わたしの結婚〜異能の御曹司に見出され、愛されて〜
33、朝の朝の出来事
礼司の家族は結衣に興味はあるが、立場上知らぬ振りを貫いた。対外的にはそうしつつも、姉の香子はわたしにあれこれ聞いてくる。
時々、わたしは花母娘の様子を見に行くため、結衣の健やかなことを伝え、礼司が描いた彼女のスケッチを渡したりした。
それは朝食の席のことだ。我が家の三人に加え、礼司も眠そうな顔でテーブルに着いている。
そこに女中が客を伝える。来客のある常識的な時間ではない。柊理が不審な表情をした。
「誰が?」
彼が問うと、女中は礼司をちらりと見る。
「礼司様に、女中さんが急ぎだそうです。赤ちゃんを抱いて…」
「え」
柊理が礼司を見、礼司が女中を見た。わたしはおちょぼを見て、食事を続けるように言った。
「客間を使え」
柊理が礼司に言い、礼司は女中と一緒に食堂を出て行った。
赤ちゃんとは結衣に違いない。こんな早朝に礼司をたずねてきた。何があったのか。胸が騒ぐが、柊理はおちょぼの前で大人の会話をすることを嫌う。「青藍女学院に入れたのなら、俺らがその親らしく振る舞わないと意味がない」。彼がいつか言ったせりふだ。
おちょぼを支度させ、玄関に送り出した。
「お冴が、そなたの言う甘い卵焼きを作らせてくれた」
お冴から弁当を受け取り、おちょぼはうれしげに車に乗り出かけて行った。
さっきから赤子の泣き声がする。気になってしょうがない。居間に行くと、柊理が上着を受け取り、羽織ったところだった。
「おちょぼは出かけたのか?」
「うん。甘い卵焼きを持ってな」
「卵焼きが甘いのか? 歯が浮くな」
「女学校で流行っているらしい」
そこへ礼司が戻ってきた。どこかぼんやりとした様子で、柊理の掛けた声に反応をしなかった。続く食堂で、食べさしの食事を再開している。わたしも柊理も隣りへ行った。
礼司は飯碗をかき込み、味噌汁で流し込んだ。平らげてからため息をついた。
「どうした?」
そう問う柊理へ、
「柊理、どうしようか」
すがるような目を向ける。
「花が消えたんだ。出て行った。子供を置いて…」
礼司はシャツのポケットに入れた紙片を柊理に渡した。彼が広げたそれをわたしものぞき込む。
『礼司様
色々お世話になりました。
考えることもあり、
一人になりたいのです。
結衣をよろしくお願いします。
あなた様の元で育つ方がこの子には幸いかと
判断しました。
勝手をお許し下さい。
花』
書き置きだった。
礼司への別れの手紙だ。彼はテーブルに肘をつき、頭を抱えている。朝、花の姿がなく、書き置きを見つけて驚いた女中がここにやって来たのだ。
「おい、出て行った理由はわからないのか?」
「知らないよ。何にも言わない女だったから。しばらく会ってないし…」
柊理がわたし聞く。
「何か理由を聞いていないか? 礼司に言えなくても、女同士なら話すこともあるのじゃないか?」
「何も」
礼司の言うように、不平不満をもらす女ではなかった。彼のそのままをひたすら吸い込んでやるような従順な女だったはず。わたのようだと感じたのを覚えている。
「礼司の通っていた、花の前の住まいに手がかりがあるかも。同じような生業の女たちと同居していたのだ」
「それ、花に聞いたの? 夜の仕事は隠している風だったのに」
「一度尾けた後で聞き出した。素直に打ち明けたぞ」
「怖い人だな」
礼司がぼやいた。
「姫にはいつものことだ。ともかく、その住まいに人をやって花の消息を聞こう」
柊理が野島に指示し、該当の家へ人をやらせた。帰りを待つ間、結衣の乳母を探す。まだ三月でどうしても乳が要る。今も腹を空かせて泣いていた。自分が消えれば、即座にこんな状況になると花にはわかっていたはずだ。
どんな理由があるにせよ、懸命に母を求める子を置いて出ていくのは、身勝手以外の何ものでもない。無理に礼司に売られたわけでもない。自分で選んで彼とつき合い、子を身ごもった。
そんな残酷な女だったのか。
家を出る間際の彼女の胸に何がきざしたのか。
柊理が外せない用があると、仕事に出掛けて行く。わたしを見て、
「礼司の力になってやってくれ」
と言う。
「わかった」
「早く帰る」
指輪ごと指を強く握られた。
お冴が乳をくれる女を見つけて来た。給金さえもらえれば乳母になってもいいと、自分の子供を連れてやって来た。
さっそく結衣に乳をやってもらう。その間に花の女中を呼んで、状況をたずねた。わたしに見えない普段の花を知りたいと思った。
二十歳ほどの女中は、思い出すようにぽつぽつと話し出した。
「奥様は穏やかで静かな方でした。叱られることもなくて…。でも少し、寂しそうにしていらっしゃいました。旦那様のお越しも一週間に一度ほどでしたし」
礼司は泊まることもあれば、すぐにふいっと出て行ってしまうこともあったという。
「客は?」
「いえ。こちらの奥方様以外はありません」
「手紙などは?」
「さあ、見ていないです」
「出掛けることはないのか?」
「買い物はわたしが済ませておりますし、特には…。でも先週、神社にお参りに行くとお出掛けになったことがありました。それくらいでございますね」
「そうか」
やはり、花の身寄りの話は聞いたことがないという。女中を解放し、結衣の世話に戻らせた。
それからしばらく待って、花の前の住まいへ行った使用人が帰って来た。以前わたしが花を尾けさせた運転手の男だ。
「住む女が言うには、花さんは仲間に挨拶もなく出て行ったそうです。それで縁が切れて、何も知らないと言います」
「かくまうようではないのか?」
「金を握らせましたが、出て来たのは、交際していたという礼司様らしき紳士の話だけでした。友人同士というのではなく、単に都合がいいから同居している薄い間柄のようです」
ねぎらってから下がらせた。
捜索の糸はぷちんと切れた。これ以上何もない。
集められる話を聞き終え、少し物悲しい気持ちになった。
花の気持ちなど推測しかできないが、今の暮らしが耐えがたかったのだろう。礼司の訪れが少ないこと。彼を待ち続けるこれからの日々のこと。妻になれない影の身であること…。
それらのいずれかかもしれない。すべてかもしれないし、他の何かを含むのかもしれない。
花が謙虚なのをいいことに、礼司の態度は素っ気なかった。時間で買った遊郭の一夜妻ではない。彼女は礼司に恋をしてこれまでを受け入れてきた。
だからこそ、我慢ができたことも、また我慢できないこともあるのだろう。彼が自分の女として、もっと優しさを見せて誠実に振る舞っていれば、こうはならなかったのかもしれない。
子を置いて去った彼女のやりようは絶対にいけない。けれど、それを選ばせたのは礼司だ。何がしかの彼女側のしるしを彼は見過ごした。見て目を逸らした。すべてに弱い立場の彼女を思いやらず、死なないように放置した。
そんな風に彼を責める言葉はあふれるように浮かぶ。
しかし、礼司なりに葛藤していたのも事実だ。花のため、柊理と不和になってまで金を作った。適う限りの責任は努めていたのは、わたしもよく知る。
ちょっと息をついた。
礼司を責めて時間が戻るわけでもない。状況は変わらない。
起きたことは起きたこと。今に対応するよりない。彼の場合結衣だ。
礼司は状況を知らせても、反応は薄い。
悄然として見えた。それは花を失ってのことか。結衣を残されて、これからを思って途方に暮れているのか。
彼の側に行き、ぽんと肩を叩いた。
「柊理は優秀な探偵を知っている。花の行方を探させよう。の?」
「僕から逃げた彼女を見つけてどうするの?」
「もういいのか?」
「もういいのは、僕じゃない。花の方だよ」
「ふむ」
そうかもしれない。何かも捨ててまっさらだ。花はまだ若い。頼らず自分で稼いで歩いて来た自負もあるはず。控えめで頼りなさそうに見えて、案外図太いのかもしれない。
花の女中から聞いた話を礼司に伝えた。彼が彼女に与え、家に置いてあった金のほぼすべてがなくなっていたらしい。鍵のかかる場所で、花しか開けられないという。そこが開け放されていたらしい。
「ふうん。川辺公爵に売った帰蝶さんの絵、一枚分くらいかな」
「大金ではないか」
「…よかったよ、せめて」
時々、わたしは花母娘の様子を見に行くため、結衣の健やかなことを伝え、礼司が描いた彼女のスケッチを渡したりした。
それは朝食の席のことだ。我が家の三人に加え、礼司も眠そうな顔でテーブルに着いている。
そこに女中が客を伝える。来客のある常識的な時間ではない。柊理が不審な表情をした。
「誰が?」
彼が問うと、女中は礼司をちらりと見る。
「礼司様に、女中さんが急ぎだそうです。赤ちゃんを抱いて…」
「え」
柊理が礼司を見、礼司が女中を見た。わたしはおちょぼを見て、食事を続けるように言った。
「客間を使え」
柊理が礼司に言い、礼司は女中と一緒に食堂を出て行った。
赤ちゃんとは結衣に違いない。こんな早朝に礼司をたずねてきた。何があったのか。胸が騒ぐが、柊理はおちょぼの前で大人の会話をすることを嫌う。「青藍女学院に入れたのなら、俺らがその親らしく振る舞わないと意味がない」。彼がいつか言ったせりふだ。
おちょぼを支度させ、玄関に送り出した。
「お冴が、そなたの言う甘い卵焼きを作らせてくれた」
お冴から弁当を受け取り、おちょぼはうれしげに車に乗り出かけて行った。
さっきから赤子の泣き声がする。気になってしょうがない。居間に行くと、柊理が上着を受け取り、羽織ったところだった。
「おちょぼは出かけたのか?」
「うん。甘い卵焼きを持ってな」
「卵焼きが甘いのか? 歯が浮くな」
「女学校で流行っているらしい」
そこへ礼司が戻ってきた。どこかぼんやりとした様子で、柊理の掛けた声に反応をしなかった。続く食堂で、食べさしの食事を再開している。わたしも柊理も隣りへ行った。
礼司は飯碗をかき込み、味噌汁で流し込んだ。平らげてからため息をついた。
「どうした?」
そう問う柊理へ、
「柊理、どうしようか」
すがるような目を向ける。
「花が消えたんだ。出て行った。子供を置いて…」
礼司はシャツのポケットに入れた紙片を柊理に渡した。彼が広げたそれをわたしものぞき込む。
『礼司様
色々お世話になりました。
考えることもあり、
一人になりたいのです。
結衣をよろしくお願いします。
あなた様の元で育つ方がこの子には幸いかと
判断しました。
勝手をお許し下さい。
花』
書き置きだった。
礼司への別れの手紙だ。彼はテーブルに肘をつき、頭を抱えている。朝、花の姿がなく、書き置きを見つけて驚いた女中がここにやって来たのだ。
「おい、出て行った理由はわからないのか?」
「知らないよ。何にも言わない女だったから。しばらく会ってないし…」
柊理がわたし聞く。
「何か理由を聞いていないか? 礼司に言えなくても、女同士なら話すこともあるのじゃないか?」
「何も」
礼司の言うように、不平不満をもらす女ではなかった。彼のそのままをひたすら吸い込んでやるような従順な女だったはず。わたのようだと感じたのを覚えている。
「礼司の通っていた、花の前の住まいに手がかりがあるかも。同じような生業の女たちと同居していたのだ」
「それ、花に聞いたの? 夜の仕事は隠している風だったのに」
「一度尾けた後で聞き出した。素直に打ち明けたぞ」
「怖い人だな」
礼司がぼやいた。
「姫にはいつものことだ。ともかく、その住まいに人をやって花の消息を聞こう」
柊理が野島に指示し、該当の家へ人をやらせた。帰りを待つ間、結衣の乳母を探す。まだ三月でどうしても乳が要る。今も腹を空かせて泣いていた。自分が消えれば、即座にこんな状況になると花にはわかっていたはずだ。
どんな理由があるにせよ、懸命に母を求める子を置いて出ていくのは、身勝手以外の何ものでもない。無理に礼司に売られたわけでもない。自分で選んで彼とつき合い、子を身ごもった。
そんな残酷な女だったのか。
家を出る間際の彼女の胸に何がきざしたのか。
柊理が外せない用があると、仕事に出掛けて行く。わたしを見て、
「礼司の力になってやってくれ」
と言う。
「わかった」
「早く帰る」
指輪ごと指を強く握られた。
お冴が乳をくれる女を見つけて来た。給金さえもらえれば乳母になってもいいと、自分の子供を連れてやって来た。
さっそく結衣に乳をやってもらう。その間に花の女中を呼んで、状況をたずねた。わたしに見えない普段の花を知りたいと思った。
二十歳ほどの女中は、思い出すようにぽつぽつと話し出した。
「奥様は穏やかで静かな方でした。叱られることもなくて…。でも少し、寂しそうにしていらっしゃいました。旦那様のお越しも一週間に一度ほどでしたし」
礼司は泊まることもあれば、すぐにふいっと出て行ってしまうこともあったという。
「客は?」
「いえ。こちらの奥方様以外はありません」
「手紙などは?」
「さあ、見ていないです」
「出掛けることはないのか?」
「買い物はわたしが済ませておりますし、特には…。でも先週、神社にお参りに行くとお出掛けになったことがありました。それくらいでございますね」
「そうか」
やはり、花の身寄りの話は聞いたことがないという。女中を解放し、結衣の世話に戻らせた。
それからしばらく待って、花の前の住まいへ行った使用人が帰って来た。以前わたしが花を尾けさせた運転手の男だ。
「住む女が言うには、花さんは仲間に挨拶もなく出て行ったそうです。それで縁が切れて、何も知らないと言います」
「かくまうようではないのか?」
「金を握らせましたが、出て来たのは、交際していたという礼司様らしき紳士の話だけでした。友人同士というのではなく、単に都合がいいから同居している薄い間柄のようです」
ねぎらってから下がらせた。
捜索の糸はぷちんと切れた。これ以上何もない。
集められる話を聞き終え、少し物悲しい気持ちになった。
花の気持ちなど推測しかできないが、今の暮らしが耐えがたかったのだろう。礼司の訪れが少ないこと。彼を待ち続けるこれからの日々のこと。妻になれない影の身であること…。
それらのいずれかかもしれない。すべてかもしれないし、他の何かを含むのかもしれない。
花が謙虚なのをいいことに、礼司の態度は素っ気なかった。時間で買った遊郭の一夜妻ではない。彼女は礼司に恋をしてこれまでを受け入れてきた。
だからこそ、我慢ができたことも、また我慢できないこともあるのだろう。彼が自分の女として、もっと優しさを見せて誠実に振る舞っていれば、こうはならなかったのかもしれない。
子を置いて去った彼女のやりようは絶対にいけない。けれど、それを選ばせたのは礼司だ。何がしかの彼女側のしるしを彼は見過ごした。見て目を逸らした。すべてに弱い立場の彼女を思いやらず、死なないように放置した。
そんな風に彼を責める言葉はあふれるように浮かぶ。
しかし、礼司なりに葛藤していたのも事実だ。花のため、柊理と不和になってまで金を作った。適う限りの責任は努めていたのは、わたしもよく知る。
ちょっと息をついた。
礼司を責めて時間が戻るわけでもない。状況は変わらない。
起きたことは起きたこと。今に対応するよりない。彼の場合結衣だ。
礼司は状況を知らせても、反応は薄い。
悄然として見えた。それは花を失ってのことか。結衣を残されて、これからを思って途方に暮れているのか。
彼の側に行き、ぽんと肩を叩いた。
「柊理は優秀な探偵を知っている。花の行方を探させよう。の?」
「僕から逃げた彼女を見つけてどうするの?」
「もういいのか?」
「もういいのは、僕じゃない。花の方だよ」
「ふむ」
そうかもしれない。何かも捨ててまっさらだ。花はまだ若い。頼らず自分で稼いで歩いて来た自負もあるはず。控えめで頼りなさそうに見えて、案外図太いのかもしれない。
花の女中から聞いた話を礼司に伝えた。彼が彼女に与え、家に置いてあった金のほぼすべてがなくなっていたらしい。鍵のかかる場所で、花しか開けられないという。そこが開け放されていたらしい。
「ふうん。川辺公爵に売った帰蝶さんの絵、一枚分くらいかな」
「大金ではないか」
「…よかったよ、せめて」