国宝級オルガニストは初恋の彼女に甘く口づける
 問題は今。蕾羅が律華から、奏鳴から、大切なものを奪おうとしていることだ。
 自分のことはいい。仕事は選ばなければなんとかなるだろう。

 だが、奏鳴は。
 せっかく夢をかなえた彼は。

 逃げていいよ。
 少年だった彼の声が頭に響く。
 逃げても、いいのだろうか。
 蕾羅にただ負け続けている。自分が正しいと思うのなら、戦うのが人としてあるべき姿ではないのだろうか。
 だけど、自分はそんなに強くはなれない。ムトウ製菓がバックにいるのだ。勝てるわけがない。

 弱い自分が嫌になる。
 だけど、それが自分だ。
 思って、自嘲の笑みがこぼれた。
 なんて陳腐な思考だろう。
 のろのろとマウスに手を伸ばし、律華は退職届けのフォーマットを探した。


 律華はなんとか仕事を終え、会社を出た。
 スマホには彼からメッセージが来ていた。おいしそうな食事の写真とともに。
 今度はここへ行こうね、と有名な手羽先の店の写真も届いた。
 律華は返信できなかった。

 退職届、いつ出したらいいんだろう。
 頭の中はそれでいっぱいだった。
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