わたしの結婚〜異能の御曹司に見出され、愛されて〜

15、水彩画

 柊理が帰宅して、礼司の絵が仕上がったことを告げた。彼はちょっと目を大きくした。

 「へえ、それは早いな」

 「水彩画は早いそうだ」

 「それにしても、筆が乗ったんだろ。それで、絵はどうするって?」

 「近くの展覧会に出すそうだ。もう、次作に取り掛かると言っていた。」

 何が不満なのか、彼は唇をやや不快げに曲げた。むっつりとタバコをくわえる。火鉢に顔を近づけて、炭から火をつけた。

 秋も深まり、居間には大きな火鉢が置かれ、たっぷりの炭に火が起こっている。手をかざすまでもなく、部屋まで暖かい。

 零落した霧林の家はもとより、『武器屋』でも客がいなければ、当然のように炭は惜しんだ。だから、高司の邸で何気なく使われる炭の量に驚いた。

 外に向けた見栄でなく、見えない生活の質に金をかけられるのを、真の贅沢だと思う。

 「大層美しい絵に仕上がっていたぞ。何が気に入らない?」

 「美しく仕上がったのは、モデルが姫だからだろ。画家が礼司でなくても、美しい絵には仕上がる」

 「何だ? そなたは礼司の絵の才能を買っていると言っていたではないか」

 「だから買い取るつもりでいた。展覧会に出すのなら、姫にモデルはさせなかった」

 「展覧会はなぜ駄目なのだ?」

 「自分の妻を描いた絵が有象無象にじろじろ眺め回されるのは、けったくそ悪い」

 「麒麟を持つ男が小さいことを申すな。せっかく描いた絵が日の目を見ないのは、礼司が気の毒ではないか。やっと意欲が現れ出したと言うのに、身近なそなたが水をさしてどうする」

 「麒麟は関係ない」

 柊理は黙ってタバコを吸っていたが、随分後で、口を開いた。

 「俺を小さいと思うか?」

 「思う。礼司はそなたが妬くからと、次からはアトリエに女の友だちを呼ぶと言っていた。それなら心配させないだろうと、な」

 「なら、その友だちを描けばいい」

 「簡単に言うな。絵心のうずく「はかなげな美人」はそうはいない」

 そこで柊理が笑った。わかったとうなずく。

 「絵は必ず買い取るということで折れる。これ以上は姫に嫌われそうだ」

 柊理が話を変えた。おちょぼのことだ。

 「手紙は来るのか?」

 わたしは首を振った。やり取りが絶えて三月になる。わたしにとってあの子はかけがえなく思うが、おちょぼにはどうかわからない。なつかれていると感じていたが、それは他に頼る者のない『武器屋』でのことだ。

 親元に帰れば、他人と過ごした日々などごく淡いものになるのだろう。

 「親が、わたしと手紙をやり取りするのを嫌がるのかもしれない」

 「何でだ?」

 「わたしはおちょぼの親にとって、売った子供の面倒を見た女だ。そんな女とつながっているのは、親には気まずいのではないか。過ちを責められる気がするのかもしらん」

 それでも、冬の前に厚い着物を用意して送ってやりたいと考えていた。それで最後にしようと。

 柊理がわたしを抱きしめた。頬に唇を当てる。

 寂しげな顔でもしたのかもしれない。



 モデルの役目を続けるうちに、礼司が出品した展覧会も始まった。

 柊理と一緒に見に出かけた。以前、香子と出かけた美術館だ。盛況で、絵の前に列が並んだ。

 重厚な油絵が多い中、礼司の描いた水彩画は一際目を引いた。

 「上品な婦人が、男のタバコを手に佇んでいる。そんな情景が何とも言えない危うい美しさを醸し出している。敢えてか、背景を書き込まないのが人物を強調していいね」

 専門家風の男が、連れに話していた。

 礼司の絵の前で長く立ち止まる人々も多い。

 「わたしは「はかなげ」だけでなく「危うい」美人でもあるようだ」

 柊理にささやくと、彼は難しい顔をして黙っていた。

 展示されてしまった以上、なるがままだ。新聞に展覧会の活況ぶりが報道され、話題になった。社交の場でも、噂になっているようだ。

 「弟の作品ですの」

 と、香子が嬉しげに言いふらしていた。彼女が宣伝したのでもないが、モデルの名もすぐに知れ渡る。社交界の噂の広まりは凄まじい。柊理が嫌がって、出かけるときは和装はするなと言う。

 「絵から抜け出した姫がうろうろしていたら、また騒ぎになる」

 などと機嫌が悪い。誘われる会への出席も減らした。

 絵の評判を受けて、当然ながら作者の礼司は気をよくした。次回作にも精力的に取り組んでいる。

 アトリエには柊理への配慮で、礼司の女友だちが加わった。薄化粧だったが、一目で男相手の仕事をする女だと気づいた。そう言えば、柊理が礼司は女遊びも盛んだと言っていた。

 花というその女は、歳は二十歳で、ある邸に勤めていると言った。

 「そちらの病弱なお子様のお世話をしています。夕方から夜に入る看護人です」

 しれっと言うが、そうではないだろう。同族だからすぐに気づいた。

 当世、男相手の仕事をする女は、どこか太々しさが匂うもの。人から指を差されるそういう女に落ちたのだ、それがどうした、と自分を開き直る生々しい強さがある。

 わたしにだってきっと匂うはずだ。隠せているのは、高価な呉服ものを着ているから。そして、華族の夫人だからそんなはずがないという世間の先入観からだ。

 花はわたしの話し相手をしたり、礼司の助手のようなこともした。彼に従順な様子で、友だちといった様子ではない。

 男相手の生活であるのに、下品ですれた女でもなさそうだ。話していて、自分と同じ出自ではと思った。武家には幼少期に叩き込まれる自律の教えがある。

 時代がいい頃のそれには、稽古事の比重も多かったはず。嫁ぎ先で実家が軽んじられないように、恥をかかないように。けれども、わたしの頃では貧しさを高い誇りで耐える、我慢のための自律だった。

 「そなた、武家の出であろう」

 問いに、花がはっとした顔をした。礼司をちらりと見た。彼は彼女へ表情で合図した。大丈夫、というような意味のものだろう。

 「その人は筑後守霧林様のお嬢様で、高司卿の夫人だよ。夫の柊理は「姫」と呼んでめろめろだ」

 礼司の言葉に花は頬をこわばらせた。すぐに距離を取り視線を下げた。

 「潮目の前は、家は旗本でした。霧林様とは全く違い、四百石の小身です」

 「そうか」

 『武器屋』にも旧旗本の娘はごろごろいた。潮目を境に、当主が時世の機を見るに敏でなければ、中級武士は生き残れなかった。八千石のわたしですら遊郭に売られた。花の身にも似たような試練があったのだろうと、想像はつく。

 どうやって礼司と知り合ったのかは聞かなかった。わたしも柊理との出会いを偽って過ごしている。彼らもきっと同じだろうから。
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