王太子の出す初めての命令
第2話
王宮内で、王族だけでなく、そこで働く貴族や高級官僚のための食事を用意するのが、ここでの仕事だった。
広い作業台の周囲に様々な道具が並び、オーブンや煮炊きする窯が、いくつも並んでいる。
鍋はどれも大きなものばかりで、以前働いていた宿屋の厨房などとは比べものにならない。
集められている食材も、実に様々な珍しいものばかりだった。
壁際には、いくつもの皿やカトラリーが、これでもかと所蔵されている。
だが、そこに収められているのはどれも質素なものばかりで、王侯貴族が使用する食器は、専用に管理する部署が存在した。
もちろん私は、そこには入れない。
厨房に入るなり、私はすぐに箒を手に取り、床掃除を始める。
食品を扱う部署だ。
衛生管理には特に厳しく、毎晩最後まで残って残った食材をきっちり片付け、食べ残しなどないよう生ゴミは全て処分していても、翌朝には食べ物の匂いを嗅ぎつけた虫が湧いて出る。
それを掃きだしておくのが私の朝一番の仕事だった。
それを終えると、大きな窯に湯を沸かし、調理器具を消毒する。
ぐつぐつと湧いた鍋に、巨大なナイフや肉を刺して焼くためのフォークを放り込む。
もちろんそれらも、昨日のうちに洗って乾かしておいたものだが、それを湯に入れ調理を担当する職人たちが出てくる前に、冷まして元の位置に戻しておかなければならなかった。
肉を削ぐ細長いナイフを沸騰した湯に入れたとたん、跳ねた滴が手に火傷の痕をつくる。
私の手は、そうやって出来た小さな火傷で、赤くまだら模様になっていた。
「おや。マノン。今日も早いじゃないか」
現れたのは、調理師の中で最も若いニックだ。
くるくると巻いた赤い髪の頭を、ボリボリと掻きながら近づいてくる。
「もう消毒作業は終わったのか? お前は本当によく真面目に働くな」
そう言って、私の全身を舐めまわすように眺める。
好意を寄せられているのはなんとなく分かるが、私自身にその気は全くない。
「もうすぐ終わります。そしたら、乾して元の位置に戻しておきますから……」
「手伝うよ」
ぐらぐらに湧いた鍋を火から下ろそうとして、手が触れる。
背後からピタリと体を寄せられ、背筋に悪寒が走った。
「お前には重たくて持てないだろうからさ、俺が持ってやるよ」
耳元にささやく吐息が気持ち悪くて、思わず鍋を持つ手を放してしまった。
そのとたん、熱湯でたっぷり満たされた鍋を落としてしまう。
「熱っ!」
こぼした湯を全部被ったのは、鍋を持っていた私だ。
「おま、何やってんだよ!」
「すみません」
せっかく消毒が済んだナイフやオタマなどの器具を、全部土の上に落としてしまった。
熱湯の染みこんだ服で、肌が焼けるように熱い。
「なんの騒ぎだ!」
厨房の扉が開いた。そこに立っていたのは、同じく調理長であるケニーさんと、ここで働く女性たちを束ねる女頭首であるミナだ。
ミナはこの厨房でもっとも長く勤めている古株で、調理長であるケニーも頭が上がらない。
ミナは出来上がった料理をワゴンに乗せ、給仕を担当する侍女たちに料理を引き渡す仕事をしている。
残った料理は、大抵皿を下げる侍女や兵士たちに食べられてしまうが、それでも残った果物の欠片やスープの残りを平らげてしまうのが、ミナだった。
この厨房で立ち入りを禁止されているエリアまで近づき、上位の召使いたちと接する機会のあるのは、料理長ケニーとベテラン調理師たち、女性ではミナだけだった。
そのことが彼女の一番の誇りでもある。
「またこの新人がやらかしたのかい? 名前はなんて言ったっけ?」
ミナはフンと鼻息を鳴らすと、顎を突き出し私を見下したように笑う。
「マノンです。以後お見知りおきを……」
「あっそ。覚えたくなったら覚えてあげるわ!」
ここへ来てから、ミナに名前を名乗るのはもう3回目だ。
ワザとこうやっているのは分かっているけど、逆らうことは出来ない。
彼女に出て行けと言われた瞬間、私は帰る場所を無くしてしまう。
パン屋の狭い屋根裏部屋に数少ない荷物は残してきたものの、戻ることは出来ない。
今ここで突然の宿無しとなり、何の心づもりもなく追い出されることだけは避けたい。
「ニックの言う通り、マノンは本当にお前がお気に入りなんだなぁ。いっつも何かやらかすとしたら、ニックと一緒の時だ。しかも二人きりの時を狙って。そうなんだろ? ニック」
「やだなぁ。そんなことマノンの前で言わないでくださいよ、料理長。まるでマノンが俺に気があるみたいに聞こえるじゃないですか。俺は迷惑してんのに」
そう言って男たちは笑った。
ニヤニヤした卑しい目つきで私を見下す。
調理師のニックは、誰かの失敗を見つけ出しそれを笑い者にすることを趣味としている。
そうやって調理長のケニーやミナに取り入って自分を高く見せようとすることに、どんな意味があるのだろう。
「ねぇミナさん。マノンはこの間も、洗濯していたテーブルクロスと布巾のことを忘れて、ロッテとおしゃべりに夢中になっててさ、雨で全部台無しにしちゃったの、覚えてます?」
「えぇ、ニック。もちろん覚えてますとも。ここで雇い始めていちばん最初にやらかした失敗ね」
「おや、それは違いますよミナさん。マノンの最初の失敗は、ケニー料理長の大切にしていた鉢植えを割っちゃったこと」
「あぁ、そうだったわね」
そう言って、クスクスと笑った。
こうやって何度も同じ話をぶり返しては笑う二人に、今さらなんの感情も浮かばない。
料理長の大切にしていた鉢植えを割ったのは、ミナだ。
それを偶然目撃したのは、私とニック。
その瞬間、ニックは「どうして鉢植えなんか持ってんだ、マノン!」と大声で叫んだ。
その声に顔を覗かせたケニー料理長に向かって、彼は私が鉢を壊したと訴える。
「マノン! テメーなんてことを!」
殴られそうになった私を、庇ったのは鉢を割った張本人のミナ。
「まぁまぁ。マノンもまだ慣れないから。許してやりなよ」
「俺がどれだけ大事にしてたか、ミナも知ってるだろ!」
それは、王さま付きの侍女からもらった花の種を植えたものだったという。
貴族しか立ち入ることの出来ない庭で、庭師が収穫した種を分けてもらったらしい。
咲いていたのは、とても王宮の庭に植えられているような花には見えなかったけど……。
「……。申し訳ございませんでした」
どれだけ言い訳をしても、誰にも聞いてもらえないことを私は経験から知っている。
自分の感情がどんなものかだなんて、そんなものがあったことすら忘れている。
「ほら。こうやってマノンも謝ってることだしさ」
ミナは私に向かうと、大声で怒鳴った。
「このウスノロ! もう二度と余計なマネをして、大事なモノを壊すんじゃないよ!」
まだ怒っている料理長をニックはなだめにかかり、ミナはすっかり気分をよくして、私に片付けを命じた。
それ以来、ニックとミナはすっかり意気投合してしまっている。
「ほら。今度こそ失敗して、雨に濡らすんじゃないよ!」
昨夜の食事で使われた、汚れたテーブルクロスが山のように積まれていた。
それが入った大きな籠を渡される。
「全部キレイに洗濯して、今日中に消毒も済ませておくんだよ」
「はい。かしこまりました」
私はその籠を持つと、厨房の外に出た。
前が見えなくなるほど積まれた白いテーブルクロスの山を抱え、裏庭に出る。
まずは水くみから。
王城に暮らす貴族たちを支えるため、城にはいくつかの井戸が掘られていた。
渡された洗濯物の量から、必要な水の量を考える。
瓶に6本あれば大丈夫かな。
私が使っていいと許可されている瓶は3つまでだけど、予め水を汲んで運んでいても、倒されたり取られたりするから、1つ分しか運んでこない。
効率悪いとか、間抜けとか頭が回らないとか気が利かないとか、何度も水くみに往復させられるより、罵倒されるだけの方がずっといい。
広い作業台の周囲に様々な道具が並び、オーブンや煮炊きする窯が、いくつも並んでいる。
鍋はどれも大きなものばかりで、以前働いていた宿屋の厨房などとは比べものにならない。
集められている食材も、実に様々な珍しいものばかりだった。
壁際には、いくつもの皿やカトラリーが、これでもかと所蔵されている。
だが、そこに収められているのはどれも質素なものばかりで、王侯貴族が使用する食器は、専用に管理する部署が存在した。
もちろん私は、そこには入れない。
厨房に入るなり、私はすぐに箒を手に取り、床掃除を始める。
食品を扱う部署だ。
衛生管理には特に厳しく、毎晩最後まで残って残った食材をきっちり片付け、食べ残しなどないよう生ゴミは全て処分していても、翌朝には食べ物の匂いを嗅ぎつけた虫が湧いて出る。
それを掃きだしておくのが私の朝一番の仕事だった。
それを終えると、大きな窯に湯を沸かし、調理器具を消毒する。
ぐつぐつと湧いた鍋に、巨大なナイフや肉を刺して焼くためのフォークを放り込む。
もちろんそれらも、昨日のうちに洗って乾かしておいたものだが、それを湯に入れ調理を担当する職人たちが出てくる前に、冷まして元の位置に戻しておかなければならなかった。
肉を削ぐ細長いナイフを沸騰した湯に入れたとたん、跳ねた滴が手に火傷の痕をつくる。
私の手は、そうやって出来た小さな火傷で、赤くまだら模様になっていた。
「おや。マノン。今日も早いじゃないか」
現れたのは、調理師の中で最も若いニックだ。
くるくると巻いた赤い髪の頭を、ボリボリと掻きながら近づいてくる。
「もう消毒作業は終わったのか? お前は本当によく真面目に働くな」
そう言って、私の全身を舐めまわすように眺める。
好意を寄せられているのはなんとなく分かるが、私自身にその気は全くない。
「もうすぐ終わります。そしたら、乾して元の位置に戻しておきますから……」
「手伝うよ」
ぐらぐらに湧いた鍋を火から下ろそうとして、手が触れる。
背後からピタリと体を寄せられ、背筋に悪寒が走った。
「お前には重たくて持てないだろうからさ、俺が持ってやるよ」
耳元にささやく吐息が気持ち悪くて、思わず鍋を持つ手を放してしまった。
そのとたん、熱湯でたっぷり満たされた鍋を落としてしまう。
「熱っ!」
こぼした湯を全部被ったのは、鍋を持っていた私だ。
「おま、何やってんだよ!」
「すみません」
せっかく消毒が済んだナイフやオタマなどの器具を、全部土の上に落としてしまった。
熱湯の染みこんだ服で、肌が焼けるように熱い。
「なんの騒ぎだ!」
厨房の扉が開いた。そこに立っていたのは、同じく調理長であるケニーさんと、ここで働く女性たちを束ねる女頭首であるミナだ。
ミナはこの厨房でもっとも長く勤めている古株で、調理長であるケニーも頭が上がらない。
ミナは出来上がった料理をワゴンに乗せ、給仕を担当する侍女たちに料理を引き渡す仕事をしている。
残った料理は、大抵皿を下げる侍女や兵士たちに食べられてしまうが、それでも残った果物の欠片やスープの残りを平らげてしまうのが、ミナだった。
この厨房で立ち入りを禁止されているエリアまで近づき、上位の召使いたちと接する機会のあるのは、料理長ケニーとベテラン調理師たち、女性ではミナだけだった。
そのことが彼女の一番の誇りでもある。
「またこの新人がやらかしたのかい? 名前はなんて言ったっけ?」
ミナはフンと鼻息を鳴らすと、顎を突き出し私を見下したように笑う。
「マノンです。以後お見知りおきを……」
「あっそ。覚えたくなったら覚えてあげるわ!」
ここへ来てから、ミナに名前を名乗るのはもう3回目だ。
ワザとこうやっているのは分かっているけど、逆らうことは出来ない。
彼女に出て行けと言われた瞬間、私は帰る場所を無くしてしまう。
パン屋の狭い屋根裏部屋に数少ない荷物は残してきたものの、戻ることは出来ない。
今ここで突然の宿無しとなり、何の心づもりもなく追い出されることだけは避けたい。
「ニックの言う通り、マノンは本当にお前がお気に入りなんだなぁ。いっつも何かやらかすとしたら、ニックと一緒の時だ。しかも二人きりの時を狙って。そうなんだろ? ニック」
「やだなぁ。そんなことマノンの前で言わないでくださいよ、料理長。まるでマノンが俺に気があるみたいに聞こえるじゃないですか。俺は迷惑してんのに」
そう言って男たちは笑った。
ニヤニヤした卑しい目つきで私を見下す。
調理師のニックは、誰かの失敗を見つけ出しそれを笑い者にすることを趣味としている。
そうやって調理長のケニーやミナに取り入って自分を高く見せようとすることに、どんな意味があるのだろう。
「ねぇミナさん。マノンはこの間も、洗濯していたテーブルクロスと布巾のことを忘れて、ロッテとおしゃべりに夢中になっててさ、雨で全部台無しにしちゃったの、覚えてます?」
「えぇ、ニック。もちろん覚えてますとも。ここで雇い始めていちばん最初にやらかした失敗ね」
「おや、それは違いますよミナさん。マノンの最初の失敗は、ケニー料理長の大切にしていた鉢植えを割っちゃったこと」
「あぁ、そうだったわね」
そう言って、クスクスと笑った。
こうやって何度も同じ話をぶり返しては笑う二人に、今さらなんの感情も浮かばない。
料理長の大切にしていた鉢植えを割ったのは、ミナだ。
それを偶然目撃したのは、私とニック。
その瞬間、ニックは「どうして鉢植えなんか持ってんだ、マノン!」と大声で叫んだ。
その声に顔を覗かせたケニー料理長に向かって、彼は私が鉢を壊したと訴える。
「マノン! テメーなんてことを!」
殴られそうになった私を、庇ったのは鉢を割った張本人のミナ。
「まぁまぁ。マノンもまだ慣れないから。許してやりなよ」
「俺がどれだけ大事にしてたか、ミナも知ってるだろ!」
それは、王さま付きの侍女からもらった花の種を植えたものだったという。
貴族しか立ち入ることの出来ない庭で、庭師が収穫した種を分けてもらったらしい。
咲いていたのは、とても王宮の庭に植えられているような花には見えなかったけど……。
「……。申し訳ございませんでした」
どれだけ言い訳をしても、誰にも聞いてもらえないことを私は経験から知っている。
自分の感情がどんなものかだなんて、そんなものがあったことすら忘れている。
「ほら。こうやってマノンも謝ってることだしさ」
ミナは私に向かうと、大声で怒鳴った。
「このウスノロ! もう二度と余計なマネをして、大事なモノを壊すんじゃないよ!」
まだ怒っている料理長をニックはなだめにかかり、ミナはすっかり気分をよくして、私に片付けを命じた。
それ以来、ニックとミナはすっかり意気投合してしまっている。
「ほら。今度こそ失敗して、雨に濡らすんじゃないよ!」
昨夜の食事で使われた、汚れたテーブルクロスが山のように積まれていた。
それが入った大きな籠を渡される。
「全部キレイに洗濯して、今日中に消毒も済ませておくんだよ」
「はい。かしこまりました」
私はその籠を持つと、厨房の外に出た。
前が見えなくなるほど積まれた白いテーブルクロスの山を抱え、裏庭に出る。
まずは水くみから。
王城に暮らす貴族たちを支えるため、城にはいくつかの井戸が掘られていた。
渡された洗濯物の量から、必要な水の量を考える。
瓶に6本あれば大丈夫かな。
私が使っていいと許可されている瓶は3つまでだけど、予め水を汲んで運んでいても、倒されたり取られたりするから、1つ分しか運んでこない。
効率悪いとか、間抜けとか頭が回らないとか気が利かないとか、何度も水くみに往復させられるより、罵倒されるだけの方がずっといい。