幽霊巫女の噂
5
学校が終わると、涼佑は逃げるようにして家へ帰った。今日は直樹も部活だし、一人での帰宅だが、学校以外の場所は安全なんだと自分に言い聞かせて、湧き上がる恐怖心をねじ伏せながら家路へつく。一人で帰るのも怖かったが、学校に一人でいるよりはずっとましだと彼は考えていた。しかし、学校の敷地内から出ても、橋を渡っている最中でも、どこからか見られているような気がして、涼佑はびくびくと辺りを警戒しながら家路を急いだ。
「……ただいま」
持っている鍵を使って中に入ると、当然ながらまだ涼佑以外の家族は帰ってきていない。嫌だな、と彼は素直に思った。なるべくなら、今一人になりたくなかった。靴を脱いで小腹を満たす為、リビングに直行する。台所にはいつも何かしらお菓子があるので、冷蔵庫に常備されているジュースと一緒に食べようと思っていた。鞄をダイニングテーブルの自分の席に無造作に引っ掛け、目当てのお菓子とジュースを出してきて、テレビを点ける。席に座ってゆったりと寛ごうと、スナック菓子の袋を開けて手を突っ込んだ。
ひやり、と冷たく柔らかい感触が返ってきた。
「んひぃっ!?」
誰もいないことである意味気が緩んでいた涼佑は、そんな頓狂な声を上げてスナック菓子を袋ごと落としてしまう。まるで女の子のように椅子の上で身を縮こまらせ、足元に落ちた袋を警戒しきった猫のようにじっと見つめること数秒。恐る恐る体の緊張を解き、恐る恐る袋を拾い上げる。高まる緊張の中、何度か深呼吸をした後になるべく自分の体から袋を離して、思い切って中を覗き込んだ。
何もいなかった。そんなバカなとそのまま袋に顔を近づけてみるも、無いものは無い。でも、確かにあの感触は人の手のような――。そこまで考えて恐ろしさにぶるっと震えた彼は慌てて袋の口を閉じ、輪ゴムで留めて元の場所へ戻した。とてもじゃないが、食べる気にはなれなかった。
それからも涼佑はいない筈の影や手に怯えながら誰かが帰って来るのをひたすら待っていた。漸く帰ってきた妹に引っ付こうとして「お兄ちゃん、ウザい。止めて」と拒絶されたものの、この時ばかりは妹が居てくれて心底助かったと、この世の全てに感謝した。妹が帰って来てからはあの手に触られることも無く、母が帰って来るまで悠々自適に過ごせたが、異変は寝る直前に起こった。
入浴が済み、自室へ帰ってきた涼佑は少しスマホを弄ってから寝ようとSNSを開いた。フォロワーの投稿でも見ようと何となく指を滑らせ、ぼうっと見ているとふと、窓から何かの気配を感じた。少し眠い目を擦りつつも、カーテンを閉じている窓へ近付いて片側だけ開けてみた。すぐそこにあの影がいた。
「ひっ!?」
ガラス一枚隔てた向こうにその影はぼうっと突っ立っている。特に何をするでもなく、ただこっちをじっと見つめている。学校で見た時と同じだが、そこにいられるだけで堪らない。震える手を何とか抑え付けて、涼佑はさっとカーテンを元に戻した。もうあの影について考えていたくなくて、そのまま部屋の電気を消して涼佑は毛布を被った。スマホの画面も閉じて、そのまま目を閉じる。無理矢理にでも寝ないといつまでも怖いし、明日に響く。すぐそこにいる影のことは極力考えないようにすればする程、意識して考えてしまうので、とにかくひたすら目を瞑って眠気が来るのを待った。
いつの間にか朝になっていた。スマホを見ると、目覚ましより数十分早く目が覚めたようだ。珍しく少しだけ早起きをしたので、取り敢えず制服に着替えようと涼佑は、起き出してクローゼットへ向かう。寝惚け眼でクローゼットを開けて中に手を突っ込んだ。ひや、と柔らかく冷たい感触に手を掴まれた。一瞬、まだ頭が覚醒していないせいでそれが何なのか分からなかったが、段々と力が込められていくと共に頭も覚醒してくる。伝わる感触からそれが手だと分かると、涼佑は咄嗟に引こうとして一歩後退り、クローゼットの枠に手を付いて引っ張ろうとした。するり、と難なく手は抜けた。幸い、尻餅をつくことにはならずに済んだが、触れられた手を見る。特に色が変わっていたりなどは無いが、まだ感触が残っていたので、涼佑は嫌そうにティッシュで拭った。
おっかなびっくり制服に着替え、階下に降りる。既に母が起きており、弁当が出来上がっていた。「あら、今日は早いじゃない」という声に「うん」と答える。先に歯磨きと洗顔を済ませている間に台所に立った母が調理している音が聞こえてくる。オーブントースターの音がするから今日はパンなんだろうなと見当を付けてリビングに戻ってくると、思った通りの朝食がテーブルに並びつつあった。並べられた朝食を黙々と食べて、いつもの時間になるまでスマホを弄ろうと思った涼佑だが、母に「時間に余裕あるなら、洗い物しなさい」と言われて渋々取り掛かった。
洗い物を終わらせるといつもの時間になり、椅子に置いたままの鞄を取って家を出た。丁度、その時妹が慌てて降りてきたので、これは今日は遅刻するなと思いながら、涼佑は「行ってきます」と言って、玄関のドアを閉めた。家の中から慌ただしい妹の声がした。
「皆、落ち着いて聞いてくれ。昨日、行方不明になった樺蔵望さんが見付かったそうだ。ただ、残念なことになった」
朝のホームルームで松井は沈痛な面持ちで静かに言った。その一言と表情だけで涼佑達はどういう結果になったのか、分かった。呆気なく、彼女は死んだのだ。「通夜と葬式に出たい奴がいたら、挙手してくれ」と呼び掛ける松井の声がどこか遠く感じて、自分のせいで彼女は死んだのだという現実を突きつけられた涼佑は、無気力に俯いているしかなかった。
ホームルームが終わり、後ろの席の直樹が話し掛けてくる。
「なぁ、涼佑。お前、行かないの?」
何がと訊くまでもなく、直樹が指しているのは望の通夜と葬式のことだろう。そういえば、ホームルームの時に挙手するのを忘れたなと涼佑は今更に思う。望は涼佑の祖母の葬式に来てくれた。これで自分が行かない訳にはいかないだろうと思った涼佑だが、後から言っても大丈夫だろうかと疑問に思った。
「行きたい、けど、後から言っても大丈夫かどうか……」
「取り敢えず、昼休みにでも松井に言ってみ? 夕方までに言っときゃ大丈夫だろ」
「うん……」
そうこうしているうちに最初の授業の時間となり、涼佑と直樹はそこで話を打ち切った。
授業中、また何となく廊下の方へ視線を移す。またあの影がいるんじゃないかと思ってした行動だったが、見つけることはできなかった。もうどこかに行ったのかと安心して教壇の方へ視線を戻した涼佑の視界に、有り得ないものが映った。
「っ!?」
咄嗟に悲鳴を上げそうになった涼佑は手で口を押さえる。教壇の上から黒く丸い何かが突き出ていた。一瞬、先生が教材を中途半端に突っ込んだから飛び出ているのかと思った涼佑だが、それにしては存在感があり過ぎる。よく見るとそれは微かに震えていた。今は数学の授業中で、担当教師の田南部は気付いていない。周囲をそれとなく見回しても、誰もあの不自然に突き出た黒いものが見えているようにも言及する様子も無い。また自分にしか見えないものを見ていると悟った涼佑は、否が応でも視界に入ってくるそれから目を離すことができなかった。目を離すと逆に恐ろしい目に遭うのではないかと思っていたのもある。
ふるふると震えていた『それ』は一瞬、震えが治まったかと思ったその時、ずっ、と上にずり上がり、真っ白な目のようなものと目が合った。
「……ただいま」
持っている鍵を使って中に入ると、当然ながらまだ涼佑以外の家族は帰ってきていない。嫌だな、と彼は素直に思った。なるべくなら、今一人になりたくなかった。靴を脱いで小腹を満たす為、リビングに直行する。台所にはいつも何かしらお菓子があるので、冷蔵庫に常備されているジュースと一緒に食べようと思っていた。鞄をダイニングテーブルの自分の席に無造作に引っ掛け、目当てのお菓子とジュースを出してきて、テレビを点ける。席に座ってゆったりと寛ごうと、スナック菓子の袋を開けて手を突っ込んだ。
ひやり、と冷たく柔らかい感触が返ってきた。
「んひぃっ!?」
誰もいないことである意味気が緩んでいた涼佑は、そんな頓狂な声を上げてスナック菓子を袋ごと落としてしまう。まるで女の子のように椅子の上で身を縮こまらせ、足元に落ちた袋を警戒しきった猫のようにじっと見つめること数秒。恐る恐る体の緊張を解き、恐る恐る袋を拾い上げる。高まる緊張の中、何度か深呼吸をした後になるべく自分の体から袋を離して、思い切って中を覗き込んだ。
何もいなかった。そんなバカなとそのまま袋に顔を近づけてみるも、無いものは無い。でも、確かにあの感触は人の手のような――。そこまで考えて恐ろしさにぶるっと震えた彼は慌てて袋の口を閉じ、輪ゴムで留めて元の場所へ戻した。とてもじゃないが、食べる気にはなれなかった。
それからも涼佑はいない筈の影や手に怯えながら誰かが帰って来るのをひたすら待っていた。漸く帰ってきた妹に引っ付こうとして「お兄ちゃん、ウザい。止めて」と拒絶されたものの、この時ばかりは妹が居てくれて心底助かったと、この世の全てに感謝した。妹が帰って来てからはあの手に触られることも無く、母が帰って来るまで悠々自適に過ごせたが、異変は寝る直前に起こった。
入浴が済み、自室へ帰ってきた涼佑は少しスマホを弄ってから寝ようとSNSを開いた。フォロワーの投稿でも見ようと何となく指を滑らせ、ぼうっと見ているとふと、窓から何かの気配を感じた。少し眠い目を擦りつつも、カーテンを閉じている窓へ近付いて片側だけ開けてみた。すぐそこにあの影がいた。
「ひっ!?」
ガラス一枚隔てた向こうにその影はぼうっと突っ立っている。特に何をするでもなく、ただこっちをじっと見つめている。学校で見た時と同じだが、そこにいられるだけで堪らない。震える手を何とか抑え付けて、涼佑はさっとカーテンを元に戻した。もうあの影について考えていたくなくて、そのまま部屋の電気を消して涼佑は毛布を被った。スマホの画面も閉じて、そのまま目を閉じる。無理矢理にでも寝ないといつまでも怖いし、明日に響く。すぐそこにいる影のことは極力考えないようにすればする程、意識して考えてしまうので、とにかくひたすら目を瞑って眠気が来るのを待った。
いつの間にか朝になっていた。スマホを見ると、目覚ましより数十分早く目が覚めたようだ。珍しく少しだけ早起きをしたので、取り敢えず制服に着替えようと涼佑は、起き出してクローゼットへ向かう。寝惚け眼でクローゼットを開けて中に手を突っ込んだ。ひや、と柔らかく冷たい感触に手を掴まれた。一瞬、まだ頭が覚醒していないせいでそれが何なのか分からなかったが、段々と力が込められていくと共に頭も覚醒してくる。伝わる感触からそれが手だと分かると、涼佑は咄嗟に引こうとして一歩後退り、クローゼットの枠に手を付いて引っ張ろうとした。するり、と難なく手は抜けた。幸い、尻餅をつくことにはならずに済んだが、触れられた手を見る。特に色が変わっていたりなどは無いが、まだ感触が残っていたので、涼佑は嫌そうにティッシュで拭った。
おっかなびっくり制服に着替え、階下に降りる。既に母が起きており、弁当が出来上がっていた。「あら、今日は早いじゃない」という声に「うん」と答える。先に歯磨きと洗顔を済ませている間に台所に立った母が調理している音が聞こえてくる。オーブントースターの音がするから今日はパンなんだろうなと見当を付けてリビングに戻ってくると、思った通りの朝食がテーブルに並びつつあった。並べられた朝食を黙々と食べて、いつもの時間になるまでスマホを弄ろうと思った涼佑だが、母に「時間に余裕あるなら、洗い物しなさい」と言われて渋々取り掛かった。
洗い物を終わらせるといつもの時間になり、椅子に置いたままの鞄を取って家を出た。丁度、その時妹が慌てて降りてきたので、これは今日は遅刻するなと思いながら、涼佑は「行ってきます」と言って、玄関のドアを閉めた。家の中から慌ただしい妹の声がした。
「皆、落ち着いて聞いてくれ。昨日、行方不明になった樺蔵望さんが見付かったそうだ。ただ、残念なことになった」
朝のホームルームで松井は沈痛な面持ちで静かに言った。その一言と表情だけで涼佑達はどういう結果になったのか、分かった。呆気なく、彼女は死んだのだ。「通夜と葬式に出たい奴がいたら、挙手してくれ」と呼び掛ける松井の声がどこか遠く感じて、自分のせいで彼女は死んだのだという現実を突きつけられた涼佑は、無気力に俯いているしかなかった。
ホームルームが終わり、後ろの席の直樹が話し掛けてくる。
「なぁ、涼佑。お前、行かないの?」
何がと訊くまでもなく、直樹が指しているのは望の通夜と葬式のことだろう。そういえば、ホームルームの時に挙手するのを忘れたなと涼佑は今更に思う。望は涼佑の祖母の葬式に来てくれた。これで自分が行かない訳にはいかないだろうと思った涼佑だが、後から言っても大丈夫だろうかと疑問に思った。
「行きたい、けど、後から言っても大丈夫かどうか……」
「取り敢えず、昼休みにでも松井に言ってみ? 夕方までに言っときゃ大丈夫だろ」
「うん……」
そうこうしているうちに最初の授業の時間となり、涼佑と直樹はそこで話を打ち切った。
授業中、また何となく廊下の方へ視線を移す。またあの影がいるんじゃないかと思ってした行動だったが、見つけることはできなかった。もうどこかに行ったのかと安心して教壇の方へ視線を戻した涼佑の視界に、有り得ないものが映った。
「っ!?」
咄嗟に悲鳴を上げそうになった涼佑は手で口を押さえる。教壇の上から黒く丸い何かが突き出ていた。一瞬、先生が教材を中途半端に突っ込んだから飛び出ているのかと思った涼佑だが、それにしては存在感があり過ぎる。よく見るとそれは微かに震えていた。今は数学の授業中で、担当教師の田南部は気付いていない。周囲をそれとなく見回しても、誰もあの不自然に突き出た黒いものが見えているようにも言及する様子も無い。また自分にしか見えないものを見ていると悟った涼佑は、否が応でも視界に入ってくるそれから目を離すことができなかった。目を離すと逆に恐ろしい目に遭うのではないかと思っていたのもある。
ふるふると震えていた『それ』は一瞬、震えが治まったかと思ったその時、ずっ、と上にずり上がり、真っ白な目のようなものと目が合った。