
言葉通り眠そうに目蓋を擦る直樹に涼佑は苦笑する。自分が呪われたと聞いても、直樹は特に変わらない。それどころか、「乗りかかった船みたいなもんだしさ」と涼佑の呪いを解く協力をすると申し出てくれた。それは真奈美達も同じようで、「こうなったのは私達の責任でもあるから」と真奈美と絢、友香里に謝られた時などは涼佑は却って恐縮したものだ。巫女さんの右半身は相変わらず黒いままで、その姿を見ると、やはり涼佑も責任を感じずにはいられなかった。
不意にガラリと教室の引き戸が開かれ、今日一番の遅刻者が入って来た。直樹以上の遅刻者なんて珍しいなと思い、他のクラスメイト同様、二人もそちらへ顔を向けた。教室に入ってきたのは線の細い少年だった。さらさらとした短い黒髪にすらりとした背と手足、近くの女生徒と目が合うと柔和な微笑みを浮かべる。その優しげで儚げな雰囲気に教室内の女生徒は皆やられてしまったようで、皆自分の胸を押さえ始めた。その光景を見て小さく直樹が呟く。
「やべぇヤツ、帰って来たな」
「……うん」
直樹の言う『やべぇヤツ』とは当然、今し方入って来た少年のことだ。少年は窓際にある自分の席に辿り着くまでにクラスメイトの女子達に話しかけられ、何だかんだなかなか就けないでいた。
「夏神くん、大丈夫?」
「体、もういいの?」
「あのね、私、明貴君の分もノート取っておいたよ」
「ひどい風邪だったんだね。一週間も寝込んじゃうなんて」
この一連の流れだけでもう彼の名前と一週間も休んだ事情がダダ漏れになってしまうのだから、人気というのは恐ろしいなと涼佑は思った。一方、話しかけられた当の夏神明貴は一人一人に丁寧な受け答えをしていく。
「うん、もう大丈夫だよ。心配してくれて、ありがとう」
「まだ本調子じゃないけど、大丈夫。秋穂ちゃんの顔見たら、元気出た」
「ごめんね。二人分のノートなんて大変だったでしょ?」
「なかなか熱が下がらなくてね。昨日、やっと治ったんだ。みんなにまた会えて嬉しいよ」
こんな具合ににこやかに答えるので、女子達は「きゃーっ」と大盛り上がりだ。ちょっとしたライブ会場みたいになっている様を、周りの男子達は冷めた目で見守っていた。直樹もそのうちの一人で皆半分諦観の境地となっている。今時、こんなに誰の目にも分かりやすい形でモテている奴など、本当にこの男だけだろうなと涼佑も感心していた。そのまま周囲の女子達に連れられて、周囲の男子達に憎悪と羨望、諦観の目で見守られながら明貴が席に就くのと同時に、始業のチャイムが鳴った。間延びしたその音を聴くと、女子達は名残惜しげに自分の席へと就いていく。全員が席に就くと同時に松井がいつものように入って来て早々、「おっ、今日はみんなちゃんと席に就いてるな」と意外そうな調子と表情で教室を見回して数人の女生徒に笑われていた。そんないつも通りのホームルームが始まったところで、涼佑は前日のことを思い返していた。
前日、望が巫女さんに祓われることもなく、自分の説得を受け入れた訳でもなく、ただ殺す為だけの呪いと化した日のことを思い浮かべ、改めて涼佑は巫女さんに言われたことを思い返す。今、自分はどういう状態なのかと訊いた涼佑に、彼女は「私もお前の呪いを半分背負うのに必死でよく分からなかったが」と前置きしてから簡単に説明してくれた。
「本来、あの呪いは正式な手順を踏んで掛けた訳ではない。だから、余程強い思いが無いと、人間自身がそのまま呪いに変化するなんてことは有り得ない。――しかし、現に望はそうなった。発現したばかりの時は、お前の全身を覆い尽くそうとしていた。それを私が半分引き受けたことで呪いは分散され、お前の肌表面には出てきてはいない。残った呪いの殆どは心臓に潜ったようだからな」
「胸に少し痣みたいに残ってるだろ」と指摘され、涼佑はあの痣かと思い至る。彼の胸、心臓の辺りには薄らと痣のようなものが浮かんでいる。この状態なら、たとえ他人に見られたとしても不思議には思われないだろう。それが却って、より現実感を伴っていた。巫女さんは自分の方が大変な状態になっているというのに、それでも涼佑へ痛ましいものを見る目を向けて注意を促した。
「これからは気を付けろ。そこにいつも望がいる。隙を見せれば、お前を殺そうとしてくるだろう」
「……嫌なこと、言うなよ」
「すまないな。私の力が至らなかったばかりに」
「別に、巫女さんのせいじゃないだろ」
かといって、自分のせいなのかと一瞬考えた涼佑だが、やはり真実はよく分からない上に全面的に自分が悪いとは思えない。真奈美の話でも望の日記にそれらしい一連の記述はあったが、終始はっきりと名前を書いていた訳ではなく、本当に涼佑のことなのかは確証が持てない。しかし、ここ最近で望が告白したと事実確認が取れているのは涼佑だけだ。『退屈を紛らわせる』為だけにここまでする人間の心理というものが彼には全く理解できなかった。それでも、呪ってきたのが樺倉望という元人間だ。
「……れない」
「どうした? 涼佑」
心配そうに顔を覗き込んでくる巫女さんへ、涼佑はやや俯いていた顔を上げて決意に満ちた目で言った。
「呪いになんて負けてられない。絶対に解くぞ、巫女さん」
その目に涼佑の精神的な成長を見た巫女さんは、一瞬驚いたように瞠目したかと思うと、すぐ勝ち気な笑みを浮かべて「ああ、もちろんだ」と返した。
ホームルームも終わりに近付いてきた頃、松井は思い出したような声を零して、一番後ろの席へ視線を移した。一番端の窓際の席に座っている夏神と目が合うと、松井は彼を安心させるようににかっと笑った。
「夏神、やっと治ったか。良かったな!」
「いやぁ、今回の風邪は酷かったですね。先生も病気にだけは気を付けた方が良いですよ」
「お、言うねぇ。やっぱり、人間が出来てる奴は言うことも違うなぁ!」
予想外な夏神の気遣いの言葉に松井は素直に舌を巻いて、おちゃらけてみせる。嫌味の無い彼は案外と人気の高い教師で、特に女生徒からの評判が良かった。ただ、教師として言っておくべきことはしっかり言っていく。
「ただ、出席日数だけは気を付けろよ。辛い時は保健室で休んだり、早退しても良いから、なるべく学校には来るようにな」
「はい。ご心配をお掛けしました」
松井が心配するのも皆頷けた。夏神はよく体を壊す。生まれつき病弱で、昔からよく学校を休むことが頻繁にあった。その病弱という事情が彼を更に儚げに見せているとも言えたので、時折、「守ってあげたい」と言う女生徒もいたくらいだ。
「相変わらず、モテまくってますこと……」
涼佑のすぐ後ろで直樹が深い溜め息を吐く音が聞こえた。
「鹿島さん、か。……ふむ、丁度良いな」
「巫女さん? どうしたんだよ?」
周囲に気付かれないような音量で発された涼佑の質問は、ちゃんと彼女の耳に届いていたようで、巫女さんは「ん? いや、なに」と言いかけたが、それは慌ただしい足音に遮られる。すぐ背後まで走って来たその足音の主を涼佑は振り返った。
「おう、ギリギリだったな。直樹」
「おお。いや、参った。最近始めたゲームがおもろくて……ねみぃ」
言葉通り眠そうに目蓋を擦る直樹に涼佑は苦笑する。自分が呪われたと聞いても、直樹は特に変わらない。それどころか、「乗りかかった船みたいなもんだしさ」と涼佑の呪いを解く協力をすると申し出てくれた。それは真奈美達も同じようで、「こうなったのは私達の責任でもあるから」と真奈美と絢、友香里に謝られた時などは涼佑は却って恐縮したものだ。巫女さんの右半身は相変わらず黒いままで、その姿を見ると、やはり涼佑も責任を感じずにはいられなかった。
不意にガラリと教室の引き戸が開かれ、今日一番の遅刻者が入って来た。直樹以上の遅刻者なんて珍しいなと思い、他のクラスメイト同様、二人もそちらへ顔を向けた。教室に入ってきたのは線の細い少年だった。さらさらとした短い黒髪にすらりとした背と手足、近くの女生徒と目が合うと柔和な微笑みを浮かべる。その優しげで儚げな雰囲気に教室内の女生徒は皆やられてしまったようで、皆自分の胸を押さえ始めた。その光景を見て小さく直樹が呟く。
「やべぇヤツ、帰って来たな」
「……うん」
直樹の言う『やべぇヤツ』とは当然、今し方入って来た少年のことだ。少年は窓際にある自分の席に辿り着くまでにクラスメイトの女子達に話しかけられ、何だかんだなかなか就けないでいた。
「夏神くん、大丈夫?」
「体、もういいの?」
「あのね、私、明貴君の分もノート取っておいたよ」
「ひどい風邪だったんだね。一週間も寝込んじゃうなんて」
この一連の流れだけでもう彼の名前と一週間も休んだ事情がダダ漏れになってしまうのだから、人気というのは恐ろしいなと涼佑は思った。一方、話しかけられた当の夏神明貴は一人一人に丁寧な受け答えをしていく。
「うん、もう大丈夫だよ。心配してくれて、ありがとう」
「まだ本調子じゃないけど、大丈夫。秋穂ちゃんの顔見たら、元気出た」
「ごめんね。二人分のノートなんて大変だったでしょ?」
「なかなか熱が下がらなくてね。昨日、やっと治ったんだ。みんなにまた会えて嬉しいよ」
こんな具合ににこやかに答えるので、女子達は「きゃーっ」と大盛り上がりだ。ちょっとしたライブ会場みたいになっている様を、周りの男子達は冷めた目で見守っていた。直樹もそのうちの一人で皆半分諦観の境地となっている。今時、こんなに誰の目にも分かりやすい形でモテている奴など、本当にこの男だけだろうなと涼佑も感心していた。そのまま周囲の女子達に連れられて、周囲の男子達に憎悪と羨望、諦観の目で見守られながら明貴が席に就くのと同時に、始業のチャイムが鳴った。間延びしたその音を聴くと、女子達は名残惜しげに自分の席へと就いていく。全員が席に就くと同時に松井がいつものように入って来て早々、「おっ、今日はみんなちゃんと席に就いてるな」と意外そうな調子と表情で教室を見回して数人の女生徒に笑われていた。そんないつも通りのホームルームが始まったところで、涼佑は前日のことを思い返していた。
前日、望が巫女さんに祓われることもなく、自分の説得を受け入れた訳でもなく、ただ殺す為だけの呪いと化した日のことを思い浮かべ、改めて涼佑は巫女さんに言われたことを思い返す。今、自分はどういう状態なのかと訊いた涼佑に、彼女は「私もお前の呪いを半分背負うのに必死でよく分からなかったが」と前置きしてから簡単に説明してくれた。
「本来、あの呪いは正式な手順を踏んで掛けた訳ではない。だから、余程強い思いが無いと、人間自身がそのまま呪いに変化するなんてことは有り得ない。――しかし、現に望はそうなった。発現したばかりの時は、お前の全身を覆い尽くそうとしていた。それを私が半分引き受けたことで呪いは分散され、お前の肌表面には出てきてはいない。残った呪いの殆どは心臓に潜ったようだからな」
「胸に少し痣みたいに残ってるだろ」と指摘され、涼佑はあの痣かと思い至る。彼の胸、心臓の辺りには薄らと痣のようなものが浮かんでいる。この状態なら、たとえ他人に見られたとしても不思議には思われないだろう。それが却って、より現実感を伴っていた。巫女さんは自分の方が大変な状態になっているというのに、それでも涼佑へ痛ましいものを見る目を向けて注意を促した。
「これからは気を付けろ。そこにいつも望がいる。隙を見せれば、お前を殺そうとしてくるだろう」
「……嫌なこと、言うなよ」
「すまないな。私の力が至らなかったばかりに」
「別に、巫女さんのせいじゃないだろ」
かといって、自分のせいなのかと一瞬考えた涼佑だが、やはり真実はよく分からない上に全面的に自分が悪いとは思えない。真奈美の話でも望の日記にそれらしい一連の記述はあったが、終始はっきりと名前を書いていた訳ではなく、本当に涼佑のことなのかは確証が持てない。しかし、ここ最近で望が告白したと事実確認が取れているのは涼佑だけだ。『退屈を紛らわせる』為だけにここまでする人間の心理というものが彼には全く理解できなかった。それでも、呪ってきたのが樺倉望という元人間だ。
「……れない」
「どうした? 涼佑」
心配そうに顔を覗き込んでくる巫女さんへ、涼佑はやや俯いていた顔を上げて決意に満ちた目で言った。
「呪いになんて負けてられない。絶対に解くぞ、巫女さん」
その目に涼佑の精神的な成長を見た巫女さんは、一瞬驚いたように瞠目したかと思うと、すぐ勝ち気な笑みを浮かべて「ああ、もちろんだ」と返した。
ホームルームも終わりに近付いてきた頃、松井は思い出したような声を零して、一番後ろの席へ視線を移した。一番端の窓際の席に座っている夏神と目が合うと、松井は彼を安心させるようににかっと笑った。
「夏神、やっと治ったか。良かったな!」
「いやぁ、今回の風邪は酷かったですね。先生も病気にだけは気を付けた方が良いですよ」
「お、言うねぇ。やっぱり、人間が出来てる奴は言うことも違うなぁ!」
予想外な夏神の気遣いの言葉に松井は素直に舌を巻いて、おちゃらけてみせる。嫌味の無い彼は案外と人気の高い教師で、特に女生徒からの評判が良かった。ただ、教師として言っておくべきことはしっかり言っていく。
「ただ、出席日数だけは気を付けろよ。辛い時は保健室で休んだり、早退しても良いから、なるべく学校には来るようにな」
「はい。ご心配をお掛けしました」
松井が心配するのも皆頷けた。夏神はよく体を壊す。生まれつき病弱で、昔からよく学校を休むことが頻繁にあった。その病弱という事情が彼を更に儚げに見せているとも言えたので、時折、「守ってあげたい」と言う女生徒もいたくらいだ。
「相変わらず、モテまくってますこと……」
涼佑のすぐ後ろで直樹が深い溜め息を吐く音が聞こえた。