隠れ御曹司の溺愛に身も心も包まれて
定時で仕事を終えて家に戻ると荷物の整理を始めた。もし私が別れを告げたら、引き止めてくれるだろうか?
片付けをしながらふとそんなことが頭の片隅によぎった。万が一引き止められたとしても私はここに残るつもりはない。
今日彼が帰ってきて別れを告げてから出て行くつもりでいた。
そのためにはある程度の資金が必要だ。二人で結婚のために貯めていた通帳を確認する。
折半すればマンションもすぐに借りられるはず。しかし残額を見て私は言葉を失った。ゼロだった。
「ひどい」
完全に信用していた私も悪かったが、絶対に修一郎は私のことを裏切らないと信じていたのに無断でお金を使っていたなんて……。深く裏切られたような気がした。
学生時代は好きだと言って大切にしてくれたのに、いつから心が離れていたのだろう。
震える手で通帳を持って確認しているとドアの開く音がした。彼が戻ってきたのだ。喉の奥がぎゅうっと締め付けられるような感覚に陥る。どんな風に話を切り出したらいいのかわからない。
怖くて不安で体に震えが走ったが、しっかりと考えを伝えて完全に関係を終わらそう。
リビングのドアが開くと修一郎と目が合った。
「ただいま。腹減ったんだけど」
「……修一郎、大切な話があるの」
「話? 後にしてくれないかな。今日めちゃくちゃ腹が減ってるんだよね。まさか作ってないとか言わないよな?」
ネクタイを外してソファーの上に投げ捨てる。ジャケットを脱ぎそれもそのままだ。全部拾い上げてシワができないようにハンガーにかけるのも私の仕事だった。
めんどくさいと言ったような態度でソファーにドカッと腰をかける。
「ったく、何?」
そこで彼は初めて私の手に通帳があるのに気づいたようだ。一瞬、表情をこわばらせたがすぐに真顔に戻る。
「ごめん。大事な用事とか続いて金がなくなってちょっと借りただけだよ」
「これは二人の結婚費用にって貯めていたものだよね。勝手に使うなんてひどいよ。困っているなら言ってくれたらよかったのに」
「お前は優秀だからいつも残業ばかりじゃん。話しする時間なんてなかったんだよ」
まるで私が悪いというように言う。明らかに修一郎が悪いのに謝ろうとしないのだ。
その態度を見ていると悪いことをしたのは自分なのではないかと思ってしまう。怯んでしまいそうだったが私は強い視線を向けた。
「私のこと家政婦としか思っていなかったんでしょ?」
「はぁ?」
「杏奈ちゃんと話しているのが聞こえたの」
「盗み聞きしてたのか。悪趣味だな」
「たまたま聞こえてしまっただけだよ。……いつから気持ちが冷めていたの?」
なぜそんな質問をしてしまったのかわからない。もし解決の糸口があれば修復できるかもしれないと思ってしまったのだろうか。
「出会った頃から俺にとっては都合のいい女。掃除も洗濯も料理も完璧にしてくれて、夜の相手にもなる。今はそういう対象にはもう見れなくなってるけどな」
血の気が引いていくような気がした。自分から質問をしておいて深く傷ついてしまった。
でもせめて生活費だけは確保しなければいけない。
「全部とは言わないけど、お金、少し返してもらえないかな」
「悪いけどもう何もない」
「……そう」
お金は頑張って働けばまた手に入るかもしれないけれど、時間だけはどうしても返ってこない。大切な時間を奪われていたことに気づかなかったのだ。そんな自分にも腹立たしい。
「私の大切な時間を奪ったんだね」
「はぁ? お前何言ってんの。自分で選んで住んで俺と過ごしてたんだぞ」
その通りで何も言えない。ここにいたらまた永遠に同じことを繰り返してしまう。
やはり今すぐに出ていかなければならないと判断して私は立ち上がった。
「出て行くね」
「どうぞ、ご勝手に」
引き止めてくれるかもしれない。そう一瞬でも考えてしまったことがバカバカしくなった。
まとめた荷物を部屋から取ってきて、修一郎の横を通り過ぎようとする。するとおもむろに彼は口を開いた。
「お前は色で言うと白だ。俺の言う通りの色に変わってくれたから心地よかっただけ。しばらくの間一緒に住んでやっただけでも感謝しろよ」
めんどくさそうに頭を掻いて、テーブルの上にあるリモコンでテレビをつけた。バラエティ番組の笑い声すら虚しく聞こえる。
何年間もこの部屋で過ごしたのに、一瞬で自分の空間ではなくなった。
玄関のドアを閉める時に遠くで聞こえるテレビの音がやけに切なく感じた。