国宝級オルガニストは初恋の彼女に甘く口づける
 こちらはこんなにショックを受けているというのに。
 テレビで活躍する芸能人とつきあってるわけでもないのに。こんなことになるなんて、思いもしなかった。
 しかも、デートをしたのはこの写真の日が初めてだ。なんでこんなタイミングで。

 せめて、と律華は課長を見た。
 身近な人たちだけにはわかってもらいたい。

「その人は大切な友人です。ストーカーじゃないです」
 この状況で恋人とは言いづらかった。思い込みの激しいストーカーだと思われそうだ。

「問い合わせも来ててさ。昨日のこともあるし、本当になにもやってないの? 危ない人に会社にいられてもさあ」
 律華は絶望した。
 暗に退職を求められた。

 アラサーにもなると再就職が難しいと聞いている。女性は結婚や出産のことがいまだにネックになりがちだ。
 だけど、この会社にしがみついても針の筵だ。

 退職届けはもう書いてある。あとは出すだけだ。やめるまでには一カ月かかるが、有給もあるし実質は一週間の我慢ですむだろう。
「退職させてください」
 律華が言うと、課長はほっとしたように表情をゆるめた。

「退職届けはきちんと出してね」
「はい」
 律華はみじめな気持ちでうなずいた。
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