ド貧乏ナースエイドは難攻不落の外科医から信頼を得る~つくし集めてたら人生大逆転しました~
入浴介助は連携が大切だ。
特に寝たきり状態の患者さんに苦痛なく入浴してもらうためには、様々な配慮が必要。体を持ち上げるタイミングだったり、洗い方であったり、そして服を着てもらうことだってそう。患者さんに対して私たちが声を掛けることで安全な入浴ができる。それなのに。私は特別浴室で、ただひとりだけ声を出しているような状態になっていた。
「佐藤さん、それじゃあお風呂用のストレッチャーに移動しますからね。せーのっ!」
佐藤さんは高齢者の男性で、寝たきりで会話をすることが難しい。体も拘縮があり、関節の動きが固くなっている。在宅での排泄介助時の事故が原因で大腿骨頸部を骨折し、入院に至っている。要介護度は5。だから佐藤さんが私に返事ができないのはわかるけど……。
重本さんと引田さんが、声かけをしないのはいくらなんでもおかしい。
移乗のタイミングもあるから、その意味でも声かけをしてほしいんだけれど。
少しタイミングがずれたけど、どうにか佐藤さんは入浴用のストレッチャーに移動できた。
「佐藤さん、ストレッチャー動かしますね。引田さん、すみませんがストレッチャーのブレーキ解除をお願いします」
「……」
ガチャリ。ブレーキが付いている足側にいた引田さんは返事もせず、乱暴にブレーキを足で解除する。
「ありがとうございます。佐藤さん、ストレッチャー動きますね」
私が視線の定まらない佐藤さんに声をかけると、重本さんが「ばっかみたい」と、吐き捨てるように言った。
正直、患者さんの前でそのような態度を取るのはどうかと思う。嫌な気持ちになるけれど、患者さんの前でこれ以上空気を悪くするわけにはいかない。私は極力雰囲気をよくするように、明るく努めた。
裸になってもらう入浴介助は、患者さんの全身状態を確認するのにすごく適している。特に寝たきりの人は床ずれ――専門用語では褥瘡と言うらしい。それができやすいので、しっかりとチェックしなければならない。佐藤さんに横を向いてもらうと、腰の一部の皮膚がめくれていた。出血はないので、今できたものではないようだ。
「重本さん、これ新しいびらんですかね?」
「ああ、本当ね。あとで記録を書いておくわ」
彼女たちは全身を洗うのも手伝わず、こそこそと浴室の隅でお喋りをしているだけだった。そうして入浴介助が終わり、佐藤さんに新しいパジャマを着るための支援を始めようと思ったところで、ふたりは浴室を出ようとする。
「じゃ、あとは助手さんがやってね」
「ちょっと待ってください! 佐藤さんは全介助で、体も拘縮があります。ひとりじゃなく、複数で介助を行わないと事故のリスクが……」
「はぁ? あなた更衣介助もできないわけ? 腐っても看護助手でしょ?」
「腐ってるなんて言いすぎですよ重本さぁん。例え本当のことでもね」
さっきまでだんまりしていたのに、嫌味になったら流暢に喋り出すふたりに吐き気さえ覚える。こんな人たちが、看護師だなんて……。私は佐藤さんが風邪をひかないように、タオルケットをかける。
「全介助の人をひとりでケアしなければならない場面なんてたくさんあるわ。看護は甘くないの。わたしたちが見ててあげるから、やってみなさいよ」
ふたりは浴室の出口に立って、じっとこちらを見ている。まるで閉じ込められたみたいだ。これじゃあ、他のスタッフを呼びに行くこともできない。なにより、湯上りの佐藤さんをこれ以上待たせるわけには……。
仕方なく、私はひとりで介助を始めた。「佐藤さん、ごめんなさい」と何度も謝る。佐藤さんの瞳が、なぜかとても悲しそうに見えた。悪戦苦闘しながら服を着てもらっている私を見て、重本さんたちは笑う。
「あーあー、手際が悪いね。これだから無資格の人って嫌なのよ」
「ほんと、基礎がなってない」
私はできるだけふたりの言葉を耳に入れないように、安全に慎重に更衣介助を行う。
佐藤さんに靴下を履いてもらって、どうにか事故もなく更衣してもらうことができた。
「移乗をお願いします」とふたりに言うと、重本さんは舌打ちをした。
「どうせ汚い手を使って霧島先生に近づいてるんでしょ」
「そうそう。じゃないと霧島先生が助手なんかと話すなんてあり得ないですもん」
「……その話って佐藤さんのケアに関係ある話ですか?」
関根さんや奥野さんから、彼女たちが霧島先生に好意を持っているとは聞かされていた。だからこそ、以前霧島先生に注意されたことを根に持っているのだろう。それでも、患者さんまで巻き込んで嫌がらせするなんてあり得ない。佐藤さんにベッドに戻っていただいたら、ふたりに抗議しよう。
ベッドの移乗はさすがにこのふたりでも手伝ってくれた。もう昼食前だ。ほかのスタッフは食事介助や配膳で走り回っている。私は病室を出てからふたりに切り出した。
「さっきは佐藤さんの前だったから言いませんでしたが、いくらなんでも今日のケアはひどすぎます。私が嫌いなのはいいです。だけど佐藤さんに声かけもしない、介助を手伝わないのはおかしいです!」
言いながら、手がわなわなと震えていた。拳をぎゅっと握り締めて我慢したが、今にも感情が爆発してしまいそうだった。なにより、佐藤さんに申し訳なくて……。
「いい子ぶってうざったい。佐藤さんだって話せないんだから声かけしたって無駄でしょ」
「なっ……」
信じられないことをいう引田さん。
「私も引田さんと同感。助手さんって誰にでも媚び売ってるよね。まぁ、ド貧乏だから八方美人じゃないと生きていけないか。霧島先生にお金の無心とかしてるんじゃないの?」
「うわぁ~、ありえそう。そういえば、この人が先生にジュースたかってるの見ましたよ。情けない。他人に頼る前に、自分の親にでも頼ったらいいのに」
あれこれ勝手な妄想をされて悪態をつかれて、怒りを通り越して悲しくなってきた。
「確かにジュースはいただきましたが、たかったわけじゃ……」
「それじゃ、お恵みになられたのね。あまりにもあんたがみっともなかったから」
言い返すこともできない。重本さんの言う通り、私と霧島先生は本来、別の世界の人間なのだ。今まで対等に話してくれてたことがおかしいほどに。あの夜も、服から食事まですべて霧島先生がご馳走してくれた。貧乏な私には、とても払えない金額だ。
……私、霧島先生が褒めてくれるから驕っていたのかもしれない。それで周りに勘違いをさせてしまった。重本さんたちに不快感を抱かせてしまったせいで、ついに患者さんにまで迷惑をかけてしまった
「もう、こんなことやめてください」
どうにか声を絞り出すと、重本さんが嗤った。
「あんたのこれからの態度次第ってところかな」
引田さんも続く。
「それじゃ、浴室の掃除はしといてね。うちらは休憩行ってきま~す」
私は一人浴室に戻り、スポンジでストレッチャーを洗う。力を込めて洗っていると、涙が一粒零れた。頭の中で、さっきのふたりの声がぐるぐるとまわる。
――ド貧乏だから……
――親にでも頼ったらいいのに……
「何も知らないのに、勝手なこと言わないで」
独りごちた言葉が、静かに浴室に響いた。
私の親は、もうこの世にはいない。
私は両親が新しく始めた事業の連帯保証人になった矢先に、ふたりは交通事故で亡くなってしまった。
それももう、七年近く前のこと。私はひとりになってしまって、残ったのは莫大な借金だけだった。
大学も退学し、住んでいた家も、部屋も、なにもかも無くなってしまった。
残った借金だけが、私と両親との繋がりのように感じていたので、放棄することはできなかった。
あの日からずっと、ふたりの借金を返し続けている。こんなこと、誰にも言えない。だけど、馬鹿にもされたくない私の大切な部分だった。
掃除用のスポンジに私の涙が落ちる。泣いちゃだめ。泣いちゃだめって思ってるのに。
私は声を殺して泣いて、掃除を続けた。
特に寝たきり状態の患者さんに苦痛なく入浴してもらうためには、様々な配慮が必要。体を持ち上げるタイミングだったり、洗い方であったり、そして服を着てもらうことだってそう。患者さんに対して私たちが声を掛けることで安全な入浴ができる。それなのに。私は特別浴室で、ただひとりだけ声を出しているような状態になっていた。
「佐藤さん、それじゃあお風呂用のストレッチャーに移動しますからね。せーのっ!」
佐藤さんは高齢者の男性で、寝たきりで会話をすることが難しい。体も拘縮があり、関節の動きが固くなっている。在宅での排泄介助時の事故が原因で大腿骨頸部を骨折し、入院に至っている。要介護度は5。だから佐藤さんが私に返事ができないのはわかるけど……。
重本さんと引田さんが、声かけをしないのはいくらなんでもおかしい。
移乗のタイミングもあるから、その意味でも声かけをしてほしいんだけれど。
少しタイミングがずれたけど、どうにか佐藤さんは入浴用のストレッチャーに移動できた。
「佐藤さん、ストレッチャー動かしますね。引田さん、すみませんがストレッチャーのブレーキ解除をお願いします」
「……」
ガチャリ。ブレーキが付いている足側にいた引田さんは返事もせず、乱暴にブレーキを足で解除する。
「ありがとうございます。佐藤さん、ストレッチャー動きますね」
私が視線の定まらない佐藤さんに声をかけると、重本さんが「ばっかみたい」と、吐き捨てるように言った。
正直、患者さんの前でそのような態度を取るのはどうかと思う。嫌な気持ちになるけれど、患者さんの前でこれ以上空気を悪くするわけにはいかない。私は極力雰囲気をよくするように、明るく努めた。
裸になってもらう入浴介助は、患者さんの全身状態を確認するのにすごく適している。特に寝たきりの人は床ずれ――専門用語では褥瘡と言うらしい。それができやすいので、しっかりとチェックしなければならない。佐藤さんに横を向いてもらうと、腰の一部の皮膚がめくれていた。出血はないので、今できたものではないようだ。
「重本さん、これ新しいびらんですかね?」
「ああ、本当ね。あとで記録を書いておくわ」
彼女たちは全身を洗うのも手伝わず、こそこそと浴室の隅でお喋りをしているだけだった。そうして入浴介助が終わり、佐藤さんに新しいパジャマを着るための支援を始めようと思ったところで、ふたりは浴室を出ようとする。
「じゃ、あとは助手さんがやってね」
「ちょっと待ってください! 佐藤さんは全介助で、体も拘縮があります。ひとりじゃなく、複数で介助を行わないと事故のリスクが……」
「はぁ? あなた更衣介助もできないわけ? 腐っても看護助手でしょ?」
「腐ってるなんて言いすぎですよ重本さぁん。例え本当のことでもね」
さっきまでだんまりしていたのに、嫌味になったら流暢に喋り出すふたりに吐き気さえ覚える。こんな人たちが、看護師だなんて……。私は佐藤さんが風邪をひかないように、タオルケットをかける。
「全介助の人をひとりでケアしなければならない場面なんてたくさんあるわ。看護は甘くないの。わたしたちが見ててあげるから、やってみなさいよ」
ふたりは浴室の出口に立って、じっとこちらを見ている。まるで閉じ込められたみたいだ。これじゃあ、他のスタッフを呼びに行くこともできない。なにより、湯上りの佐藤さんをこれ以上待たせるわけには……。
仕方なく、私はひとりで介助を始めた。「佐藤さん、ごめんなさい」と何度も謝る。佐藤さんの瞳が、なぜかとても悲しそうに見えた。悪戦苦闘しながら服を着てもらっている私を見て、重本さんたちは笑う。
「あーあー、手際が悪いね。これだから無資格の人って嫌なのよ」
「ほんと、基礎がなってない」
私はできるだけふたりの言葉を耳に入れないように、安全に慎重に更衣介助を行う。
佐藤さんに靴下を履いてもらって、どうにか事故もなく更衣してもらうことができた。
「移乗をお願いします」とふたりに言うと、重本さんは舌打ちをした。
「どうせ汚い手を使って霧島先生に近づいてるんでしょ」
「そうそう。じゃないと霧島先生が助手なんかと話すなんてあり得ないですもん」
「……その話って佐藤さんのケアに関係ある話ですか?」
関根さんや奥野さんから、彼女たちが霧島先生に好意を持っているとは聞かされていた。だからこそ、以前霧島先生に注意されたことを根に持っているのだろう。それでも、患者さんまで巻き込んで嫌がらせするなんてあり得ない。佐藤さんにベッドに戻っていただいたら、ふたりに抗議しよう。
ベッドの移乗はさすがにこのふたりでも手伝ってくれた。もう昼食前だ。ほかのスタッフは食事介助や配膳で走り回っている。私は病室を出てからふたりに切り出した。
「さっきは佐藤さんの前だったから言いませんでしたが、いくらなんでも今日のケアはひどすぎます。私が嫌いなのはいいです。だけど佐藤さんに声かけもしない、介助を手伝わないのはおかしいです!」
言いながら、手がわなわなと震えていた。拳をぎゅっと握り締めて我慢したが、今にも感情が爆発してしまいそうだった。なにより、佐藤さんに申し訳なくて……。
「いい子ぶってうざったい。佐藤さんだって話せないんだから声かけしたって無駄でしょ」
「なっ……」
信じられないことをいう引田さん。
「私も引田さんと同感。助手さんって誰にでも媚び売ってるよね。まぁ、ド貧乏だから八方美人じゃないと生きていけないか。霧島先生にお金の無心とかしてるんじゃないの?」
「うわぁ~、ありえそう。そういえば、この人が先生にジュースたかってるの見ましたよ。情けない。他人に頼る前に、自分の親にでも頼ったらいいのに」
あれこれ勝手な妄想をされて悪態をつかれて、怒りを通り越して悲しくなってきた。
「確かにジュースはいただきましたが、たかったわけじゃ……」
「それじゃ、お恵みになられたのね。あまりにもあんたがみっともなかったから」
言い返すこともできない。重本さんの言う通り、私と霧島先生は本来、別の世界の人間なのだ。今まで対等に話してくれてたことがおかしいほどに。あの夜も、服から食事まですべて霧島先生がご馳走してくれた。貧乏な私には、とても払えない金額だ。
……私、霧島先生が褒めてくれるから驕っていたのかもしれない。それで周りに勘違いをさせてしまった。重本さんたちに不快感を抱かせてしまったせいで、ついに患者さんにまで迷惑をかけてしまった
「もう、こんなことやめてください」
どうにか声を絞り出すと、重本さんが嗤った。
「あんたのこれからの態度次第ってところかな」
引田さんも続く。
「それじゃ、浴室の掃除はしといてね。うちらは休憩行ってきま~す」
私は一人浴室に戻り、スポンジでストレッチャーを洗う。力を込めて洗っていると、涙が一粒零れた。頭の中で、さっきのふたりの声がぐるぐるとまわる。
――ド貧乏だから……
――親にでも頼ったらいいのに……
「何も知らないのに、勝手なこと言わないで」
独りごちた言葉が、静かに浴室に響いた。
私の親は、もうこの世にはいない。
私は両親が新しく始めた事業の連帯保証人になった矢先に、ふたりは交通事故で亡くなってしまった。
それももう、七年近く前のこと。私はひとりになってしまって、残ったのは莫大な借金だけだった。
大学も退学し、住んでいた家も、部屋も、なにもかも無くなってしまった。
残った借金だけが、私と両親との繋がりのように感じていたので、放棄することはできなかった。
あの日からずっと、ふたりの借金を返し続けている。こんなこと、誰にも言えない。だけど、馬鹿にもされたくない私の大切な部分だった。
掃除用のスポンジに私の涙が落ちる。泣いちゃだめ。泣いちゃだめって思ってるのに。
私は声を殺して泣いて、掃除を続けた。