わたしの結婚〜異能の御曹司に見出され、愛されて〜
25、面影橋
無視していた公爵だが、続く音に焦れて舌打ちの後立ち上がった。扉が少し開くのが見えた。涙でにじむ視界の向こうで、公爵が誰かと話している。男だ。
「至急参内せよとのお召しでございます」
「後ではまずいのか? 御用の向きは?」
「至急お召しとのみ。単なるご無聊のお慰めなのかもしれませぬが、御前が遅参なされば、浅倉様が喜ばれましょう」
公爵と話す男の声の「御前」という呼びかけに、あのメガネの秘書だと気づく。
たっぷりとした間の後で、
「ええい、間の悪い」
公爵のいら立ったうなり声が聞こえた。秘書へ支度を命じる。
「すでにお部屋にご用意してございます」
「うむ。三島はどこだ?」
「先ほど、母屋で女中をからかっているのを見ましたが。呼びましょうか?」
「使えないやつめ。離れに控えていろと命じてあったのに。何のために雇い入れたと思っているのか」
「では、わたくしがここを封じておきます。御前は急がれて」
「わたしが戻るまで開けることのないように。荷が入っている」
「荷の様子の確認はいかがしましょう?」
「不要だ。体調不良など申し上げて急ぎ帰ってくる。時間を置いて、観念して弱った頃の荷が面白いのだ」
「左様で。かしこまりました」
がちゃりと施錠の気配があった。公爵が出かける。会話の様子では宮中に向かうようだ。急いで帰ると言ったが、しばらくは時間が稼げるはず。
顔を畳にこすりつけ、布をずらす。ほおがひりひりした頃、唇から布が外れた。大きく息をつく。
口は何とかなったが、手も足もしっかりきつく縛られていて、解くのは容易ではない。何か布を切るものがないか。頭を振りあたりを見回すが何も入ってこない。あるのは、公爵が置いていったランプだ。
足で蹴り倒せる位置まで、もぞもぞと動いた。火を起こせば何とかなるのではないか。人も来るだろうし、火で布を焼き切ることができる。
膝を曲げ、反動をつけてランプを蹴り倒そうとしたその時だ。
「おっと、それは悪手だ」
誰かの手が伸び、側からランプが消えた。声の調子が若い。公爵ではなかった。あの秘書ではないか。
「火が起これば、そのなりでは逃げ出すより先に煙で死ぬ」
男はやはりあのメガネの秘書だった。そばに屈み、わたしのいましめを解いた。足に続き手の自由を取り戻し、わたしは口元の布を取り去った。
男から背を向け、帯を直す。
先ほどの公爵とのやり取りでは、男は忠実に振る舞っていた。これまで見た姿もそうだった。なぜ今は逆らってわたしを自由にするのか。助かるのならどうでもいいが、不思議だった。
さらわれた人妻に憐憫の情がわいたのだろうか。
「礼を申す。そなた、後で公爵に責めを受けるだろう。構わぬのか?」
秘書は返事の代わりにじっとわたしを見つめた。メガネ越しの瞳は、絵や風景でも眺めるような穏やかなものだ。彼がメガネを外し、胸のポケットにしまった。
礼司の水彩画を振り返り、
「ここには何人も女が囚われてきた。人妻が多い。浅ましく、彼女たちを痛ましいと思っていた。けれど、助けたのは初めてだ」
「なぜ?」
男は横顔だけで振り返る。
すぐに顔を戻し、手のランプを絵を目掛けて放り投げた。ランプの油が飛び散り、点々と火がついた。礼司が才を傾けて描いた水彩画が燃えていく。絵ばかりでなく畳にも火が飛び散って、ちろちろ舐めるように広がり始めた。
わたしの手を引く。
「こっちへ。段取りを間違えなければ、責めなど負うことはない」
部屋を出て、来た廊下とは逆を目指した。廊下の引っ込んだところに隠れて、男が倒れていた。運転手だった。わたしを殴りつけた男がこんな場で、正体をなくして伸びている。
おそらく、これが三島だろう。公爵が女をさらう際の相棒のはず。人の名を騙っておびき寄せ、あの部屋に監禁して犯すのだ。
「薬で深く眠らせた。まだ当分は起き出さない」
秘書の言葉に、わたしはくの字を作って眠り込んでいる男の尻を蹴り上げた。腹立ちが切れず、次は背を蹴りつけた。
「それくらいに」
「こいつに腹を殴られるいわれなどない」
「元気な人だ」
秘書が小さく笑った。
わたしを伴い、離れの勝手口から外へ出た。邸の裏口で、空いた土地に雑多に木箱が積まれ、リヤカーが放置されていたりもした。
砂利だらけのそこへ足を踏み入れるより先に、秘書がわたしの前で背を向けて屈んだ。
「はき物がない。代わりに」
草履は車寄せからの入り口で脱いでしまっていた。煙が立ち始めている中、取りに戻るなど出来ない。
「早く。時間も段取りのうちだ」
急かされて、身を預けた。膝が割れるがしょうがない。幸い日が暮れ、あたりは暗い。男の背に乗り、柊理におぶってもらったことを思い出した。髪や首からする匂いが彼とは違う。不快ではない違和感で、戸惑っていた。
冷たい小雨が降っている。その中を男は迷いもなく、早足に歩を進めていく。
「どこへ行くのだ?」
「面影橋へ。そこまで離れれば安心できる」
「そうか。重くはないか?」
「軽い」
随分進んでも、秘書の調子に疲れも乱れもない。身を預けてわかるが、見た目よりよほどたくましい身体をしている。
「なぜあんな外道公爵の秘書などしている? 他に道はあろうに」
「どう見えるかは知らぬが、これで目的に適っているのだ」
「そうか」
「迎えに車を寄越すのは、人さらいの常道だ。今後、用心した方が身のためだろう。それと、一人歩きは止すべきだ。女中でも供にするがよい」
「そうしよう」
細道を抜け、往来に出た。街灯が灯り、車の通りもある。来た道を振り返れば、薄く煙が見えた。川辺公爵の邸からのものだろう。
「雨だ。ぼやで済む」
秘書が橋の手前でわたしを下ろした。ショールの消えた肩に自分の上着を脱いで着せかけてくれた。しっとりぬれた肩先は冷えるが、彼だって同じだ。
「わたしは平気だ。慣れている」
ここで迎えを待つと言った。高司の邸に連絡を入れたから、じき迎えが現れるという。何から何まで手回しがいい。
「これがそなたの言う段取りか?」
「その一つだ」
欄干から冬の川を眺めた。流れは暗く沈んで水音も凍えている。冷えた指を合わせていると、彼がわたしの手を取り、自分の手で包む。顔に持っていき息を吹きかけた。
「少しは温まるだろう」
街灯の灯りに、ごく近くの彼の顔が照らされる。わたしを見る目。涼しい目元に遠い記憶が呼び覚まされる。喉の奥から、言葉にならない声が上りそうになった。
佐和野様の若君では?
許婚の、一成様では?
「至急参内せよとのお召しでございます」
「後ではまずいのか? 御用の向きは?」
「至急お召しとのみ。単なるご無聊のお慰めなのかもしれませぬが、御前が遅参なされば、浅倉様が喜ばれましょう」
公爵と話す男の声の「御前」という呼びかけに、あのメガネの秘書だと気づく。
たっぷりとした間の後で、
「ええい、間の悪い」
公爵のいら立ったうなり声が聞こえた。秘書へ支度を命じる。
「すでにお部屋にご用意してございます」
「うむ。三島はどこだ?」
「先ほど、母屋で女中をからかっているのを見ましたが。呼びましょうか?」
「使えないやつめ。離れに控えていろと命じてあったのに。何のために雇い入れたと思っているのか」
「では、わたくしがここを封じておきます。御前は急がれて」
「わたしが戻るまで開けることのないように。荷が入っている」
「荷の様子の確認はいかがしましょう?」
「不要だ。体調不良など申し上げて急ぎ帰ってくる。時間を置いて、観念して弱った頃の荷が面白いのだ」
「左様で。かしこまりました」
がちゃりと施錠の気配があった。公爵が出かける。会話の様子では宮中に向かうようだ。急いで帰ると言ったが、しばらくは時間が稼げるはず。
顔を畳にこすりつけ、布をずらす。ほおがひりひりした頃、唇から布が外れた。大きく息をつく。
口は何とかなったが、手も足もしっかりきつく縛られていて、解くのは容易ではない。何か布を切るものがないか。頭を振りあたりを見回すが何も入ってこない。あるのは、公爵が置いていったランプだ。
足で蹴り倒せる位置まで、もぞもぞと動いた。火を起こせば何とかなるのではないか。人も来るだろうし、火で布を焼き切ることができる。
膝を曲げ、反動をつけてランプを蹴り倒そうとしたその時だ。
「おっと、それは悪手だ」
誰かの手が伸び、側からランプが消えた。声の調子が若い。公爵ではなかった。あの秘書ではないか。
「火が起これば、そのなりでは逃げ出すより先に煙で死ぬ」
男はやはりあのメガネの秘書だった。そばに屈み、わたしのいましめを解いた。足に続き手の自由を取り戻し、わたしは口元の布を取り去った。
男から背を向け、帯を直す。
先ほどの公爵とのやり取りでは、男は忠実に振る舞っていた。これまで見た姿もそうだった。なぜ今は逆らってわたしを自由にするのか。助かるのならどうでもいいが、不思議だった。
さらわれた人妻に憐憫の情がわいたのだろうか。
「礼を申す。そなた、後で公爵に責めを受けるだろう。構わぬのか?」
秘書は返事の代わりにじっとわたしを見つめた。メガネ越しの瞳は、絵や風景でも眺めるような穏やかなものだ。彼がメガネを外し、胸のポケットにしまった。
礼司の水彩画を振り返り、
「ここには何人も女が囚われてきた。人妻が多い。浅ましく、彼女たちを痛ましいと思っていた。けれど、助けたのは初めてだ」
「なぜ?」
男は横顔だけで振り返る。
すぐに顔を戻し、手のランプを絵を目掛けて放り投げた。ランプの油が飛び散り、点々と火がついた。礼司が才を傾けて描いた水彩画が燃えていく。絵ばかりでなく畳にも火が飛び散って、ちろちろ舐めるように広がり始めた。
わたしの手を引く。
「こっちへ。段取りを間違えなければ、責めなど負うことはない」
部屋を出て、来た廊下とは逆を目指した。廊下の引っ込んだところに隠れて、男が倒れていた。運転手だった。わたしを殴りつけた男がこんな場で、正体をなくして伸びている。
おそらく、これが三島だろう。公爵が女をさらう際の相棒のはず。人の名を騙っておびき寄せ、あの部屋に監禁して犯すのだ。
「薬で深く眠らせた。まだ当分は起き出さない」
秘書の言葉に、わたしはくの字を作って眠り込んでいる男の尻を蹴り上げた。腹立ちが切れず、次は背を蹴りつけた。
「それくらいに」
「こいつに腹を殴られるいわれなどない」
「元気な人だ」
秘書が小さく笑った。
わたしを伴い、離れの勝手口から外へ出た。邸の裏口で、空いた土地に雑多に木箱が積まれ、リヤカーが放置されていたりもした。
砂利だらけのそこへ足を踏み入れるより先に、秘書がわたしの前で背を向けて屈んだ。
「はき物がない。代わりに」
草履は車寄せからの入り口で脱いでしまっていた。煙が立ち始めている中、取りに戻るなど出来ない。
「早く。時間も段取りのうちだ」
急かされて、身を預けた。膝が割れるがしょうがない。幸い日が暮れ、あたりは暗い。男の背に乗り、柊理におぶってもらったことを思い出した。髪や首からする匂いが彼とは違う。不快ではない違和感で、戸惑っていた。
冷たい小雨が降っている。その中を男は迷いもなく、早足に歩を進めていく。
「どこへ行くのだ?」
「面影橋へ。そこまで離れれば安心できる」
「そうか。重くはないか?」
「軽い」
随分進んでも、秘書の調子に疲れも乱れもない。身を預けてわかるが、見た目よりよほどたくましい身体をしている。
「なぜあんな外道公爵の秘書などしている? 他に道はあろうに」
「どう見えるかは知らぬが、これで目的に適っているのだ」
「そうか」
「迎えに車を寄越すのは、人さらいの常道だ。今後、用心した方が身のためだろう。それと、一人歩きは止すべきだ。女中でも供にするがよい」
「そうしよう」
細道を抜け、往来に出た。街灯が灯り、車の通りもある。来た道を振り返れば、薄く煙が見えた。川辺公爵の邸からのものだろう。
「雨だ。ぼやで済む」
秘書が橋の手前でわたしを下ろした。ショールの消えた肩に自分の上着を脱いで着せかけてくれた。しっとりぬれた肩先は冷えるが、彼だって同じだ。
「わたしは平気だ。慣れている」
ここで迎えを待つと言った。高司の邸に連絡を入れたから、じき迎えが現れるという。何から何まで手回しがいい。
「これがそなたの言う段取りか?」
「その一つだ」
欄干から冬の川を眺めた。流れは暗く沈んで水音も凍えている。冷えた指を合わせていると、彼がわたしの手を取り、自分の手で包む。顔に持っていき息を吹きかけた。
「少しは温まるだろう」
街灯の灯りに、ごく近くの彼の顔が照らされる。わたしを見る目。涼しい目元に遠い記憶が呼び覚まされる。喉の奥から、言葉にならない声が上りそうになった。
佐和野様の若君では?
許婚の、一成様では?