初恋シンドローム

 じっとその双眸(そうぼう)を見返していたら、ついまた笑みがこぼれてしまった。

 彼が頑として名前を呼んでくれなかったわけが、ようやく分かった。

「……そう呼ぶの、迷惑?」

 少し不安そうに眉を下げた彼に、わたしはゆるりと首を横に振ってみせる。

「ううん。悠真にだけはそう呼んで欲しい」



     ◇



 教室に戻ると、大和くんに心配そうな眼差しを注がれた。
 席について彼と向き合う。

「……色々、忘れちゃってごめんね」

 結局、大和くんにはなにも言わないことにした。
 悠真のついてくれた嘘に合わせて、記憶喪失という(てい)を貫く。

 ふたりでの思い出がまったくと言っていいほどなかった理由にも合点がいった。

 今朝、大和くんの言っていた通り、そもそも当時のわたしは彼と直接的な関わりがほとんどなかったのだ。

 それでも彼の情報を持っていたのは、風花から大和くんに関する話を常々(つねづね)聞いていたためだ。

 唯一覚えていたあの結婚の約束は、風花として実際に受けたのではなく「結衣」であるわたしが見聞きしていたからこそ、克明(こくめい)に残っている記憶だった。

「ううん。俺も自分のことばっかりで、風花の気持ち全然考えられてなかった。前に進めないのをきみのせいにしてたね」

 そう言ったのは等身大の大和くんだった。
 悔いるようではあるけれど、口元にはやわく優しい微笑が浮かんでいる。

「疑ったり強引なことしたりしてごめん。……越智にも、嫌な態度とってたことちゃんと謝らなきゃな」

 そこには意地や対抗心、思い通りにならない現実への八つ当たりなんかが含まれていたのかもしれない。
 ともあれ、そう言ってくれてほっとした。

「ねぇ、大和くん」

 もうひとつ、はっきりさせておかなければいけないことがある。

「告白と結婚の話、だけど……ごめんなさい。わたし、大和くんとは付き合えない」

 彼にはもうそんな気持ちはないかもしれないけれど、()()()()()丁重(ていちょう)に断っておく。

 わたしの返事を受け止めた大和くんは、ややあって小さく笑うと数度頷いた。

「分かった」

 ようやく胸のつかえがとれたような気になった。
 こんなにも晴れやかに前を向けるなんて思わなかった。

「────風花」

 一拍置いて穏やかに彼が呼ぶ。

「確かに俺は、初恋とか運命とかそういうのに惹かれてた。でも、それがすべてじゃなかった」

「え……」

「ふたりで出かけたり一緒に過ごしたりして……楽しかった。そう思ったのも事実なんだよ」

 予想していなかった言葉に、素直に驚いてしまう。
 大和くんは優しい語り口のまま、いっそう笑みを深めた。

「いまからでも遅くない。だから、改めて“初恋”始めようか?」

 彼と過ごした時間、彼がくれた言葉、それらは確かにきらきらと輝いていた。
 少しもときめかなかったと言えば嘘になる。

 だけど、わたしの心は既に決まっていた。
 頬を(ほころ)ばせながら迷いなく告げる。

「わたし、好きな人がいるから」
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