わたしの結婚〜異能の御曹司に見出され、愛されて〜
20、嫌な言葉
寄り添いながら、ふと落ちる浅い眠りを繰り返した。
都度柊理の呼吸を確認し、胸に耳を当てた。鼓動がある。
明るくなった頃も、容体は変わらなかった。覚めているようで、話しかければ反応はある。どうしようもなく身体が重いようで、身を起こすのも非常に辛そうだった。
無理にかゆを口に運んでも、受け付けないのか、こぼれてしまう。水だけは少し飲んでくれる。
タバコももちろんほしがらない。癖のように唇や指に挟んでいたのを思い出し、切ない気持ちになる。
二日目と三日目にまた血を吐いた。
浴衣の胸を広げ、肌をふいてやっている時だ。慌てて横向きにさせ、ふきんを前に置いた。蛇口から水が出るようにあふれるため、畳にも飛沫が飛ぶ。わたしの膝にも袖にも血の跡ができる。
大変な量の吐血に、心が絞られるように痛んだ。どうしてか血を吐くと言葉が話しやすくなるようで、
「汚いだろ、すまんな…」
とわたしを気遣う声が出た。
「他の遊女の客に色目を使ったと、わたしは泥水をぶっかけられたことが度々ある。柊理の血など大したものではない」
「やられっぱなしか?」
「そう思うか?」
返すと、彼は薄く笑った。
あまり褒められた内容ではないので、先は口にしなかった。まだ少女の頃で、わたしは向こう見ずだった。武家の気位か個人的な復讐心か。相手の女が客の相手をしている部屋に乗り込んで行き、勝手にあった残飯を貯めたバケツをまいてやった。
客は怒るし遊女も金切り声を出す。騒ぎになって、当然楼主に大目玉をくらった。折檻の部屋がまだあった頃で、翌日の昼過ぎまで裸に剥かれて吊るされた。
食い詰め武家の子女を集めて遊女にする男だ。店を舐めた真似は許されない。わたしが高禄の姫でも容赦なかった。
昼過ぎで解放したのは、その夜高司のおじい様の登楼が決まっていたからだ。
贔屓のおじい様に泣きつくことは考えられなかった。客に店の不満を訴えるのは禁忌であったし、また訴えたとしても、そんな遊女の事情を面倒がる客が圧倒的だったろう。気晴らし、慰安で遊びに来るのだ。客の通う足が遠のくのをわたしたちは一番恐れていた。
折檻にはさすがに懲りた。次からやり返すのは、客抜きの場でと決めた。そこでなら、楼主はあまり口を挟まない。わたしが喧嘩を覚えたのはそこでのことだ。
柊理の口が利ける間に、あれこれ問う。
「ほしいものはないか? 食べたいものは?」
「それはいい。書くものをくれ。仕事で指示したいことがある」
「仕事などよいではないか」
と、反対したが、仕事のことに気が回るほど気力もあるのかと、嬉しくなる。汚れた顔をふいてやってから、隣りの書斎でノートを見つけ、それとペンを彼に渡した。たらいやふきんを下げに部屋を出た。
出てすぐの廊下でお冴に行き合う。わたしの手のものを見て硬い表情になる。血そのものの水が、たらいに満ちているのだ。
すぐに受け取り、
「新しいものをお持ちします」
と下がって行く。
礼司が見舞いに来たが、取り次がなかった。先日の二人のいさかいの理由はまだ聞けていないが、柊理を刺激したくない。
容体だけを伝え、帰した。
礼司から知らせを聞いたらしい。有明の君も連絡をくれた。直接の訪問ではなかったのは、礼司が意図を汲み、面会謝絶と告げたようだ。人前を取り繕う余裕が持てず、ありがたかった。
書面の指示が行き、柊理の会社は無事機能しているらしい。指示を待つ社員が詰め、そんな人らの応対で、使用人たちは忙しくしていた。
幾日かぶりに風呂に入ったが、その間に柊理に何かあったらと、気が落ち着かない。
彼が倒れて十日を過ぎた頃だ。
「奥方様も少し休まれて。ご療養は長丁場になるかもしれません」
野島に言われ、うなずいた。
その可能性もあるのだ。彼が病床に着いた状態がこれから長く続くことも十分ありうる。ほぼ動けず、たびたび血を吐く様子からも、すぐの回復は難しいと見た方が自然だ。
「先代様のご病気と似たご容体です」
「やはり医者には診せなかったのか?」
「はい。先代様のお指図で。柊理様が看病をなさり、最期を看取られました」
「そうか」
お冴が手の空いた時間、神社に祈祷に行ったという。医者に頼れないのなら、神頼みをとの思いらしい。
野島もお冴もは柊理やおじい様に長く仕え親しいが、麒麟のことや肌に現れる紋様のことを知らない。親子二代に渡る業病のようにも思うのだろう。
新聞で礼司の個展が大盛況と報じられているのを見た。数ヶ月モデルとして協力した思い入れのあるはずの事柄なのに、ひどく遠い。
よかったの、礼司。
それ以上の感想も興味もわき上がらなかった。
顔を洗い、髭も剃ってやっているから身ぎれいだが、頬が削いだように細くなってしまった。
柊理が倒れて十八日。
病状は何も変わらない。食が極めて細く、すっかり痩せてしまった。
彼の側に寄り添って横になり、やや薄くなった胸に手を当てた。呼吸の音と鼓動を感じる。
「起きたら体重を戻すまで、和装にせよ、の? お冴に言って、そなたの着流しをあつらえた。洋装もいいが、そなたはきっと和装も似合うぞ」
返事もない独り言のような会話だ。彼が眠っている時は別として、いつも何かしら話しかける。
薄く開けたまぶたから、瞳がのぞく。起きているのだ。
「うるさいか? でも、香子の方がうるさいと思わぬか? いつもころころ何かしら喋っている。それで思い出した。前に香子の母親がおかしなことを申していた。おちょぼと礼司を娶せたいと、な。華族の夫人とは奇天烈なことを考え出すものだ」
返事のないまま一人で笑った。今思い返してもおかしいのだ。笑いが出ることに驚いた。病に倒れ寝たままの彼の側にいて、冗談に笑えている。病床の彼が日常になりつつある。
冷たく厳しい現実でもいい。
それでもいい。
「そなたは生きているだけでいいのだ」
胸に置いた手で、ゆっくり肌をなぜた。指が紋様をたどる。現れた不思議な絵に何の意味があるのだろう。
「何もせずともよい。な、楽であろう?」
すぐ近くで咳き込む音が聞こえた。柊理だ。血を吐くのかもしれない。枕元のカーゼの山から一つかみして彼の口元にあてがった。
ほどなく、白いガーゼをしたたるほどの血が染めていく。その量に気持ちが暗くなるが、少しの間、血を吐くことで彼は話すことができる。
血のガーゼを始末し、きれいなふきんで口をふいてやった。
「水を飲むか?」
水差しからグラスに水を汲んで渡す。少し口をつけてから、話し出した。
「姫に言っておきたい…」
「そなたに何かあったらなどは聞かぬぞ」
「頼む。聞いてくれ」
「嫌だと言っておる」
「俺はこれ以上は無理だ…。わかるんだ。保たないことが…」
「腑抜けたことを申すな」
「…もう腑抜けているんだ。悪いな」
その力なく笑う声に、耐えた涙が瞳からあふれ出す。何度も無理に飲み込んだ嗚咽が、胸からせり上がってくる。
「伝えた方が楽に逝ける。頼む。そうさせてくれ」
わたしは返事をしなかった。その代わり彼の腕を取り、額を押し当てた。
「姫に俺の全部をやる。すべてだ。細かなことはすでに正式な書類にもしてある。女一人が食うには十分だろ。だから、俺がいなくなっても、姫は安心していい。苦労はさせない」
「苦労はさせない」。柊理の言葉に、いつか彼から聞いたおじい様の残したという言葉が重なる。おじい様もまた彼へわたしに「苦労はさせるな」と残したという。
おじい様とその息子の柊理。二人からわたしは庇護を受けてきた。理由はわたしが麒麟の餌だからだ。柊理に憑いた麒麟が痩せ、その餌にするためにおじい様が見出し、息子へ引き継いだ。
そうであるのに柊理は病んだ。そして、認めたくないが、許したくないが、わたしから去ろうとしている。
餌であるのに。なぜ麒麟は食おうとしないのか。
むざむざ柊理を病ませ、逝かせてしまうのなら、わたしは二人の庇護を受けただけ。まるで彼らの腹にすくう寄生虫ではないか。
「弔いは小さいものにしてくれ。薄気味の悪い身体を晒したくない」
すべてを言い終えて、柊理は安らかな表情をしていた。未練のない悔いのない顔をしている。
妻であるのにわたしを一度も抱きもせず、逝こうとしている。
都度柊理の呼吸を確認し、胸に耳を当てた。鼓動がある。
明るくなった頃も、容体は変わらなかった。覚めているようで、話しかければ反応はある。どうしようもなく身体が重いようで、身を起こすのも非常に辛そうだった。
無理にかゆを口に運んでも、受け付けないのか、こぼれてしまう。水だけは少し飲んでくれる。
タバコももちろんほしがらない。癖のように唇や指に挟んでいたのを思い出し、切ない気持ちになる。
二日目と三日目にまた血を吐いた。
浴衣の胸を広げ、肌をふいてやっている時だ。慌てて横向きにさせ、ふきんを前に置いた。蛇口から水が出るようにあふれるため、畳にも飛沫が飛ぶ。わたしの膝にも袖にも血の跡ができる。
大変な量の吐血に、心が絞られるように痛んだ。どうしてか血を吐くと言葉が話しやすくなるようで、
「汚いだろ、すまんな…」
とわたしを気遣う声が出た。
「他の遊女の客に色目を使ったと、わたしは泥水をぶっかけられたことが度々ある。柊理の血など大したものではない」
「やられっぱなしか?」
「そう思うか?」
返すと、彼は薄く笑った。
あまり褒められた内容ではないので、先は口にしなかった。まだ少女の頃で、わたしは向こう見ずだった。武家の気位か個人的な復讐心か。相手の女が客の相手をしている部屋に乗り込んで行き、勝手にあった残飯を貯めたバケツをまいてやった。
客は怒るし遊女も金切り声を出す。騒ぎになって、当然楼主に大目玉をくらった。折檻の部屋がまだあった頃で、翌日の昼過ぎまで裸に剥かれて吊るされた。
食い詰め武家の子女を集めて遊女にする男だ。店を舐めた真似は許されない。わたしが高禄の姫でも容赦なかった。
昼過ぎで解放したのは、その夜高司のおじい様の登楼が決まっていたからだ。
贔屓のおじい様に泣きつくことは考えられなかった。客に店の不満を訴えるのは禁忌であったし、また訴えたとしても、そんな遊女の事情を面倒がる客が圧倒的だったろう。気晴らし、慰安で遊びに来るのだ。客の通う足が遠のくのをわたしたちは一番恐れていた。
折檻にはさすがに懲りた。次からやり返すのは、客抜きの場でと決めた。そこでなら、楼主はあまり口を挟まない。わたしが喧嘩を覚えたのはそこでのことだ。
柊理の口が利ける間に、あれこれ問う。
「ほしいものはないか? 食べたいものは?」
「それはいい。書くものをくれ。仕事で指示したいことがある」
「仕事などよいではないか」
と、反対したが、仕事のことに気が回るほど気力もあるのかと、嬉しくなる。汚れた顔をふいてやってから、隣りの書斎でノートを見つけ、それとペンを彼に渡した。たらいやふきんを下げに部屋を出た。
出てすぐの廊下でお冴に行き合う。わたしの手のものを見て硬い表情になる。血そのものの水が、たらいに満ちているのだ。
すぐに受け取り、
「新しいものをお持ちします」
と下がって行く。
礼司が見舞いに来たが、取り次がなかった。先日の二人のいさかいの理由はまだ聞けていないが、柊理を刺激したくない。
容体だけを伝え、帰した。
礼司から知らせを聞いたらしい。有明の君も連絡をくれた。直接の訪問ではなかったのは、礼司が意図を汲み、面会謝絶と告げたようだ。人前を取り繕う余裕が持てず、ありがたかった。
書面の指示が行き、柊理の会社は無事機能しているらしい。指示を待つ社員が詰め、そんな人らの応対で、使用人たちは忙しくしていた。
幾日かぶりに風呂に入ったが、その間に柊理に何かあったらと、気が落ち着かない。
彼が倒れて十日を過ぎた頃だ。
「奥方様も少し休まれて。ご療養は長丁場になるかもしれません」
野島に言われ、うなずいた。
その可能性もあるのだ。彼が病床に着いた状態がこれから長く続くことも十分ありうる。ほぼ動けず、たびたび血を吐く様子からも、すぐの回復は難しいと見た方が自然だ。
「先代様のご病気と似たご容体です」
「やはり医者には診せなかったのか?」
「はい。先代様のお指図で。柊理様が看病をなさり、最期を看取られました」
「そうか」
お冴が手の空いた時間、神社に祈祷に行ったという。医者に頼れないのなら、神頼みをとの思いらしい。
野島もお冴もは柊理やおじい様に長く仕え親しいが、麒麟のことや肌に現れる紋様のことを知らない。親子二代に渡る業病のようにも思うのだろう。
新聞で礼司の個展が大盛況と報じられているのを見た。数ヶ月モデルとして協力した思い入れのあるはずの事柄なのに、ひどく遠い。
よかったの、礼司。
それ以上の感想も興味もわき上がらなかった。
顔を洗い、髭も剃ってやっているから身ぎれいだが、頬が削いだように細くなってしまった。
柊理が倒れて十八日。
病状は何も変わらない。食が極めて細く、すっかり痩せてしまった。
彼の側に寄り添って横になり、やや薄くなった胸に手を当てた。呼吸の音と鼓動を感じる。
「起きたら体重を戻すまで、和装にせよ、の? お冴に言って、そなたの着流しをあつらえた。洋装もいいが、そなたはきっと和装も似合うぞ」
返事もない独り言のような会話だ。彼が眠っている時は別として、いつも何かしら話しかける。
薄く開けたまぶたから、瞳がのぞく。起きているのだ。
「うるさいか? でも、香子の方がうるさいと思わぬか? いつもころころ何かしら喋っている。それで思い出した。前に香子の母親がおかしなことを申していた。おちょぼと礼司を娶せたいと、な。華族の夫人とは奇天烈なことを考え出すものだ」
返事のないまま一人で笑った。今思い返してもおかしいのだ。笑いが出ることに驚いた。病に倒れ寝たままの彼の側にいて、冗談に笑えている。病床の彼が日常になりつつある。
冷たく厳しい現実でもいい。
それでもいい。
「そなたは生きているだけでいいのだ」
胸に置いた手で、ゆっくり肌をなぜた。指が紋様をたどる。現れた不思議な絵に何の意味があるのだろう。
「何もせずともよい。な、楽であろう?」
すぐ近くで咳き込む音が聞こえた。柊理だ。血を吐くのかもしれない。枕元のカーゼの山から一つかみして彼の口元にあてがった。
ほどなく、白いガーゼをしたたるほどの血が染めていく。その量に気持ちが暗くなるが、少しの間、血を吐くことで彼は話すことができる。
血のガーゼを始末し、きれいなふきんで口をふいてやった。
「水を飲むか?」
水差しからグラスに水を汲んで渡す。少し口をつけてから、話し出した。
「姫に言っておきたい…」
「そなたに何かあったらなどは聞かぬぞ」
「頼む。聞いてくれ」
「嫌だと言っておる」
「俺はこれ以上は無理だ…。わかるんだ。保たないことが…」
「腑抜けたことを申すな」
「…もう腑抜けているんだ。悪いな」
その力なく笑う声に、耐えた涙が瞳からあふれ出す。何度も無理に飲み込んだ嗚咽が、胸からせり上がってくる。
「伝えた方が楽に逝ける。頼む。そうさせてくれ」
わたしは返事をしなかった。その代わり彼の腕を取り、額を押し当てた。
「姫に俺の全部をやる。すべてだ。細かなことはすでに正式な書類にもしてある。女一人が食うには十分だろ。だから、俺がいなくなっても、姫は安心していい。苦労はさせない」
「苦労はさせない」。柊理の言葉に、いつか彼から聞いたおじい様の残したという言葉が重なる。おじい様もまた彼へわたしに「苦労はさせるな」と残したという。
おじい様とその息子の柊理。二人からわたしは庇護を受けてきた。理由はわたしが麒麟の餌だからだ。柊理に憑いた麒麟が痩せ、その餌にするためにおじい様が見出し、息子へ引き継いだ。
そうであるのに柊理は病んだ。そして、認めたくないが、許したくないが、わたしから去ろうとしている。
餌であるのに。なぜ麒麟は食おうとしないのか。
むざむざ柊理を病ませ、逝かせてしまうのなら、わたしは二人の庇護を受けただけ。まるで彼らの腹にすくう寄生虫ではないか。
「弔いは小さいものにしてくれ。薄気味の悪い身体を晒したくない」
すべてを言い終えて、柊理は安らかな表情をしていた。未練のない悔いのない顔をしている。
妻であるのにわたしを一度も抱きもせず、逝こうとしている。