痛い痛い、恋をした。
そろそろ時間かな。
そう思い、席を静かに立つとマスターに声を掛け、コーヒー代をそっとテーブルのカウンターへと置く。


すると、少し間を置いてから、マスターがこう言った。


「…自棄にはならないようにね」


その一言にハッとさせられる。
そんなにも、この短時間内で私は思いつめた顔をしていたのだろうか…?

少しばかり動揺したけれど、その震える声を表に出さないように、私は静かにこう返した。


「ありがとうございます…」


とだけ。


からん


乾いたベルの音と共に、私は何時の間にか降り出していた細かな雨に、頭を悩ませた。

霧雨。
なんとなく、これから先の時間を堰き止めてしまうような、邪魔な雨。

これが土砂降りだったなら…。
豪雷が轟き、歩くのもままならない程の空模様になってくれたなら…。

また、溜息が一つ。


今日、何度こんなにも憂鬱な息を肺の底から押し出したことか。
私は額に手をやり、少しの間考えてから、彼へとメッセージを送ることにした。


『雨が…』


と、そこまで打ってから文章を消す。
こんなメッセージ、今は意味がないと判断したからだ。


「は…。本当に、馬鹿みたい」


スマホをバッグの中へと仕舞い込む。
と、その瞬間を見計らったように、スマホが控えめに振動した。
通話画面には、先程から頭の中を占めていた彼の文字。
私は一瞬だけ戸惑った後で、通話ボタンをタップした。


「もしもし…?」

『もしもし、亜弓?雨が降ってるけど、大丈夫か?』

「……えぇ、大丈夫よ。それより英昭(ひであき)は?」

『や、俺は大丈夫なんだけど…あの、さ』

「なに…?」


嫌な予感がする。


『今日の予定なんだけど…』


ほら、やっぱり。


『来週に変えられないか?』


私はほんの少し沈黙をしてから、決断を実行することにした。
大切な話があると前もって言ってあったにも関わらず、それを反故するということに、さっきまでのほんのりと淡い気持ちが、ざらざらと音を立てて燻った思いが火の粉に変わる。


「いいえ。変えられないわ」

『…亜弓…?』


突然の拒絶に、戸惑っているような声。
今まで、従順過ぎるほど、彼の意見を尊重してきたからか、あからさまな私の態度に驚いているようだった。
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