花火の音が鳴りやむまで 私はきれいなウソをつく
第一章 ウソツキ
「…あのなぁ。俺だって意地悪で言ってるわけじゃないんだよ。わかるだろう。おまえなら」
「はい」
私はにっこり笑ってそう答えた。
「……話にならない。次の間に、また進路表出してなかったらこうやってまた呼び出すからな」
「…わかりました」
私は失礼しました、と伝え、教務員室を出た。
はあ、と思わずため息が出てしまう。
私の名前は水瀬舞桜。
舞う桜と書いて、舞桜だ。
「あっ、水瀬さん!ここ教えてくれない?」
教室に一歩足を踏み入れると、水瀬さん、水瀬さん、とクラスメイトに囲まれた。
けれど、思いとは裏腹に、「うん、いいよ」と言葉が漏れる。
今日も私はウソをつく。
それが私の演じ方。
それが私のやりかただから。
クラスメイトはほとんど、私のことを信用しきっている。
けれど、たったひとり、私のことを嫌いだと言うひとがいる。
「うっせぇな」
こちらをにらんで、低くつぶやいた彼…夕凪雲くん。
「もう!ほんとう、雲は舞桜のこと好きだよね」
「はあ?ちげぇし」
そう、コイツが、私の一番大嫌いなひと。
「俺は水瀬のこと嫌いだって言ってんだろ。優等生気取りしてる奴なんて大嫌いだ」
夕凪は…もう名前も思い出したくもないけれど。
こうやってひとのことをバカにして、嫌いな人は嫌い、嫌なことは嫌、というのだ。
正直者というか、バカ正直というか。
そんなひとである。
けれど、絶対顔にも、声にも出さない。
私は、“優等生”だから。
彼とは違って。
「ふふ、今日も夕凪は辛辣だ~。正常そうで何よりです」
そう言って微笑むと、彼はうげえ、と顔をしかめ、大きな声で叫んだ。
「はいはい、また始まった。優等生気取りかってんだよ」
その言葉に、私の顔も、多分一瞬ひきつってしまったと思う。
“優等生気取り”。
そんな言葉は、さすがにひどい言葉だと思う。
けれど、絶対言わない。
彼を傷つければ、彼のファンクラブに殺されてしまう。
夕凪は、真っ黒な黒髪に、大きな瞳、薄い桃色の唇、すらりと伸びた高身長。
まるでアイドルのような容姿に、女子生徒が黙っているはずもない。
そして、一年もたってしまえば、もうファンクラブまでできてしまった。
ギラリと光る瞳が、私のことを凝視している。
その視線がつらくて、私は思わず彼から目をそらした。
その次の瞬間、「席つけ―」と言いながら教室に入ってきた先生と遭遇した。
そのおかげで、彼の視線から逃れることができた。
放課後、私は塾へ向かうために急ぎ足で教室を出た。
早く帰らなきゃ、早く、という言葉が、頭の中でずっと回転していて、止まらなかった。
なのに。
「…っ」
廊下を急ぎ足で進んでいると、スマホゲームで遊んでいたのか、イヤホンを耳につけ、スマホを片手に歩いていた、夕凪にぶつかった。
「あ?」
彼は私がぶつかったのに気づいて、イヤホンを外し、低身長の私を見下ろす。
「…ごめん。今急いでて、通してくれない?」
私がそう言ってパンッと柏手を打つと、彼は「チッ」と舌打ちして、再度イヤホンを耳につけ、去っていった。
今回ばかりは彼につかまることがなくてよかった、と少しほっとしながら、私は靴箱へと足を運んだ。
「え…うそでしょ」
靴箱について、靴に履き替え、外に目を向けたとき、はじめて、ザアーと音を鳴らしながら、雨が降っていることに気づいてしまった。
今日は天気予報でも晴れだと予想していたため、傘なんて持ってきていない。
「最悪…」
誰もいない靴箱でそう呟いたあと、教務員室で傘を貸出しているか確かめに、再度元来た道を戻る。
廊下を歩きながらも、塾のことが頭でぐるぐる回る。
早くしなきゃ、という焦りが私の額を濡らす。
体温が上がってくるのが分かる。
ドクドクと心臓が嫌な音を立てている。
それくらい、私は焦っていた。
窓に目を向けると、やっぱり雨は止まない。止む気がしない。
「…どうしよう」
気持ちが悪くなって、思わずそこにうずくまる。
うっ、と思わず口に手を当てて、悟られないように立ち上がる。
壁に体重を預けながら、廊下を進んでいく。
幸い、通り過ぎていく人たちは私には気づいていないようで、ほっとした。
もうすぐ教務員室につく、と思ったとき、にゅと効果音でも出そうな勢いで、夕凪が私の視界の全面を体で隠す。
「え…夕凪?」
思わず声を漏らすと、「黙れ」と低い声が上から降ってくる。
次の瞬間、ぎゅっと腕をつかまれ、薄暗い教室に引っ張られた。
びちゃびちゃと雨の音が聞こえる薄暗い教室は、どんよりとした雲で、さらに暗くなっていた。
鍵が置かれていないことから、ここは空き教室なんだということが分かった。
「…どうしたの、急に」
まるで告白する直前のようなシチュエーションなはずなのに、相手が夕凪ということと、頭の痛みと気持ち悪さが押し寄せ、集中できない。
思わず再度口を覆うと、彼は顔をしかめ、「はあ」とため息をついた。
「ほんと、おまえって頑固だよなあ」
「…な、んのはなし。帰りたいんだけど…」
私がそう言って教室のドアの方をちらりと見ると、夕凪は「チッ」と舌打ちをしたあと、「ほんとう、おまえ不器用だよな」と低い声でつぶやく。
「気分悪いんだろ。おまえがいくべきとこは教務員室じゃなくて保健室じゃねえのか」
どうして。と声に出そうになって、思わず止めた。
なぜ、彼にはわかったんだろう。
笑顔も作った。
隠し通したつもりだった。
口元を抑えて、ちょっと会話したくらいなのに。
どうして彼には、私のウソが見抜けるんだろう。
「…早く帰りたいの。今日塾で模試があってね。早くいかなきゃいけないの。だから…通してくれない?」
もう一度お願いしてみると、「無理」と即答されてしまった。
どうやら、当分私を返す気はないようだ。
「はあ。ほんと、おまえは俺の気遣いがわかんねぇんだな」
「気遣い?」
思わず低い声で呟いてしまった。
どこが気遣いなんだ、と思ってしまったから。
「そうだ。俺がなんでわざわざ空き教室なんかに来たと思う?おまえが人に見られたくないんだろうなと思ったからだよ。なんでこうやっておまえに付き合うと思う?俺がおまえのこと嫌いだからだよ。だから俺がいうしかねぇだろうが」
「…」
あまりにもはっきりした口調に、私の方が驚いてしまった。
「…嫌いなら、どうして私と関わるの。嫌いなんでしょう?わたしのこと。なら放っておけばいいと思うけど」
私が理屈をいうと、彼はあきれたようにつぶやいた。
「おまえ、バカなの。嫌いだから、俺が言うしかないんじゃねえか。おまえは俺にしか本性みせねぇだろ。おまえは俺のこと嫌いだろ」
「え」と思わず声がこぼれた。
知られていた。
嫌いだということが。
苦手意識をしているということが。
「おまえ、ほかのやつに大丈夫とか言われても、笑顔で大丈夫とかしかいわねえじゃねえか。なら、嫌われてる俺が、おまえを救いに行く。それだけだよ」
「…それだけ?ほんとうに、それだけなの?」
思わず食いついてしまった私は、ハッとして一歩下がる。
彼は目をまんまるにさせ、次の瞬間、ぷっと噴出した。
「ふっ。ははは」
笑う彼に、私は再度気分が悪くなったけれど、どうしても彼が離れてくれないから、もう諦めた。
スマホを取り出して、「ごめん、今日塾いけない。カサ忘れて遅れちゃう」とお母さんに連絡した。
「連絡し終わったなら、もう安心だろ。保健室行くぞ」
そう言って再度私の腕をつかんだ彼に、「ちょ、ちょっと待って!」とさけぶ。
「あ?なんだよ。触らないで、とか言われてもしょうがねえよ。女子だから嫌だとか、そういうのは受け付けてねえぞ」
彼は淡々とした口調でいい、教室を出ようとした。
けれど、私は再度、「待ってってば」と叫び、彼の前に立ちふさがる。
「…私、帰る。もう結局塾には遅れちゃうけど…帰らなきゃ」
私がそういうと、彼は面倒くさそうに「はあ?俺が返すわけねえだろ」と適当に答えた。
「……」
「なんだよ。めんどくせぇなあ」
確かに、面倒くさいと思う。
それくらい、私は面倒くさい女だ。
けれど、違う。
帰りたいのも、違う理由だ。
もう結局塾はお見送りとなってしまった今、もう保健室に行くしか選択肢はないだろう。
けれど、ダメ。どうしても、無理なんだ。
「…無理、だよ。クラスメイト達に見られるの、恥ずかしい…。弱い自分を見せたくない」
私がそういうと、彼は口角をニヤッと上げて、高々と宣言した。
「そうかよ。なら早く言えよな」
彼は制服の上から来ていたパーカーを、いきなり脱ぎだした。
パーカーの下から、真っ赤なネクタイが顔を出す。
白色の半袖制服に黒いズボンは、生き生きとしているようだった。
彼は「ん」と私の前にパーカーを突き出した。
「え…?」
私が困惑していると、彼は「着ろって」と声を荒げる。
私は言われた通り、突き出された紺色のパーカーを着た。
ダランと袖が落ちて、私の膝のちょっとうえまで堕ちてきたパーカーのポケット。
「じゃあフードもかぶれよ。それならバレねえだろ」
「…でも、これじゃあ夕凪と一緒に居るからバレちゃうよ」
「妹だって言っておけばいいだろ。まあ、いいじゃん。でよう」
彼はそう言って、再度私の長い袖をぎゅうと握り、教室を出た。
廊下を歩いているうちに、数々の視線が私に突き刺さる。
ひそひそと、「あの子は誰だろう」「夕凪に彼女できたのか!?」という声が聞こえてくる。
「……夕凪」
私が思わず不安になって彼に問いかけると、彼は私を見下ろして、ゆっくりと頭を撫でた。
「大丈夫。俺がいる」
ゆっくりとつぶやいた彼の言葉は、痛いほど私に染みた。
―「大丈夫」という言葉が欲しかった。
急にそんな思いが生まれ、全部真っ暗に変わったような気がした。
―舞桜ならできるよ
―舞桜が居れば安心だよね
そんな期待を裏切ったときの目線が怖くて、私はなるべく目立たないように生きてきたつもりだった。
けれど、中学三年の時、うっかり私は、テストで満点を取って、クラスで表彰されてしまった。
みんなの注目を浴びた私は、あのとき、こういってしまったんだ。
『簡単な問題だった』と。
自慢したわけじゃない。
けれど、その言葉は瞬く間に学校中に広まって、気づけば私の学校での立ち位置は、「天才」「優等生」というありきたりな言葉が並べられていた。
だから、求めていた。
「大丈夫」「頑張ったよ」「もう休んでいいよ」「完璧じゃなくていい」「舞桜は舞桜だから。他の誰でもない。舞桜は舞桜自身だから」
「舞桜のせいじゃないよ」
―そんな言葉を求めていた。
けれど、誰も言ってくれなかった。
だから私は、自分で自分に言い聞かせたんだ。
綺麗ごとを並べて。
みんなつらいと思う。
けれど、“みんなつらいんだから”とひとまとめにされることが、みんなと一緒にされることが、何より嫌だ。
私はきっと、誰かを求めていた。
私の前にたって、守ってくれるような、おうじさまを求めていた。
勝手な想像を押し付けたひとたちを、私は「好きな人」って呼んでいた。
――辛いって言えないことが、なによりつらかった。
「…せ。なせ」
遠くから、暗闇から、夕凪の声が聞こえる。
多分水瀬、と呼んでいると思う。
けど、返事ができない。
言葉が詰まって、動かない。
その、次の瞬間。
「舞桜!!」
ハッと、現実世界に戻ってきたような気がした。
「…え」
「保健室のせんせー、外出中らしい」
「あ、そう、なんだ」
「まだお前、帰れねぇな」
夕凪はすました顔でそう言った。
夕凪はもう帰るの、なんて言えない。
「……そう。じゃあ夕凪は帰っていいよ。ひとりで待ってるから」
「はあ?帰るわけねぇだろ」
「…えっ?」
正直、「ああ、そうするわ」とか、そういうあっさりとした言葉をもらうと思っていた。
「俺が帰ったらおまえを見張るやつが居ねぇだろう」
「見張るって…」
「おまえいつ帰るかわからねぇからな」
「…そっか」
思いとは裏腹にそっけない言葉を発してしまう。
いつもそうだ。私は、頭で考えていることと裏腹な言葉をずっと言ってしまっている。
「…おまえさ。いつからそうなったんだよ」
「え?」
急に夕凪は低い声でそう言った。
「いつから、そんなんになったんだよ」
どうして…彼は、私の気持ちをいつも見抜くんだろう。
「…中学生のころ、かな」
他愛もない会話のように聞こえる私たちの会話は、思うより重たく、決して軽々とする言葉なんかじゃない。
「…へえ」
「夕凪はいつも私のことののしるよね。そんなに私のこと嫌い?」
「…俺はつらいって思うやつが必死に笑顔作る理由、知ってんだよ。だからかも知れねぇな。辛い、苦しいって思うやつほど、それを隠そうとするんだよ」
彼は淡々とした口調だった。
いつもそう。彼の言葉には、迷いもない言葉ばかり。
「…」
「おまえは全部当てはまってるだろ」
「…そうかな」
「そうだよ」
そのとき、ガラガラと保健室の扉が開き、白衣を着た先生が現れた。
「あら。夕凪くんじゃない!」
「ああ。こんちは」
夕凪が低い声でそう言ったあと、先生の視線は私の方に来た。
「あら。夕凪くんの彼女さん?」
「あ?そんなわけねぇだろ」
「もう高校生なのよ~?恋なんていくつもするものよ」
彼女たちは楽しそうに会話をしている。
そんな中、私は二人の間でぽつんと立ち尽くすだけだった。
「ああ、ごめんなさいね。どこか悪いの?」
「こいつ気持ちわるいんだってさ」
「あら。大丈夫?どこか痛いところは??もう、教務員室にいたんだから呼んでくれればよかったのに。気持ち悪いんでしょう。熱は…ないみたいねえ」
私の額を触りながら、先生はそう言った。
「あ…えっと」
「ごめんなさいねぇ。早く来ればよかったわよね」
「い、いえっ…大丈夫です」
私がそう答えると、夕凪にギロりと睨まれた。
「…えっと、どうすればいいですか?」
「とりあえず、ベットで寝ましょうか。気持ちが悪いなら、休むのが一番よ」
「ありがとうございます」
私はカーテンを開け、ベットに寝そべった。
「休んどけよ、そこで」
カーテン越しに夕凪が言う。
「…うん。ありがとう、夕凪」
私がそういうと、夕凪はびっくりしたように後ずさったあと、
「雲って呼べよ」
ボソッとつぶやいた。
「えっ?」
「くも。他のやつらにそう呼ばれてるから」
カーテンの光が反射して、彼の影が見える。
「わかった。じゃあ、私のことも舞桜って呼んでね」
「はあ?なんで」
「仕返し」
私はにぃ、と笑って、「おやすみ」と毛布に顔をうずめた。
次の日、私の体調は回復していて、いつものように学校に通うことができた。
「あっ。おっはよ!舞桜」
「おはよ、静歌」
親友の静歌に声をかけられ、私も笑顔で返す。
「…あ」
そして、後ろにいる夕凪…雲の姿も見えた。
「雲…」
「おはよ、舞桜」
彼は眠そうに顔をしかめながら挨拶してくる。
「おっ、おはよう」
思わず返事をすると、彼はおう。と答えて自分の席に移動する。
「え、え。どういうこと!?」
静歌が驚いたように顔を上げた。
「…あー。なんやかんやあって、ちょっとだけ仲良く、なったかも」
私がそうつぶやくと、「へえ…そうなんだ」と答えた静歌は、ゆっくりと自分の席へと戻っていく。
ひとり取り残された私は、そのあとも何人かに声をかけられたけれど、普通の顔で通り過ぎることができた。
「…」
「だからさあ。おまえだけ進路表出てないんだよ。やりたいことないのか?」
「…」
放課後、再度進路について教務員室に呼ばれた私は、先生に詰め寄られていた。
「例えば、好きなものとか」
「私は、あまり…」
「じゃあ趣味とか」
「…ない、です」
私がそういうと、はあ、と盛大なため息をついた先生。
「おまえさあ。ほんとう無能だな」
「すみません」
笑顔は作ってる。
けれど、本心は無能、と言われて傷ついていた。
「おまえは勉強も運動もほかのやつより上手くできてるからさ、わかるだろう?先生、おまえのこと嫌いってわけでも、イジメたいってわけでもないんだよ」
「…わかってます」
「なら、いいだろう。来週まだ提出してなかったら、もう一回呼び出すからな」
「わかりました」
私がそう言って、失礼します。と言って教務員室を出ると、目の前には雲の姿があった。
「わっ…」
「おまえ、まだ進路表出てねえの?」
「…うん。何したいとか、よくわかんなくて」
私がそう言って笑うと、彼は顔をしかめた。
「へえ」
「…雲はどうしてここにいるの?」
私がそういうと、雲は思い出したように、ポン、と手をたたいた。
「そうだそうだ。おまえ探してたんだよ」
「…え?私?」
人違いじゃないかな、と一瞬疑うほど、彼の言葉はまっすぐで、ウソがない。
「おう。今日の五時、桜木公園で待ち合わせしよう」
彼には似合わない、“待ち合わせ”という単語に、私は思わず目を丸くさせた。
「どういうこと…?」
「まあ、行けばわかるよ」
そう言って教えてくれなかった雲は、じゃあな、とこぼして廊下を歩いていく。
五時、桜木公園。
なんだか妙に嬉しくて、私は思わず笑みを作っていた。
薄暗い空は、決していい天気とは言えない。
けれど、私の気分は上がっていた。
ふわり、とスカートが揺れ、弾むように動く足。
風に揺られて、私の薄茶色の髪がなびく。
「雲、お待たせ」
桜木公園に足を踏み入れると、少し開けたところの一番端っこのベンチで、雲はなにか作業をしていた。
「おう。もう五分近く待ってんだけどな」
そう言って笑った雲に、「そんなに遅れてないし」と唇を尖らせる。
「それで、どうしたの。何か緊急?」
「いいや。おまえが喜びそうなもん持ってきた」
彼はニヤリと笑ってそう言った。
「え?雲が?」
思わずそういうと、彼は「うっせえ」と笑って私の頭を撫でた。
「じゃ、行くぞ!」
彼の声は弾んで、空へと飛んでいく。
そのとたん、雲が動いて、桜木公園に太陽の光が差した。
ふぅーと音でも出そうな勢いで、彼はストローを吹いた。
ゆっくり作られる“あわ”は、そのまま空へと飛んでいく。
「え」
思わず漏らした声に、「ドッキリ成功」といたずらっ子のような笑みを浮かべる雲。
再度彼がストローを吹くと、小さいあわや大きいあわ、そのあわが空へ飛んでいく。
「シャボン玉…?」
私がそう言って彼を見ると、彼は「おう」と低い声で答えた。
「やってみるか?」
彼はポケットからもう一本ストローとビンを取り出して、私に渡した。
「…ありがとう」
私はそのストローに口を近づけ、ビンにストローを押し付ける。
ふぅ、と息を流し込むと、ストローから小さいあわが飛び出た。
「おお、上手いじゃねえか」
「ありがと」
私がそう言って、再度ストローを吹くと、今度は大きいあわが飛び出る。
「…すごいよな」
シャボン玉で数分遊んでいると、雲が一人そう言った。
「このちっせえあわの一つ一つに、世界の全部が映ってんだよ。俺も、舞桜も、公園も、空も。全部映ってる」
彼はしみじみとつぶやいた。
だから、私もすごいと、綺麗だと、そんな気がしてきてしまう。
だって、彼の言葉はいつも正しい。
彼の言葉は、いつも重たい。
「…すごいね」
気づけば、私もそう呟いていた。
「ねえ、どうして雲は私にシャボン玉なんて見せてくれるの?」
そう尋ねると、雲は当たり前のように、答えた。
「おまえが今にも死にそうな顔してるからだよ」
「…え?」
「おまえ、つらいって…死にたいって思うんだろ?なら俺が、世界の綺麗な部分をおまえにみせる」
淡々とした口調で、彼は言う。
…私の、ために。
「ふう。そろそろ帰るか」
雲と一通り遊びまくった後、帰りのチャイムが鳴ったとき、雲がぼそりとつぶやいた。
「そうだね」
私がそう言って立ち上がると、彼も立ち上がった。
「最後に、LINE交換しようぜ」
「え?」
公園を出ようとした矢先、彼が後ろからそう語りかけた。
「次また呼び出すとき探すの面倒くせぇからな」
「そっか…。それもそうだね」
私はスマホを取り出して、彼と連絡先を交換した。
ラインの欄に、【夕凪雲】と書かれているのがくすぐったくて、私はふふ、と声を漏らしてしまった。
「なんだよ」
「なんでも」
私がそういうと、彼はチッと舌打ちをした。
「ふふ」
私が再度微笑むと、舌打ちの音は大きくなった。
面白いと思った。きっと、人生で一番……
―彼と一緒に居ることが、一番面白いと思った。
「おはよ、くも」
朝、彼が校門に歩いてくるのを確認した私は、先に校門についていても、立ち止まって、彼が来てから歩き出す。
「おはよ」
別に何か約束をしているわけではないけれど、どうせなら、と考えた私は、次の瞬間立ち止まった。
…いや、よくよく考えて、この状況はおかしいだろう。
私は、彼が嫌いだ。
そして、彼も私のことが嫌い。
ということは、私たちは遠回りしているだけ、なのでは…?
「…あ、えっと。くも。今日の小テストの勉強ちゃんとしてきた?」
「いーや。別に。っていうか、いつもゼロで受けてるから」
どや顔でそう言い放った彼は、あきらかに滑っている。
「…もう。そんなだからいつも十点とか0点なんでしょう!」
「うっせ」
彼は微笑んで、ポンポン、と私の髪を触って、触れては離す、触れては離すを数回繰り返したあと、彼はにっこり笑って私を見下ろし、靴箱へと入っていった。
それを私も追いかけて、靴箱から上靴を取り出して履き替える。
「ああ。そうだ。忘れるところだったよ」
彼は私が履き替えるのを見届けたあと、カバンをごそごそと探り、二枚のチケットを取り出した。
それは、夏祭りの遊びまくりチケット。
五店は無料で遊べるという、限定チケット。
商店街で売っていたくじ引きの一等賞だったような気がする。
「これ、一緒に行こうぜ。せっかく二枚分だし、夏休みが始まって三日目だろ?ちょうどいいんじゃないかと思ってさあ」
彼はふ、と笑ってそう言った。
「…ありがとう。行きたい」
夏祭りなんて、人生初かもしれない。
私は一枚チケットを受け取って、それをしばし眺めようと手もとへ引き寄せる。
「ありがとう」
再度お礼を言って、なくさないように、大切にカバンへチケットを入れた。
「おう」
彼も笑って、二人で教室へと歩いていった。
「…え?」
「ねっ。お願い!舞桜ちゃんと夕凪くん、すっごく仲いいでしょう?私、夕凪くん狙いだから、好きな人聞いてきてほしいの!!」
昼休み、トイレに呼び出された私は、同じクラスの如月優芽さんにそう恋愛相談をされた。
「…えっと、私、恋とかよくわからないの。雲もきっと、そういう話題嫌いだろうし…」
「そこを何とかっ。お願い!」
如月さんは、学年一と言っても過言ではない、可愛くて、おしゃれな女の子だ。
薄桃色の髪の毛は緩くカーブしていて、それをハーフツインテールしている髪型なんて、通り過ぎただけでも恋をしてしまうほど。
可愛いだけじゃ表せない。
彼女から香ってくるラベンダーの香りも、すごく心地がよい。
「…聞いてみるけれど、あんまり期待はしないでね」
私はそう言ってトイレを出た。
「ありがとう!」と後ろから声が聞こえてきたけれど、聞かなかったことにしようと決意した。
というか…如月さん、雲のこと好きなんだ。
廊下を歩いているとき、ふとそう頭に浮かんだ。
そのとたん、胸が締め付けられたみたいに苦しくなる。
「…っ」
如月さんみたいな可愛い女の子に告白されれば、きっと雲もokしちゃうよね。うん、そうに違いない。
もう高校生だもん。雲も恋していて当たり前の年齢。
…そのはずなのに。
ポロ、と目から流れ落ちたしずくは、私の水色の上靴へと落ちていく。
ポロポロと流れる涙を止めることはできなかったけれど、その涙は小さいもので、誰も気づかない。
良かった、と安心した直後、ふわりと体が宙に浮いた。
背中には、大きな温かい手が回されている。
「…えっ」
私が顔を上げると、そこに雲がいた。
雲が、私を見つけてくれた。
「…く、雲っ?どうしたの、急に…」
「おまえ、泣いてんだろ。腹いてぇのか」
私がふるふると首を振ると、「じゃ、頭いてぇのか」と聞かれ、また頭を振る。
「…どっか悪いのか」
そう聞かれて、私は一瞬迷ってコクりと頷く。
病気というほどではないけれど、なぜか涙が出て止まらない。
きっとどこか悪い。そう思いたい。
「…そうか。保健室行くけど、いい?」
私はさっきと同じように首を振る。
「そこまでしなくても、」と言葉を漏らしながら。
「そうか」
彼は少し黙ったあと、「…見られたくないか」と再度聞いてきた。
私は、周りを少し見て、こく、と頷く。
「わかった」
彼は、やっとのことで歩き出した。
半袖の制服を着た少女を抱えながら。
ゆらりと揺れる私の髪の毛は、歩くたびまたゆらゆらと揺れる。
まるで海藻みたいだ。
気づくと、誰もいない体育館に来ていた。
今は昼休み中だけれども、バスケ部は練習はしていないようだ。
彼は迷うこともなく、体育館の二階へと向かう。
そして、二階へとたどりつくと、私を下ろしてくれた。
「…ありがとう」
涙が止まった私は、そう言って笑いかけると、「おう」と低い声で頷いた彼に、不思議に思う。
なんだか、元気がないように思えるから。
「…どうしたの」
気づけば私はそう言っていた。
「はい」
私はにっこり笑ってそう答えた。
「……話にならない。次の間に、また進路表出してなかったらこうやってまた呼び出すからな」
「…わかりました」
私は失礼しました、と伝え、教務員室を出た。
はあ、と思わずため息が出てしまう。
私の名前は水瀬舞桜。
舞う桜と書いて、舞桜だ。
「あっ、水瀬さん!ここ教えてくれない?」
教室に一歩足を踏み入れると、水瀬さん、水瀬さん、とクラスメイトに囲まれた。
けれど、思いとは裏腹に、「うん、いいよ」と言葉が漏れる。
今日も私はウソをつく。
それが私の演じ方。
それが私のやりかただから。
クラスメイトはほとんど、私のことを信用しきっている。
けれど、たったひとり、私のことを嫌いだと言うひとがいる。
「うっせぇな」
こちらをにらんで、低くつぶやいた彼…夕凪雲くん。
「もう!ほんとう、雲は舞桜のこと好きだよね」
「はあ?ちげぇし」
そう、コイツが、私の一番大嫌いなひと。
「俺は水瀬のこと嫌いだって言ってんだろ。優等生気取りしてる奴なんて大嫌いだ」
夕凪は…もう名前も思い出したくもないけれど。
こうやってひとのことをバカにして、嫌いな人は嫌い、嫌なことは嫌、というのだ。
正直者というか、バカ正直というか。
そんなひとである。
けれど、絶対顔にも、声にも出さない。
私は、“優等生”だから。
彼とは違って。
「ふふ、今日も夕凪は辛辣だ~。正常そうで何よりです」
そう言って微笑むと、彼はうげえ、と顔をしかめ、大きな声で叫んだ。
「はいはい、また始まった。優等生気取りかってんだよ」
その言葉に、私の顔も、多分一瞬ひきつってしまったと思う。
“優等生気取り”。
そんな言葉は、さすがにひどい言葉だと思う。
けれど、絶対言わない。
彼を傷つければ、彼のファンクラブに殺されてしまう。
夕凪は、真っ黒な黒髪に、大きな瞳、薄い桃色の唇、すらりと伸びた高身長。
まるでアイドルのような容姿に、女子生徒が黙っているはずもない。
そして、一年もたってしまえば、もうファンクラブまでできてしまった。
ギラリと光る瞳が、私のことを凝視している。
その視線がつらくて、私は思わず彼から目をそらした。
その次の瞬間、「席つけ―」と言いながら教室に入ってきた先生と遭遇した。
そのおかげで、彼の視線から逃れることができた。
放課後、私は塾へ向かうために急ぎ足で教室を出た。
早く帰らなきゃ、早く、という言葉が、頭の中でずっと回転していて、止まらなかった。
なのに。
「…っ」
廊下を急ぎ足で進んでいると、スマホゲームで遊んでいたのか、イヤホンを耳につけ、スマホを片手に歩いていた、夕凪にぶつかった。
「あ?」
彼は私がぶつかったのに気づいて、イヤホンを外し、低身長の私を見下ろす。
「…ごめん。今急いでて、通してくれない?」
私がそう言ってパンッと柏手を打つと、彼は「チッ」と舌打ちして、再度イヤホンを耳につけ、去っていった。
今回ばかりは彼につかまることがなくてよかった、と少しほっとしながら、私は靴箱へと足を運んだ。
「え…うそでしょ」
靴箱について、靴に履き替え、外に目を向けたとき、はじめて、ザアーと音を鳴らしながら、雨が降っていることに気づいてしまった。
今日は天気予報でも晴れだと予想していたため、傘なんて持ってきていない。
「最悪…」
誰もいない靴箱でそう呟いたあと、教務員室で傘を貸出しているか確かめに、再度元来た道を戻る。
廊下を歩きながらも、塾のことが頭でぐるぐる回る。
早くしなきゃ、という焦りが私の額を濡らす。
体温が上がってくるのが分かる。
ドクドクと心臓が嫌な音を立てている。
それくらい、私は焦っていた。
窓に目を向けると、やっぱり雨は止まない。止む気がしない。
「…どうしよう」
気持ちが悪くなって、思わずそこにうずくまる。
うっ、と思わず口に手を当てて、悟られないように立ち上がる。
壁に体重を預けながら、廊下を進んでいく。
幸い、通り過ぎていく人たちは私には気づいていないようで、ほっとした。
もうすぐ教務員室につく、と思ったとき、にゅと効果音でも出そうな勢いで、夕凪が私の視界の全面を体で隠す。
「え…夕凪?」
思わず声を漏らすと、「黙れ」と低い声が上から降ってくる。
次の瞬間、ぎゅっと腕をつかまれ、薄暗い教室に引っ張られた。
びちゃびちゃと雨の音が聞こえる薄暗い教室は、どんよりとした雲で、さらに暗くなっていた。
鍵が置かれていないことから、ここは空き教室なんだということが分かった。
「…どうしたの、急に」
まるで告白する直前のようなシチュエーションなはずなのに、相手が夕凪ということと、頭の痛みと気持ち悪さが押し寄せ、集中できない。
思わず再度口を覆うと、彼は顔をしかめ、「はあ」とため息をついた。
「ほんと、おまえって頑固だよなあ」
「…な、んのはなし。帰りたいんだけど…」
私がそう言って教室のドアの方をちらりと見ると、夕凪は「チッ」と舌打ちをしたあと、「ほんとう、おまえ不器用だよな」と低い声でつぶやく。
「気分悪いんだろ。おまえがいくべきとこは教務員室じゃなくて保健室じゃねえのか」
どうして。と声に出そうになって、思わず止めた。
なぜ、彼にはわかったんだろう。
笑顔も作った。
隠し通したつもりだった。
口元を抑えて、ちょっと会話したくらいなのに。
どうして彼には、私のウソが見抜けるんだろう。
「…早く帰りたいの。今日塾で模試があってね。早くいかなきゃいけないの。だから…通してくれない?」
もう一度お願いしてみると、「無理」と即答されてしまった。
どうやら、当分私を返す気はないようだ。
「はあ。ほんと、おまえは俺の気遣いがわかんねぇんだな」
「気遣い?」
思わず低い声で呟いてしまった。
どこが気遣いなんだ、と思ってしまったから。
「そうだ。俺がなんでわざわざ空き教室なんかに来たと思う?おまえが人に見られたくないんだろうなと思ったからだよ。なんでこうやっておまえに付き合うと思う?俺がおまえのこと嫌いだからだよ。だから俺がいうしかねぇだろうが」
「…」
あまりにもはっきりした口調に、私の方が驚いてしまった。
「…嫌いなら、どうして私と関わるの。嫌いなんでしょう?わたしのこと。なら放っておけばいいと思うけど」
私が理屈をいうと、彼はあきれたようにつぶやいた。
「おまえ、バカなの。嫌いだから、俺が言うしかないんじゃねえか。おまえは俺にしか本性みせねぇだろ。おまえは俺のこと嫌いだろ」
「え」と思わず声がこぼれた。
知られていた。
嫌いだということが。
苦手意識をしているということが。
「おまえ、ほかのやつに大丈夫とか言われても、笑顔で大丈夫とかしかいわねえじゃねえか。なら、嫌われてる俺が、おまえを救いに行く。それだけだよ」
「…それだけ?ほんとうに、それだけなの?」
思わず食いついてしまった私は、ハッとして一歩下がる。
彼は目をまんまるにさせ、次の瞬間、ぷっと噴出した。
「ふっ。ははは」
笑う彼に、私は再度気分が悪くなったけれど、どうしても彼が離れてくれないから、もう諦めた。
スマホを取り出して、「ごめん、今日塾いけない。カサ忘れて遅れちゃう」とお母さんに連絡した。
「連絡し終わったなら、もう安心だろ。保健室行くぞ」
そう言って再度私の腕をつかんだ彼に、「ちょ、ちょっと待って!」とさけぶ。
「あ?なんだよ。触らないで、とか言われてもしょうがねえよ。女子だから嫌だとか、そういうのは受け付けてねえぞ」
彼は淡々とした口調でいい、教室を出ようとした。
けれど、私は再度、「待ってってば」と叫び、彼の前に立ちふさがる。
「…私、帰る。もう結局塾には遅れちゃうけど…帰らなきゃ」
私がそういうと、彼は面倒くさそうに「はあ?俺が返すわけねえだろ」と適当に答えた。
「……」
「なんだよ。めんどくせぇなあ」
確かに、面倒くさいと思う。
それくらい、私は面倒くさい女だ。
けれど、違う。
帰りたいのも、違う理由だ。
もう結局塾はお見送りとなってしまった今、もう保健室に行くしか選択肢はないだろう。
けれど、ダメ。どうしても、無理なんだ。
「…無理、だよ。クラスメイト達に見られるの、恥ずかしい…。弱い自分を見せたくない」
私がそういうと、彼は口角をニヤッと上げて、高々と宣言した。
「そうかよ。なら早く言えよな」
彼は制服の上から来ていたパーカーを、いきなり脱ぎだした。
パーカーの下から、真っ赤なネクタイが顔を出す。
白色の半袖制服に黒いズボンは、生き生きとしているようだった。
彼は「ん」と私の前にパーカーを突き出した。
「え…?」
私が困惑していると、彼は「着ろって」と声を荒げる。
私は言われた通り、突き出された紺色のパーカーを着た。
ダランと袖が落ちて、私の膝のちょっとうえまで堕ちてきたパーカーのポケット。
「じゃあフードもかぶれよ。それならバレねえだろ」
「…でも、これじゃあ夕凪と一緒に居るからバレちゃうよ」
「妹だって言っておけばいいだろ。まあ、いいじゃん。でよう」
彼はそう言って、再度私の長い袖をぎゅうと握り、教室を出た。
廊下を歩いているうちに、数々の視線が私に突き刺さる。
ひそひそと、「あの子は誰だろう」「夕凪に彼女できたのか!?」という声が聞こえてくる。
「……夕凪」
私が思わず不安になって彼に問いかけると、彼は私を見下ろして、ゆっくりと頭を撫でた。
「大丈夫。俺がいる」
ゆっくりとつぶやいた彼の言葉は、痛いほど私に染みた。
―「大丈夫」という言葉が欲しかった。
急にそんな思いが生まれ、全部真っ暗に変わったような気がした。
―舞桜ならできるよ
―舞桜が居れば安心だよね
そんな期待を裏切ったときの目線が怖くて、私はなるべく目立たないように生きてきたつもりだった。
けれど、中学三年の時、うっかり私は、テストで満点を取って、クラスで表彰されてしまった。
みんなの注目を浴びた私は、あのとき、こういってしまったんだ。
『簡単な問題だった』と。
自慢したわけじゃない。
けれど、その言葉は瞬く間に学校中に広まって、気づけば私の学校での立ち位置は、「天才」「優等生」というありきたりな言葉が並べられていた。
だから、求めていた。
「大丈夫」「頑張ったよ」「もう休んでいいよ」「完璧じゃなくていい」「舞桜は舞桜だから。他の誰でもない。舞桜は舞桜自身だから」
「舞桜のせいじゃないよ」
―そんな言葉を求めていた。
けれど、誰も言ってくれなかった。
だから私は、自分で自分に言い聞かせたんだ。
綺麗ごとを並べて。
みんなつらいと思う。
けれど、“みんなつらいんだから”とひとまとめにされることが、みんなと一緒にされることが、何より嫌だ。
私はきっと、誰かを求めていた。
私の前にたって、守ってくれるような、おうじさまを求めていた。
勝手な想像を押し付けたひとたちを、私は「好きな人」って呼んでいた。
――辛いって言えないことが、なによりつらかった。
「…せ。なせ」
遠くから、暗闇から、夕凪の声が聞こえる。
多分水瀬、と呼んでいると思う。
けど、返事ができない。
言葉が詰まって、動かない。
その、次の瞬間。
「舞桜!!」
ハッと、現実世界に戻ってきたような気がした。
「…え」
「保健室のせんせー、外出中らしい」
「あ、そう、なんだ」
「まだお前、帰れねぇな」
夕凪はすました顔でそう言った。
夕凪はもう帰るの、なんて言えない。
「……そう。じゃあ夕凪は帰っていいよ。ひとりで待ってるから」
「はあ?帰るわけねぇだろ」
「…えっ?」
正直、「ああ、そうするわ」とか、そういうあっさりとした言葉をもらうと思っていた。
「俺が帰ったらおまえを見張るやつが居ねぇだろう」
「見張るって…」
「おまえいつ帰るかわからねぇからな」
「…そっか」
思いとは裏腹にそっけない言葉を発してしまう。
いつもそうだ。私は、頭で考えていることと裏腹な言葉をずっと言ってしまっている。
「…おまえさ。いつからそうなったんだよ」
「え?」
急に夕凪は低い声でそう言った。
「いつから、そんなんになったんだよ」
どうして…彼は、私の気持ちをいつも見抜くんだろう。
「…中学生のころ、かな」
他愛もない会話のように聞こえる私たちの会話は、思うより重たく、決して軽々とする言葉なんかじゃない。
「…へえ」
「夕凪はいつも私のことののしるよね。そんなに私のこと嫌い?」
「…俺はつらいって思うやつが必死に笑顔作る理由、知ってんだよ。だからかも知れねぇな。辛い、苦しいって思うやつほど、それを隠そうとするんだよ」
彼は淡々とした口調だった。
いつもそう。彼の言葉には、迷いもない言葉ばかり。
「…」
「おまえは全部当てはまってるだろ」
「…そうかな」
「そうだよ」
そのとき、ガラガラと保健室の扉が開き、白衣を着た先生が現れた。
「あら。夕凪くんじゃない!」
「ああ。こんちは」
夕凪が低い声でそう言ったあと、先生の視線は私の方に来た。
「あら。夕凪くんの彼女さん?」
「あ?そんなわけねぇだろ」
「もう高校生なのよ~?恋なんていくつもするものよ」
彼女たちは楽しそうに会話をしている。
そんな中、私は二人の間でぽつんと立ち尽くすだけだった。
「ああ、ごめんなさいね。どこか悪いの?」
「こいつ気持ちわるいんだってさ」
「あら。大丈夫?どこか痛いところは??もう、教務員室にいたんだから呼んでくれればよかったのに。気持ち悪いんでしょう。熱は…ないみたいねえ」
私の額を触りながら、先生はそう言った。
「あ…えっと」
「ごめんなさいねぇ。早く来ればよかったわよね」
「い、いえっ…大丈夫です」
私がそう答えると、夕凪にギロりと睨まれた。
「…えっと、どうすればいいですか?」
「とりあえず、ベットで寝ましょうか。気持ちが悪いなら、休むのが一番よ」
「ありがとうございます」
私はカーテンを開け、ベットに寝そべった。
「休んどけよ、そこで」
カーテン越しに夕凪が言う。
「…うん。ありがとう、夕凪」
私がそういうと、夕凪はびっくりしたように後ずさったあと、
「雲って呼べよ」
ボソッとつぶやいた。
「えっ?」
「くも。他のやつらにそう呼ばれてるから」
カーテンの光が反射して、彼の影が見える。
「わかった。じゃあ、私のことも舞桜って呼んでね」
「はあ?なんで」
「仕返し」
私はにぃ、と笑って、「おやすみ」と毛布に顔をうずめた。
次の日、私の体調は回復していて、いつものように学校に通うことができた。
「あっ。おっはよ!舞桜」
「おはよ、静歌」
親友の静歌に声をかけられ、私も笑顔で返す。
「…あ」
そして、後ろにいる夕凪…雲の姿も見えた。
「雲…」
「おはよ、舞桜」
彼は眠そうに顔をしかめながら挨拶してくる。
「おっ、おはよう」
思わず返事をすると、彼はおう。と答えて自分の席に移動する。
「え、え。どういうこと!?」
静歌が驚いたように顔を上げた。
「…あー。なんやかんやあって、ちょっとだけ仲良く、なったかも」
私がそうつぶやくと、「へえ…そうなんだ」と答えた静歌は、ゆっくりと自分の席へと戻っていく。
ひとり取り残された私は、そのあとも何人かに声をかけられたけれど、普通の顔で通り過ぎることができた。
「…」
「だからさあ。おまえだけ進路表出てないんだよ。やりたいことないのか?」
「…」
放課後、再度進路について教務員室に呼ばれた私は、先生に詰め寄られていた。
「例えば、好きなものとか」
「私は、あまり…」
「じゃあ趣味とか」
「…ない、です」
私がそういうと、はあ、と盛大なため息をついた先生。
「おまえさあ。ほんとう無能だな」
「すみません」
笑顔は作ってる。
けれど、本心は無能、と言われて傷ついていた。
「おまえは勉強も運動もほかのやつより上手くできてるからさ、わかるだろう?先生、おまえのこと嫌いってわけでも、イジメたいってわけでもないんだよ」
「…わかってます」
「なら、いいだろう。来週まだ提出してなかったら、もう一回呼び出すからな」
「わかりました」
私がそう言って、失礼します。と言って教務員室を出ると、目の前には雲の姿があった。
「わっ…」
「おまえ、まだ進路表出てねえの?」
「…うん。何したいとか、よくわかんなくて」
私がそう言って笑うと、彼は顔をしかめた。
「へえ」
「…雲はどうしてここにいるの?」
私がそういうと、雲は思い出したように、ポン、と手をたたいた。
「そうだそうだ。おまえ探してたんだよ」
「…え?私?」
人違いじゃないかな、と一瞬疑うほど、彼の言葉はまっすぐで、ウソがない。
「おう。今日の五時、桜木公園で待ち合わせしよう」
彼には似合わない、“待ち合わせ”という単語に、私は思わず目を丸くさせた。
「どういうこと…?」
「まあ、行けばわかるよ」
そう言って教えてくれなかった雲は、じゃあな、とこぼして廊下を歩いていく。
五時、桜木公園。
なんだか妙に嬉しくて、私は思わず笑みを作っていた。
薄暗い空は、決していい天気とは言えない。
けれど、私の気分は上がっていた。
ふわり、とスカートが揺れ、弾むように動く足。
風に揺られて、私の薄茶色の髪がなびく。
「雲、お待たせ」
桜木公園に足を踏み入れると、少し開けたところの一番端っこのベンチで、雲はなにか作業をしていた。
「おう。もう五分近く待ってんだけどな」
そう言って笑った雲に、「そんなに遅れてないし」と唇を尖らせる。
「それで、どうしたの。何か緊急?」
「いいや。おまえが喜びそうなもん持ってきた」
彼はニヤリと笑ってそう言った。
「え?雲が?」
思わずそういうと、彼は「うっせえ」と笑って私の頭を撫でた。
「じゃ、行くぞ!」
彼の声は弾んで、空へと飛んでいく。
そのとたん、雲が動いて、桜木公園に太陽の光が差した。
ふぅーと音でも出そうな勢いで、彼はストローを吹いた。
ゆっくり作られる“あわ”は、そのまま空へと飛んでいく。
「え」
思わず漏らした声に、「ドッキリ成功」といたずらっ子のような笑みを浮かべる雲。
再度彼がストローを吹くと、小さいあわや大きいあわ、そのあわが空へ飛んでいく。
「シャボン玉…?」
私がそう言って彼を見ると、彼は「おう」と低い声で答えた。
「やってみるか?」
彼はポケットからもう一本ストローとビンを取り出して、私に渡した。
「…ありがとう」
私はそのストローに口を近づけ、ビンにストローを押し付ける。
ふぅ、と息を流し込むと、ストローから小さいあわが飛び出た。
「おお、上手いじゃねえか」
「ありがと」
私がそう言って、再度ストローを吹くと、今度は大きいあわが飛び出る。
「…すごいよな」
シャボン玉で数分遊んでいると、雲が一人そう言った。
「このちっせえあわの一つ一つに、世界の全部が映ってんだよ。俺も、舞桜も、公園も、空も。全部映ってる」
彼はしみじみとつぶやいた。
だから、私もすごいと、綺麗だと、そんな気がしてきてしまう。
だって、彼の言葉はいつも正しい。
彼の言葉は、いつも重たい。
「…すごいね」
気づけば、私もそう呟いていた。
「ねえ、どうして雲は私にシャボン玉なんて見せてくれるの?」
そう尋ねると、雲は当たり前のように、答えた。
「おまえが今にも死にそうな顔してるからだよ」
「…え?」
「おまえ、つらいって…死にたいって思うんだろ?なら俺が、世界の綺麗な部分をおまえにみせる」
淡々とした口調で、彼は言う。
…私の、ために。
「ふう。そろそろ帰るか」
雲と一通り遊びまくった後、帰りのチャイムが鳴ったとき、雲がぼそりとつぶやいた。
「そうだね」
私がそう言って立ち上がると、彼も立ち上がった。
「最後に、LINE交換しようぜ」
「え?」
公園を出ようとした矢先、彼が後ろからそう語りかけた。
「次また呼び出すとき探すの面倒くせぇからな」
「そっか…。それもそうだね」
私はスマホを取り出して、彼と連絡先を交換した。
ラインの欄に、【夕凪雲】と書かれているのがくすぐったくて、私はふふ、と声を漏らしてしまった。
「なんだよ」
「なんでも」
私がそういうと、彼はチッと舌打ちをした。
「ふふ」
私が再度微笑むと、舌打ちの音は大きくなった。
面白いと思った。きっと、人生で一番……
―彼と一緒に居ることが、一番面白いと思った。
「おはよ、くも」
朝、彼が校門に歩いてくるのを確認した私は、先に校門についていても、立ち止まって、彼が来てから歩き出す。
「おはよ」
別に何か約束をしているわけではないけれど、どうせなら、と考えた私は、次の瞬間立ち止まった。
…いや、よくよく考えて、この状況はおかしいだろう。
私は、彼が嫌いだ。
そして、彼も私のことが嫌い。
ということは、私たちは遠回りしているだけ、なのでは…?
「…あ、えっと。くも。今日の小テストの勉強ちゃんとしてきた?」
「いーや。別に。っていうか、いつもゼロで受けてるから」
どや顔でそう言い放った彼は、あきらかに滑っている。
「…もう。そんなだからいつも十点とか0点なんでしょう!」
「うっせ」
彼は微笑んで、ポンポン、と私の髪を触って、触れては離す、触れては離すを数回繰り返したあと、彼はにっこり笑って私を見下ろし、靴箱へと入っていった。
それを私も追いかけて、靴箱から上靴を取り出して履き替える。
「ああ。そうだ。忘れるところだったよ」
彼は私が履き替えるのを見届けたあと、カバンをごそごそと探り、二枚のチケットを取り出した。
それは、夏祭りの遊びまくりチケット。
五店は無料で遊べるという、限定チケット。
商店街で売っていたくじ引きの一等賞だったような気がする。
「これ、一緒に行こうぜ。せっかく二枚分だし、夏休みが始まって三日目だろ?ちょうどいいんじゃないかと思ってさあ」
彼はふ、と笑ってそう言った。
「…ありがとう。行きたい」
夏祭りなんて、人生初かもしれない。
私は一枚チケットを受け取って、それをしばし眺めようと手もとへ引き寄せる。
「ありがとう」
再度お礼を言って、なくさないように、大切にカバンへチケットを入れた。
「おう」
彼も笑って、二人で教室へと歩いていった。
「…え?」
「ねっ。お願い!舞桜ちゃんと夕凪くん、すっごく仲いいでしょう?私、夕凪くん狙いだから、好きな人聞いてきてほしいの!!」
昼休み、トイレに呼び出された私は、同じクラスの如月優芽さんにそう恋愛相談をされた。
「…えっと、私、恋とかよくわからないの。雲もきっと、そういう話題嫌いだろうし…」
「そこを何とかっ。お願い!」
如月さんは、学年一と言っても過言ではない、可愛くて、おしゃれな女の子だ。
薄桃色の髪の毛は緩くカーブしていて、それをハーフツインテールしている髪型なんて、通り過ぎただけでも恋をしてしまうほど。
可愛いだけじゃ表せない。
彼女から香ってくるラベンダーの香りも、すごく心地がよい。
「…聞いてみるけれど、あんまり期待はしないでね」
私はそう言ってトイレを出た。
「ありがとう!」と後ろから声が聞こえてきたけれど、聞かなかったことにしようと決意した。
というか…如月さん、雲のこと好きなんだ。
廊下を歩いているとき、ふとそう頭に浮かんだ。
そのとたん、胸が締め付けられたみたいに苦しくなる。
「…っ」
如月さんみたいな可愛い女の子に告白されれば、きっと雲もokしちゃうよね。うん、そうに違いない。
もう高校生だもん。雲も恋していて当たり前の年齢。
…そのはずなのに。
ポロ、と目から流れ落ちたしずくは、私の水色の上靴へと落ちていく。
ポロポロと流れる涙を止めることはできなかったけれど、その涙は小さいもので、誰も気づかない。
良かった、と安心した直後、ふわりと体が宙に浮いた。
背中には、大きな温かい手が回されている。
「…えっ」
私が顔を上げると、そこに雲がいた。
雲が、私を見つけてくれた。
「…く、雲っ?どうしたの、急に…」
「おまえ、泣いてんだろ。腹いてぇのか」
私がふるふると首を振ると、「じゃ、頭いてぇのか」と聞かれ、また頭を振る。
「…どっか悪いのか」
そう聞かれて、私は一瞬迷ってコクりと頷く。
病気というほどではないけれど、なぜか涙が出て止まらない。
きっとどこか悪い。そう思いたい。
「…そうか。保健室行くけど、いい?」
私はさっきと同じように首を振る。
「そこまでしなくても、」と言葉を漏らしながら。
「そうか」
彼は少し黙ったあと、「…見られたくないか」と再度聞いてきた。
私は、周りを少し見て、こく、と頷く。
「わかった」
彼は、やっとのことで歩き出した。
半袖の制服を着た少女を抱えながら。
ゆらりと揺れる私の髪の毛は、歩くたびまたゆらゆらと揺れる。
まるで海藻みたいだ。
気づくと、誰もいない体育館に来ていた。
今は昼休み中だけれども、バスケ部は練習はしていないようだ。
彼は迷うこともなく、体育館の二階へと向かう。
そして、二階へとたどりつくと、私を下ろしてくれた。
「…ありがとう」
涙が止まった私は、そう言って笑いかけると、「おう」と低い声で頷いた彼に、不思議に思う。
なんだか、元気がないように思えるから。
「…どうしたの」
気づけば私はそう言っていた。
< 1 / 8 >