一人称おじの部長は、ひたむきな部下を溺愛する

「隣の喫茶店。待ってる。他の人たちに変に思われたくないから、別々に。じゃ!」
「あ、おい!」

 呼び止める当真の言葉を無視して、そのまま急いで階段を下る。
 当真はエレベーターにでも、乗ってくればいい。

 そう思っていたのに、後ろから駆け降りる音が続く。
 私が振り返っても見えないくらいのところを、降りてきてるらしい。
 はぁっとわざとらしくため息をこぼして、階段を下り切った。

 会社から出れば、小雨がちらついている。
 傘持ってくれば、よかったな。
 いつもだったら、カバンに持ち歩き用の傘を入れて
るのに。
 今日に限って、置いてきてしまった。

 少しでも濡れないように、駆け足で隣の喫茶店に入る。
 いつもは、胸が弾んだカランコロンという鈴の音が、やけに耳に響いた。
 息を整えながら、空いてる奥側、外から目に付きにくい席に向かえば、葛城さんと目があう。
 まさか、居ると、思わなかった。

 整えていたはずの呼吸が、乱れて、胸が上下する。
 しぃっと、あの時と同じポーズをして、いたずらっぽく、微笑む。
 私のため?
 そう思ってしまって、頭が痺れた。

「雨降ってんじゃん、あ、ルノ。とりあえず座ろうぜ」

 後から入ってきた当真は、全く葛城さんにも気づかず、私の横に擦り寄ってくる。
 さらりと交わしながら、葛城さんの一個手前の席に座った。

「ちょっと、メッセージ送らなきゃいけないから待って」
「おう」

 メニュー表を広げながら、適当に相槌を打つ。
 当真は、何がしたいんだろうか……?
 葛城さんにメッセージを送って、スマホを裏返してテーブルの上に置く。

「それで、話って何?」

 切り出せば、当真はメニュー表を眺めたまま。
 私の方も見ずに、口にする。
 
「やり直さないか?」
「当真には瑠美がいるでしょ」
 
 呆れたように口にすれば、当真はメニュー表を音を立てながら閉める。
 そのタイミングで店員さんが、心配そうに注文をとりに来た。

「カフェオレを」
「メロンソーダで!」

 愛想のいい微笑みで、いつもの人当たりの良い当真に、ほっと一息付く。
 じろっと私の方を見ながら、当真はお水を口にした。

「瑠美と揉めたんだろ?」
「だろっていうか、その場に居たでしょうに」
「いやぁ、俺はトイレに行ってたんだよね。ルノがまだ俺のことを思ってくれてるとは思わなくてさ。嬉しかったよ」

 ニヤニヤとした口元に、寒気が走る。
 数日前まで、付き合ってた人なのに。
 こういう冷たいところが、きっと当真は嫌だったんだろう。

 それなのに、急に手のひらをひっくり返すだなんて。
 想像もしてみなかった。

「瑠美がいるんだから、私とはもう終わったでしょう」
「瑠美にバレなきゃいいんだよ。俺だって、瑠美とは遊びのつもりだったの」
「最低ね」

 ふぅっと吐き出しながら、呟けば、カフェオレが届いた。
 一口、飲み込めば、暖かさに気が緩む。
 カップを掴む私の手を、テーブル越しに当真は掴んだ。

「ルノだって、俺が好きなんだろ」
「もう、好きじゃない」
「じゃあなんで、瑠美と言い合ってたんだよ!」

 ドンっと机を叩きつける仕草に、体が固まる。
 それでも、掴まれた手を振り解いて、背もたれに背中を預けて、強がった。

「瑠美と揉めたのは、私が瑠美に話しかけられたのを気づかなかったから。あなたのことじゃない」
「嘘だね、瑠美が言ってたんだ。ルノが当真を返してってしつこく迫ってきてって!」
「それが嘘。私はもう、次の恋見つけたんだから」
「俺の気を引きたくて嘘を言ってるんだろ!」

 声を張り上げる当真を見ていたら、どうしてか、可哀想になってきた。
 可哀想……。
 
 付き合ってる時、何度も当真に言われた言葉だった。
 思ってることを飲み込んで我慢して、可哀想。
 俺がいないと何もできなくて、可哀想。
 ルノには、俺しかいないもんな。
 呪いのような言葉が、体中を這っていく。

 当真は愛してるよと、嘯いては、可哀想な私を、慰めた。
 私、本当に、当真に可哀想って言われるぐらい、可哀想だった?
 今の状況なら、そうかもしれない。
 瑠美に貶められそうになって、味方になってくれる人もいなくて……
 一人で、浮気した元彼に「まだ好きなんだろ」って、迫られてる。

「当真とやり直すことはない」
「強がらなくていいんだって、ルノのことわかってるのは、俺だけだから!」

 隣の席に移動してきてまで、詰め寄られる。
 ないと強く否定しても、どうして伝わらないの。
 逃げ出したいのに、逃げ場を塞がれてしまってる。

 困惑していた私を助け出してくれたのは、葛城さんだった。
 私たちのテーブルに近づいて、今気付いたとばかりに声をかける。

「吉川さんと冨安さん」
「葛城部長」
「さん付けで呼んでくれって言ってるじゃないか。声が聞こえてね、どうしたんだい?」
「なんでもないです」

 当真は私の手をパッと放して、イスに座り直す。
 葛城さんの前で、居心地が悪いのか、キョロキョロと周りを見渡しながら。

「なんでもないなら、吉川さんをお借りしても?」
「葛城さんが、なぜ?」
「吉川さんと、話したいことがあってね」
「今俺と話してるので、後日ではダメですか?」

 きっぱりと、目上の人でも言えるところに惹かれた。
 でも、今は、嫌悪感しか沸かなかった。

「あまり、会社の近くでそういうことはするもんじゃないよ」
「騒いですみませんでした」
「そういうことではないけど……まぁ、うん」

 葛城さんも困惑した目で、当真を見てる。
 こんな感じだとは思っていなかったんだろう。
 私のせいで、仕事は滞らせるし、当真の変なところを見せてしまうし。
 最悪だ。
 頭を抱えていれば、葛城さんがパチンとウィンクをする。

 ポカンっとしていれば、当真を畳み掛けるように説得をし始めた。

「どうしても急ぎの用があってね。貸してもらうよ」
「いや、ですが」
「吉川さんも、いいかい? 行こうか」

 スマートに手を差し出されて、スッと握り返してしまう。
 私たちのやりとりを見た当真が、小さく舌打ちをした。

「瑠美の言ってることは、本当だったんだな」

 聞こえた小声に振り向けば、ゾッとするような目でこちらを睨む当真と目があった。
 私が当真を好きだと勘違いしていたり、睨んできたり、忙しく移り変わる感情についていけない。

「当真とはよりを戻せない。ごめんね」

 当真に告げれば、ますます睨む目が険しくなる。
 浮気を見つかって、バレなきゃ大丈夫という理屈で、よりを戻そうと言われて……
 戻るって、本気で思ってたの?

 逃げるように、当真に背中を向ける。
 そして、葛城さんと店を出た。
 お店の駐車場にある葛城さんの車に、目が止まる。

「とりあえず、乗ってくれないか」
「はい……」

 助手席に乗り込めば、葛城さんの車は相変わらず、花のいい香りがした。
 嗅いだ瞬間、すうっと気持ちが落ち着いていく。

「大変だったね」
「わざわざ、来てくださったんですか?」
「吉川さんが、心配だったから」

 問い掛ければ、恥ずかしそうに目線を逸らしてハンドルに頭をもたげる。
 やっぱり、可愛らしい。
 のほほんとした柔らかい雰囲気は、きっとわざと作ってる。
 それが、私の前では本当に柔らかくなるから、胸が締め付けられる。

「吉川さんが困ってるのを見てられなかったんだ、迷惑か?」
「嬉しかったです」
「本当?」

 顔をパッと上げたところを見てると、犬みたいで、頭を撫でたくなった。
 そっと髪の毛に触れれば、しっかりと固められていて、崩れない。
 私の行動に、葛城さんは口をパクパクとさせて、戸惑う。

「それは、えっと」
「あ、ごめんなさい、つい」
「ううん、いや、いいんだ。それより、今日は、また俺の家に泊まってほしい」
「え?」
「冨安さん、このまま諦めると思わない。明日はお休みだし、うちでゆっくりするといい」

 葛城さんの言葉に、こくんと頷く。
 今から帰っても、私も当真は突撃してくる気がする。
 シートベルトをかちんと閉めれば、葛城さんはまっすぐ前を見て車を発進させた。

 小雨だったのが、大粒の雨に変わっていく。
 ぼつぼつと、音を立てて、雨がフロントガラスにぶつかっては流れ落ちる。

「葛城さん」
「ん?」
「私のこと、好きですか」

 直球の言葉に、葛城さんは答えない。
 どんどん不安になっていって、落ちる雨粒を数える。
 急かすなスピードで車は、葛城さんのお家についた。

 降りようとシートベルトを外せば、葛城さんはこちらを見つめて、私の手を掴む。

「好きだ。ずっとずっと見てた。全力で何かあったら守るし、吉川さんのことをいつまでも待てる。それくらい、好きだ」

 葛城さんの真剣な言葉に、喉の奥が詰まる。
 こんなに、私のことを思ってくれてたとは。

「どうして、ですか」

 どうして、私なんかを好きになってくれたんですか。
 可哀想で、人の意見に流されるばかりだった私を。
 今だって、当真に流されて、喫茶店にまで行っちゃうバカ。

 それなのに、葛城さんはまっすぐ見つめて好きだと言葉にしてくれる。

「吉川さんの真剣さを見てきたから。そして、それの原動力が俺だって知って、ますます愛しくなった」

 私の努力は、無駄じゃなかった。
 ずっと、誰にも届かずに、私はここまで来たと思っていた。
 でも、葛城さんには伝わってた。

 涙がぽつり、と頬を伝って落ちていく。
 私は、ダメなところばかりじゃないと言ってもらえたのが、嬉しい。
 包み込まれるように、心が温かい。

「吉川さんはまっすぐ、クライアントとも向き合うし、どんな時も折れなかっただろ」
「誰かに否定されても、間違ってると思っても、言い返せはしなかったです」

 だから、当真に憧れた。
 間違ってることを、間違ってると声を上げられる当真に。

「真正面からぶつかるだけが、正解じゃない。吉川さんだって、間違ってると思えば、その根拠となる資料を集めたり、先輩に質問したりを繰り返してただろう」

 私の小さい、小さい努力を目に映してくれていた。
 その事実が、今何よりも嬉しい。
 当真との今日のやりとりが、瑣末なことのように感じられる。

「そんな吉川さんだから、気になっていた。俺じゃ、ダメだろうか?」

 少し震える声に、驚いて葛城さんを見つめれば、指も震えている。
 こんな人でも、思いを伝えるのに、緊張して震えるんだ。
 そう思うと、胸がいっぱいになって、頷くしかできなかった。

「私でよければ」

 恋愛として好きかは、まだ答えられない。
 でも、憧れの好きな人だ。
 こくんっと大きく頷けば、葛城さんの大きな手が私の頭を支えて、優しいキスをされた。

「大切にする」

 離れたすぐ後に耳元で聞こえた、甘い言葉に、意識を保つだけで精一杯だった。
 そして、もう一度優しいキスに包まれる。
 ふわふわとした気持ちのまま、車を降りれば、あれほど激しく降り続いていた雨は止んでいた。

 玄関に入れば、ハウスキーパーさんにタオルを渡される。
 ありがたく濡れた髪の毛を拭いていれば、葛城さんが鍵を私の前に差し出した。

「合鍵だ」
「えっと」
「ここに住むでも、逃げ場所として使うでもいい」

 葛城さんの言葉に頷いて、手に取る。
 銀色の金属は、しっくりとおさまった。

「それと、提案なんだが」
「はい?」
「ここに住まないか? いや、その、家に帰るのが心配というか、その、嫌なら嫌でいい」

 ふいっと、顔を逸らす葛城さんに、くすりと笑いが溢れた。
 心底私を心配して、言ってくれてるのがわかってしまう。
 耳まで真っ赤なところとか、優しい声色なところとか。

「同棲は、早いかもしれないが。また、冨安さんが来るかもしれない。姫田さんも、だ」
「そうですね……そうします」
「二階の部屋も、あるから、案内する」

 ぎこちない言葉遣いの葛城さんに連れられて、初めて二階へと上がる。
 階段を上がってすぐが、葛城さんの部屋。
 右隣が趣味の部屋。
 左隣は今は使ってない客間。
 あと、二部屋ほど奥の方にもあるらしい。

「じゃあ、葛城さんの隣のお部屋で」
「ベッドも、クローゼットも、最低限の家具はあるから、引越しまでそれを使ってくれ」
「はい」

 頬を緩ませて頷けば、抱きしめられる。
 どくんどくんと、速く脈打つ心臓の音に、私の心臓までリンクするように速くなっていく。

「絶対に、何があっても、味方でいる」
「はい!」

 私が一番、欲しかった味方。
 あまりの嬉しさに、また、瞳から涙がこぼれ落ちそうになっていた。

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