花火の音が鳴りやむまで 私はきれいなウソをつく
第五章 人生
「おっ、お邪魔します…!」
約束の土曜。
指定された家に向かっていた、アホな私は、目の前に現れた豪邸に絶句した。
何十もある部屋。
何百もある窓に、広い裏庭。
そして、家のお風呂の百倍ほど大きい玄関。
間違いない。ここはお城か何かだろう。
目をぱちくりさせる私を見て、笑いをこらえている雲。
「何してんだよ。早く上がれ」
「いやっ…なんか恐れ多くて」
私がそう答えると、彼は再度耳をピクピクと振るわせて笑いをこらえる。
「うちの親は今いねぇし、早く上がれ。掃除してもらうのは俺の部屋だけだから」
そう言われて、しぶしぶ家に上がらせてもらう私。
そして…雲の部屋を見て、絶句する。
いや、きっと広い空間が広がっているはずだ。
窓は何個もあって、個室の中に、また別の部屋がある。
広すぎて絶句する…という考えもあるだろう。
それでも私は、どうしても散らばった服や、転がったくしゃくしゃの紙きれ、鉛筆、消しゴムなどの文房具。
暑苦しそうな布団や、小さな枕などが、どうしても、どうしても気になってしまった。
「…なに、これ」
予想もしてなかった破壊力に、私は思わず、その場に立ちすくんでしまう。
「あー。そういやぁ、数学のテスト結果、どこやったかなぁ」
そう言って探し回る雲を別に、私は息をのんだ。
これだけ広い部屋を、足の踏み場もなくしてしまうとは。
雲…恐るべし。
「よ…よし」
私は決意を決め、袖をまくって腕まくり。
パンパンッとほほをたたいて、気合を入れた。
ほうきと掃除機を片手に、私は雲の部屋に、一歩踏み出した―。
「…はぁ。ほんと疲れた。何なのあの部屋」
出された高級そうなお菓子をほおばりながらぶつぶつと文句を言う私に、苦笑した雲。
「まあいいじゃねぇか。今日はうちのご飯食べれるぞ」
「うちのって言ったって、私が作るんでしょ…まったくもう」
何もできない天才め。
心の中でそうぐちった後、私はお菓子を諦め、キッチンへ向かう。
時計の時刻は、午後五時四十八分をさしていた。
今まで、四時間も掃除をしていたんだと思うと、ほんとうに気が重い。
結果から言うと…雲の部屋はきれいになったと思う。
途中で、出てきた服に埋もれていた大きなテレビを倒しかけた以外は、何事もなく、スムーズに終わらせることができたと思う。
けれど、さすがに体力的にも、これが月に三回もあると思うとキツイ。
プラステスト勉強と、受験勉強。
塾の宿題まであるとなると、さすがの私でも一苦労。
そして…なんと雲の家で食事を取ることになった。
途中で雲のスマホにかかってきた電話の相手は、どうやら雲のお母さんだったらしく、「部屋が綺麗になった」と雲が報告すると、見せてほしいと頼まれたそうだ。
雲は画面を共有して自分の部屋を見せ、片付けている私の写真も撮って、お母さんに送ったらしい。
するとお母さんは、みるみる私にほれ込んで、食事でもてなしてあげなさいと言われたそうだ。
そして…この結果である。
「ええと、今日のメニューは…海鮮丼かな。魚ばかり冷蔵庫にあるし」
「おお。あまり食べない献立だな」
ウキウキしている雲をよそに、私は準備に取り掛かった。
途中で雲が、「手伝うぞ」と手を貸してくれたけれども、包丁で指をかすって絆創膏を貼るはめに。
最悪の事態を想像してしまった私は、雲に「部屋を汚さない程度に、部屋で遊んでて」と命令してから約三十分。
魚のおいしそうな香りと共に出来上がった海鮮丼は、見た目から見るに、なかなかの出来だ。
「いただきます」
雲も呼んで、いざ食事…!
緊張しながら「食べて」と雲を促すと、雲はスプーンをゆっくりとご飯と刺身の間に入れ、パクッと一口。
「…美味い」
雲の最初の一言目が…それだった。
「ほんと…?よかったぁ。雲の口に合って何よりです」
私がそう言ってお辞儀をすると、「わざわざサンキューな」と次の口を進める雲。
そんなにおいしいの、と苦笑しながら、私も一口食べてみる。
「…確かにおいしいね」
私がそう言って笑うと、「おまえ、絶対料理のことに関してはナルシストだろ」と言われたため、雲のお替りはなしということになりかけたけれど、雲の必殺技、くすぐり攻撃を受けて、あきらめることにした。
「ありがとうね。ご飯まで食べさせては…もらってないね」
ふふ、と笑うと、雲も「確かにそうだな」と笑った。
「美味かった。ありがとう」
「いーえ。口に合ってよかった」
もうすっかりあたりは暗くなってきた。
時計の針は、七時十二分を指していた。
「一人で帰るからいいよ」というと、雲が「ついていく」と言ってくれてから、もう三分経過。
結構私と雲の家は、距離が遠い。
「……聞いちゃいけない話、聞いてもいい?」
沈黙を破ったのは、私。
いつもなら、絶対こんなことしない。
だけど、今は、一緒に居たい。
聞きたい。ずっと気になっていたこと。
「…雲の好きな人ってさ、もしかして、如月さん、だったりする?」
聞いちゃった。
夜でもわかるくらい、今私のほほは熱を持っている。
“笑止千万”
それが本当のはず。
それが約束のはず。
だけど私は、無理だった。
だって、雲が好きだ。
好きなら何でもしていい。そんなことは許されないけれど。
思いを残してなんて、死にたくない。
「…俺の、すきなひと?」
真っ暗な夜にひびく、ハスキーボイス。
「俺の、すきなひとは…」
ドキドキする。
心臓が飛び跳ねる。
今この瞬間、死んでしまいそう。
顔が赤いのを悟られたくなくて、下を向いてうつむいていると、雲の細く、長い手が、私の顎を上に向けさせた。
真っ黒な目と、目が合う。
ドキドキする。
恋ってこんなに、胸が痛いんだ。
雲の顔が、だんだん拡大されていく。
そして気づけば…柔らかい感触が、私のほほと、唇に走った。
頬には大きな手が添えられていて、これは…、初めてだった。
「えっ…」
息が吸えるようになって、一番先にポロリと出た言葉は、それだけだった。
「…これ、俺の気持ちだから」
耳元でささやかれた声に、胸が痛いほど脈を打つ。
どうしよう。倒れてしまうほど、熱い。
すごく、ドキドキする…!!
「それって、どういう…」
私が声をかける前に、彼はくるりと私に背を向け、夜の道をそのまま戻っていった。
ひとりになって、なんだか夜が長く感じてしまった。
「…すきって、こと?」
家に帰って、ベットの毛布に顔を押し付けてから、ひとりで考え続けた結果。
「キス」を反対から読めば、「スキ」という言葉になる。
だから、もしかしたら…。
…私は、うぬぼれているんだろうか。
キスをされたくらいで、まだ好きとは言われてない。
本人から、直接聞かないと、まだわからない。
…でも、もし。もし、好きだと、そう言われたら…。
“私は、どうするんだろう”
手もとにあったスマホの電源をいれて、LINEアプリをタップする。
一番上に出てきた、【彼方くん】の文字。
するりと指がそこに触れて、画面は会話画面に切り替わる。
メッセージを打つ場所を、何も考えずにタップしたところで、意識を取り戻す。
…どうして私、彼方くんに連絡しようとしていたんだろう。
急いで電源を落とそうとして…やめた。
私はもう一度、メッセージを打つ空欄に指を伸ばして、画面に文字が現れると、ぽつりぽつりと吐き出すように、文字を入力していった。
【いま、はなせる?】
気づけば、一番下に表示されているメッセージには、そう書かれていた。
既読は、つかない。
分かってる。彼方くんも、暇じゃない。
親戚の高校生に付き合っている暇は、ない。
それなのに。
メッセージのすぐ横に、「既読」の文字。
そして、私のメッセージは、下から二番目になった。
【どうしたの?悩みがあるなら聞くよ。俺でよかったら】
なんで、彼方くんは全部受け止めてくれるんだろう。
なんで、彼方くんは私のことを認めてくれるんだろう。
【電話していい?】
ダメだってわかっているのに、私の頭は回らなくて。
気づけば表示されている画面は、通話画面にかわっていた。
「もし、もし…」
〈あ、もしもし、舞桜ちゃん?〉
「うん…ごめんね、きゅうに」
〈いやいや、大丈夫だよ。そろそろ仕事も終わるころだったし。それで?どうしたの。何か悩みごと?〉
「…あの、ね」
口がうまく開かない。
しゃべれない。
話したい。
彼方くんに、私の思いを、話したい…!
「私、雲にどんな思いで、どんな感情で接せばいいか、わからなくなっちゃって……」
〈……〉
少しの間が空く。
やっぱり、迷惑だったのかな…。
「ご…ごめんなさ」
〈…何だよ、負け犬の遠吠えをしろっていうのか〉
「え?」
ぼそっと聞こえた声に、私の鼓動は、早まるのをやめた。
〈…なんでもないよ。…舞桜ちゃんは、雲くんが好きなんだよね〉
「…うん。すき。だいすき」
ちょっと恥ずかしいけど、雲への気持ちは隠さないって決めたんだ。
どうどうと、言おう。
〈なら、そのままでいいと思うよ。雲くんが好きなら、好きでいいと思う。接し方を変にしなくても、舞桜ちゃんは、舞桜ちゃんのままで頑張ればいいよ〉
ハッ…と口を開けようとして、閉じた。
唇をかみしめる。
声を押し殺す。
なんで私、迷っているんだろう。
「…でも、私は……人とは、違う。雲とは、違う」
思っていないことが、口からするする出てくる。
違う。思っていないこと、じゃない。
ずっと隠してきた、自分自身にうそをついて、守ってきたものなんだ。
この言葉は、私の“想い”なんだ。
「私は、もう死ぬ。死んじゃう…。生きられない。このままじゃ、雲が悲しんじゃう…!両想いになったとしても、私は……」
〈舞桜ちゃん、なにか勘違いしてない?〉
声を荒げそうになった私を、彼方くんの声が止める。
〈舞桜ちゃんの人生は、舞桜ちゃんのものだよ〉
人生。
それは誰もが持っているものだ。
ひとりひとつずつあって、全部平等で。
それでも、理不尽な言い訳やウソで、人生の電池が、切れてしまうことがある。
「…」
何も、言えなかった。
私の人生は、全部病気に流されたままで、病気が中心で動いていた。
私の人生なんて、自分で決めない。
決められないと思っていた。
〈舞桜ちゃんの人生は、病気のものじゃない。君の人生は病気で終わるわけにはいかないでしょ?〉
「…彼方くん」
私のことを、考えてくれているんだとういうことが、よくわかる。
でも、どうしてそこまでしてくれるんだろう。
どうして私に、付き合ってくれるんだろう…。
「…どうして彼方くんはそんなに私のことについて考えてくれるの…?」
〈…舞桜ちゃん、気づいてない?〉
「え…?」
気づいていないって、どういう意味…?
〈好きなんだ。舞桜ちゃんのこと〉
「…えっ?」
すき…?
彼方くんが…私のことを好き…?
「それって…友達として…親戚としてって意味で」
〈違う。恋愛感情っていう意味で、好き〉
ストレートの、告白だった。
「え…。なおさらどうしてかわからない。なら、どうして私の話を、雲との話を聞いてくれてたの…?」
わたしなら、きっと胸が破裂しそうなほど、嫌だと思ってしまう。
雲が、ほかの女の子の相談なんかしてきたら、私はもう死んでしまうほど胸が苦しくなる。
いやだと思ってしまう。
それなのに、どうして、彼方くんは私に付き合ってくれているんだろう。
〈俺は、舞桜ちゃんが幸せなら、それでいいと思っているんだ〉
「私が…幸せなら…??」
頬が濡れる。
熱いしずくが、私のほほを濡らした。
〈え…?もしかして、泣いてる?〉
「ち、ちがっ…泣いてなんて、ない」
嘘をついても、今回は本当にウソがつけない。
〈嘘だ〉と笑われてしまった私のほほには、さらにほほが濡れてしまった。
「…最近、私、泣いてばかりだなぁ」
〈泣いていいよ。泣けば泣くほど、人間って成長していくからね〉
…彼方くんは、何回泣いたんだろう。
私が、思わず言った言葉で、彼方くんを傷つけて、泣かせてしまったことがあるかもしれない。
「…ありがとう。彼方くん、ほんとうに、ありがとう…!」
泣きながらそういうと、彼はふふっと笑って、〈どういたしまして〉と優しく答えてくれた。
画面が切り替わって、メッセージ画面に戻る。
「…私の人生は、私のもの、かぁ」
なんだか明日、雲に言えるような気がする。
「ありがとう」と、「大好き」を。
言える気がする。
私は安心した気持ちで、そっと眠りに落ちた。
「おはよう。舞桜。昨日はぐっすり眠れたみたいねぇ」
「っ、え…?」
「昨日、少しだけ覗いたの。そしたら、もう幸せそうにぐっすりだったわよ」
幸せそうに、ぐっすり。
「そっか。ならよかった!」
私は笑顔でそういって、横にあったカバンをつかんだ。
「えっ?あ、朝ごはんは??」
「今日はいいの!お弁当ありがとう。行ってきます!」
私はすぐさま家を飛び出て、鍵をガチャリと閉めた。
「えぇ、ちょっと舞桜!」
ドアの奥からそんな声が聞こえてきたけれど、私は振り返ることはなかった。
ごめんね、お母さん。
ごめんね、彼方くん。
ごめんね、くも。
私、今日まできっと、焦っていたんだと思う。
でも、もう怖くない。
私は、生きたい。
私は思い切り走って、学校を目指した。
お腹痛くなるだろうとわかっているけれど、私は走らなきゃいけなかった。
校門は、まだ空いていなくて私ひとり、立ち尽くしているだけだった。
時計に目を落とすと、針は七時三十分をさしている。
そろそろ校門が開く時間だ。
そう思っていると、ひとりの体育教師の先生が、校門を開けに来てくれているのが見え、とっさに私は花壇に身を隠してしまった。
ギギギと、古そうな音を立てて動く門。
先生は、校門を開けたあと、「あ、ホイッスル…」と言って、学校の中に走り去っていってしまった。
私はそっと立ち上がり、校門を駆け抜けた。
靴箱につくと、すぐに履き替えて、いそいで教室に入る。
そして、バックの中に入っていた小さな紙を取り出して、そこに文字を書いていく。…と、そこで、私の突進は終わった。
さっきとは違い、まったく言葉が出て来ない。
ペンが進まない。
…ほかの女の子たちなら、こういう言葉がすんなり出てくるんだろうか。
なぜか、急に、暗い気持ちになる。
私が、もし病気持ちの女の子じゃなかったら、こういうことをするのは、すごくドキドキして、でも頑張るっていう、青春を楽しめたんだろうか。
………違う。
こうなったのは、私が、わたしだからだ。
私は再度、緩んだ手をぎゅうっと持ちかえ、一字一字、書いていく。
〔ごめんね。君の前で泣いてごめんね。たくさんひどいことを言ってごめんね。すきだって言ってごめんね。病気を持っていてごめんね〕
そこまで書いて、違う。と思った。最後の二つは、私がずっと思っていることではあるけれども、そう言ってしまえば、あの夜の告白も、謝罪する文章になってしまう。
私は、消しゴムをつかんで、「すきだって言ってごめんね」と、
「病気を持っていてごめんね」を消した。
そしてそこの部分を、「たくさん、たくさん、ごめんね」にした。
〔ありがとう。世界の綺麗な部分を見せてくれて、ありがとう。見せるって言ってくれて、ありがとう。好きだって言ってくれてありがとう。〕
ありがとうはすんなりと出て、その下にまた文字を書く。
〔私は、君が好き。大好き。けど、私はもう生きられない。だから、私の一生分のありがとうと、ごめんを伝えたい〕
怖くないと言ったら、嘘になる。
それでも私は書いた。
この手紙を、最後まで。
〔ごめんね。君の前で泣いてごめんね。たくさんひどいことを言ってごめんね。たくさん、たくさん、ごめんね。
ありがとう。世界の綺麗な部分を見せてくれて、ありがとう。見せるって言ってくれて、ありがとう。好きだって言ってくれてありがとう。
私は、君が好き。大好き。けど、私はもう生きられない。だから、私の一生分のありがとうと、ごめんを伝えたい―。
今日の放課後、シャボン玉を飛ばしたところ待ってくれないかな。
会いたい。君に、会いたい。〕
ようやくそこまで書いた時、一息つこうと紙を折り曲げようとして、ハッとした。
私はもう一度ペンを握って、一番上に、〔雲へ〕と書いて、一番下に、〔舞桜より〕と書いた。
「ふぅ…」
手紙を書き終えると、なんだか心が軽くなったように思えて、嬉しかった。
一息ついたつかの間、歩いてくる生徒たちの足音と、しゃべり声が聞こえ、私はとっさに紙を雲の机の引き出しに入れて、自分の机を片付けた。
「あれっ?もう来てたんだねぇ、水瀬さん」
「…あ、えっと。日直の、お手伝いしようと思って」
「えぇ、優しい!!さすが水瀬さん」
数人ほどの男女グループだった。
私は笑顔で「任せて」とだけ笑いながら、日直が書いてある方に目を向ける。
するとそこに、「夕凪雲」という漢字が並べてあって、思わずドキッと胸が高鳴る。
…あの手紙を見た後、雲はどんな顔をするだろう。
「…そう言えば……水瀬さん!」
ぎゃははと笑っていたグループの一人が、立ち上がって私に声をかける。
「うん。どうしたの?」
私がそう答えると、彼女は不満そうに話し始めた。
「…私、昨日見ちゃったんだ。夕凪くんと水瀬さんが、このまえ道路で会ってたでしょ。ただならぬ恋愛感を感じたから、私はすぐに逃げ帰ったんだけど…その後、どうだった?」
…昨日、ということは、キスされた日だ。
「えっ…あ…いや、偶然会っただけだよ」
このまま質問攻めにされると、ぼろを出してしまいそうなので、慌ててごまかす。
「えー、でもさぁ、あれ。絶対夕凪くん、水瀬さんのこと好きじゃん?」
「えっ」
「だっていつも声をかける時、ほかの人より優しい目になるし、しかも水瀬さんが大変な時はいつも助けてあげてたでしょ。あれ、もう恋しているほかないよ」
……。
言われてみれば、どうして助けてくれるんだろうと疑問に思ったところもある。
けど、昔の私は、そんなこと思ってもみなかった。
「ね、水瀬さん。どうするの?もし夕凪くんが告ってきたら」
「えっ…。いや、普通だよ。私とく…夕凪はあんまり接点もないし、まずは友達って感じじゃないかな」
あは、と愛想笑いを浮かべると、彼女はもっと好奇心に聞いてくる。
「いや、でももし、ガチのガチガチだったら!?」
ガチのガチガチでその質問困るんですけど!!
心の中でそう突っ込みながら、私は「えーと」と笑いながら答える。
瞬間、心に残った傷が、開いたような気がした。
「……だよ」
「え?」
「……むり、だよ。私が付き合うとか、結婚するとか、そういうのはもう、むりなんだ」
「え?どういうこと?」
もう、言いたい。
吐き出してしまいたい。
私は、死ぬんだよ…。って。
もう、いいかな。
「私ね、もう死…」
「はよ。舞桜」
ポンッと頭に手がのせられる。
思わず反射的に振り向くと、頬に何か柔らかいものがあたった。
瞬間、目の前にニカッと笑った顔が目の前に現れる。
「え…雲?」
思わずそう言ってしまうと、話していたグループの子たちが「きゃー!」と声を上げた。
え、今のって、頬にキスしたって、こと?
頭がパニック状態になる。
そんな、人前でどうどうとしていいものではない…はず。
「どういうことだよ、夕凪!!俺らの水瀬ちゃんに…キスなんて!!」
堂々とその単語を言う男子たち。
「や、やめてよ」と女子が食ってかかるけれども、男子たちは雲に張り付く。
「どういうことだよ。なあ?おい!」
どうしてそこまでムキになるのかがまずわからないけれど、ひとまず、雲が嫌な顔をしているから、私も止めなくてはと思って、私は雲の前に立った。
「や、やめて…。夕凪も嫌がってるでしょう。それに、喧嘩はよくないよ」
「……だって、コイツ。彼氏でもないのに、カレシ面…」
「彼氏だよ」
男子にかぶせるように、そう言ってきた雲。
一瞬、クラスにいた全員の目が、点になる。
「…え」
私がこぼした声を合図に、教室のひとたちのこえは重なり合って、大きく響いた。
「ったく…。注意してくださいね。他の先生たちにも、迷惑ですよ」
「すみませんでした」
ホールルームで、先生に説教された私たち。
ざわざわとどよめきあうクラスメイト達の横で、私はそっと雲を見た。
手紙…読んだのかな。
それに、私たちってもうカップルなのだろうか。
どんどん胸に不安が積もっていく。
「…先生。少しおなかが痛いので、お手洗いに行ってもいいですか」
「水瀬さん、今は先生が話しているでしょう。どうしてもの時だけにしなさい」
ほんとなのに、と思いながら、わかりました。と答える私。
「はぁ」
ため息が出る。
なんだか雲と出会う前のような、居づらい空間。
「…あ。すいませーん」
瞬間、ひょっこり顔を出した見慣れた顔。
「舞桜ちゃんっていますか」
「え…?舞桜ちゃん?」
「あー…えーと。水瀬さんっていますか?」
「えっ…彼方くん!?」
私が思わずそういうと、「よっ」と軽く手を振ってくれた。
「話って?」
「あぁ…。さっき舞桜ちゃんのお母さんから連絡届いた。正式に、入院が決まったそうだ。明日からは学校には来れない」
「え…」
なんだか、急だ。
発作を起こしてからとか、ぎりぎりまで学校に居られるとか、そういう風をイメージしていたのに、急に連絡が着て、急に呼び出されて、急に人生が終わる。
「…そっ、そっか。もう今日で、学校とも、雲ともお別れかぁ」
ふふ、と笑うと、気まずそうに目をそらした彼方くん。
「一応、手術するんだろう。頑張れよ」
「うん。ありがと」
私がそういうと、くしゃっと笑顔を作る彼方くん。
…もう多分、彼方くんも心の中でわかっているだろう。
私は、助からない。
それでも、笑顔で「手術後」を考えなければいけない。
それが社会のルールで、それが一番、ひとを傷つけない方法だから。
「…そっかぁ。もうこの学校とも、お別れか」
ぽつりとつぶやくと、「また来るのは手術後だね」と笑って答える彼方くん。
違う。そんな笑わなくていいよ、彼方くん。
ほんとうはわかってる。
私も、彼方くんも、お母さんも。
きっと、もうみんなわかってる。
私は、もう……。
「ごめんね、授業中に」
「ううん。大丈夫だよ。また連絡するね」
教室の前まで送ってくれた彼方くんに、そうお礼を言ったあと、私は教室のドアを開け、「遅くなりました」と言いながら机に座った。
「何の話だったんだ?」
先生は少し興味を持ったようにそう聞いてきた。
「あ…えっと」
聞いていないのかな…。
でも、彼方くんの口から、できれば言ってほしい。
「…か、カウンセラーについての、相談っていうか」
「カウンセラー?なにか悩みがあるのか。先生が聞いてやるぞ?」
あぁ、面倒くさいな。
そう思ってしまったことは、絶対に内緒。
秘密にしなくちゃいけない言葉。
「……大丈夫です。進路のことについてなので」
私が笑ってそう答えると、あぁ、と頷いた先生。
「おまえ、進路表まだ提出してなかっただろう。もうそろそろ冬なんだし、もう出せよ」
「…はい。わかりました」
笑ってそう答えると、「それじゃあ、授業を進めるぞ」とまた私たちに背を向ける先生。
私は息を殺しながら、じっと授業が終わるのを待った。
「…もう、お別れかぁ」
放課後、夕陽も出てきたころ、ぽつりとしみつく私の言葉。
一日がこんなにも、あっという間という日は、これまでの人生で一度もなかったと思う。
あぁ、死ぬんだ。私。
いたいほど自覚した、人生の重み。
恋をしなくたって、私は今、こう思っただろう。
この世界が嫌いで、大嫌いでも、それは私の、わたしだけの想いでいい。
きれいごとなんて言いたくも、聞きたくもない。
それでも、世界が大嫌いでも、きっといつか、自分が大好きだなって思うひとが現れるんだということを。
ちゃんとわかってほしいな…。
「あっ…」
校門の前で立ち尽くしている私の後ろで、大きなプリントの山を抱えていた一年生が、石につまずいて転んだのが見えた私は、すぐにそちらに駆け寄る。
「え…」
彼女は少し驚いたように手を止め、私をじっと見つめた。
「これ、重いでしょう。どこに運べばいいの?」
「…だいじょうぶ、です。自分で運びます」
「でも重いでしょう。また転んだら次はケガするかもしれないよ?」
「……でも、これは私の役目で」
「年下を助けるのが、年上の役目なんだよ」
私はそう言って笑って、彼女の抱えていたプリントを半分持った。
「それで、どうすればいい?」
私が顔を覗き込むと、その子の前髪で、目は見れなかったけれども、少しほほを赤くして、「一年四組に、届けてください…」と小さくつぶやいた。
「わかった。任せて」
私がそう言って笑うと、歩き出す彼女。
あぁ…私も、こんなふうにみんなに見えていたんだろうか。
ずっと、ずっと自分を隠して、みんなに笑顔を振りまいて。
でも心はどんどん重くなるばかりで。
人間関係って、本当に難しいよね。
心の中で、隣で歩いている彼女にそう声をかけた私は、再度前に向き直った。
「ほんとうに、ありがとうございました」
「えっ?」
プリントを運び終わったあと、近くにあった自動販売機で飲み物を購入したとき、頭を下げてきた女の子。
「い、いいよ、いいよ!私ももうちょっと学校に居られる時間が欲しかったから」
私が首を振って笑うと、彼女は頭を上げて、おかしそうに首を傾けた。
「どうして学校に居たいと思うんですか…?もしかして…家が居づらいとか」
そう言って慌てたように私に近寄る彼女が、少し可愛くって、「違うよ」と彼女の頭を撫でた。
「私ね、明日から…この学校に来れなくなっちゃうの」
「…え」
「だから、名残惜しいっていうか」
私が笑って言うと、彼女は何かを察したように、「…そうなんですか」と答えた。
「それじゃ、私はもうそろそろ行くね。最後に約束してることがあって…」
そこまで言ったとき、急に雲の顔をおもいだした。
前までの私は、怖くて震えていたかもしれない。
こんなふうに、自信満々に笑えなかったかもしれない。
でも、今は違う。
「約束…?」
首をかしげる彼女に、私は思いっきり笑いかけた。
たったっと足を踏み出すたびに、重い鎖のようなものが、私の足に絡みついていくような気がする。
それでも、私は走る。
彼がいる場所へ。
私が彼に、恋した場所へ。
その時、前の方から歩いてくるお母さんの姿が見えた。
「あっ、舞桜!」
お母さんは予想通り、私の腕をつかんで、私の動きを止めた。
「何してるの。走ったら肺が圧迫されて危ないでしょう。もう帰るわよ」
そう言って腕を引っ張っていくお母さん。
「やっ…私、行かなきゃ!」
私はお母さんの手を振り払って、また走り出そうとしたけれど、お母さんの「舞桜!!」という大声に、動きを止める。
「どうして?どこに行くのよ。荷物もまとめなきゃいけないでしょう。帰りましょうよ。それとも…誰かに会いに行くの?」
顔は見なくても、心配しているということはわかる。
それでも、私は行かなきゃいけない。
「…ごめん。お母さん。ちゃんと戻るから!」
私は笑って、また走り出す。
続けて後ろから、「どこへ行くの!?」というお母さんの声。
私は、もう一度動きを止めて、振り返った。
「……好きなひとのところ!」
公園のすみっこの小さいベンチに、彼はいた。
イヤホンを耳につけて、なんでもない顔で座っていた。
胸が痛いほど高鳴る。
諦めてしまおうかというほど、ドキドキする。
でも、言いたい。
私は、君に伝えたい。
「くも」
私がそう声をかけると、ゆっくりと顔を上げた彼。
イヤホンを外しながら彼は、「舞桜」と小さくこぼした。
「ごめんね、遅くなって」
私がそう笑うと、「ほんとだよ」と突っ込む雲。
「…で?急に改まって、どうしたんだよ」
立ち上がった雲の横に並んだ私は、笑顔で伝えた。
「…明日から、入院するの。もう学校、行けなくなっちゃうんだ」
とたん、体を硬くして硬直する雲。
「たぶん、もう一生外には出られないと思う。手術も始まるみたい。緊張するー!」
話は、一方通行になった。
雲が何もしゃべらないからだ。
でも、ちゃんと聞いてくれているということはわかる。
「…もう、雲にも会えないんだ」
ぽつりとこぼすと、途端に涙があふれ出た。
それでも、私は続けた。
「雲には感謝することがいっぱいあるよ。ありがとう」
「…ん」
絞り出した声、というように答えた雲に、私はまた笑いかけた。
「…そんな顔、しないでよ。こっちまで悲しくなっちゃうじゃん」
私がそういうと、雲の目から、一筋、涙がこぼれた。
まさか泣くなんて思っていなかったけれども、二人して泣いた。
そして、笑った。
もう最後だね、なんて、もう言わない。
だから今だけ、ずっと一緒に居よう。
二人で笑った空は、星が輝いていた。
もう、肌寒い季節になったみたいです。
約束の土曜。
指定された家に向かっていた、アホな私は、目の前に現れた豪邸に絶句した。
何十もある部屋。
何百もある窓に、広い裏庭。
そして、家のお風呂の百倍ほど大きい玄関。
間違いない。ここはお城か何かだろう。
目をぱちくりさせる私を見て、笑いをこらえている雲。
「何してんだよ。早く上がれ」
「いやっ…なんか恐れ多くて」
私がそう答えると、彼は再度耳をピクピクと振るわせて笑いをこらえる。
「うちの親は今いねぇし、早く上がれ。掃除してもらうのは俺の部屋だけだから」
そう言われて、しぶしぶ家に上がらせてもらう私。
そして…雲の部屋を見て、絶句する。
いや、きっと広い空間が広がっているはずだ。
窓は何個もあって、個室の中に、また別の部屋がある。
広すぎて絶句する…という考えもあるだろう。
それでも私は、どうしても散らばった服や、転がったくしゃくしゃの紙きれ、鉛筆、消しゴムなどの文房具。
暑苦しそうな布団や、小さな枕などが、どうしても、どうしても気になってしまった。
「…なに、これ」
予想もしてなかった破壊力に、私は思わず、その場に立ちすくんでしまう。
「あー。そういやぁ、数学のテスト結果、どこやったかなぁ」
そう言って探し回る雲を別に、私は息をのんだ。
これだけ広い部屋を、足の踏み場もなくしてしまうとは。
雲…恐るべし。
「よ…よし」
私は決意を決め、袖をまくって腕まくり。
パンパンッとほほをたたいて、気合を入れた。
ほうきと掃除機を片手に、私は雲の部屋に、一歩踏み出した―。
「…はぁ。ほんと疲れた。何なのあの部屋」
出された高級そうなお菓子をほおばりながらぶつぶつと文句を言う私に、苦笑した雲。
「まあいいじゃねぇか。今日はうちのご飯食べれるぞ」
「うちのって言ったって、私が作るんでしょ…まったくもう」
何もできない天才め。
心の中でそうぐちった後、私はお菓子を諦め、キッチンへ向かう。
時計の時刻は、午後五時四十八分をさしていた。
今まで、四時間も掃除をしていたんだと思うと、ほんとうに気が重い。
結果から言うと…雲の部屋はきれいになったと思う。
途中で、出てきた服に埋もれていた大きなテレビを倒しかけた以外は、何事もなく、スムーズに終わらせることができたと思う。
けれど、さすがに体力的にも、これが月に三回もあると思うとキツイ。
プラステスト勉強と、受験勉強。
塾の宿題まであるとなると、さすがの私でも一苦労。
そして…なんと雲の家で食事を取ることになった。
途中で雲のスマホにかかってきた電話の相手は、どうやら雲のお母さんだったらしく、「部屋が綺麗になった」と雲が報告すると、見せてほしいと頼まれたそうだ。
雲は画面を共有して自分の部屋を見せ、片付けている私の写真も撮って、お母さんに送ったらしい。
するとお母さんは、みるみる私にほれ込んで、食事でもてなしてあげなさいと言われたそうだ。
そして…この結果である。
「ええと、今日のメニューは…海鮮丼かな。魚ばかり冷蔵庫にあるし」
「おお。あまり食べない献立だな」
ウキウキしている雲をよそに、私は準備に取り掛かった。
途中で雲が、「手伝うぞ」と手を貸してくれたけれども、包丁で指をかすって絆創膏を貼るはめに。
最悪の事態を想像してしまった私は、雲に「部屋を汚さない程度に、部屋で遊んでて」と命令してから約三十分。
魚のおいしそうな香りと共に出来上がった海鮮丼は、見た目から見るに、なかなかの出来だ。
「いただきます」
雲も呼んで、いざ食事…!
緊張しながら「食べて」と雲を促すと、雲はスプーンをゆっくりとご飯と刺身の間に入れ、パクッと一口。
「…美味い」
雲の最初の一言目が…それだった。
「ほんと…?よかったぁ。雲の口に合って何よりです」
私がそう言ってお辞儀をすると、「わざわざサンキューな」と次の口を進める雲。
そんなにおいしいの、と苦笑しながら、私も一口食べてみる。
「…確かにおいしいね」
私がそう言って笑うと、「おまえ、絶対料理のことに関してはナルシストだろ」と言われたため、雲のお替りはなしということになりかけたけれど、雲の必殺技、くすぐり攻撃を受けて、あきらめることにした。
「ありがとうね。ご飯まで食べさせては…もらってないね」
ふふ、と笑うと、雲も「確かにそうだな」と笑った。
「美味かった。ありがとう」
「いーえ。口に合ってよかった」
もうすっかりあたりは暗くなってきた。
時計の針は、七時十二分を指していた。
「一人で帰るからいいよ」というと、雲が「ついていく」と言ってくれてから、もう三分経過。
結構私と雲の家は、距離が遠い。
「……聞いちゃいけない話、聞いてもいい?」
沈黙を破ったのは、私。
いつもなら、絶対こんなことしない。
だけど、今は、一緒に居たい。
聞きたい。ずっと気になっていたこと。
「…雲の好きな人ってさ、もしかして、如月さん、だったりする?」
聞いちゃった。
夜でもわかるくらい、今私のほほは熱を持っている。
“笑止千万”
それが本当のはず。
それが約束のはず。
だけど私は、無理だった。
だって、雲が好きだ。
好きなら何でもしていい。そんなことは許されないけれど。
思いを残してなんて、死にたくない。
「…俺の、すきなひと?」
真っ暗な夜にひびく、ハスキーボイス。
「俺の、すきなひとは…」
ドキドキする。
心臓が飛び跳ねる。
今この瞬間、死んでしまいそう。
顔が赤いのを悟られたくなくて、下を向いてうつむいていると、雲の細く、長い手が、私の顎を上に向けさせた。
真っ黒な目と、目が合う。
ドキドキする。
恋ってこんなに、胸が痛いんだ。
雲の顔が、だんだん拡大されていく。
そして気づけば…柔らかい感触が、私のほほと、唇に走った。
頬には大きな手が添えられていて、これは…、初めてだった。
「えっ…」
息が吸えるようになって、一番先にポロリと出た言葉は、それだけだった。
「…これ、俺の気持ちだから」
耳元でささやかれた声に、胸が痛いほど脈を打つ。
どうしよう。倒れてしまうほど、熱い。
すごく、ドキドキする…!!
「それって、どういう…」
私が声をかける前に、彼はくるりと私に背を向け、夜の道をそのまま戻っていった。
ひとりになって、なんだか夜が長く感じてしまった。
「…すきって、こと?」
家に帰って、ベットの毛布に顔を押し付けてから、ひとりで考え続けた結果。
「キス」を反対から読めば、「スキ」という言葉になる。
だから、もしかしたら…。
…私は、うぬぼれているんだろうか。
キスをされたくらいで、まだ好きとは言われてない。
本人から、直接聞かないと、まだわからない。
…でも、もし。もし、好きだと、そう言われたら…。
“私は、どうするんだろう”
手もとにあったスマホの電源をいれて、LINEアプリをタップする。
一番上に出てきた、【彼方くん】の文字。
するりと指がそこに触れて、画面は会話画面に切り替わる。
メッセージを打つ場所を、何も考えずにタップしたところで、意識を取り戻す。
…どうして私、彼方くんに連絡しようとしていたんだろう。
急いで電源を落とそうとして…やめた。
私はもう一度、メッセージを打つ空欄に指を伸ばして、画面に文字が現れると、ぽつりぽつりと吐き出すように、文字を入力していった。
【いま、はなせる?】
気づけば、一番下に表示されているメッセージには、そう書かれていた。
既読は、つかない。
分かってる。彼方くんも、暇じゃない。
親戚の高校生に付き合っている暇は、ない。
それなのに。
メッセージのすぐ横に、「既読」の文字。
そして、私のメッセージは、下から二番目になった。
【どうしたの?悩みがあるなら聞くよ。俺でよかったら】
なんで、彼方くんは全部受け止めてくれるんだろう。
なんで、彼方くんは私のことを認めてくれるんだろう。
【電話していい?】
ダメだってわかっているのに、私の頭は回らなくて。
気づけば表示されている画面は、通話画面にかわっていた。
「もし、もし…」
〈あ、もしもし、舞桜ちゃん?〉
「うん…ごめんね、きゅうに」
〈いやいや、大丈夫だよ。そろそろ仕事も終わるころだったし。それで?どうしたの。何か悩みごと?〉
「…あの、ね」
口がうまく開かない。
しゃべれない。
話したい。
彼方くんに、私の思いを、話したい…!
「私、雲にどんな思いで、どんな感情で接せばいいか、わからなくなっちゃって……」
〈……〉
少しの間が空く。
やっぱり、迷惑だったのかな…。
「ご…ごめんなさ」
〈…何だよ、負け犬の遠吠えをしろっていうのか〉
「え?」
ぼそっと聞こえた声に、私の鼓動は、早まるのをやめた。
〈…なんでもないよ。…舞桜ちゃんは、雲くんが好きなんだよね〉
「…うん。すき。だいすき」
ちょっと恥ずかしいけど、雲への気持ちは隠さないって決めたんだ。
どうどうと、言おう。
〈なら、そのままでいいと思うよ。雲くんが好きなら、好きでいいと思う。接し方を変にしなくても、舞桜ちゃんは、舞桜ちゃんのままで頑張ればいいよ〉
ハッ…と口を開けようとして、閉じた。
唇をかみしめる。
声を押し殺す。
なんで私、迷っているんだろう。
「…でも、私は……人とは、違う。雲とは、違う」
思っていないことが、口からするする出てくる。
違う。思っていないこと、じゃない。
ずっと隠してきた、自分自身にうそをついて、守ってきたものなんだ。
この言葉は、私の“想い”なんだ。
「私は、もう死ぬ。死んじゃう…。生きられない。このままじゃ、雲が悲しんじゃう…!両想いになったとしても、私は……」
〈舞桜ちゃん、なにか勘違いしてない?〉
声を荒げそうになった私を、彼方くんの声が止める。
〈舞桜ちゃんの人生は、舞桜ちゃんのものだよ〉
人生。
それは誰もが持っているものだ。
ひとりひとつずつあって、全部平等で。
それでも、理不尽な言い訳やウソで、人生の電池が、切れてしまうことがある。
「…」
何も、言えなかった。
私の人生は、全部病気に流されたままで、病気が中心で動いていた。
私の人生なんて、自分で決めない。
決められないと思っていた。
〈舞桜ちゃんの人生は、病気のものじゃない。君の人生は病気で終わるわけにはいかないでしょ?〉
「…彼方くん」
私のことを、考えてくれているんだとういうことが、よくわかる。
でも、どうしてそこまでしてくれるんだろう。
どうして私に、付き合ってくれるんだろう…。
「…どうして彼方くんはそんなに私のことについて考えてくれるの…?」
〈…舞桜ちゃん、気づいてない?〉
「え…?」
気づいていないって、どういう意味…?
〈好きなんだ。舞桜ちゃんのこと〉
「…えっ?」
すき…?
彼方くんが…私のことを好き…?
「それって…友達として…親戚としてって意味で」
〈違う。恋愛感情っていう意味で、好き〉
ストレートの、告白だった。
「え…。なおさらどうしてかわからない。なら、どうして私の話を、雲との話を聞いてくれてたの…?」
わたしなら、きっと胸が破裂しそうなほど、嫌だと思ってしまう。
雲が、ほかの女の子の相談なんかしてきたら、私はもう死んでしまうほど胸が苦しくなる。
いやだと思ってしまう。
それなのに、どうして、彼方くんは私に付き合ってくれているんだろう。
〈俺は、舞桜ちゃんが幸せなら、それでいいと思っているんだ〉
「私が…幸せなら…??」
頬が濡れる。
熱いしずくが、私のほほを濡らした。
〈え…?もしかして、泣いてる?〉
「ち、ちがっ…泣いてなんて、ない」
嘘をついても、今回は本当にウソがつけない。
〈嘘だ〉と笑われてしまった私のほほには、さらにほほが濡れてしまった。
「…最近、私、泣いてばかりだなぁ」
〈泣いていいよ。泣けば泣くほど、人間って成長していくからね〉
…彼方くんは、何回泣いたんだろう。
私が、思わず言った言葉で、彼方くんを傷つけて、泣かせてしまったことがあるかもしれない。
「…ありがとう。彼方くん、ほんとうに、ありがとう…!」
泣きながらそういうと、彼はふふっと笑って、〈どういたしまして〉と優しく答えてくれた。
画面が切り替わって、メッセージ画面に戻る。
「…私の人生は、私のもの、かぁ」
なんだか明日、雲に言えるような気がする。
「ありがとう」と、「大好き」を。
言える気がする。
私は安心した気持ちで、そっと眠りに落ちた。
「おはよう。舞桜。昨日はぐっすり眠れたみたいねぇ」
「っ、え…?」
「昨日、少しだけ覗いたの。そしたら、もう幸せそうにぐっすりだったわよ」
幸せそうに、ぐっすり。
「そっか。ならよかった!」
私は笑顔でそういって、横にあったカバンをつかんだ。
「えっ?あ、朝ごはんは??」
「今日はいいの!お弁当ありがとう。行ってきます!」
私はすぐさま家を飛び出て、鍵をガチャリと閉めた。
「えぇ、ちょっと舞桜!」
ドアの奥からそんな声が聞こえてきたけれど、私は振り返ることはなかった。
ごめんね、お母さん。
ごめんね、彼方くん。
ごめんね、くも。
私、今日まできっと、焦っていたんだと思う。
でも、もう怖くない。
私は、生きたい。
私は思い切り走って、学校を目指した。
お腹痛くなるだろうとわかっているけれど、私は走らなきゃいけなかった。
校門は、まだ空いていなくて私ひとり、立ち尽くしているだけだった。
時計に目を落とすと、針は七時三十分をさしている。
そろそろ校門が開く時間だ。
そう思っていると、ひとりの体育教師の先生が、校門を開けに来てくれているのが見え、とっさに私は花壇に身を隠してしまった。
ギギギと、古そうな音を立てて動く門。
先生は、校門を開けたあと、「あ、ホイッスル…」と言って、学校の中に走り去っていってしまった。
私はそっと立ち上がり、校門を駆け抜けた。
靴箱につくと、すぐに履き替えて、いそいで教室に入る。
そして、バックの中に入っていた小さな紙を取り出して、そこに文字を書いていく。…と、そこで、私の突進は終わった。
さっきとは違い、まったく言葉が出て来ない。
ペンが進まない。
…ほかの女の子たちなら、こういう言葉がすんなり出てくるんだろうか。
なぜか、急に、暗い気持ちになる。
私が、もし病気持ちの女の子じゃなかったら、こういうことをするのは、すごくドキドキして、でも頑張るっていう、青春を楽しめたんだろうか。
………違う。
こうなったのは、私が、わたしだからだ。
私は再度、緩んだ手をぎゅうっと持ちかえ、一字一字、書いていく。
〔ごめんね。君の前で泣いてごめんね。たくさんひどいことを言ってごめんね。すきだって言ってごめんね。病気を持っていてごめんね〕
そこまで書いて、違う。と思った。最後の二つは、私がずっと思っていることではあるけれども、そう言ってしまえば、あの夜の告白も、謝罪する文章になってしまう。
私は、消しゴムをつかんで、「すきだって言ってごめんね」と、
「病気を持っていてごめんね」を消した。
そしてそこの部分を、「たくさん、たくさん、ごめんね」にした。
〔ありがとう。世界の綺麗な部分を見せてくれて、ありがとう。見せるって言ってくれて、ありがとう。好きだって言ってくれてありがとう。〕
ありがとうはすんなりと出て、その下にまた文字を書く。
〔私は、君が好き。大好き。けど、私はもう生きられない。だから、私の一生分のありがとうと、ごめんを伝えたい〕
怖くないと言ったら、嘘になる。
それでも私は書いた。
この手紙を、最後まで。
〔ごめんね。君の前で泣いてごめんね。たくさんひどいことを言ってごめんね。たくさん、たくさん、ごめんね。
ありがとう。世界の綺麗な部分を見せてくれて、ありがとう。見せるって言ってくれて、ありがとう。好きだって言ってくれてありがとう。
私は、君が好き。大好き。けど、私はもう生きられない。だから、私の一生分のありがとうと、ごめんを伝えたい―。
今日の放課後、シャボン玉を飛ばしたところ待ってくれないかな。
会いたい。君に、会いたい。〕
ようやくそこまで書いた時、一息つこうと紙を折り曲げようとして、ハッとした。
私はもう一度ペンを握って、一番上に、〔雲へ〕と書いて、一番下に、〔舞桜より〕と書いた。
「ふぅ…」
手紙を書き終えると、なんだか心が軽くなったように思えて、嬉しかった。
一息ついたつかの間、歩いてくる生徒たちの足音と、しゃべり声が聞こえ、私はとっさに紙を雲の机の引き出しに入れて、自分の机を片付けた。
「あれっ?もう来てたんだねぇ、水瀬さん」
「…あ、えっと。日直の、お手伝いしようと思って」
「えぇ、優しい!!さすが水瀬さん」
数人ほどの男女グループだった。
私は笑顔で「任せて」とだけ笑いながら、日直が書いてある方に目を向ける。
するとそこに、「夕凪雲」という漢字が並べてあって、思わずドキッと胸が高鳴る。
…あの手紙を見た後、雲はどんな顔をするだろう。
「…そう言えば……水瀬さん!」
ぎゃははと笑っていたグループの一人が、立ち上がって私に声をかける。
「うん。どうしたの?」
私がそう答えると、彼女は不満そうに話し始めた。
「…私、昨日見ちゃったんだ。夕凪くんと水瀬さんが、このまえ道路で会ってたでしょ。ただならぬ恋愛感を感じたから、私はすぐに逃げ帰ったんだけど…その後、どうだった?」
…昨日、ということは、キスされた日だ。
「えっ…あ…いや、偶然会っただけだよ」
このまま質問攻めにされると、ぼろを出してしまいそうなので、慌ててごまかす。
「えー、でもさぁ、あれ。絶対夕凪くん、水瀬さんのこと好きじゃん?」
「えっ」
「だっていつも声をかける時、ほかの人より優しい目になるし、しかも水瀬さんが大変な時はいつも助けてあげてたでしょ。あれ、もう恋しているほかないよ」
……。
言われてみれば、どうして助けてくれるんだろうと疑問に思ったところもある。
けど、昔の私は、そんなこと思ってもみなかった。
「ね、水瀬さん。どうするの?もし夕凪くんが告ってきたら」
「えっ…。いや、普通だよ。私とく…夕凪はあんまり接点もないし、まずは友達って感じじゃないかな」
あは、と愛想笑いを浮かべると、彼女はもっと好奇心に聞いてくる。
「いや、でももし、ガチのガチガチだったら!?」
ガチのガチガチでその質問困るんですけど!!
心の中でそう突っ込みながら、私は「えーと」と笑いながら答える。
瞬間、心に残った傷が、開いたような気がした。
「……だよ」
「え?」
「……むり、だよ。私が付き合うとか、結婚するとか、そういうのはもう、むりなんだ」
「え?どういうこと?」
もう、言いたい。
吐き出してしまいたい。
私は、死ぬんだよ…。って。
もう、いいかな。
「私ね、もう死…」
「はよ。舞桜」
ポンッと頭に手がのせられる。
思わず反射的に振り向くと、頬に何か柔らかいものがあたった。
瞬間、目の前にニカッと笑った顔が目の前に現れる。
「え…雲?」
思わずそう言ってしまうと、話していたグループの子たちが「きゃー!」と声を上げた。
え、今のって、頬にキスしたって、こと?
頭がパニック状態になる。
そんな、人前でどうどうとしていいものではない…はず。
「どういうことだよ、夕凪!!俺らの水瀬ちゃんに…キスなんて!!」
堂々とその単語を言う男子たち。
「や、やめてよ」と女子が食ってかかるけれども、男子たちは雲に張り付く。
「どういうことだよ。なあ?おい!」
どうしてそこまでムキになるのかがまずわからないけれど、ひとまず、雲が嫌な顔をしているから、私も止めなくてはと思って、私は雲の前に立った。
「や、やめて…。夕凪も嫌がってるでしょう。それに、喧嘩はよくないよ」
「……だって、コイツ。彼氏でもないのに、カレシ面…」
「彼氏だよ」
男子にかぶせるように、そう言ってきた雲。
一瞬、クラスにいた全員の目が、点になる。
「…え」
私がこぼした声を合図に、教室のひとたちのこえは重なり合って、大きく響いた。
「ったく…。注意してくださいね。他の先生たちにも、迷惑ですよ」
「すみませんでした」
ホールルームで、先生に説教された私たち。
ざわざわとどよめきあうクラスメイト達の横で、私はそっと雲を見た。
手紙…読んだのかな。
それに、私たちってもうカップルなのだろうか。
どんどん胸に不安が積もっていく。
「…先生。少しおなかが痛いので、お手洗いに行ってもいいですか」
「水瀬さん、今は先生が話しているでしょう。どうしてもの時だけにしなさい」
ほんとなのに、と思いながら、わかりました。と答える私。
「はぁ」
ため息が出る。
なんだか雲と出会う前のような、居づらい空間。
「…あ。すいませーん」
瞬間、ひょっこり顔を出した見慣れた顔。
「舞桜ちゃんっていますか」
「え…?舞桜ちゃん?」
「あー…えーと。水瀬さんっていますか?」
「えっ…彼方くん!?」
私が思わずそういうと、「よっ」と軽く手を振ってくれた。
「話って?」
「あぁ…。さっき舞桜ちゃんのお母さんから連絡届いた。正式に、入院が決まったそうだ。明日からは学校には来れない」
「え…」
なんだか、急だ。
発作を起こしてからとか、ぎりぎりまで学校に居られるとか、そういう風をイメージしていたのに、急に連絡が着て、急に呼び出されて、急に人生が終わる。
「…そっ、そっか。もう今日で、学校とも、雲ともお別れかぁ」
ふふ、と笑うと、気まずそうに目をそらした彼方くん。
「一応、手術するんだろう。頑張れよ」
「うん。ありがと」
私がそういうと、くしゃっと笑顔を作る彼方くん。
…もう多分、彼方くんも心の中でわかっているだろう。
私は、助からない。
それでも、笑顔で「手術後」を考えなければいけない。
それが社会のルールで、それが一番、ひとを傷つけない方法だから。
「…そっかぁ。もうこの学校とも、お別れか」
ぽつりとつぶやくと、「また来るのは手術後だね」と笑って答える彼方くん。
違う。そんな笑わなくていいよ、彼方くん。
ほんとうはわかってる。
私も、彼方くんも、お母さんも。
きっと、もうみんなわかってる。
私は、もう……。
「ごめんね、授業中に」
「ううん。大丈夫だよ。また連絡するね」
教室の前まで送ってくれた彼方くんに、そうお礼を言ったあと、私は教室のドアを開け、「遅くなりました」と言いながら机に座った。
「何の話だったんだ?」
先生は少し興味を持ったようにそう聞いてきた。
「あ…えっと」
聞いていないのかな…。
でも、彼方くんの口から、できれば言ってほしい。
「…か、カウンセラーについての、相談っていうか」
「カウンセラー?なにか悩みがあるのか。先生が聞いてやるぞ?」
あぁ、面倒くさいな。
そう思ってしまったことは、絶対に内緒。
秘密にしなくちゃいけない言葉。
「……大丈夫です。進路のことについてなので」
私が笑ってそう答えると、あぁ、と頷いた先生。
「おまえ、進路表まだ提出してなかっただろう。もうそろそろ冬なんだし、もう出せよ」
「…はい。わかりました」
笑ってそう答えると、「それじゃあ、授業を進めるぞ」とまた私たちに背を向ける先生。
私は息を殺しながら、じっと授業が終わるのを待った。
「…もう、お別れかぁ」
放課後、夕陽も出てきたころ、ぽつりとしみつく私の言葉。
一日がこんなにも、あっという間という日は、これまでの人生で一度もなかったと思う。
あぁ、死ぬんだ。私。
いたいほど自覚した、人生の重み。
恋をしなくたって、私は今、こう思っただろう。
この世界が嫌いで、大嫌いでも、それは私の、わたしだけの想いでいい。
きれいごとなんて言いたくも、聞きたくもない。
それでも、世界が大嫌いでも、きっといつか、自分が大好きだなって思うひとが現れるんだということを。
ちゃんとわかってほしいな…。
「あっ…」
校門の前で立ち尽くしている私の後ろで、大きなプリントの山を抱えていた一年生が、石につまずいて転んだのが見えた私は、すぐにそちらに駆け寄る。
「え…」
彼女は少し驚いたように手を止め、私をじっと見つめた。
「これ、重いでしょう。どこに運べばいいの?」
「…だいじょうぶ、です。自分で運びます」
「でも重いでしょう。また転んだら次はケガするかもしれないよ?」
「……でも、これは私の役目で」
「年下を助けるのが、年上の役目なんだよ」
私はそう言って笑って、彼女の抱えていたプリントを半分持った。
「それで、どうすればいい?」
私が顔を覗き込むと、その子の前髪で、目は見れなかったけれども、少しほほを赤くして、「一年四組に、届けてください…」と小さくつぶやいた。
「わかった。任せて」
私がそう言って笑うと、歩き出す彼女。
あぁ…私も、こんなふうにみんなに見えていたんだろうか。
ずっと、ずっと自分を隠して、みんなに笑顔を振りまいて。
でも心はどんどん重くなるばかりで。
人間関係って、本当に難しいよね。
心の中で、隣で歩いている彼女にそう声をかけた私は、再度前に向き直った。
「ほんとうに、ありがとうございました」
「えっ?」
プリントを運び終わったあと、近くにあった自動販売機で飲み物を購入したとき、頭を下げてきた女の子。
「い、いいよ、いいよ!私ももうちょっと学校に居られる時間が欲しかったから」
私が首を振って笑うと、彼女は頭を上げて、おかしそうに首を傾けた。
「どうして学校に居たいと思うんですか…?もしかして…家が居づらいとか」
そう言って慌てたように私に近寄る彼女が、少し可愛くって、「違うよ」と彼女の頭を撫でた。
「私ね、明日から…この学校に来れなくなっちゃうの」
「…え」
「だから、名残惜しいっていうか」
私が笑って言うと、彼女は何かを察したように、「…そうなんですか」と答えた。
「それじゃ、私はもうそろそろ行くね。最後に約束してることがあって…」
そこまで言ったとき、急に雲の顔をおもいだした。
前までの私は、怖くて震えていたかもしれない。
こんなふうに、自信満々に笑えなかったかもしれない。
でも、今は違う。
「約束…?」
首をかしげる彼女に、私は思いっきり笑いかけた。
たったっと足を踏み出すたびに、重い鎖のようなものが、私の足に絡みついていくような気がする。
それでも、私は走る。
彼がいる場所へ。
私が彼に、恋した場所へ。
その時、前の方から歩いてくるお母さんの姿が見えた。
「あっ、舞桜!」
お母さんは予想通り、私の腕をつかんで、私の動きを止めた。
「何してるの。走ったら肺が圧迫されて危ないでしょう。もう帰るわよ」
そう言って腕を引っ張っていくお母さん。
「やっ…私、行かなきゃ!」
私はお母さんの手を振り払って、また走り出そうとしたけれど、お母さんの「舞桜!!」という大声に、動きを止める。
「どうして?どこに行くのよ。荷物もまとめなきゃいけないでしょう。帰りましょうよ。それとも…誰かに会いに行くの?」
顔は見なくても、心配しているということはわかる。
それでも、私は行かなきゃいけない。
「…ごめん。お母さん。ちゃんと戻るから!」
私は笑って、また走り出す。
続けて後ろから、「どこへ行くの!?」というお母さんの声。
私は、もう一度動きを止めて、振り返った。
「……好きなひとのところ!」
公園のすみっこの小さいベンチに、彼はいた。
イヤホンを耳につけて、なんでもない顔で座っていた。
胸が痛いほど高鳴る。
諦めてしまおうかというほど、ドキドキする。
でも、言いたい。
私は、君に伝えたい。
「くも」
私がそう声をかけると、ゆっくりと顔を上げた彼。
イヤホンを外しながら彼は、「舞桜」と小さくこぼした。
「ごめんね、遅くなって」
私がそう笑うと、「ほんとだよ」と突っ込む雲。
「…で?急に改まって、どうしたんだよ」
立ち上がった雲の横に並んだ私は、笑顔で伝えた。
「…明日から、入院するの。もう学校、行けなくなっちゃうんだ」
とたん、体を硬くして硬直する雲。
「たぶん、もう一生外には出られないと思う。手術も始まるみたい。緊張するー!」
話は、一方通行になった。
雲が何もしゃべらないからだ。
でも、ちゃんと聞いてくれているということはわかる。
「…もう、雲にも会えないんだ」
ぽつりとこぼすと、途端に涙があふれ出た。
それでも、私は続けた。
「雲には感謝することがいっぱいあるよ。ありがとう」
「…ん」
絞り出した声、というように答えた雲に、私はまた笑いかけた。
「…そんな顔、しないでよ。こっちまで悲しくなっちゃうじゃん」
私がそういうと、雲の目から、一筋、涙がこぼれた。
まさか泣くなんて思っていなかったけれども、二人して泣いた。
そして、笑った。
もう最後だね、なんて、もう言わない。
だから今だけ、ずっと一緒に居よう。
二人で笑った空は、星が輝いていた。
もう、肌寒い季節になったみたいです。