わたしの結婚〜異能の御曹司に見出され、愛されて〜
11、暗雲
おちょぼの親が見つからないと弁護士が知らせてきたという。
『武器屋』から親元をたどるはずが、住所の場所にはすでにいなかったらしい。『武器屋』へ転居の連絡もないのなら、もう娘のことは捨てたのと同じだ。
「それならもういいだろう。親はもうおちょぼは要らないのだ」
「俺もそうは思うが、養子を取るのは縁組だ。親の承諾が要る。人を増やして探させるから、もう少し時間をくれ」
おちょぼの親が不明なのは柊理の責任ではない。待つしかない。
これも彼の勧めで、その間に教師を雇い、おちょぼに勉強させることにした。
「入ったはいいが、学力が低くて周囲についていけないと可哀想だ」
らしい。
彼女の部屋で勉強する様子をのぞくこともある。読み書きでは作文や文法。数の問題などもわたしには難しいものもある。遊郭では教わることのなかったものばかりだ。
女学校でなじむための勉強で、生活に必要なものではない。知識は贅沢の一つと言っていい。それが、この先のおちょぼを作っていく。
惜しみなく与えてやる柊理を偉い男だと思った。金があるなら当たり前ではない。金の余裕があっても、施さない人はいる。『武器屋』でがめついすけべえな金満家は、山ほど見てきた。
おちょぼは親に捨てられても幸福な子だと思った。
おじい様の喪が開けた。
それを待っていたように、あちこちから招待状が届く。園遊会やら夜会。晩餐会や演奏会。会が目白押しだ。
柊理はそれにすべて出るわけではない。まず野島がふるいにかけ、残ったものの中から気を引くものだけに出席の返事を出させた。
そんな社交にはわたしもつき合う。華族の夫人の仕事の大きな一つだ。洋装にも慣れ、かかとの高い靴で足を痛めることもなくなった。それでも和装の方が落ち着く。彼が特に言わない限り、半分以上はそれで通した。
ある人の結婚披露宴だった。気候もよく天気に恵まれ、離宮のお庭での催しだった。柊理はわたしを促し、人々の輪を連れ歩く。紹介、挨拶ののちの短い会話。そんなことを繰り返す。
「久しぶりだね。父上のご不幸の前だから、一年以上も会っていなかった」
「お久しぶりです、川辺様」
柊理はそこでわたしを紹介した。彼に合わせ、頭を下げる。何者か知らないが、彼の口調や態度から目上の人物なのはわかる。面長でちょび髭をした中年だ。
「ほう、美しい夫人だね」
辞令だけとはいえない視線がねばっこく身体をはう。女好きだな、とすぐに気づく。
「君の結婚の報を見て、娘たちが落胆していた。お父様がしっかりしてくれないから上物は次々人のものになってしまうなどと、小言を言われた」
「ご冗談を。お嬢様方はまだお若いでしょうに」
「女学校中に結婚する者も多い中、十六、七は若くない。容貌が麗しければ、わしももっと方々に売り込むのだが、これが親の欲目でも並かそれ以下だ。強引に押しつけなどしたら、先方に迷惑だ。恨まれてしまう。ははは」
あいづちに困る話で、柊理も小さく苦笑していた。そこへ背広を着たメガネの男が近づき、川辺に声をかけた。
「御前、失礼いたします」
メガネの男は恭しい態度で川辺に耳打ちをする。それをいい潮に、わたしたちは離れた。
「誰だ?」
「川辺公爵。元勲の筋で大物だ」
「すけべだろ、どうせ」
「そう、艶聞の多い人だ。目が合ったから、避けるわけにもいかなかった。…姫をやたらと見ていたな。嫌だったろ?」
「平気だ。見られることには慣れている」
「…俺が気に入らん」
彼をなだめるつもりで手を取って握った。気難し屋ではないが、機嫌を損ねるとわたしから見る横顔が硬くなる気がする。
「よいではないか。減るものではなし」
「そんな問題じゃない」
「よしよし。帰ったらまたそなたの上に乗っかってやる。柊理はあれが好きだろう? 照れなくてもよいぞ。身体は正直だからの」
柊理は黙ってしまった。
香子やその夫君の有明の君もいた。
「帰蝶さん、礼司のモデルになって下さったのね。ありがとう」
わたしのスケッチを描いた後では、礼司はアトリエに籠りがちだという。絵の具を使う段階では、またモデルを頼まれていた。どんな絵に仕上がるのか、わたしも楽しみではある。
「さすが新婚で仲がいい。ずっと手をつないでいるのかい?」
有明の君が微笑ましそうに言う。
これはわたしがさっき彼の手を取っただけのこと。手を外そうとすると、ぎゅっと握られた。
彼を見上げると、知らん顔で談笑している。
機嫌は治ったようだ。
探させていたおちょぼの親のいどころがわかったという。
弁護士を通じて話を進めると、柊理は言った。それを聞き、やっと女学校入学の準備が出来ると嬉しくなった。
それから十日も過ぎてのこと。
夕食の後だ。柊理が言った。
「後で俺の部屋に来てくれ。急がなくてもいい」
何だろうと思ったが、彼はその後電話がかかり、そちらへ行ってしまった。
おちょぼが床へ入った後で、彼の部屋に向かった。
入ると誰もおらず、書斎の椅子に座って待った。ほどなく柊理がやって来る。
「何だ? そなたに乗ってほしいのか?」
「それもいいが、ちょっと話がある」
彼は壁にもたれ片足を曲げた。腕を組む。やや硬い雰囲気だ。
「おちょぼの養子は無理のようだ」
「え」
「弁護士の話では、親があの子を引き取りたいと言ってきた」
「だって…」
彼がうなずいた。途切れたわたしの言葉の先をつなぐ。
「一度売った娘だ。勝手なことを言うなと俺も思う。せっかくの機会をふいにさせる気かと、頭に来た」
彼の言葉はわたしの感情そのものだった。けれど、うなずく余裕もなく唇をかんだ。
弁護士の調べでは、おちょぼの両親は仕事を見つけ、給金も得ていた。借家に住み、子を一人養う余裕はあるとのことだ。
「でも、女学校には通えないだろう? 青藍の可愛い制服は着れないじゃないか」
「だろうな」
「今さら…。『武器屋』で小さいあの子が泣いていた時には捨てておき、なぜ今なのだ?」
「身勝手なりに言い分はあるようだ。『武器屋』に返す金が工面できなかったんだ。でも、水揚げ前の十三までには金を作って迎えに行く考えだったらしい」
「馬鹿な。身体の仕上がった子は、十からでも好きものの客を取らせるのだぞ。遊女になってから迎えに来ても遅い」
「厳しいところだな」
「そんな浅はかな親に返すのか? 何とかならぬのか?」
柊理を見た。彼を見ながら涙があふれた。白いシャツの姿がぼやけてにじむ。
「のう、柊理。出来ないのか?」
返事がない。無理なのだ。
わたしは手で顔をおおった。
「そなたはいつも…、わたしの願いを叶えてくれるではないか…」
身体に柊理の腕が回った。
「すまない。俺の力不足だ」
彼のせいなどではない。それはわかっていた。出来るのなら、柊理はわたしの思うようにはからってくれる。
江戸のお奉行裁きのようにはいかない。潮目が変わり、柊理も時に言う法の時代だ。親が自分の産んだ子を手元に戻したいという道理は、何にも曲げられないのだろう。
わかっている。
ひとしきり涙を流した後で、彼が言う。
「姫は知らんが、俺は捨て子で、親に甘えることを知らない。育ててくれたおっかさんも優しい人だったが、心底甘えられたことはない。もちろん親父にもそうだ。血のつながった親にしか、子は芯から甘えられないのじゃないかと思う」
「親は敬うもので甘えるものではないわ。寝ぼけたことを申すな。そういう自律が誇り高さを生むのだ。親や生まれで備わるものではない」
「姫は強いな。その強さも、そうやって育んだのだな。でも、それは幸せとは関係がないんだ。おちょぼにもそうあってほしいか?」
「…わからない」
けれど、そうではないから、彼女を女学校へ行かせたいなどと考えたのではないか。自分と同じようにはしたくないと。
わたしは子供時代を幸福だと感じた記憶がない。物心ついた時から、霧林の邸は陰気で暗く寂れていた。伝統の鋳型に嵌まるように姫として育ち、娘になり染めの頃、いきなり遊郭に売られて遊女になった。
覚えたのは、絶望とあきらめと、自分の身に値がつくという奇妙な世知だ。
「親に思い切り甘えられるのは、身分関係なく子供の大きな幸福じゃないか? 俺も姫もそれを知らない。その幸せを知らないんだ。おちょぼには味合わせてやりたくないか?」
「でも、青藍の少女に憧れたのはおちょぼだ」
「その面は俺らが助けてやれる。姫の名で、学費の援助することも可能だ。青藍はちょっと高嶺の花だが、他の女学校なら俺が掛け合う」
彼のシャツに涙を移すように顔を押しつけた。
頭ではわかっている。
けど、心が理解したがっていない。
「なあ、姫」
ふと、柊理がわたしの頬を両手で挟んだ。
まだ視界は涙の残りでぬれていた。
あ、と思う間もなく、彼が口づけた。
『武器屋』から親元をたどるはずが、住所の場所にはすでにいなかったらしい。『武器屋』へ転居の連絡もないのなら、もう娘のことは捨てたのと同じだ。
「それならもういいだろう。親はもうおちょぼは要らないのだ」
「俺もそうは思うが、養子を取るのは縁組だ。親の承諾が要る。人を増やして探させるから、もう少し時間をくれ」
おちょぼの親が不明なのは柊理の責任ではない。待つしかない。
これも彼の勧めで、その間に教師を雇い、おちょぼに勉強させることにした。
「入ったはいいが、学力が低くて周囲についていけないと可哀想だ」
らしい。
彼女の部屋で勉強する様子をのぞくこともある。読み書きでは作文や文法。数の問題などもわたしには難しいものもある。遊郭では教わることのなかったものばかりだ。
女学校でなじむための勉強で、生活に必要なものではない。知識は贅沢の一つと言っていい。それが、この先のおちょぼを作っていく。
惜しみなく与えてやる柊理を偉い男だと思った。金があるなら当たり前ではない。金の余裕があっても、施さない人はいる。『武器屋』でがめついすけべえな金満家は、山ほど見てきた。
おちょぼは親に捨てられても幸福な子だと思った。
おじい様の喪が開けた。
それを待っていたように、あちこちから招待状が届く。園遊会やら夜会。晩餐会や演奏会。会が目白押しだ。
柊理はそれにすべて出るわけではない。まず野島がふるいにかけ、残ったものの中から気を引くものだけに出席の返事を出させた。
そんな社交にはわたしもつき合う。華族の夫人の仕事の大きな一つだ。洋装にも慣れ、かかとの高い靴で足を痛めることもなくなった。それでも和装の方が落ち着く。彼が特に言わない限り、半分以上はそれで通した。
ある人の結婚披露宴だった。気候もよく天気に恵まれ、離宮のお庭での催しだった。柊理はわたしを促し、人々の輪を連れ歩く。紹介、挨拶ののちの短い会話。そんなことを繰り返す。
「久しぶりだね。父上のご不幸の前だから、一年以上も会っていなかった」
「お久しぶりです、川辺様」
柊理はそこでわたしを紹介した。彼に合わせ、頭を下げる。何者か知らないが、彼の口調や態度から目上の人物なのはわかる。面長でちょび髭をした中年だ。
「ほう、美しい夫人だね」
辞令だけとはいえない視線がねばっこく身体をはう。女好きだな、とすぐに気づく。
「君の結婚の報を見て、娘たちが落胆していた。お父様がしっかりしてくれないから上物は次々人のものになってしまうなどと、小言を言われた」
「ご冗談を。お嬢様方はまだお若いでしょうに」
「女学校中に結婚する者も多い中、十六、七は若くない。容貌が麗しければ、わしももっと方々に売り込むのだが、これが親の欲目でも並かそれ以下だ。強引に押しつけなどしたら、先方に迷惑だ。恨まれてしまう。ははは」
あいづちに困る話で、柊理も小さく苦笑していた。そこへ背広を着たメガネの男が近づき、川辺に声をかけた。
「御前、失礼いたします」
メガネの男は恭しい態度で川辺に耳打ちをする。それをいい潮に、わたしたちは離れた。
「誰だ?」
「川辺公爵。元勲の筋で大物だ」
「すけべだろ、どうせ」
「そう、艶聞の多い人だ。目が合ったから、避けるわけにもいかなかった。…姫をやたらと見ていたな。嫌だったろ?」
「平気だ。見られることには慣れている」
「…俺が気に入らん」
彼をなだめるつもりで手を取って握った。気難し屋ではないが、機嫌を損ねるとわたしから見る横顔が硬くなる気がする。
「よいではないか。減るものではなし」
「そんな問題じゃない」
「よしよし。帰ったらまたそなたの上に乗っかってやる。柊理はあれが好きだろう? 照れなくてもよいぞ。身体は正直だからの」
柊理は黙ってしまった。
香子やその夫君の有明の君もいた。
「帰蝶さん、礼司のモデルになって下さったのね。ありがとう」
わたしのスケッチを描いた後では、礼司はアトリエに籠りがちだという。絵の具を使う段階では、またモデルを頼まれていた。どんな絵に仕上がるのか、わたしも楽しみではある。
「さすが新婚で仲がいい。ずっと手をつないでいるのかい?」
有明の君が微笑ましそうに言う。
これはわたしがさっき彼の手を取っただけのこと。手を外そうとすると、ぎゅっと握られた。
彼を見上げると、知らん顔で談笑している。
機嫌は治ったようだ。
探させていたおちょぼの親のいどころがわかったという。
弁護士を通じて話を進めると、柊理は言った。それを聞き、やっと女学校入学の準備が出来ると嬉しくなった。
それから十日も過ぎてのこと。
夕食の後だ。柊理が言った。
「後で俺の部屋に来てくれ。急がなくてもいい」
何だろうと思ったが、彼はその後電話がかかり、そちらへ行ってしまった。
おちょぼが床へ入った後で、彼の部屋に向かった。
入ると誰もおらず、書斎の椅子に座って待った。ほどなく柊理がやって来る。
「何だ? そなたに乗ってほしいのか?」
「それもいいが、ちょっと話がある」
彼は壁にもたれ片足を曲げた。腕を組む。やや硬い雰囲気だ。
「おちょぼの養子は無理のようだ」
「え」
「弁護士の話では、親があの子を引き取りたいと言ってきた」
「だって…」
彼がうなずいた。途切れたわたしの言葉の先をつなぐ。
「一度売った娘だ。勝手なことを言うなと俺も思う。せっかくの機会をふいにさせる気かと、頭に来た」
彼の言葉はわたしの感情そのものだった。けれど、うなずく余裕もなく唇をかんだ。
弁護士の調べでは、おちょぼの両親は仕事を見つけ、給金も得ていた。借家に住み、子を一人養う余裕はあるとのことだ。
「でも、女学校には通えないだろう? 青藍の可愛い制服は着れないじゃないか」
「だろうな」
「今さら…。『武器屋』で小さいあの子が泣いていた時には捨てておき、なぜ今なのだ?」
「身勝手なりに言い分はあるようだ。『武器屋』に返す金が工面できなかったんだ。でも、水揚げ前の十三までには金を作って迎えに行く考えだったらしい」
「馬鹿な。身体の仕上がった子は、十からでも好きものの客を取らせるのだぞ。遊女になってから迎えに来ても遅い」
「厳しいところだな」
「そんな浅はかな親に返すのか? 何とかならぬのか?」
柊理を見た。彼を見ながら涙があふれた。白いシャツの姿がぼやけてにじむ。
「のう、柊理。出来ないのか?」
返事がない。無理なのだ。
わたしは手で顔をおおった。
「そなたはいつも…、わたしの願いを叶えてくれるではないか…」
身体に柊理の腕が回った。
「すまない。俺の力不足だ」
彼のせいなどではない。それはわかっていた。出来るのなら、柊理はわたしの思うようにはからってくれる。
江戸のお奉行裁きのようにはいかない。潮目が変わり、柊理も時に言う法の時代だ。親が自分の産んだ子を手元に戻したいという道理は、何にも曲げられないのだろう。
わかっている。
ひとしきり涙を流した後で、彼が言う。
「姫は知らんが、俺は捨て子で、親に甘えることを知らない。育ててくれたおっかさんも優しい人だったが、心底甘えられたことはない。もちろん親父にもそうだ。血のつながった親にしか、子は芯から甘えられないのじゃないかと思う」
「親は敬うもので甘えるものではないわ。寝ぼけたことを申すな。そういう自律が誇り高さを生むのだ。親や生まれで備わるものではない」
「姫は強いな。その強さも、そうやって育んだのだな。でも、それは幸せとは関係がないんだ。おちょぼにもそうあってほしいか?」
「…わからない」
けれど、そうではないから、彼女を女学校へ行かせたいなどと考えたのではないか。自分と同じようにはしたくないと。
わたしは子供時代を幸福だと感じた記憶がない。物心ついた時から、霧林の邸は陰気で暗く寂れていた。伝統の鋳型に嵌まるように姫として育ち、娘になり染めの頃、いきなり遊郭に売られて遊女になった。
覚えたのは、絶望とあきらめと、自分の身に値がつくという奇妙な世知だ。
「親に思い切り甘えられるのは、身分関係なく子供の大きな幸福じゃないか? 俺も姫もそれを知らない。その幸せを知らないんだ。おちょぼには味合わせてやりたくないか?」
「でも、青藍の少女に憧れたのはおちょぼだ」
「その面は俺らが助けてやれる。姫の名で、学費の援助することも可能だ。青藍はちょっと高嶺の花だが、他の女学校なら俺が掛け合う」
彼のシャツに涙を移すように顔を押しつけた。
頭ではわかっている。
けど、心が理解したがっていない。
「なあ、姫」
ふと、柊理がわたしの頬を両手で挟んだ。
まだ視界は涙の残りでぬれていた。
あ、と思う間もなく、彼が口づけた。