花火の音が鳴りやむまで  私はきれいなウソをつく

第二章 花火の音

「おまえさあ。ほんとう、誰かに言う癖付けた方がいいぜ」
どうしたの、と聞けば、彼は打ち明けるように小さい声でそう言った。
いや、どうして私の話になるの、と突っ込もうとしたけれど、やめた。
「…怖いの。頼ること」
私も小さい声でそういうと、彼は私をじっと見つめてから、
「そうかよ」とつぶやいた。
「…怖い。どうしようもなく、頼ることが…」
私が再度そういうと、彼は少し黙ったあと、そっと私を抱きしめた。
少女漫画だと、これは愛情表現のような感じだと思うけれど、私はちゃんと知ってる。
彼は、私を安心させようと、大丈夫だよ。と、そういうためにこうしてくれる。
全部、全部私のために。
「…私ね、小学生のころから、ずっと“できる子”としてみんなに見られていたんだと思う」
「できる子?」
「小学三年生の時、それを自覚したんだよね。きっと」
ふふ、と笑った私は、ゆっくりと話し出した。
私の過去を。

私は、きっと先生から見ても、生徒の方から見ても、優秀な生徒だったと思う。
テストはいつも百点ばかりだったし、運動も苦手ではなかった。
成績表はいつもオールAで、先生からもよく褒められた。
だから、私はできる子ということがみんなに知られていた。
なんでもできる、完璧な人。それが私の、クラスでの立ち位置だった。
けれど、三年生に上がって、難しい問題も増えてきた。
…それで、初めて、テストで九十四点を取ってしまった。
百点以外の数字なんて、誰も予想していなかった。
テストの百点のひとの名簿欄にも、私はいつの間にか消えていた。
そのとき、わかった。
周りから差された、あの驚いた目線。
あの、羨んだ視線が、一気にあざ笑う視線に変わったことを。
どれだけ頑張っても、百点を摂ることができなくなって、みんなからの信頼も、友情も消えていた。
あの頃の私は、塾に通いたいと必死で、百点を取らなきゃと必死で、ほかのことなんて何も考えていなかった。
必死な思いで作り上げた勉強能力を、みんなに披露したときは覚えている。
返されたテストは百点だった。
頬が緩むのを覚えた私は、先生に呼ばれて立ち上がった。
そして、先生はにっこり笑ったまま、私をひっぱたいた。
へこんだほほは、もう笑みなんて作れる余裕はなかった。
先生の笑みは消えて、クラスメイトもクスクスと笑っていた。
次の瞬間、先生は私に追い打ちをかけるように、こういった。
「水瀬さん。藤野さんのテスト用紙をカンニングしたでしょう?藤野さんから教えてもらいましたよ」
その瞬間、私はもう、誰も頼りたくなくなった。
塾だってサボり気味になって、必死にひとりで勉強した。
お母さんも、お父さんも頼らず、ひとりで頑張った。
勉強にプライドすべてをのせ、一筋で。
誰かを信じたって、誰かを頼ったって、相手が裏切る。相手が、私を見捨てる。それは、もうわかっていることだから。

すべてを話し終わったあと、私は笑ってみた。
いつもの笑顔を。
「あはは…笑えるでしょ。みんなに裏切られた、ただそれだけ。だから私は、誰も頼りたくなくなったの」
私は下を向いて、うつむいた。
笑うのが、つらくなったから。
ばかばかしくなったから。
「いじめをされたわけでもないし、家族がひどいっていうわけでもない。ほんとう、恵まれた家庭で、恵まれた人生のはずなのに、辛いって思う自分が、嫌い」
すう、と雲が息をのむ音が聞こえた。
「大嫌い」
私が再度つぶやくと、雲は私を離して、私の瞳を覗き込んで、そっと言った。
「…舞桜は頑張ったよ。少なくとも、俺はそう思うけど」
…決して、彼の言葉は明るい言葉じゃない。
かといって、暗い言葉でもない。
彼の言葉は、行動は、全部私のためにしてくれる言葉であり、きっと私の言葉も、私のすることだって、彼のためにすることだ。
「…雲」
「舞桜は人に認めてもらいたいんだろ?」
急な質問に、私はちょっと考えてから、頷く。
「でも、誰も信じられないよ…。それに、認めてもらうなんて、無理で…」
私がさっきより小さな声でそういうと、雲は少し優しい瞳で、私の頭を撫でた。
「俺が認めてやる。おまえは俺を信じればいい。おまえは、俺を頼ればいいんだよ」
目を見張った。
彼の言葉はいつもまっすぐで、正しくて。力強くて、正確。
「…頼って、いいの」
気づけば、そんな声が漏れていた。
「…信じて、いいの」
情けない。ほんとう、情けない声。
「…認めてくれるの」
私の目からは、また涙がこぼれていた。
くちびるから忍び込んでくるその涙はちょっぴり甘くて。
「雲…」
―ねえ、ちょっとだけ甘えてもいいかな。
その日、私は時間も忘れ、彼に甘えた。
泣いて、泣いて、泣いて。
今までの思いを全部打ち明けた。
隠してきた思いの扉を開けて、彼に全部見せた。
彼は何も言わず、私の頭を撫でて、優しく慰めてくれるだけだったけれど、私はそれが心地よくて。
チャイムが鳴っても、私たちを探す声が聞こえても。
名残惜しくて、放課後まで残り、先生に説教されたけれど。
雲は最悪、ということもなく、笑ってくれた。
一緒に帰ろうと言ってくれた。
ねえ、雲。雲はわかっているかなあ。
『おまえ、つらいって…死にたいって思うんだろ?なら俺が、世界の綺麗な部分をおまえにみせる』
この言葉が、すごく嬉しかったこと。
この言葉で、私は救われたこと。
「そう言えば、明日から夏休みか」
「そうだね」
私が相槌を打つと、「短いような長いような新学期のスタートだったなあ」とつぶやく雲。
「何それ。私とあってから長かったってこと?」
「ちげえよ」
彼は苦笑して答え、ぐしゃっぐしゃっと私の頭を撫でた。
案の定ぼさぼさになった私の髪の毛を見て、彼は今度は苦笑ではなく、大笑いをした。
あはは、と大きな声で笑う彼に、私もつられて笑ってしまった。
「ふふ。あはは」
私も笑って帰り道を歩く。
ほんとう、どうしてだろう。
雲と居ると、毎日が輝いてて。
雲と居ると、毎日が楽しくて。
雲と居ると、ちょっとだけ、生きててよかったって思える。

「ねえ、お母さん。この浴衣で大丈夫かな」
本日四回目のこのセリフに、さすがにお母さんもあきれ気味で、
「もう…大丈夫だって言ってるでしょ。お母さんを信じなさいよ」
といった。
「で、でもっ」
「もう時間よ。ほら行きなさい」
夏祭り当日。
私は初めて夏祭りへ行くため、あまり自信がないけれど、浴衣をお母さんに着付けてもらい、一歩踏み出すことを決意した。
家から追い出された私は、少し恥ずかしいけれど、胸を張っていくことにした。
カランカランと、下駄の足音が聞こえる。
六時五十六分。
夏祭り会場が開く四分前、私は会場についてしまった。
ゆらりとあたりを見渡すと、スマホをいじってる雲を発見。
「…雲、お待たせ」
彼に近づいてそういうと、彼は私を見て、一瞬で目を見開いた。
その表情がなんだかおもしろくて、ドッキリ成功、というように笑ってやると、雲は「…おまえなあ」と顔を赤くしてそっぽを向いた。
「ふふ、雲も浴衣、似合ってるよ」
青磁色の浴衣を着ている雲は、どこからどう見てもアイドルのように恰好いい。
「サンキュ。まあこれ、自分で着たわけじゃないんだけどな」
私も、と漏らして、二人で笑う。
―こんな毎日が、ずっと続けばいいのにな。
そう思いながら、私たちは二人で会場が開くのを待った。
ちなみに、私の服は空色のアサガオと白いアサガオがのせられている、薄紫色の生地に、髪型は横髪は残し、お団子で結んでいる。
「この祭り、花火上がるらしいぞ。十時ごろ」
「えっ。花火?」
思いもよらなかった単語に、目を輝かせた私は、雲にずいっと寄る。
「すごいっ。海の方でしょう。会場から近いもんね」
「まあ、そうだろうな」
私の勢いに圧倒されながら雲が答えると、私の瞳はますます光が強まる。
「綺麗なんだろうなあ。私、花火なんて見たことないんだよね。ねえ、花火ってどんな感じ?綺麗なんでしょう。音もすごく大きいって聞いたことある!」
私がそう聞くと、雲は楽しそうに答えてくれた。
「確かに空に咲く火の花っていうのが一番わかりやすいと思うけど」
「空に咲く、花?」
「そう。花だよ。青とか水色とかオレンジとか赤色とか。いろんな色の」
彼は心底楽しそうだった。
きっと、雲も花火を見るのが楽しみなんだろうと、そう思った。

「うわあ」
始めてみた夏祭りの景色は、色づいていた。
色んな屋台が並んでいて、いろんなひとがいて。
すごくにぎやかで、商店街のようだった。
「どっから行きたい?」
雲が楽しそうにそう言って、私の背中を押した。
震える足取りで最初向かった屋台は、「焼きそば」と書かれた屋台。
「…おまえさぁ、ほんとに女子なの」
「しっ、失礼な。私だって焼きそば好きだもん」
私がそう言い張って、焼きそば小ください、と注文すると、雲も、「じゃあこいつと同じ奴で」と頼んだ。
数分後、中から出てきたお兄さんが、「ほらよ」と焼きそばを手渡ししてくれた。
「んっー!おいしい!」
一口口に入れただけで、そんな感想が飛び出る。
「だろ?ここの焼きそば、いつもめちゃくちゃうめえんだよ」
雲は得意げにそう言ったあと自分も焼きそばにかぶりつく。

次向かった屋台は、金魚すくいの屋台だ。
「せっかくだから、勝負しようよ。雲」
「おう。いいぜ。じゃあ負けたやつが好きなやつおごってもらうってことで」
雲も珍しく乗ってきたので、がぜんとやる気がわいてきた。
私はおじいさんの、「スタート!」という掛け声とともに、自分のポイを水へと一直線へ。

「…なんだ、同点か」
結果を見てがっかりしたのは私だけではないようだ。
向こうもだいぶ自信があったのか、はあ、と盛大なため息をついている。
「じゃあお互いおごろうよ。それでいいでしょう」
「…気に食わねえが。まあいいだろ」
了承してくれた雲は、ふ、と笑っていて。
私はなんだかうれしくなって、「じゃ、あれにする」と赤い屋台を指さした。
「りんご飴?」
「ずっと食べて見たかったの。ねえ、いいでしょう?」
そう言って彼を見上げれば、「しょうがねえな」と笑う彼の横顔があった。
「おっちゃん。りんご飴ひとつ」
「おう」
彼はおじいさんにそう呼びかけ、「じゃあ俺はあれな」と指さした。
彼の指の先にあったのは、「ペアキーホルダー」のお店。
「お母さんと交換するの?」
私がそう聞くと、「いいや」と首を振る雲。
「おまえと俺で交換するんだよ」
「えっ?」
思わず間抜けな声を出した私は、一瞬何を言われたか理解できなかった。
「わっ、私と?」
「そうだよ。夏祭り記念」
そう言って笑った彼は、「ほら」とりんご飴の棒を差し出してきた。
「あ…ありがとう」
りんご飴の袋を開けながら、私はそうお礼を言う。
りんご飴を口に入れると、りんごの甘みが広がった。
「んっ…おいしい」
「だろ?」
はは、と笑いながらキーホルダー屋さんへかけていく雲を追いかけながら、私はりんご飴の味を味わう。
「どれがいい?」
そこを営業しているお姉さんがそういうと、もう彼は目当てが決まっていたかのように、「これで」と、クローバーの半分部分のキーホールダ―を手に取り、もう片方の方を私に渡した。
私は代金の三百円をお姉さんに私、二人でそこを去る。
「…ありがとう。すごく、嬉しい」
想ったことを口にすると、「馬鹿野郎」と苦笑する雲。

「そろそろなんじゃねぇか?花火」
そのあと、射的やイチゴ飴の屋台なども回っていくと、もう十時手前の時間になっていた。
「ほんとだ…!でも、多分もうよく見えるほうはひと多いよね。どこ行く?」
「近くに砂浜あるんだよ。そこから綺麗に見えると思う」
彼はこっちだったような、とあやふやに進んでいく。
人も多くなってきた時間帯なため、人込みを分け進んでいくしかない。
「すみません、すみません」と謝りながら進んでいくと、急にひとがいなくなった。
「きゃっ」
砂に足を取られ、転びそうになると、「おっと」と雲が支えてくれる。
「あ、ありがと」
お礼を言うと、「おう」と彼は笑って、砂浜の方へと走り出した。
私も必死に後を追う。
砂浜に二人で座り込んだとき、ひゅるる、と音が鳴った。
「もう始まりそうだな」
少しわくわくした声で彼が言う。
そんな言葉を聞いて、私もなんだか想像以上に、楽しみになってきた。
「うんっ…!」
私が頷いたとき、空に大きな音と共に、赤色の花が咲いた。
ひらりと開いては消え、そしてまた新しいのが生まれて消えていく。
暗い夜空に、たくさんの光る花が咲いていく。
―目が、離せなかった。
綺麗だ、と隣にいる雲が声を漏らした。
私も声を出そうとして…出せなかった。
勿体ないと思ったんだ。
私の声なんて、この花火にはもったいない。
今しゃべらなくたって、きっとあとで感想を告げることができる。
そう信じて、私は瞬きもせず、花火を見た。
色とりどりの、大きな円を描くそれは、何度も何度も、咲いては散って、咲いては散って、を繰り返していた。
「…雲」
しゃべらないと決めたのに、思わず声がこぼれてしまう。
今、言いたくなったんだ。
もし後でいう機会があったとしても。
もし後で、彼に聞かれたとしても。
私は、今言いたくなった。
「綺麗だね…!!」
はしゃぎたくなるような、遊びたくなるような、そんな目で、私は彼の目を、淡い瞳を覗き込んだ。
「これが、花火なんだ…」
止まろうとしても、もう止まれない。
私は、言いたい。
雲に、私の気持ちを。
「いろんな色があって、いろんな大きさもある。本当、花みたい」
私の声は、花火の音と共にかき消されるけれど、きっと彼には聞こえてる。
返事はしてくれないけれど、私はそう確信する。
「…綺麗…だね」
ポロッと、涙があふれ落ちた。
優等生で居なきゃなんだって、都合のいい女でいなきゃいけないって必死で、自分のことなんてどうでもよくて。
想ってることも全部隠して、笑顔を作ってきた。
…でも。
今、私は生きてる。
私は今、彼と同じ世界を、この美しい花火が打ちあがる世界で、生きてる。
なんだかそれがくすぐったくて、それと同時に、たまらなく嬉しくて。
雲と同じ世界を見てる。
雲と同じ世界を生きてる。
「…口を閉じれば何も言えないように、心を閉じれば、何も伝わらない」
ふと、雲は自慢の低い声でそう言った。
「おまえは今、死にたいって。辛いって思うか」
そんなの、決まってる。
「生きたいよ。雲がいるこの世界で、花火が打ちあがる、この世界で」
私はにっこり笑って、彼に想いをぶつけた。
このときはじめて私は、“生きててよかった”って、“生まれてきて、よかった”って思った。
雲は知らないだろうなあ。
私が雲の言葉で、どれだけ救われたか。

「ほんと、おまえって頑固だよなあ」
「大丈夫。俺がいる」
「なら俺が、世界の綺麗な部分をおまえにみせる」
「…舞桜は頑張ったよ。少なくとも、俺はそう思うけど」
「俺が認めてやる。おまえは俺を信じればいい。おまえは、俺を頼ればいいんだよ」

全部、全部。私の大切な思い出…。
あふれてくる涙は止まらない。
けど、今だけはいいと思った。
花火が咲いてる、この時間だけは、
“泣いていい時間”にしよう。


夏祭り終了のアナウンスが鳴ったあとも、私は浜辺でじっとうずくまっていた。
雲はひとりで海辺をいったりきたりして、私が買ってあげたキーホルダーを眺めている。
あのときの感動と思い出を忘れないように、大切に心にしまえるように、私は目を閉じて願った。
どうか明日になっても、明後日になっても、一年先になっても、この日のことを忘れないように。

ねえ、雲。
届かない声で、私は彼に呼びかけた。
…好きだよ。
にこりと笑った目元からは、涙が一滴、鼻筋を通って落ちてきた。
私は泣いてばかりだなぁ。
「…俺はさ」
私が涙のあとを消していると、雲が低い声でぽつりといった。
「伝えたかったんだよ。舞桜に、世界の美しさを」
ぽつ、ぽつと吐かれたその言葉は、雨のようにじっと私の想いにしみ込んでいく。
「世界が、どんだけ綺麗なもので、世界が、どんだけ儚い者かっていうのを、伝えたかった。どうしても」
ゆらりと揺れる彼の黒髪は、月明かりに照らされて輝いた。
私と雲の目が合う一秒。
体と体が触れ合った瞬間、すべてが夢のようにも思えた。
今私は生きている。
今私は彼の胸の中にいる。
彼のたくましい腕が私の背中に回され、ぎゅうぎゅうと締め付ける。
「…ねえ雲」
「あ?なんだよ」
いつもの暴言を吐く彼は、やっぱりいつもの雲で。
…ちょっとだけ、嬉しい私は馬鹿野郎より馬鹿かもしれない。
「…もうちょっとだけ、こうしてていい?」
彼の答えは、帰っては来なかった。
その代わり、回された腕の力が、さっきよりも強くなった気がした。
片方の手が私の頭に伸びて、優しくなでてくれた。
「ねえ雲」
「なんだよ」
さっきと同じような会話に笑いながら、私は言葉を紡いだ。
「シャボン玉、またしようね」
「おう」
今度は、低く、太い声が、ちゃんと私の耳にも届いた。
ねえ、雲。
私は心の中で、もう一回、彼の名前を呼んだ。
静かな砂浜で、誰にもばれないように流した涙の味は、体育館と同じ味。
けど、あの時の感情とは違う意味だということが、私にもちゃんとわかった。
―ごめんね、雲。
心の中で、もう一回だけ、彼の名前を呼んだ。
―雲と出会えて、ほんとうに幸せだったよ。
「ありがとう」
つい零した声に、雲は不思議そうにうなずくだけだったけれど、反応をもらえたことが嬉しくて、嗚咽を漏らしそうになって慌ててこらえる。
やっぱり、世界はきれいだ。
残酷なほど、綺麗だって思う世界は、やっぱり綺麗だ。
雲がいるこの世界で、“今”、私は生きてる。
その喜びをかみしめながら、私は今日をやり切った。
涙は止まらぬままだったけれど、でもきっといつかは止まる。
私はそう確信できた。
「雲…」
ひとりきりの部屋で、彼の名前を呼んで眠りに落ちた私は、これからどうなることも知らずに、のうのうと生きてる。
けれども、ただ一つ言えることは…
この日、私は人生で一番、幸せな日だったと言えるということだ。




【おはよう】
夏祭りの次の日、朝十時三十分。
いつもより早めに起きることができた私は、何もすることもないので、雲に連絡することにした。
何がおはよう何だろう…。と思いつつも連絡をしてみる。
何もやり取りをしていないLINEの部屋に、私のメッセージだけが表示されている。
と、思いきや。
いま、この瞬間、彼から返信が届いて、メッセージが二つに増えている。
【おはよ】
そっけない雰囲気を持つそのメッセージは、やっぱり雲らしくて笑ってしまう。
【何してる?】
そう再度連絡を入れると、彼からは【何も】と返ってきた。
【私も。暇だよね。何もすることないや】
送信ボタンを押して、桃色のうさぎスタンプもついでに送ると、彼はたぬきの笑ったスタンプを返してくれた。
【じゃ、どっか行く?】
ベットから飛び起きた。
スマホを持つ手も、文字を打とうとした手も震えてくる。
自分の指が震えるのを笑いながら、そんな手を必死に動かして、
いいの?と打って送信。
【おう。神社の近くに遊園地あるだろ。そこ行こう】
遊園地という予想もしてなかった単語に驚きつつも、【いいよ】と返し、【一時桜木公園集合な】と送られてきたものをスクショして保存。
私はベットから跳ね起きて、パジャマから普段着へ着替えた。
歯磨きと顔洗いを済ませ、髪の毛をセットし始める。
いつものハーフアップを結んでから、少しだけ化粧で目と口を整える。
気合いれすぎかな、とも思いつつ、鏡の前でゆらりと体を回して、おかしいところがないか確認!
気合は入れすぎだけど、まあまあのできになった。
「あら、どうしたの?舞桜。出かけるの?」
階段を上ってきたお母さんが驚いたようにそう口にした。
「…う、うん」
私が頷くと、「へえ。どこに行くの?」と興味津々になるお母さん。
「…遊園地」
「あらぁいいじゃない。お友達でしょう。女の子?男の子?」
「…く、クラスメイトの男の子!」
ドンッと自分の部屋のドアを勢いよく閉め、カギまでかける。
ドアをはさんで向こうから、お母さんのぶつくさいう声が聞こえてくるけれど、私はもう気にしないことにした。
時計に目を向けると、時計の針は十二時三分をさしていた。
「あと一時間…」
ひとりでぽつりとつぶやいた声はひとりきりの部屋に、低く広がっていった。

「…お待たせ。雲」
「遅かったな。三十分遅刻だぞ」
「ごめん。お母さんにつかまって」
ふふ、と笑みをこぼすと、「ったくしょうがねえなあ」と雲が笑う。
「ね、遊園地ってジェットコースターとかあるとこでしょ。私、行ったことないだよね」
「奇遇だな。俺もだよ」
雲が得意げにそう言ったあと、二人で顔を見合わせて一緒に噴出した。
たどり着いた遊園地は、思ったより輝いていて。
たくさんの人がいた。
私たちは沢山の乗り物に乗った。
ジェットコースターやお化け屋敷、メリーゴーランドに観覧車。
水鉄砲広場では、雲のことをコテンパンに水をかけてあげたっけ。
また一つ。また一つと、思い出が増えていく。
そのたびに、私の想いは強くなっていく。
アイスクリームやさんに寄ったところで、六時を告げるチャイムが鳴った。
「おっと。もう帰る時間だな」
―帰りたくない。
「そうだね。足も疲れたし。ふふっ」
―まだ一緒に居たい。
「おまえと遊園地行くなんて思ってもみなかったわ」
―嫌だ。嫌だ。
「何それ。私も思ってなかったし」
「なんだよそれ」
二人で一斉に吹き出す。
ねぇ雲。
…行っちゃ、やだよ…!
「雲」
静かな道路の裏道に、私の声だけが静かに響く。
ごめんね。ごめんね。
そんな思いを何度も何度も繰り返しながら。
「ごめん。もう今日で最後にしない?」
「…は?」
ねえ、雲。
雲は世界で一番大好きな人で…
私に幸せをくれた人だよ。
「正直ちょっと面倒くさくてさあ。裏の私がバレちゃうの怖くて付き合ってきただけだし」
くるりと体を一歩引いてまわる。
そして、どんどん進んでいく。
後ろの道へ。
後ろの未来へ。
「おい!舞桜!!」
雲はただそうぶつけるだけで、追いかけて来ない。
ほんとうは、声をかけてくれることも嬉しいはずなのに。
言えない。
今、嬉しいよ、楽しいよって言えない。
もう決めたんだ。
これで“最後”だって。
目から涙があふれる。
髪の毛が吹いた冷たい風にさらわれて、四八方に散っていく。
涙も一緒に、髪と飛んでいく。
ねえ。雲。
ほんとに大好きだけど、ごめん。
これ以上は、私が壊れちゃうんだ。
雲。雲。雲。
頭の中はずっと君の顔だらけ。
けど言えない。
「大好き」って、もう言えない…!

「舞桜?ちょ…どうしたの!その顔…」
涙で濡れた私の顔を見て、お母さんは青ざめた。
「もしかして…あんた」
「ごめん、お母さん。気分悪いからもうねるね」
にっこり笑顔を作ったつもりでも、お母さんの目では、笑顔になってない私が映ってるだろう。
けれど、もういい。
今は、もういいんだ。
笑わなくていい。
泣け、わたし。
泣いて忘れよう。雲のことなんて。
ベットに寝そべった私は、熱も出ちゃうんじゃないかくらいの勢いで号泣した。
好き…好き。
雲が好き。
なのに言えない。
「好きだよ」っていうことができない。
ねえ雲。
ほんとうにごめんね。
ふとスマホに手をかざすと、雲からのラインが数件と、電話ボックスに一つ、電話の不在着信が入っていた。
全部、全部雲からだった。
【おい、どういうことだよ】
【夏休み中、俺そんなにウザかった?】
そんな謝罪のものが入っているところと、
【マジで意味わかんねえし】と暴言が入っているLINEもあった。
気づいたら、私はそれらに返信をしていた。
【ごめん。夏休み中は忙しくなるから】
震える手で送信ボタンを押した私は、既読がつくのを待つ。
数分後、既読という文字がついた直後、【わかった】とそっけないメッセージが送られてきた。
ああ、絶対嫌われた。
確信を持った私は、スマホの電源を落とし、ベットのお布団にくるまる。
世界で一番大好きな君に、取り返しのつかないウソをついた。
もし夏休みが明けて、また話せるようになったら…
絶対最初に、君に会いに行く。
絶対私は、あなたに会いに行くから。
だからそれまで、もうちょっとだけ待っててほしい。
拝啓、愛する君へ。
もう少しだけ、時間をくれないかな?
そうしたらきっと、もう一回、君に会いに行く。
たとえ、それが最後になろうとも。
私は君に会いに行く。
それが私の、“限られた時間”内の、一番大事なことだから。
頭の中で思い描いた文章を消しながら、私は机に置いてある資料を覗き込んだ。
『手遅れです』
医者の低く、生ぬるい声が私の胸に響き渡る。
ねえ、私はほんとうに…。
死ぬしか、ないのかな。
『肺がんの可能性あり、です』
そんな医者の声は、頭の中で何度もリピートした。
けど、何度だって私はそれを受け入れることができない。
ごめんね、雲…
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