わたしの結婚〜異能の御曹司に見出され、愛されて〜
16、花
展覧会に出した礼司の絵が賞を獲ったという。
それを機に、彼に客が来ることが増えた。新聞の取材であったり、どこかの画商もいた。モデルをしているわたしがい合わせては、また噂になる。柊理が知ればうるさい。
そんな時は、花と共にへ部屋を出て席を外すようにした。大抵、礼司の母親に招かれ、居間でお茶を飲んだりした。
礼司の母は、香子によく似た朗らかな人だ。将来を心配していた息子が、急に脚光を浴び、嬉しさ半分驚き半分といったようだ。
「親としてはこれで大満足です。世間様にも顔が立ちました。もう渡欧など考えないで、身を固めてほしいばかりですのよ」
「礼司さんはおモテになるでしょう。夜会などでもお嬢さん方に噂されています」
「それがなかなか縁談につながらなくて…。高司様がおちょぼちゃんを養女になさると香子から聞いて、礼司のお相手にぜひお願いしたいと主人とも話していたのですよ。帰蝶さんのご親戚ならご立派なお武家様でしょうし、願ったりでしたのに。親御さんのところに帰られて、残念でしたわ」
口に含んだお茶を吹きそうになった。あり得なさすぎる組み合わせに、度肝を抜いた。まだ子供のおちょぼを自分の息子に当てがおうとは。
お茶の後でアトリエに戻ると、まだ客が残っていた。しまったと思ったがもう遅い。わたしの気配に客の男が振り返った。
髪をきれいになでつけた、メガネの若い男だった。上品な背広を着ている。一瞬目が合った。どこかで見た顔だった。
すぐに相手が視線を外し、椅子から立ち上がった。
「では、ご検討をよろしくお願いします」
礼司に挨拶した後で、わたしにも軽く会釈し部屋を出ていった。男の消えたドアを眺めたまま、礼司に聞いた。
「誰だ?」
「川辺公爵の秘書だよ。別当と名乗った」
川辺公爵の名に記憶が引きずり出されて来る。誰かの結婚披露宴で公爵に耳打ちしに現れた男だ。彼のおかげでわたしと柊理は公爵の前から逃げ出せた。目鼻立ちが整っているのも記憶に残った理由だろう。
「絵を購入したいと申し出てきたんだよ。一枚目は柊理が買ったけど、それ以降でもいいと」
「まだ仕上がっていないのに?」
「そう。現物を見もしないのに余程の執心だな。言い値で払うと言っているよ」
礼司は満更でもない様子だ。しかし売却は無理だ。短期間での一般公開ののち、絵はすべて柊理が買い取る約束になっている。それが、彼が出したわたしがモデルをする際の条件だった。
「離宮での披露宴でもあの男を見た」
「若いのにかなり信用を得ているらしい。高額の絵の商談をすべて任されているらしいからね。有能な人物なんだろう」
「そうか」
「絵の件は無理だと断ったが、あっちはあきらめてないよ。また打診に来ると言っていた。帰蝶さん、次は隠れていてくれないと困るよ」
「秘書ならよいだろう」
「美男だからか知らないが、あなたまじまじ見ていた。川辺公爵の秘書と知り合う機会があるとなると、柊理がきっと嫌がる。モデルはなしだと言い出しかねない」
「わたしは構わぬが」
「だから、僕が困ると言っているんだよ」
礼司の絵筆を洗っていた花がくすくす笑った。
モデルを終えると、都合のつく日は柊理が迎えにやって来ることもある。この日はそれがなく一人で帰ることになった。
邸から呼んだ車が来る頃、ついでに花も送ることがある。最初、恐縮がって断っていたが、少し慣れて誘いを受けるようになった。
どこそこの角でいい、と近所を伝え、そこまで着くと車を下りた。深くお辞儀をして車を見送るの常だ。
彼女に対する礼司の態度はややぞんざいで、女中と同列に見ている節があった。華族の子弟で花とは身分も違う。彼女の方にもその意識が強いのか、彼の言葉に余計な反応もせず従順だ。
さらに、今日は筆の乗りが悪かったのか、礼司はいらいらしたところを見せた。わたしには素振りを変えなかったが、花には辛辣な言葉をぶつけていた。
「鈍いな。もう少し考えて動けよ」。
「陰気臭い目を向けるな。くさくさする」。
はっきりとわかる悪態だ。花は給金の内と割り切っているのか、「ごめんなさい」と詫びて流していた。詫びる必要などないのに。
「礼司は典型的なぼんぼんだの。見てくれがいいだけの気分屋でしょうがない子供だ」
今でこそ、画壇の新星のように騒がれ出したが、少し前までは義兄に出資をせびる腐れた三流画家だった。
「どうせ柊理から大枚をせしめるのだ。そなたの給金を上げるよう、わたしからも言っておく」
「あの…、給金はいただいていません。お気遣いは結構です」
「は? そなた、ただで礼司に時間を割いてやっているのか?」
花は返答に困った風にうつむいた。
わたしも礼司から何の報酬も得ていないが、彼は柊理の友人だ。その義理もあって協力してやっている。しかし、花は立場が違う。どこで出会ったにせよ、彼女は相応の対価をもらうべきだ。
「ただで奉仕してやって、好きなことを言わせておけば、あの手の男はつけ上がるぞ」
「でも、礼司さんも優しい時はあるのです」
小さく笑って言う。それは優しさだろうか。優しい男は一貫して優しいものだ。
彼女の態度から、礼司への愛情が見えた。そこにつけ込んでいいように使っているのだとしたら、彼のモデルが嫌になるほど苦い気持ちになる。
彼女を下ろし、少し行った先で車を停めさせた。運転手に言い、彼女の後を尾けるように命じた。
車で待つうち、戻って来た。
「少し先のしもた屋風の家に入って行きました」
運転手は気の利いた男で、通りかかった女に家のことをたずねもした。
「数人の若い女が同居しているようです。夜に着飾って出ていくのを界隈の人がよく見ています。紳士風の若い男の出入りもあるとか」
「そうか。ありがとう。そなた頼りになるの」
「とんでもございません」
ねぎらってから、邸へ戻ることを伝える。
何をする気もなかったが、所在くらい知っておいても損はないだろうと思っただけのこと。
それを機に、彼に客が来ることが増えた。新聞の取材であったり、どこかの画商もいた。モデルをしているわたしがい合わせては、また噂になる。柊理が知ればうるさい。
そんな時は、花と共にへ部屋を出て席を外すようにした。大抵、礼司の母親に招かれ、居間でお茶を飲んだりした。
礼司の母は、香子によく似た朗らかな人だ。将来を心配していた息子が、急に脚光を浴び、嬉しさ半分驚き半分といったようだ。
「親としてはこれで大満足です。世間様にも顔が立ちました。もう渡欧など考えないで、身を固めてほしいばかりですのよ」
「礼司さんはおモテになるでしょう。夜会などでもお嬢さん方に噂されています」
「それがなかなか縁談につながらなくて…。高司様がおちょぼちゃんを養女になさると香子から聞いて、礼司のお相手にぜひお願いしたいと主人とも話していたのですよ。帰蝶さんのご親戚ならご立派なお武家様でしょうし、願ったりでしたのに。親御さんのところに帰られて、残念でしたわ」
口に含んだお茶を吹きそうになった。あり得なさすぎる組み合わせに、度肝を抜いた。まだ子供のおちょぼを自分の息子に当てがおうとは。
お茶の後でアトリエに戻ると、まだ客が残っていた。しまったと思ったがもう遅い。わたしの気配に客の男が振り返った。
髪をきれいになでつけた、メガネの若い男だった。上品な背広を着ている。一瞬目が合った。どこかで見た顔だった。
すぐに相手が視線を外し、椅子から立ち上がった。
「では、ご検討をよろしくお願いします」
礼司に挨拶した後で、わたしにも軽く会釈し部屋を出ていった。男の消えたドアを眺めたまま、礼司に聞いた。
「誰だ?」
「川辺公爵の秘書だよ。別当と名乗った」
川辺公爵の名に記憶が引きずり出されて来る。誰かの結婚披露宴で公爵に耳打ちしに現れた男だ。彼のおかげでわたしと柊理は公爵の前から逃げ出せた。目鼻立ちが整っているのも記憶に残った理由だろう。
「絵を購入したいと申し出てきたんだよ。一枚目は柊理が買ったけど、それ以降でもいいと」
「まだ仕上がっていないのに?」
「そう。現物を見もしないのに余程の執心だな。言い値で払うと言っているよ」
礼司は満更でもない様子だ。しかし売却は無理だ。短期間での一般公開ののち、絵はすべて柊理が買い取る約束になっている。それが、彼が出したわたしがモデルをする際の条件だった。
「離宮での披露宴でもあの男を見た」
「若いのにかなり信用を得ているらしい。高額の絵の商談をすべて任されているらしいからね。有能な人物なんだろう」
「そうか」
「絵の件は無理だと断ったが、あっちはあきらめてないよ。また打診に来ると言っていた。帰蝶さん、次は隠れていてくれないと困るよ」
「秘書ならよいだろう」
「美男だからか知らないが、あなたまじまじ見ていた。川辺公爵の秘書と知り合う機会があるとなると、柊理がきっと嫌がる。モデルはなしだと言い出しかねない」
「わたしは構わぬが」
「だから、僕が困ると言っているんだよ」
礼司の絵筆を洗っていた花がくすくす笑った。
モデルを終えると、都合のつく日は柊理が迎えにやって来ることもある。この日はそれがなく一人で帰ることになった。
邸から呼んだ車が来る頃、ついでに花も送ることがある。最初、恐縮がって断っていたが、少し慣れて誘いを受けるようになった。
どこそこの角でいい、と近所を伝え、そこまで着くと車を下りた。深くお辞儀をして車を見送るの常だ。
彼女に対する礼司の態度はややぞんざいで、女中と同列に見ている節があった。華族の子弟で花とは身分も違う。彼女の方にもその意識が強いのか、彼の言葉に余計な反応もせず従順だ。
さらに、今日は筆の乗りが悪かったのか、礼司はいらいらしたところを見せた。わたしには素振りを変えなかったが、花には辛辣な言葉をぶつけていた。
「鈍いな。もう少し考えて動けよ」。
「陰気臭い目を向けるな。くさくさする」。
はっきりとわかる悪態だ。花は給金の内と割り切っているのか、「ごめんなさい」と詫びて流していた。詫びる必要などないのに。
「礼司は典型的なぼんぼんだの。見てくれがいいだけの気分屋でしょうがない子供だ」
今でこそ、画壇の新星のように騒がれ出したが、少し前までは義兄に出資をせびる腐れた三流画家だった。
「どうせ柊理から大枚をせしめるのだ。そなたの給金を上げるよう、わたしからも言っておく」
「あの…、給金はいただいていません。お気遣いは結構です」
「は? そなた、ただで礼司に時間を割いてやっているのか?」
花は返答に困った風にうつむいた。
わたしも礼司から何の報酬も得ていないが、彼は柊理の友人だ。その義理もあって協力してやっている。しかし、花は立場が違う。どこで出会ったにせよ、彼女は相応の対価をもらうべきだ。
「ただで奉仕してやって、好きなことを言わせておけば、あの手の男はつけ上がるぞ」
「でも、礼司さんも優しい時はあるのです」
小さく笑って言う。それは優しさだろうか。優しい男は一貫して優しいものだ。
彼女の態度から、礼司への愛情が見えた。そこにつけ込んでいいように使っているのだとしたら、彼のモデルが嫌になるほど苦い気持ちになる。
彼女を下ろし、少し行った先で車を停めさせた。運転手に言い、彼女の後を尾けるように命じた。
車で待つうち、戻って来た。
「少し先のしもた屋風の家に入って行きました」
運転手は気の利いた男で、通りかかった女に家のことをたずねもした。
「数人の若い女が同居しているようです。夜に着飾って出ていくのを界隈の人がよく見ています。紳士風の若い男の出入りもあるとか」
「そうか。ありがとう。そなた頼りになるの」
「とんでもございません」
ねぎらってから、邸へ戻ることを伝える。
何をする気もなかったが、所在くらい知っておいても損はないだろうと思っただけのこと。