わたしの結婚〜異能の御曹司に見出され、愛されて〜
30、千夜
ほぼ一年半ぶりだろうか。
『武器屋』は朱格子前に女が並ぶ昼見世の終わりで、だらけた空気が漂っていた。車から降りて、野島を連れ中に入る。案内も請わず用聞きの女中を払いたたきを上がった。
楼内は白粉と酒の甘い匂いが立ち込め、すぐに花魁だった自分がよみがえる。ここの悪くなかった食事の味も舌に上ってきて、自分を度し難く思う。
玄関横が帳場だ。日がな楼主がここに詰め、金勘定をしているのだ。女の売り買いもここで行う。
ふすまを開けた。長火鉢の前に縞の着流し姿の楼主がいた。向かいに壮年の男だ。これがおちょぼの親か。もしくは妓楼と親の間に入る女衒かもしれない。その横におちょぼがいた。
開いた襖に三人の目が一斉にこちらへ向く。
「姉様」
おちょぼの変化に声を失った。わたしの知る彼女はふっくらした頬をしたあどけない少女だった。その面影が薄いほどに、今のおちょぼは頬がこけ手足が細り、みすぼらしいなりをしていた。
あんなに送ってやった服はどうしたのか。少し伸びた身体に小さ過ぎる袷を着ている。厳しい暮らしもあるだろうと、胸にわいた怒りを飲み込んだ。
「葵、久しぶりだね。元気そうでよかったよ」
場違いにのんびりとした調子の楼主の前に、膝を払って座った。側に野島が控える。わたしが声を出すより先に、野島が口を開いた。
「奥方様の補佐として参った。それで、仔細を説明してもらおう」
彼の厳しい声に楼主は空咳をしてから、ちょっと肩をすくめるように話し出した。男がおちょぼの父親であることと、訳あって再度こちらへ身売りを希望しているとのこと。
それらを聞いた野島がわたしを見た後で、
「奥方様のご意向では、おちょぼちゃんをもらい受けたいとお考えだ。以前打診したように、正式な養子縁組をお望みだ」
そう言った野島の声に、父親が言葉を挟んだ。
「それは困ります。大事な一人娘だ。とんでもない。捨てたいのではないのです。ただ母親も亡くし、男手一人で苦労させるより、なじんだこちらで厄介になった方が娘も幸せかと思う。親心です」
馬鹿な。遊郭に売りつけて幸せになれるなどとほざく。胸が悪くなるほど嫌気がさした。
おちょぼには気の毒だが、すさんだ生活がその風体からうかがえた。この親の下では、苦しい生活を強いられたのだろうと、苦々しい思いがした。
辛い思いをさせるために手放したのではなかった。
わたしは目で野島に合図した。彼がうなずき、父親を伴い、外へ連れ出した。襖の外で話し合う気配がした。おちょぼが涙ぐみながらわたしを見ている。
「早く帰ろう、おちょぼ。少し待て。あやつが上手くはからってくれるぞ」
手を差し伸べると、おちょぼも手を伸ばし、握ってきた。
五分も過ぎた頃か、襖が開いた。野島が私へうなずく。
「父御が養子縁組にご納得下された。そろそろ弁護士が参ります。しばしお待ちを」
「そなた、弁護士も用意しておったのか。頼もしいの」
「いや、一度に済んだ方が誰にもよろしかろうと考えたまでで」
野島と言葉を交わしてほどなく、弁護士が現れた。邸で会ったこともある禿頭の男で、わたしを見て恭しく頭を下げた。
養子縁組は、以前おちょぼの親に打診した際に作った正式の書面があり、弁護士も立ち会う今、それに父親の署名と母印を貰えば済むという。
野島から幾らもらえるのか、父親は易々と署名を行った。その後で、再び襖の外に父親と野島と弁護士が消えた。
その間に、小さな台で交わした養子縁組の書面を改めて見た。おちょぼの本名が記されてある。
千夜、とあった。彼女はかむろという遊女見習いだった。だから源氏名も与えられておらず、本名をもじったおちょぼという愛称がずっとその名になった。
「美しい名ではないか。おちょぼだからちよかと思っていたが、ちやか」
そう言うと、楼主が、
「そうだね。せっかく夕…じゃなく葵と縁が結べたのだ、幸せにおなり」
と言う。冷淡な顔で遊女を裸に剥いて縛り上げる先代とは違い、人らしい。折檻部屋を廃止したのもこの人だ。しかし、ただ甘いだけではこの商売で食べては行かれない。おちょぼには見えない位置で、わたしへ指を三本出した。
父親に支払う金額の三割を店にくれという合図だ。そもそもその皮算用があるから、わたしへ連絡を取ったはずだ。ものになるかわからない娘を大金で買い取るより、こちらから斡旋料を取った方が手堅いと踏んだのだろう。
図々しい。以前柊理がおちょぼを引き取る際にも、彼から望外の大枚をせしめたくせに。
それでも、おちょぼ絡みで先々の遺恨を残したくない。わたしは首を振り、一本を返した。それでも大金だ。楼主は苦笑しつつうなずいた。
「こちらの景気はどうですか?」
「葵が抜けてから厳しいよ。君は吉原の名物花魁で、うちの大看板だったからね。もう本物の姫はいない」
「公家の花魁がいたではないですか」
「ああ、紫ね。あの子も夏に身請けされてここを出たよ。同じ公家の方の二号さんになっているよ」
「そうですか」
紫はここでは何かにつけ、わたしに張り合ってくる花魁だった。確かこの楼主に恋をしていたはず。『武器屋』を出ているとは意外だった。
ふすまが開いて、野島と弁護士が戻って来た。父親の姿がない。野島を見ると首を振る。金を手にしたら、消えたようだ。最後におちょぼに言葉もないのか。愕然としたが、その方がいいと思い直す。お互いにもう他人になったとわかり合った方が今後のためだ。
「『武器屋』へ、一、出せるか? 礼金だ」
野島はぎろりとした目を楼主へ向けた。電話をかけただけで、法外な取り分と言いたいのだろう。それでもわたしが了承している以上、うなずいた。
「今回の件について、他言無用に。外にもれることがあった場合、然るべき手段に出る用意がある」
しっかりと楼主に釘を刺した。
おちょぼを連れ、店を出た。車に乗り込み、彼女の衣服を調達しようと考えた。それを野島に伝える。
何ともみすぼらしい身なりだ。『武器屋』でかむろをしていた頃の方が、よほどいいものを身につけていた。
「こんな小さな袷を持たせてやった覚えはないぞ」
「…姉様にもらったものは、父上が贅沢する余裕はないと、持って行ってしまいました」
要らない分は売ればいいと思っていたが、それは彼女が十分着た後の話だ。せめてましなものを残してやる親心はなかったのか。
「母上は残念だったの。ご病気か?」
おちょぼは首を振る。では事故か?
「母上は、よそへ嫁に行きました。お腹にややがいて…」
「そなたの父は、母は死んだと申したではないか。ややとは何だ?」
おちょぼは説明できないのか、わたしを見て困った顔をしている。そこで野島が言葉を挟んだ。
「離縁ですよ。母御は離縁の元となったところへ嫁がれて、近く赤子を産まれるそうです。父御に取っては死別と大差ないのでしょう」
「そうか…」
おちょぼの両親間に複雑な事情があったようだ。いさかいもあっただろう。しかし、それを眺めて過ごした彼女の気持ちはどうだったのか。あげくに、母親はおちょぼを置いて別の男の元へ行ってしまった。
親の問題はどうであれ、二度売られるということは、二度捨てられたということだ。
以前高司の邸で、親が彼女を引き取りたがっているという話をした時の、おちょぼのうれしそうな顔を覚えている。血の絆に決してわたしが敵わないと知った瞬間だ。
その無垢でひたむきな思いが引きちぎられて、今がある。
ほろほろ泣き出しながら、おちょぼが言う。
「お父さんが電話しても、姉様は来てくれないと思った」
「え」
「わたしが姉様のところより父上たちを選んだから、きっと嫌われたと思った…」
「馬鹿を申せ」
おちょぼの手を握って振った。
「そなたとは縁が切れぬのだ。よいな?」
『武器屋』は朱格子前に女が並ぶ昼見世の終わりで、だらけた空気が漂っていた。車から降りて、野島を連れ中に入る。案内も請わず用聞きの女中を払いたたきを上がった。
楼内は白粉と酒の甘い匂いが立ち込め、すぐに花魁だった自分がよみがえる。ここの悪くなかった食事の味も舌に上ってきて、自分を度し難く思う。
玄関横が帳場だ。日がな楼主がここに詰め、金勘定をしているのだ。女の売り買いもここで行う。
ふすまを開けた。長火鉢の前に縞の着流し姿の楼主がいた。向かいに壮年の男だ。これがおちょぼの親か。もしくは妓楼と親の間に入る女衒かもしれない。その横におちょぼがいた。
開いた襖に三人の目が一斉にこちらへ向く。
「姉様」
おちょぼの変化に声を失った。わたしの知る彼女はふっくらした頬をしたあどけない少女だった。その面影が薄いほどに、今のおちょぼは頬がこけ手足が細り、みすぼらしいなりをしていた。
あんなに送ってやった服はどうしたのか。少し伸びた身体に小さ過ぎる袷を着ている。厳しい暮らしもあるだろうと、胸にわいた怒りを飲み込んだ。
「葵、久しぶりだね。元気そうでよかったよ」
場違いにのんびりとした調子の楼主の前に、膝を払って座った。側に野島が控える。わたしが声を出すより先に、野島が口を開いた。
「奥方様の補佐として参った。それで、仔細を説明してもらおう」
彼の厳しい声に楼主は空咳をしてから、ちょっと肩をすくめるように話し出した。男がおちょぼの父親であることと、訳あって再度こちらへ身売りを希望しているとのこと。
それらを聞いた野島がわたしを見た後で、
「奥方様のご意向では、おちょぼちゃんをもらい受けたいとお考えだ。以前打診したように、正式な養子縁組をお望みだ」
そう言った野島の声に、父親が言葉を挟んだ。
「それは困ります。大事な一人娘だ。とんでもない。捨てたいのではないのです。ただ母親も亡くし、男手一人で苦労させるより、なじんだこちらで厄介になった方が娘も幸せかと思う。親心です」
馬鹿な。遊郭に売りつけて幸せになれるなどとほざく。胸が悪くなるほど嫌気がさした。
おちょぼには気の毒だが、すさんだ生活がその風体からうかがえた。この親の下では、苦しい生活を強いられたのだろうと、苦々しい思いがした。
辛い思いをさせるために手放したのではなかった。
わたしは目で野島に合図した。彼がうなずき、父親を伴い、外へ連れ出した。襖の外で話し合う気配がした。おちょぼが涙ぐみながらわたしを見ている。
「早く帰ろう、おちょぼ。少し待て。あやつが上手くはからってくれるぞ」
手を差し伸べると、おちょぼも手を伸ばし、握ってきた。
五分も過ぎた頃か、襖が開いた。野島が私へうなずく。
「父御が養子縁組にご納得下された。そろそろ弁護士が参ります。しばしお待ちを」
「そなた、弁護士も用意しておったのか。頼もしいの」
「いや、一度に済んだ方が誰にもよろしかろうと考えたまでで」
野島と言葉を交わしてほどなく、弁護士が現れた。邸で会ったこともある禿頭の男で、わたしを見て恭しく頭を下げた。
養子縁組は、以前おちょぼの親に打診した際に作った正式の書面があり、弁護士も立ち会う今、それに父親の署名と母印を貰えば済むという。
野島から幾らもらえるのか、父親は易々と署名を行った。その後で、再び襖の外に父親と野島と弁護士が消えた。
その間に、小さな台で交わした養子縁組の書面を改めて見た。おちょぼの本名が記されてある。
千夜、とあった。彼女はかむろという遊女見習いだった。だから源氏名も与えられておらず、本名をもじったおちょぼという愛称がずっとその名になった。
「美しい名ではないか。おちょぼだからちよかと思っていたが、ちやか」
そう言うと、楼主が、
「そうだね。せっかく夕…じゃなく葵と縁が結べたのだ、幸せにおなり」
と言う。冷淡な顔で遊女を裸に剥いて縛り上げる先代とは違い、人らしい。折檻部屋を廃止したのもこの人だ。しかし、ただ甘いだけではこの商売で食べては行かれない。おちょぼには見えない位置で、わたしへ指を三本出した。
父親に支払う金額の三割を店にくれという合図だ。そもそもその皮算用があるから、わたしへ連絡を取ったはずだ。ものになるかわからない娘を大金で買い取るより、こちらから斡旋料を取った方が手堅いと踏んだのだろう。
図々しい。以前柊理がおちょぼを引き取る際にも、彼から望外の大枚をせしめたくせに。
それでも、おちょぼ絡みで先々の遺恨を残したくない。わたしは首を振り、一本を返した。それでも大金だ。楼主は苦笑しつつうなずいた。
「こちらの景気はどうですか?」
「葵が抜けてから厳しいよ。君は吉原の名物花魁で、うちの大看板だったからね。もう本物の姫はいない」
「公家の花魁がいたではないですか」
「ああ、紫ね。あの子も夏に身請けされてここを出たよ。同じ公家の方の二号さんになっているよ」
「そうですか」
紫はここでは何かにつけ、わたしに張り合ってくる花魁だった。確かこの楼主に恋をしていたはず。『武器屋』を出ているとは意外だった。
ふすまが開いて、野島と弁護士が戻って来た。父親の姿がない。野島を見ると首を振る。金を手にしたら、消えたようだ。最後におちょぼに言葉もないのか。愕然としたが、その方がいいと思い直す。お互いにもう他人になったとわかり合った方が今後のためだ。
「『武器屋』へ、一、出せるか? 礼金だ」
野島はぎろりとした目を楼主へ向けた。電話をかけただけで、法外な取り分と言いたいのだろう。それでもわたしが了承している以上、うなずいた。
「今回の件について、他言無用に。外にもれることがあった場合、然るべき手段に出る用意がある」
しっかりと楼主に釘を刺した。
おちょぼを連れ、店を出た。車に乗り込み、彼女の衣服を調達しようと考えた。それを野島に伝える。
何ともみすぼらしい身なりだ。『武器屋』でかむろをしていた頃の方が、よほどいいものを身につけていた。
「こんな小さな袷を持たせてやった覚えはないぞ」
「…姉様にもらったものは、父上が贅沢する余裕はないと、持って行ってしまいました」
要らない分は売ればいいと思っていたが、それは彼女が十分着た後の話だ。せめてましなものを残してやる親心はなかったのか。
「母上は残念だったの。ご病気か?」
おちょぼは首を振る。では事故か?
「母上は、よそへ嫁に行きました。お腹にややがいて…」
「そなたの父は、母は死んだと申したではないか。ややとは何だ?」
おちょぼは説明できないのか、わたしを見て困った顔をしている。そこで野島が言葉を挟んだ。
「離縁ですよ。母御は離縁の元となったところへ嫁がれて、近く赤子を産まれるそうです。父御に取っては死別と大差ないのでしょう」
「そうか…」
おちょぼの両親間に複雑な事情があったようだ。いさかいもあっただろう。しかし、それを眺めて過ごした彼女の気持ちはどうだったのか。あげくに、母親はおちょぼを置いて別の男の元へ行ってしまった。
親の問題はどうであれ、二度売られるということは、二度捨てられたということだ。
以前高司の邸で、親が彼女を引き取りたがっているという話をした時の、おちょぼのうれしそうな顔を覚えている。血の絆に決してわたしが敵わないと知った瞬間だ。
その無垢でひたむきな思いが引きちぎられて、今がある。
ほろほろ泣き出しながら、おちょぼが言う。
「お父さんが電話しても、姉様は来てくれないと思った」
「え」
「わたしが姉様のところより父上たちを選んだから、きっと嫌われたと思った…」
「馬鹿を申せ」
おちょぼの手を握って振った。
「そなたとは縁が切れぬのだ。よいな?」