隠れ御曹司の溺愛に身も心も包まれて
「相野さん、すごいですね」
 岩本君が笑顔を向けてくれる。
「心から応援しています」
「ありがとう」
 心優しい岩本君に励まされ、やる気が漲ってきた。
 ドリンクを買ってこようと立ち上がると岩本君もついてくる。まるで親鳥にくっついてくる雛鳥みたい。ニコニコしていて、かわいいから嫌な気はしない。
「僕も喉乾きました」
「タイミングが同じっておかしくない?」
「ですかね」
 休憩室に入ろうとした時、修一郎の声が聞こえてきた。思わず足を止める。
「今日も杏奈ちゃんは本当にかわいいね」
「ありがとうございますぅ。素敵な田辺さんに言われるとすごく嬉しいです」
「じゃあ今度デートしようか?」
「えぇー? 田辺さんって結婚間近だって噂ですよね。同棲してるんでしょう?」
 瀬川杏奈(せがわあんな)は去年入社した契約社員だ。甘い話し方と香りで男性社員の中から人気がある。
「大学の同級生ってだけでさ。彼女、親がいなくなって困ってたからとりあえず家に住ませてあげたっていう感じ。恋愛感情とか全くないし。早く出て行ってくんないかなと思ってさ。家に置いてやってるんだ。まぁ家政婦の代わりみたいな」
 金槌で頭を打たれたような衝撃で足がふらついた。岩本君が支えてくれる。
「えー? だって相野さんってデザイン賞を何度ももらっているすごい人ですよね?」
「たしかに仕事はできるけど、杏奈ちゃんのような魅力はないよ」
 二十歳から交際始めての七年間、一途に修一郎を愛して、将来は一緒になるということを疑っていなかった。
 心から信頼していた人に裏切られたという絶望感に打ちひしがれる。
「相野さん、行きましょう」
 岩本君が耳打ちし、私の手首をつかんで歩き出した。
「ちょっと、どこ行くの?」
 足がもつれそうになるがついていく。
 連れて来られたのは階段だった。ひんやりとしていて周りの音が遮断されている空間だ。
 呆然としている私を岩本君が長い手で包み込むように抱きしめてくれた。
 心が弱っている時に優しくされたら甘えたくなる。しかし年下の後輩に甘えるわけにいかないし、こんなところを誰かに見られて変な噂が立ったら岩本君に迷惑をかけてしまう。
 私は精一杯の力で岩本君の胸を押し返した。
「やめて」
 岩本君が悲しい目をする。
「まだあんな男のこと、好きなんですか?」
 混乱状態で感情の整理ができなかった。
「好きか嫌いか……今は感情がまだ整理できてない」
「そうですよね。困らせる質問をしてしまいました。ただ、辛くて苦しい時は僕を頼ってください」
 年下とは思えないほどの包容力を感じた。
「……岩本君を巻き込みたくない。変な噂を立てられた困るから、構わないで」
 彼から離れ、私はその場から去った。
 部署に帰ってきたけれど仕事が手につかなくて、頭の中が真っ白だった。
 本当は今すぐにでも逃げ出してしまいたいが、他に住む場所がないのだ。
 一時的にホテルに宿泊しよう。
 ただ別れをしっかり告げなければ気持ちが悪いので、今日だけは戻らなければならない。
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