わたしの結婚〜異能の御曹司に見出され、愛されて〜

13、アトリエにて

 礼司のアトリエに出かける日々が続いた。

 アトリエは彼の実家の洋館の一室だ。日当たりのいい広い洋間を絵の作業場に充ててある。机には絵の具が散らばり、壁に過去に描いたたくさんのキャンバスが立てかけられていた。

 礼司は今、その新たなものに向かっている。鋭い眼差しをこちらに向け、絵筆を操る姿は格好がいい。社交で女に騒がれるのも無理ないように思えた。

 わたしは彼の注文通りに、下絵と同じ格好で立っている。

 「ずっとその姿勢は、帰蝶さんがお辛いわ。そろそろ違う絵を描いたら?」

 声は香子だ。わたしがアトリエに行くと知ると、彼女もやって来た。「礼司とはいえ、男性と奥様が二人きりなのは柊理様に申し訳ないわ」とのことだが、暇だっただけだろう。

 「今は立ち姿の絵を描いているんだ。簡単に次の絵に移れないよ。もうしばらくしたら休憩を取るから」

 「あら、そう?」

 香子は新聞のネタをぺらぺらと話した。歌舞伎俳優や華族の誰それの結婚話や醜聞だ。

 「川辺公爵のご令嬢がご婚約ですって」

 「長女の方?」

 応じるのは礼司だ。華族の姉弟で人脈が重なるから話が早い。

 「そう。去年あなたにラブレターを送って下さった沙矢子さんよ」

 「そうだっけ」

 「そうよ。「操を捧げるから受け取ってくれなければ身投げする」と物騒な文面で、わたしもお母様も震えたものよ」

 「何で僕宛の手紙を二人が読んでいるのさ?」

 「あら、開けたのはお母様が先よ。開いたものは読むじゃない、普通。ねえ、帰蝶さん」

 「おかしなことを帰蝶さんに聞くなよ。とにかく、沙矢子さんはよかったじゃないか。血迷いから覚めてさ」

 「でも、お相手が秋山子爵のご次男なの」

 そこで礼司の絵筆が止まった。姉を見る。二人して妙な顔をしていた。

 わたしにはとんちんかんなやり取りだ。

 「ごめんなさいね、帰蝶さんは意味がわからないわね」

 香子が説明した。川辺公爵の長女が結婚する相手は秋山子爵の次男で、この男はすでにある女と結婚し、子供ももうけているのだとか。

 何が不思議なのか。妻と別れて川辺公爵の娘と再婚したのではないか。

 「そうなのではないですか?」

 「離別なさったのも聞かないわ…」

 香子の返答は歯切れが悪い。それならば、新聞の報道が間違えているのだろう。次男ではなく長男の方だとか。

 礼司が再び絵筆を動かしながら言う。

 「誤報はあり得ないんじゃないかな。川辺公爵に関してそんな失態があれば、その新聞社は大目玉だろうね。最悪、経営認可の取り上げをくらうかも。帰蝶さんにわかり易い武家風に例えれば、時のご老中が近いかな。お大名でも権威に恐れるでしょう」

 「華族でも大きな力をお持ちの方なのよ」

 ちょっと疲れてきた。手近の椅子に座る。礼司が表情を歪めたが知るか。香子がベルを取り上げ鳴らして人を呼ぶ。現れた女中にお茶の用意を命じた。

 わたしと香子がお茶を飲み始めても、礼司はキャンバスの前から離れない。絵の具を足しては具合を見ている。

 「礼司、あなたの好きなカステラがあるわ。いらっしゃいよ。好物で、お弁当にも入れろとお母様にねだったでしょう」

 「姉さんは幾つになってもそればっかり言う」

 礼司も絵筆を置き、やって来た。今も好きらしく、すぐに頬張った。そういうところが姉から見て愛らしいのかと思う。

 香子が新聞ネタの続きで、『怪盗霧雨』が商店に現れたと言った。家人を縛り現金を奪って逃走したという。

 「本物かな、そいつは。『霧雨』は美術品しか盗らないというのに。単に名を騙った偽物だよ」

 「そうかしら。正体はどうあれ、物騒なことには変わらないわ」

 「『霧雨』が名のある美術品しか手を出さないなんて、痛快だよ。手口も、人に危害は与えない紳士盗賊だと言われているし、面白い奴だ」

 「よそでそんなことを口にしないでちょうだい。非難轟々よ。危険思想だなんて噂されちゃうわ」

 「姉さんは大げさだ。どうせなら、川辺公爵の邸に盗みに入れば愉快だ、くらい、誰でも思ってるよ」

 「川辺公爵は嫌われているのですか?」

 礼司の口調では、人に好かれる人物ではないようである。ふと、そこで記憶がつながった。以前離宮での結婚披露宴で、挨拶をしたあのちょび髭の男だ。わたしが好色な目でじろじろ見られて、柊理が機嫌を損ねた。

 あれか。

 「元勲の筋を笠に着る言動が多くて、横暴もひどい。本人に何の功績もないのにさ。ある会では、傲岸にも某宮様に席を譲らず恥ずかしい思いをおさせした不敬もあって、本音では皆が軽蔑しているよ」
 「誰もいさめられないのですか?」

 「母上が皇后様のお気に入りだったとかで、その縁で宮中での発言力もある。それを背景に権謀も上手いらしい。逆らうと、もれなく粛清の目に遭うよ」

 「過去に川辺様に意見をなさった方々は、家運を下げて、お気の毒に帝都を去られているわ」

 「近年笏も賜っているから、向かうところ敵なしだ」

 「しゃく?」

 「笏は、衣冠束帯で手に持つ板っきれみたいな棒だよ。それを天子様から賜るというのは、私的なご信頼の証で、側近中の側近という印だよ。臣民の最大の誉れだね」

 そうか。

 柊理もすけべな目線には腹を立てていたが、歯向かうことはなかった。低姿勢に、敬して遠ざけている風だった。

 「厄介な方なのよ」

 その娘の結婚が、新聞に載った。相手は妻子持ちのはずの男だ。誤報はあり得ないのだとしたら、何だ?

 「川辺公爵がそのように書かせたんだよ。秋山にとっては最初の結婚という体で。すでに結婚しているという事実をねじ曲げたんだ」

 「そんなことができるのですか?」

 「すでに妻子から引き剥がしたから、新聞に堂々と載ったんだろうね」

 礼司の言葉を受けて、香子もしみじみと言う。沙矢子からの一方的な懸想だろうと。

 「帝都近郊の地主のお嬢さんと結婚なさって、お幸せだったはずよ。秋山様にとって、今さら厄介なお嬢様にみそめられたわね」

 事実なら、凄まじい横車だ。過去をなかったことにして娘と娶せるのだから。


 お茶の後で、またモデルを務めた。

 日暮れ頃になって、柊理が現れた。様子を見に来たと言う。香子は新聞ネタを彼にも披露している。特に川辺公爵令嬢の結婚の話では、柊理も眉をひそめた。

 「秋山は中等学校の頃の同期だ。ひどい目に遭ったな」

 「柊理様、どんな方?」

 「礼司に似た明るい男ですよ。絵は描かないが、代わりにテニスが上手い」

 「去年、沙矢子さんは礼司に熱烈なラブレターを送って来たのよ。いつ秋山様に鞍替えになったのかしら?」

 「僕が冴ない画家だからさ。花形の官僚でテニスが上手いとなれば、僕に分はないよ」

 「お前、川辺公爵の婿になりたかったのか?」

 「絵を描く金を出してくれるのなら、婿も悪くないって話さ」

 「簡単に言うな。婿になった秋山に自由なんかあるか。実家と病身の兄貴のことをちらつかされての強引な縁談に決まっている」

 「そう。沙矢子さんだって、決して礼司の好きなタイプではないわ。父上の身分を笠に、わがままで高飛車なお嬢様よ」

 香子の言葉にちらりと柊理がわたしを見た。すぐに逸らしたが、意味ありげな視線だった。

 「二人とも冗談だよ。あ、帰蝶さん、柊理を見ないで。だから、にらまないでって」

 柊理がくすくすと笑う。

 こいつめ。
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