わたしの結婚〜異能の御曹司に見出され、愛されて〜

26、初恋の日

 おかしなことと、感じてはいた。その他多くの人妻は見捨て、なぜわたしだけ救おうとしたのか。用心するよう諭すなど、公爵の秘書の彼の立場では論外だ。

 そして、言葉づかい。硬く武家風の抑揚、言い切り。霧林の邸を出て以来、わたしにその言葉を返すことが出来る人はいなかった。

 外したメガネ。

 わかるようになさった?

 声がかすれた。

 「一成様…」

 瞳が細まった。

 時が止まる。

 一瞬、初めて会い、そして最後になる茶会の日がよみがえった。紅葉の頃で、庭は朱や黄で燃えるように華やいでいた。茶事に事寄せ人々が集い、彼とわたしを許婚として引き合わせる場だった。

 「美しゅうなった」

 その声に現実に引き戻された。目の前の一成様は肩先をぬらしたシャツ姿で、わたしの手を包み温めている。

 これまであった幾度かの遭遇で、わたしはいつも彼の視線を感じていた。気づいていたのだ。ずっと前から。

 ぶつけたい問いや感情はあふれるほどだ。しかし、それを一成様に浴びせかけたところで、何になろうか。離れて過ぎた時間だけ、わたしたちの距離は遠くなり、今ではわたしは彼の真の姿さえおぼつかない。

 どういう道筋で、またはかけ違いで、川辺公爵の秘書などに収まっているのか。

 「逃げられた不首尾から、公爵も噂を恐れてもう手を出すことはあるまい。その方らが口外せねば、波風は立たぬ」

 「黙っていろと?」

 「腹に据えかねるだろうが」

 そこで一成様は微笑んだ。目を奪われるほどさわやかな笑顔だった。

 「三島を蹴りつけたのはよかった。あれでとりあえず堪忍してくれぬか?」

 強く心を揺さぶる面影だ。そのまなざしに見つめられると否やを返せない。はかなく散った美しい過去が切なく胸に迫る。

 「今、騒動は困るのだ。頼む」

 「…はい」

 他愛もなく繰り返した。もし、時代に許されたなら。もし、すべてが乗り越えられたなら…。

 叶わないと知りながら夢見た面影。

 交わす瞳に互いに感じている。憧憬と淡い恋。それが二人の記憶の中に残ること。

 それを知るだけで、わたしの初恋は今実ったように思う。

 「騎士のお出ましだ」

 声に顔を上げる。彼の視線の先に、見覚えのある黒塗りの車が止まっている。ドアが開いて柊理が車を下りるのが見えた。

 一成様がわたしの手を放した。肩から上着を取り、わたしの背を強く押す。すぐに身を翻した。

 駆けてきた柊理がわたしを抱きしめた。

 「姫」

 「柊理」

 車に促されながら、一成様が去った方に目をやる。そこは闇があるばかりで、もうあの人の影もたどれない。


 柊理は連絡を受けて迎えに来たと言った。その時川辺公爵の秘書であると名乗られたという。

 車の中では言葉が重くなった。ひどい寒さもあったし、不意の邂逅で今も気持ちは動揺したままだった。公爵に囚われたが助けられて無事であること、柊理が一番知りたいことを自分で伝え、後は口をつぐんだ。

 「帰りが遅いから、氷川宮家に問い合わせたんだ。招待などしていないと返さて、狂いそうになった」

 「…すまぬの」

 「いいんだ。姫のせいじゃない。無事ならもういい」

 彼は気遣ってか、無理に問わず、自分の外套をまとわせたわたしを抱き寄せるだけだった。

 邸に帰り、お冴に勧められすぐに風呂に入った。熱い湯に身体を浸した時、どれほど自分が凍えていたかを知った。一成様も同じほど寒さを感じていたはず。

 「わたしは慣れている」。そう言ったが、辛さに慣れるなどない。ただあきらめて耐えるだけだ。

 今のありようを見れば、霧林の家と同じく佐和野家も絶えたのは明らかだ。どれだけ耐えてきたのだろうと思った。包んでくれた彼の手のひらは硬く厚く、指や甲に傷跡が多く残っていた。

 若様であった頃は、負うはずのない傷だ。辛酸の証し。

 わたしも同じほどの時期、遊女だった。折檻もあったし、姫では経験するはずもないことをくぐり抜けてきた。見えないが、心には大小の傷を負っている。

 一成様は何を耐えてきたのだろう。


 長く湯に浸かっていた。それでも芯から温もった感じもしない。

 浴室を出るとお冴が立っていて、居間で柊理が待っていると伝えた。

 「そうか」

 居間には柊理がいて、手持ち無沙汰にタバコをくわえながら立っていた。わたしが部屋に入ると。座ってほしいと椅子を進める。

 しばらくして、お冴がお茶と握り飯を運んできた。刻んだ漬物やおじゃこを混ぜ込んで握った洒落たもので、三つあるそれぞれ色が異なる。一人の昼食に好んで食べるものだった。柊理は別で済ませたのだろう。

 それを見て、空腹に気づいた。今は何時なのか。置き時計は十時を過ぎていた。

 「他がご所望でしたら、すぐご用意します」

 「いや、いい」

 お冴が下がって行った。

 一つ食べて、箸を止めた。思ったほど食欲がない。お茶を飲んだ。

 「何があったか、詳しく話してくれ」

 わたしの前に座った彼が、まっすぐに見つめる。物憂い気がしたが、彼には問う権利もある。

 最初から話した。意図もなく、一成様との関係は自然に端折った。言うべきではないというより、言いたくなかった、が近い。

 聞きながら、柊理の表情が険しくなる。一瞬、怒りに瞳が青く光った気がした。当然だ。公爵の行いは卑劣極まりない犯罪行為だ。

 「他にも人妻の犠牲者が多いらしい」

 「そこまでのことをやる人だとは」

 被害者の女は噂を恐れて決して口外しないだろうし、それをいいことに、公爵は次々に毒牙を伸ばしていった。

 「わたしも手足を縛られ、もう少しで帯を解かれるところだった。もうこの話は止めにしてよいか? 繰り返したくない。ぼやまで出され、わたしに手を出すのは懲りただろうしの」

 事実であるが、柊理の質問をかわす方便だった。

 彼は苦々しく黙り込んだ。

 公爵は、すでに家庭を持つ男の婚歴を抹消して、自分の娘と娶せるほどの横車を押す人物だ。この事件を公にしたところで、正当な捜査も審判も見込めない。それどころか、報復的にどんな理不尽を被るか知れたものではない。

 そんなことはとうに柊理もわかっている。彼はきっと事件を訴え出ない。出来ないのだ。

 だから不愉快で辛い顔をする。男としての矜持を深く傷つけられたに違いない。

 彼の手を取って握った。

 「休んでもよいか? 頭が痛いのだ」

 断ってからから寝室に下がった。
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