痛い痛い、恋をした。
からん


着いたのは、私の行きつけの純喫茶。
昭和頃のレトロなムードに包まれている、この店のカウンターの一番端が、私の特等席。

マスターは、私の顔を3つ並んだ小さめのサイフォンの間からちらりと見て、小さく…それでもとても心地良い声で、短く、「お疲れ様、いらっしゃい」とだけ言ってくれる。


私はそれに頭をペコリと下げて、小さな声で「ただいま」とだけ返した。

それだけで、心が洗われるようだ。

結局、予定よりも一時間以上も早めに目的地に着いてしまいそうだったので、寄り道をすることにしたのだけれど…本当は、この後の時間をどう過ごすか、シュミレーションしたかっただけかもしれない。


…どれくらい、自分がその間…"流されて砕かれないか"を。


愛していた…と、ただ断言しても、不意を付いて心の何処かで何かが引っ掛かる。

それは、果たして心の中に残ってしまった情というものなのか…?

それとも、何時か再燃してしまいそうな心残りになり得る、愛というものなのか。


今の段階で、判断材料は皆無だった。
裏切られた心は戻らない。
だから、別れを告げると決心して、それは揺るがない筈だった。


なのに…。
この場所に来て、深呼吸をしてみたら、やっぱり小さな燻りはあるようで、深い溜息が自然と出た。


待ち合わせの場所は、この喫茶店よりもっと先のレストラン。


お世辞にも高級店とまでは言えないけれど、それでも…「亜弓と会えるから」なんて気持ちを囁かれたら……締め付けられそうになる、この心情は嵐のように掻き乱されてしまう…。


「最後まで、酷な人…」


涙が瞳に溜まりそうになって、上を向いた。


泣くな。
少しの優しさに流されるな。


私は、貴方を手放すと決めたのだから。


…最後は、せめて…ありったけの笑みでさよならを伝えよう。


今度こそは、真剣に。


私は気を引き締めると、手のひらサイズの鏡をバッグから取り出して、少しキツめにリップを塗り直した。

けじめを付ける、戦闘態勢に戻る為。
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