一人称おじの部長は、ひたむきな部下を溺愛する

一人称がおじの部長


 私の上司は、少し変わってる。
 最近部長になった葛城さんは、自分のことを「おじ」と呼ぶ。
 いつ見てもニコニコしていて、誰に対しても均等に機会をくれる優しい人だ。
 だから、上司としては、良い上司だと思う。

 ただ、一人称が「おじ」なことだけが引っかかっている。
 確か、まだ三十代だったはず。
 なのに、自分のことを「おじは」と話し出す。

 顔だって、整っていて、メガネが似合うインテリ系だ。
 なのに、キャーキャー言われないのは、あの一人称のせいもあるはず。

 私は、今回葛城さんに渡されたCMコンペの企画書を開いたまま、余計なことを考え始めていた。
 今回こそは勝ち取りたい、そう思っていたのに。

 顔を上げて時計を見れば、もう十時を指している。
 真剣に考えているうちに、もうこんな時間になってしまった。

 今回のCMコンペの提案企画は、私一人だけが与えられた仕事じゃなかった。
 まず、部署内で企画書コンペをということで、三人に提案してくれと葛城さんは告げた。
 彼氏の当真と、私と、同僚の瑠美。
 三人とも同じくらいの社歴で、同じくらいの評価。

 三人のうち誰が今回勝ち取るか、と切磋琢磨し合う仲間だ。
 彼氏の当真は、早々に切り上げてた。

 聞いてみたい気持ちが、少しだけ、湧き上がる。
 ううん、でも……
 会ってる時に仕事の話をすれば、また不機嫌になる。
 
 当真とは、同じ部署で出会い、新年会や送別会など、会社の行事で親しくなった。
 誰にも、負けることなく強く言い返せる当真は、かっこいい。
 だから、憧れていた。
 正直、告白された時は嬉しくて、飛び跳ねてしまったくらい。

 でも……
 付き合いだしてからの当真は、仕事の話をするのを嫌がる。
 私と付き合ってることも、周りに隠したまま。

「プライベートと、仕事は、分けたい派なんだよ。それに、ルノだって、変な噂とか立つの嫌だろ?」

 というのは、当真の主張だ。
 言いたことはわかるけど、チームメンバーや先輩たちは、私たちの関係が変わったと気づいてる人もいる。
 優しいから、言わないだけで……

 バレたくないという理由で、デートはほぼ家。
 それに、当真自身、ほとんど私の家に居る。
 ごく稀に、自宅には帰ってるみたいだけど。
 半同棲状態に、慣れと嬉しさと困惑が胸の中でざわめく。

「うん、今日はもうだめだ」

 自分自身の思考に蹴りをつけるために、一言呟いて顔を上げる。
 もう、帰ろう。
 期限まではまだ、時間がある。

 帰る準備をしようと、パソコンをシャットダウンする。
 すると、ガチャと扉が開く音が聞こえた。
 
 扉の方に顔を向ければ、葛城さんと目が合う。
 ツーブロックの髪型に、縦ストライプのベスト。
 背広は手に掛けている。
 もう帰るつもりだったのか、ネクタイは緩んでいて、首元がチラリと見えた。

「あれ、吉川さんまだいたの?」
「葛城さん、お疲れ様です」
「お疲れ様です。コンペのやつやってた?」

 こくんと頷けば、にっこりと口角が上がっていく。
 同じフロアにデスクがあるとはいえ、部長と二人きりは少し気まずい。
 部長なのに、さん付けで呼ばせていたり、平社員にも声を掛ける気さくさに少し救われているけど。

「吉川さんもう帰るとこ? ちょっと待ってて!」
「え、はい」
「おじが、飲み物奢ってあげる!」
「そんな」

 いいです、と遠慮し掛けた私の言葉は、宙に飲み込まれる。
 長い足でスタスタと、部屋から飛び出して行った葛城さんの背中を見送った。
 カバンを胸の前で抱えて、はぁっと小さく息をこぼす。

 葛城さんと気まずい理由は、部長だから、だけじゃない。
 私は「葛城晴樹」という名前を、入社前から知っていた。
 私が、一目惚れした広告を作った人。
 葛城晴樹に憧れて、この会社を志望していたんだから。

 葛城さんが作っていた広告は、今でも私のスマホの待ち受けになっている。
 大学受験を控えていた時に、たまたま目にしたスポーツ飲料の広告だった。
 私自身の背中を押してくれてる、そう思った。

 だから、この会社に入社したんだけど……
 憧れの人との対面、さらに、部長という遠い上司。
 私の緊張は、心臓にも伝わってる。
 体全身が、心臓になったみたいに速く脈打つ。
 
「ただいまー!」

 私の気持ちは、一ミリも気づかないまま、葛城さんは缶コーヒーと私がよく飲んでるいちごミルクを掲げる。
 そして、私の机の上に、いちごミルクを置いた。

「考えすぎても、いいものは出来ないからね。甘いものでも飲んで、今日はゆっくり休みなさい」
「ありがとうございます」

 私がいつも、いちごミルクを飲んでることに気づいてた?
 それとも、女の子だから、と選んだ?

 わからなくて、声が掠れてしまった。

「おじは、結果は出して欲しいと思ってるけど。無理をしたら元も子もないから」
「はい」

 ちょいちょい出てくる、おじに、私の気持ちは乱されてしまう。

「じゃ、送るよ」
「え、あの、大丈夫です」
「夜道は危ないから。おじは車を回してくるから、玄関で待っててね」

 葛城さんは、靴をカツカツと鳴らしながら出ていく。
 いちごミルクを両手で握りしめて、私はため息を吐いた。
 どうしよう。
 車で送ってもらって、当真と遭遇しちゃったら。
 万が一にも勘違いされることはないだろうけど、当真と付き合ってることがバレてしまう。

 うまい誤魔化しは思いつかない。
 それでも、待たせるわけにはいかず、カバンを肩にかけて玄関へと向かった。

 会社の前の道路には、黒いSUV車が止まっている。
 中の人を確認すれば、葛城さん。
 私に気づいて、優しく手招きをする。

「あ、吉川さん、こっちこっち」

 助手席の扉を開ければ、柔らかい花の匂いがした。

「お願いします」
「安全運転で行くからね。あ、近いコンビニとか教えてもらえたらそこで降ろすから」
「ありがとうございます」

 家の近くは、と躊躇っていたことに気づかれていたのだろうか。
 そういう細かい気遣いも、できる人だった。
 体調の悪い部下にいち早く気づくのは、デスクが遠いはずの葛城さん。

「吉川さんは」
「はい」
「いや、やっぱ聞いたらハラスメントとかになっちゃうかな」

 言いかけて辞めた葛城さんの横顔を見つめる。

「そんなに見つめないで。おじだけど照れちゃうでしょ」
「葛城さんは、どうして自分のことおじって呼ぶんですか?」
「んー、おじさんになったから、かな?」

 ははっと軽く笑って、はぐらかされる。
 気になって仕方ないけど、これ以上聞くのはそれこそハラスメントになりかねない。
 だから小さくだけ、答えた。

「おじさんとは、思わないですけどね」
「吉川さんからそう言われると、少し嬉しいな」

 最初は憧れの人の車に、ドキドキしていたのに。
 優しい葛城さんのおかげで、話が盛り上がっていく。

 あっという間に、いつも行くコンビニの前に到着してしまった。
 名残惜しく思いながらも、車を降りれば、葛城さんは心配そうに私を見つめる。

「近いとは言え、危ないから気をつけてね。あ、これ電話番号一応教えておくから」

 渡された紙を、握りしめる。
 葛城さんは、慌てた顔をして両手をブンブン振った。

「おじの個人携帯じゃないよ! 部下とか他部署とやりとりする会社携帯だから、安心して」
「ハラスメントとか、言わないですよ」

 焦る姿がいつもの雰囲気と違って、つい笑ってしまう。

「そっか、おじは買い物をして帰るから気をつけて」
「今日は、ありがとうございました」

 しっからとお辞儀をしてお礼を伝えれば、葛城さんは、ふぅっと安心したようにため息を吐いた。
 そして、コンビニに入っていく。

 私も早く、家に帰ろう。
 お腹も、ちょっと空いてきちゃったし。

 家まで近いし、慣れてるけど、夜道は暗くて少し怖い。
 走ってマンションの前まで、向かう。
 
 マンションの前で、家の電気を確認すれば、ぽわぁっと光ってる。
 当真、やっぱり来てるんだ。
 私、残業するかもよと伝えていたのに。
 それでも、私を心配で来てくれてるのが嬉しい。

 いつも、「一人だと心細いだろ」とか、「残業してるからこそ、俺が癒すよ」とか、優しいことを言ってくれる。
 当真に帰ると送ったメッセージを確認しながら、エレベーターに乗った。
 既読のマークはない。
 疲れて眠ってしまってるのかも。

 起こさないように静かに扉を開ければ、聞きたくもない声が聞こえてきた。
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