夢と異世界は科学室で

  夢と異世界は科学室で
  
        作 タンポポ





       1

 柿口なるか(かきぐちなるか)が部室に到着したのは、午後の授業を終了としてから十分後の事であった。
 校舎の中は右も左もわからない。というには大袈裟であるが、なるかはまだ己が通うこの学校の事を半分も把握していなかった。生まれ育った大阪ならば、そんな事はないのであろうが、つい一年前に引っ越してきたこの東京では、学校に至っても、街に至っても、実に親しみがない。親の都合で大阪の次に住み移った栃木県に別れを告げた後も、なるかは東京で地味な生活を送ってきていた。それが一年間滞在しても尚、この東京という土地に馴染めない説明になるであろう。
 一年前の夏、なるかは高校一年生の過程を続行中のまま、この東京の地に構える高校に転入してきた。そして、それから一年が経ち、この八月に、柿口なるかは十七歳の誕生日を迎えたのである。
 そして――いつものように訪れたこの科学室にて、今この瞬間を迎えているのである。
「あのぅ……、何でしょうか?」
 なるかが開いたドアは『科学室』のドアである。普段は授業などが行われている為、確かにそこは科学室で説明は足りているのであるが、この放課後の時間からは、そこは科学室ではなく、『科学部』の『部室』へと早変わりする。

 それはなるかが転校初日に間違えて入部した部である。科学部の勧誘に『かがく』と『かやく』の響きを取り間違え、『花火だ?』とわけのわからない事を口走りながら、なるかは入部している。
 しかし、今はそれどころではない。なるかが部室のドアを開いた時、なるかの眼の前に、この五人が並んで立っていたのだから。
 それは意外な人物達であった。
 一人はこの『科学部』の部長を務めている、部室で唯一の三年生、輝川星弘(てるかわほしゆき)であった。彼は部員達から慕われる性格で、実に三年生の鏡と評価できる落ち着いた秀才であった。部員達からは信頼の意を込めて『部長』と呼ばれている。
 そして、後の四人は簡単に説明する事が叶う。後の四人はこの『科学部』での実力者。つまり、寡黙(かもく)な部員達で占めるこの科学部で、実に発言回数の多い、態度の大きな四人なのである。
 氏名の紹介も実に簡単にいく。
「あ、驚かなくてもいいよぅ…あのう~、うん」
 まず、この男。なるかと同じ二年生部員である。園田(そのだ)とおる。別にこれといって名前に脂肪感はないが、彼は巨漢である。つまり、実に太っているのである。彼はいつも禁止されている食べ物を部室に持ち込んでおり、気がつけば大きな声で騒いでいる。その太い見た目から、彼は部員達から『フトル』と呼ばれていた。
「ぐふ。あのお~……、なるか君…、だったよね?」
「なるか君って…、お前変態かよデブ。タメ年なんだから柿口って言え」
 会話に割り込んできたこの男は、同じく二年生部員の、村瀬勝也(むらせかつや)。彼はやせ型のつり目で、いつもフトルと行動を共にしている。性格は強気であるが、それはこの『科学部』の中でだけである。彼はこの科学部では『村瀬』と呼ばれている。
「ああ、そんなに、別に驚かなくていいよ」
 そして、五人並んだ右端に佇(たたず)むこの背の低い男は、やはり二年生部員で、名前を有島勇気(ありしまゆうき)という。彼も部活では実に目立った存在であった。しかし基本的には静かな性格で、その存在自体は目立たないはずなのであるが、その顔にかけた大きな黒ぶちメガネと、博士のようなその雰囲気から、彼は部員達から『メガネキング』という意を込めて『メガキン』と呼ばれ、やはり目立った存在となっている。
「あ、あのー……、何でしょう…か?」
 なるかは大きな瞳を怯えさせたままで囁いた。
「私ぃ、これから、怒られますか?」
「怒らないわよ」
 最後に、この性格の歪んでいそうな、眼つきの悪い女子部員を紹介したいと思う。
 彼女の名前は汐崎佐里(しおさきさり)。部員達からは『サリ』の通称で馴染んでいる二年生である。
 しかし、このサリは、実は柿口なるかと唯一、部活内で仲の悪い生徒なのであった。言わばなるかの『敵』なのである。性格が自己中心的であり、なるかの部活初日に『転校生だからってちやほやしないから、さっさと部屋を掃除してよ。ほら、突っ立ってないで…も~、使えないわね~』と言って、まだ右も左もわからないなるかを泣かせた記録を持っている。
 この科学部で有名人であるそんな五人が、今、なるかの眼の前に立っているのであった。
「あのさ、柿口さん、悪いんだけど、今日部活が終わったら、そのままここに残っててくれる?」
 部長は淡々となるかに言った。
「本当にすまない」
 そう何度も会話した事のない部長が、自分に直接話しかけている。糸のような細い眼に、糸のような細い眉毛。普通としか言いようのない鼻に、実に小さく薄い唇。
 初めての部活の日、子供が作った粘土細工のようだと思ったその顔が、今は直接自分に向かって何かをしゃべっている。
「柿口さん、残れるかな?」
「え……あはい」
 とりあえず、なるかは頷いた。
「あの、えと、でも……」
「残れない? 残れるんでしょう? どっち?」
 サリはご機嫌で口を開いた。
「無理しなくていいの、本当に、今日だけは無理しなくていいからね?」
 キツネのようなサリの顔が、自分に話しかけている。
「あ、ううん。それは大丈夫なんだけど」
「そ……」
 なるかがそう言うと、サリはあからさまに白目を剝いてから、パソコンが並ぶ机列に歩いて行ってしまった。そこで部員達はそれぞれがそれぞれの『科学』の研究をしているのである。
 なるかはサリの行動に戸惑っている。敵、とは言っても、それはサリの一方的な認識なのである。泣かれた事に恨みを持っており、それ以来サリはなるかに絶大なるライバル意識をもっているのであった。なるかが男子生徒にモテる事も関係している。尚、なるかはサリに特別な感情は持っていない。『キツネみたいな顔だなぁ~』と仄(ほの)かに思っているだけである。
「何だよあいつ……」
 今度は、村瀬がなるかに言う。
「柿口さん、お前、不思議って物に興味があるんだろう?」
「フウンっ‼」
 なるかが素早く頷こうとすると、次の瞬間、すぐにフトルがでっぱった腹で村瀬を派手に突き飛ばした。なるかは驚いてしまい、そのまま少しだけ怯(おび)えた。
「おまっ、ちょっ……なんだよ!」
「……」
 フトルは黙ったままで首を横に振った。顔は怖く極まっている。
 なるかはわけもわからぬまま、ここのドアを開けてからずっとそうしているように、きょとんと怯(おび)えた顔をしている。
「まあ、今は余計な事を言うな」
 部長は村瀬にそう言ってから、続いてなるかに笑顔を向けた。
「柿口、たぶん、お前も喜ぶと思う。今のところは何もきかないで、このまま残っていてくれよ」
「……はい」
 迷う選択ではなかった。部長が『残れ』と言っているのだから、部活での仕事かもしれない。
「わかりました」
 なるかは部長の顔を見つめながら、ゆっくりと頷いた。
「うん、よろしく」
 その後、部長はいつもの席、つまりは一番奥の列にある、最後の席に着席した。
 そして、一言をしゃべったままで笑顔を演出していたメガキンは、真ん中の列の最後の席に。デブ痩せコンビのフトルと村瀬は、ドアから近い手前側の列にて、隣同士の最後の席についた。
 その列と同じ、フトル達の席の正面向かいの列にくっついた席に、先程のサリも着席している。サリの座る列の机並びが、入り口から最も近くにあたる並び列であった。
 それは鏡のように向き合わさっている。否、机にはパソコンが陳列されている為、向き合った同列の部員達が眼を合わせる事はない。
 なるかは、フトル、村瀬、サリと同列であり、そして、サリと同じドアから最も近い側の、サリと隣同士となる席に腰を下ろしていた。――そこが柿口なるかの指定席なのである。

 すでに起動しているパソコン画面には背景画面(壁紙)として、アイドルの姿が映し出されている。それはなるかが自分で背景に設定した壁紙であった。贔屓(ひいき)しているアイドルというわけではないが、数人いる、同じ世代が歌って踊っている、というところに多少の興味があった。もともと誰かが科学の授業中か何かに、インターネットからパソコンに落として画面に取り込んだのであろう。なるかはそれを見つけて、なんとなく自分の背景画面に設定したのであった。
 今はそれを見つめている。ただ、パソコン画面で笑顔になっている数名のアイドルを呆然と見つめているのである。
 嫌な緊張があった――。自分は、これから一体何を話されるのだろうか。部活が終了してから行う作業といえば、一週間に一度の室内清掃しか思い当たらない。しかしそれは昨日やったばかりである。
 なるかは考えながら、横眼でサリの事を確認してみる。
 すぐ横の席で、パソコン画面に三角形を組み合わせて少女の絵を作っているサリが不気味であった。三角形で人間を描く事が不気味なのではなく、どうして、今、この場でその話をしないのかが不気味でならなかった……。
 残れ、という事は、話があるに決まっている。ではなぜここでは話せないのであろうか。村瀬がフトルに怒られていた。それは『ここでは、話すな』という意味なのであろう。
 グレー一色の淡白な絨毯(じゅうたん)に、上履きを脱いだ靴下でパソコンデスクに座っている。それは皆が同じであった。この科学室は土足厳禁である。
 二十人程いる部員達は、部活中は沈黙している為、唯一そこでいつもしゃべる、フトル、村瀬、メガキン、部長の声が、やけに強調的に聞こえる。
「やだわ……。これじゃあ、三角お化けじゃん……。違う、失敗」
 そして、サリの声も……。――よりにもよってどうして、この五人が自分に話しかけてきたのだろう。どうして――どうして?
 なるかは最後に思い当たった言葉を思い浮かべながら、マウスを静かに掴んだ。

 ――お前、不思議って物に、興味があるんだろう?

 なるかが開いたパソコン画面には、おとぎ話に登場してくるような、お花畑があった。そこにはお菓子の家もあり、羽を生やした文豪戦士の太宰おさむや、中原ちゅうや。浮かぶ星に乗って路を歩いているスーパーファミリーのアーロ・フォーやヒル・フォーなどもいる。他にも空飛ぶバイクに跨(またが)った俺のヒーローの爆勝利や、オールキングとお茶をしている緑山鼠などもいた。
 それはなるかがこの一年でようやく制作した、グラフィックでの映像であった。何を研究してもいいと言われたので、なるかはこの一年でグラフィックのプログラミングを学び、その次元の違うキャラクター同士が住まう可愛らしい不思議な世界を創ったのであった。そのパソコン画面の中の不思議な世界には、一人だけ、普通の人間の姿をした少女が歩いている。それはなるかと同じく、髪にピンクの髪飾りをつけた少女の映像であった。
 なるかはこの十七歳になるまで、ひと時も忘れなかった事がある。大阪府に滞在していた幼い時も、栃木県を出る事になった学生時代にも、そして、この東京に引っ越してきてから、今に至るまでにも、なるかはそれを忘れず、放さなかった。
 それは、――夢ある不思議な世界が好き――という、心である。幼心に芽生えたその興味心は現在もなるかの心に宿り続けている。毎日必ず聴くCDからは、冒険を歌っている歌詞が流れてくる。毎晩開く漫画本には、夢のような世界が広がっている。部屋の中を埋め尽くすキャラクターもののグッズ、様々な世界に登場してくるような、可愛い髪飾りなどのアイテム。なるかは今も、現実離れした不思議の世界に魅了され続けている。
 そしてこの日、なるかは村瀬の口からそれを聞いたのであった。別に誰に隠しているわけでもないのだが、『不思議が好きなんだろ?』と、そこまで具体的な比喩(ひゆ)で囁かれた事はない。あっても『漫画が好きなの?』程度である。
 パソコン画面に広がる異世界を見つめたまま、なるかは大きく静かに深呼吸をした。横ではサリが『あ~ら、また失敗だ』と呟いている。正面の席からは『また食うのかょ』『ほっといてくれ』と村瀬とフトルの声がする。そして、メガキンが部員に何かの説明をする声と、部長が『成功だ!』と喜んでいる声が聞こえる。
 この科学部最強の存在感達と、自分は、この二時間後に、何かの話をするのだ。
 しかも、もしかしたら、それは――不思議についての話かもしれない……。
「はぁ~……」
 なるかはぱちくりと瞬きをして、パソコン画面をクリックする。
「はぁ~」
 男子部員達の熱い眼差しが自分に向けられている事も知らずに、なるかはわけもわからずにこの後の何時間をお預けされる、というやっかいな事実に溜息を連発していた。残れと言われれば気になるに決まっている。
 そう、なるかは何も知らずにぱちくりとパソコン画面を見つめている。そう、自分に向けられた男子生徒の眼差しに、『ちっ』という、サリのきつい舌打ちが響いている事も知らずに。

       2

「え?」
 なるかは、顔を上げる。そこにはパソコン画面を覗いている部長の顔があった。
「私が……、え、私が、ゲームの中に入るんですか?」
 なるかは部長のデスクに座っている。そこでなるかを囲うようにパソコン画面を覗いている五人を、きょとんと振り返っていた。
「ゲームの中に入る…、というか、入れば、必ず楽しめる」
 部長は、うんむ、と真剣に頷いた。
「部長は説明がへったくそなんだよ」
 村瀬が文句を言った。
 なるかは大きくつぶらな瞳をそのままに、呆然と五人を見つめている。口が少しあいていた。
 僕が説明しますよ。――そう言って、メガキンがなるかの前に立った。
 なるかは、わけもわからずに、ぺこり、とお辞儀をした。
「僕らは科学部の部員だ。柿口さんもそうだよね」
「はぁい……」
「僕らは科学が好きだよね?」
「……」
「あれ?」
 メガキンは、メガネの奥の大きな瞳を、よりいっそう大きくした。
「科学は好きでしょう?」
 なるかは少し困ったようにメガキンの顔を凝視してから『はい、まあ…』と小さく頷いた。
「この子は科学なんて興味ないわよ」
 サリがそっぽを向きながら淡々としゃべり始めた。
「この子は科学部を、『かやく部』と勘違いして入部したって、水島さんから聞いたわ。花火を楽しむ部活だと思ったんでしょ?」
 なるかはくすくすと笑ったが、やがて、サリのその笑っていない真顔に気がついて、笑うのをやめた。
「花火する部活なんて……っは、本当にあると思ったの?」
「……あ、はい」
 なるかは正直に頷いた。苦笑しながらサリを凝視している。
「な、何よ……」
 サリは少しだけ怯えた。
「説明を続けてもいいかな?」
 メガキンが場を仕切り直す。低い位置に皆の視線が移動した。
「僕らはね……いや、ここに集まった五人の部員はね、みんな、科学を好きなんだ。でも、それよりももっと好きな物があった。偶然にそれが同じ物だったんだよ」
「ゲームとかさぁ~」
 フトルが嬉しそうに呟いた。
 なるかは椅子に座ったまま、呆然とフトルの顔を見つめる。しかしすぐにメガキンがフトルの腹を触ったので、すぐにまた、なるかはメガキンの顔を見た。
「待ってょフトル……、僕が話しちゃうからさ。――それは、ゲーム、という物だったんだ。部長がゲームを制作してる事は知ってるよね?」
 メガキンがそう言うと、なるかは頷いて、続いて部長がなるかに頷いた。
 メガキンは説明を続ける。
「部長のゲームでこの五人は自然と集まったんだ。そして、それからさ、もう一つ、夢……と言うのかな。僕達は共通的に同じ事が好きなんだと知ったんだ」
 なるかは真剣にメガキンを見つめている。長いまつ毛がゆっくりと、何度か瞬きをした。
「柿口さんはさ、夢のある話って、好きでしょ?」
 メガキンが言った。
 なるかは真剣だが、どこか呆然と笑顔を浮かべてメガキンを見つめ返している。
 部員達は黙ってなるかに注目していた。
 メガキンはすっと、メガネの位置を直した。
 なるかは瞬きを忘れたまま、じっとメガキンを見つめている。
「あなた……」
 サリが耐え切れずに言った。
「ごめん、寝てました…、とか言わないでよ? ちゃんと起きてるの?」
 なるかは『え?』と苦笑で素早くサリを見てから、また素早くメガキンを見た。その時にサリは『うっ』と言っている。
「え、え夢? ですか? ……」
 なるかは疑問の表情を浮かべた。しかし、疑問の表情でさえなるかの顔は美しい。
「夢ってなんですか?」
「ぶっちゃけた方が早いって」
 村瀬がその性格と同じように簡単に言った。
「不思議だよ不思議、柿口ってパソコンになんか可愛い異世界作ってんじゃん。あんな異世界が好きなんだろ? 文ストとヒロアカが一緒に生活する世界なんて、実際ないんだから。夢見ないとそんなん作らないだろ」
「あぁ~……」
 なるかはそう言ったまま、しばらく俯いて考え始める。困った村瀬がまたしゃべり始める。
「かってに見たのは悪いけどさ、違うんだよ柿口、あのさ、俺も大好きなんだ」
 なるかはふっと、顔を俯けたままで眼に微かな力を入れた。耳が自然と反応している。

 漫画やアニメのような、創作の世界が……、大好き?

 なるかは顔を上げる。
「俺達はさ、昔っから~…なんだ? 絵本の世界? とかさ、例えば好きなキャラが冒険するゲームの世界とかさ、そんな世界に憧れてたんだよ」
 村瀬のがりがりに痩せ細った顔は、実に新鮮な笑顔を作っていた。なるかはそれを初めて見る。
 村瀬は言う。
「この時間は、そういう時間なんだよな?」
「不思議が好きというかね、僕らは『異世界』と呼んでるんだけど、部長が制作してるパソコン・ゲームの世界がちょうどそんな世界なんだ」
 メガキンの小さな顔もにやけている。
「普段はさ、僕達ってあまりマニアックな事を言えないじゃないですか、ゲームが好きとは言えても、ゲームの世界に行きたいとは、なかなか言えませんよ」
 フトルが話したそうに割り込んでくる。
「あはあ、この部活後の時間はねえ、そんな時間なんだあ」
 メガキンが続ける。
「ゲームの中に入ってしまう。入りたいと本音で語れる仲間が集まり合って、理想の世界に突入しようっていう、秘密の時間なんです」
 なるかはとりあえず、聞いていて半分だけ気持ちが良かった。嬉しそうに話す部員達が楽しそうだったのである。話している内容はよくはわからないが、なんだか楽しそうではあった。
 しかし、やはりあまり面識のない五人である事に変わりはない。それがなるかの表情を苦笑のままにさせていた。
 五人は変わらずになるかの前に立っている。なるかはすでに椅子を反転させ、完全に眼の前の五人に顔を向けていた。
 冷房の音はサイレントだが、冷房はしっかりと機能しており、科学室は心地の良い温度に保たれている。パソコン画面からは、ジィー……という電子音がもれていた。
 なるかは、一瞬の沈黙を自分から打ち破る決意を固めた。
「あのぅ……」
 なるかは、表情をリセットして、部長の顔を見上げた。
「何をする時間なんですか?」
 そうなのである。なるかは具体的なそれをまだ聞いていないのであった。
 サリは機嫌良さそうに向こうへと歩いていく。一人だけその場から離れ、彼女は黙ったままで科学室のドアの方へと向かっていった。なるかはそれを不思議そうに見つめたが、そこに残っている四人は一瞬だけサリを一瞥しただけであった。
「柿口、不思議な世界に行きたいと思った事って、あるかな?」
 部長は優しい笑みを浮かべてなるかに言った。微笑んでいる為、よく見つめないとその糸のような眼はまつ毛に埋まって見えない。
「ありぃ、ます……」
 なるかは、正直に答えた。
「あの……、小さい頃に」
「うん。僕はこのゲームの中にさ、そんな世界をつくってみたんだよ」
 部長がそう言って指差したのは、なるかの座るデスクで起動しているパソコン画面であった。
 なるかをそれを見つめる……。
 そこにはなるかの制作した、あの『異世界』に似たような、可愛らしいキャラクター達が歩き回っている、可愛らしいカラフルな街の映像があった。
「それはサリの理想の世界」
 部長が言った。もうその顔は微笑んでいない。実に誠実な、いつもの部長の顔に戻っていた。
「そうやって、僕はここにいる四人にそれぞれの理想の世界、つまり、行ってみたい世界というのを聞いて、それをこのゲームの中に、できるだけ再現できるようにつくってみたんだ」
 フトルが『ねね』と、しゃべりたがる。
「俺のさあ、理想の世界もさあ、そのゲームの中にあるんだよう」
 フトルがそう言ったところで、先程、ドアの方へと歩いていったサリが戻ってきた。彼女は先程と同様に、なるかの近くまで戻ってくると、『鍵を閉めてきました』と、短く部長に告げた。
「うん。ありがとう。――柿口、このゲームには僕も含めた五人の理想の世界がプログラムされてるんだ。僕はこのゲームで遊ぶとき、なんて…いうんだろうね」
 部長は、先程からずっと表情を忘れたままのなるかに、照れ笑いを浮かべて説明する。
「このゲーム世界の中に、入ったつもりになって…、遊ぶんだよ」
 なるかは、そこで『えー……』と、簡単にリアクションしてみた。すると、今度はフトルが何処かに歩いていった。
 メガキンが『まあまあ』と、説明をを継ぐ。
「本当に入るわけじゃないんだけど、今フトルが持ってくると思うけどさ、ヘルメットとね、ジョイスティック、という、パソコン・ゲームで使うコントローラーなんかを使って、リアルに、その世界に入ったつもりになって遊ぶんだよ。パソコンにコードを繋げたゲーム専用のヘルメットをかぶるとね? ヘルメットの中にも、これとおんなじ画面が出るんだ。つまり、よけいな景色が一切入ってこないでしょ? だから、よりいっそうゲームの世界だけに集中できるんです。つまりねえ、ゲームの世界を、本当に歩いているように感じる事ができる。――言ってる事は、わかる?」
 なるかは『あはい…、わかりぃ、ます』と答えた。なるかは僅かに笑みを浮かべたまま、パソコン画面を見たり、しゃべり手の顔を見たりと、きょろきょろと忙しい。
 部長が楽な表情で言う。
「ゲームに入るっていうか、ようはさ、無理やり入った気になるんだよ。こんな簡単なプログラム映像のゲームだけどさ、一応、理想の街、理想の世界、現実離れした設定になってんだ。ほら、僕らが設定した世界で、自分のキャラクターを動かせる、っていうのが面白いだろ? だからさ、面白いついでに、どうせ好き者同士なんだからさ、マニアックに、ゲームの世界に行ったつもりで、リアルにこの世界を楽しもうって、そうやって僕らはこの時間を楽しんでるんだ」
「でゅふ。したらこのゲーム故障しててさあ、俺達、本当に」
 フトルがそう言いかけたところで、部長が素早く、『まだ早いよ』と阻止した。
 フトルは『まだかあ』とにこやかに笑いながら、胸に抱えた二つのヘルメットと、自動車のギアのような形をした、棒が付いたコントローラーを二個程、丁寧にデスクに置いた。
「このゲームね…、鳥肌がたつぐらいに面白いの」
 サリが笑顔でなるかに言った。
 なるかは『えーマジですか、マジに? えーマジそうなんだぁー』とは言わないものの、素直な驚きの表情とそんな仕草でゲーム画面を見ていた。
 ゲーム画面には『街』のような映像が映し出されている。住宅街なのか、商店街なのか、それは素人が作った単純なゲーム画面である為にわかりずらいが、その街の中にある『お菓子の家』だけはなるかにもわかった。
 そして、その街の中心には、ピコピコと脚踏みをしたままその場に止まっている、三頭身のぐらいの女の子が二人いた。
 なるかの顔の横に、すっと腕が伸びてきたので、なるかは驚いて瞬間的に後ろを振り返る。それは部長の腕であった。
「ここに、二人のキャラクターがいるでしょ?」
 部長はゲーム画面を指差して、淡々とした説明を始めた。
「こっちの……、頭の上に『SA』って文字が浮かんでるのが、サリのキャラクター。つまり、この世界を歩く、サリの分身な。それで、こっちの頭、ほら……、赤いリボンの上に『NA』って浮かんでるのが、柿口のキャラクター」
 ゲーム画面でピコピコと可愛らしい脚踏みをみせている三頭身の二人は、それぞれの頭の上に、『NA』と『SA』というマークが浮かんでいた。大きなリボンを身につけている方が、どうやら『柿口なるか』のキャラクターらしい。
 なるかはいつそんなキャラクターを作っていたのかと、そっちの方に驚いていた。
「キャラクターの頭にはさ、『NA』って……。ほら、こんなに小さくて、顔も服もさ、よくわからないキャラ達だろう? だから、キャラの頭の上に『名前』をつけてるんだよ」
 驚いたまま口を半開きにしているなるかをそのままに、部長は言葉を続ける。
「柿口は、なるか、だから、『NARUKA』のHとAを取って、『NA』。村瀬だったら、『MURASE』で、『MU』って、キャラの頭に浮かんでるんだ。本当はそうやって見分けてたんだけどさ、わかりにくかったら、サリとのキャラの違いは、この赤いリボンで見分けてくれ。まあ、動かしてる方が自分のキャラだからさ、違いは分かると思うんだけど」
 なるかは、部長の顔を見上げた。部長は笑顔で『ね?』と言った。なるかは『はい』と頷いた。
 なるかは、実はまだよくわかっていない。つまり、『ゲームをしようよ』と、そう言われているのだ。とだけ、頭では理解出来ていた。もっと言うと、すでに頭の大半は冷房に対して『寒い』と文句を言っている。
「まあな、簡単に言っちゃえば、てか俺に言わしてみれば、旧ドラクエの、もっと愛のある世界版、って感じか?」
 村瀬はそう言って笑っている。
 メガキンも笑いながら楽しそうに言う。
「それをリアルに体験する、まあ、そんな感じだよ。家にあるゲームをただリアルに体感するのと、まあ、あまり変わらないけどね。ヘルメットがある分、リアルにはなると思うよ。かぶれば画面しか見えないから、この世界を歩いてるんだぁ、という気分には浸りやすいから」
「でもねえ、それだけじゃないんだよう」
 フトルが、いつの間にか手に持っていたポテトチップスを食べながら言った。
「まあ、俺は凄い、としか、今は言えない。言うと怒られるから。あは、あはは」

       3

「はいほら、どうぞ……」
 サリが、なるかの隣の椅子に着席しながら、なるかにヘルメットを渡した。
「え?」
 なるかはそれを受け取って、焦(あせ)って困る。とりあえず部長を見た。
「あのう~、これ、かぶればぁ、いいんですか?」
 サリはすでにヘルメットをかぶっている。口元だけ見えていて、『行くわよ~ん』とにやけていた。
 なるかはそれを横目で一瞥してしまい、怯える。
「まあね、うん。本当はゲームをする前に、幾つかの約束があるんだけど、うん。柿口はまだよくわからないだろうから、そのまま、まずはゲームをやってみるといいよ」
 そう言った部長は微笑んでいた。
「どう、え? これ、どうするん、だろうあの、これ、はぁ……、かぶらないと、ダメ、なんですか?」
 なるかはおどけながらも、人柄通りの真剣な表情できいた。
「初めからかぶってやった方がいいな。髪型も崩れないから、ふふん、大丈夫」
 部長は軽く笑って言った。
「その『ジョイスティック』はむかし普通に販売していたやつだから、って言っても……。そっか。あのね、握って、前に倒すと、前進。後ろに倒すと、後進。右も左も同じね、倒せば動く。歩く為にあるコントローラーだから」
 なるかは、『え、あはい』と納得しながら、コントローラーを動かしてみた。確かに、前へ動かした瞬間に、ゲーム画面のキャラクターが少しだけ動いた。――しかし、動いたのは赤いリボンをつけていない方のキャラクターである。つまりは『サリ』だと説明された方のキャラクターであった。
「え……、あれ?」
 なるかが困ると同時に、メガキンの声が聞こえた。なるかはすでにヘルメットをかぶっている。がっちりと鼻の頭までガードされた暗闇の世界には、眼を瞑りたくなってしまう程に、眩しいゲーム画面しか見えない。
「あのぅ~ね、これだけ。――柿口さんが動かすキャラクターは、サリのキャラだから」
「え?」
 なるかはヘルメットをかぶったままで、見えないメガキンを振り返る。
「私が柿口さんになって、あなたが私になるのよ」
「えぇ?」
 今度は見えないサリを探す。
「え? 私が、汐崎さんになる? んですか?」
「ゲーム世界をそのまま体験しても、まさか、本当にそこを歩いている、なんて到底思えないだろう?」
 部長の声だった。――なるかはもう顔を動かす事をやめた。そのまま、顔の向きをゲーム画面に留めたままで声に答える事にする。
「さっき言いかけた『約束』の一つで、まあ『掟(おきて)』って言ってるんだけど。――身体をね、向こうの世界では、交換する決まりになってるんだ」

 からだをこうかん?

「俺に言わせるとさあ…、価値観とかさ、考え方とか、そのまま自分の物を持っていって、『私は今ゲームの世界を歩いている』なんて、絶対無理だろ?」
 村瀬の声が言っている。
「だからさ、ここでは『パートナー』っていう奴を作って…、つまり、今なら柿口とサリな? ――パートナーを作って、身体とか、魂とか、つまりは考える事から、言葉遣いとかさ、そんなのを全部とっかえる事になってんだよ。柿口はサリになって、サリは柿口になって、『その世界を歩いている』って思い込むんだ。自分自身でやるよりさ、嘘みたいに効き目があるんだよな? 俺だったらパートナーがデブなんだけど、『こういう時、フトルならどうやってこの街を歩くかな?』とかさ、『フトルならどうやってこの街に来れた事を感動するかな?』とかさ、そうやって相手になったつもりで『ゲームの中に来たんだ‼』って思った方が、自分のままで思い込むより、なんかリアルに受け入れやすくなるんだよ」

 リアル?

 今度は部長の声がしゃべり始める。
「心理的にね、リアルにその世界にワープできる方法というか、そんなつもりで僕が決めたんだけど、わからないだろうから……。うん。柿口はまず、自分のままでやってみるといいよ。動かすのはサリの分身、って事になるけど、なんせ、僕らはマニアックに慣れすぎてるからさ。いきなり僕らに合わせるのは難しいと思う」

 私は…、え? この、汐崎さんのキャラクターを動かせばいいの?

「私は、え、こっちの子を、動かしてればいいんですか?」
「うん。そうだね、うん。まあ、行っといで」

 なるかは椅子をまっすぐに調整した。視界にはゲーム画面しかないが、おそらく、実際にはパソコン画面に向いたのであろう。
 そして、見える景色だけに意識を集中する……。少しだけコントローラーを動かしてみると、ピコピコ、とキャラクターが前に動いた。
 隣からは『ふふふん』という、サリの満足そうな鼻笑いが聞こえてくる。
 ゲーム画面をよく見てみると、サリの操作している赤いリボンのキャラクターが忙(せわ)しなく街の中を歩き回っていた。隣から聞こえてくるサリの鼻笑いを合わせてそれを見ると、まるで、赤いリボンの女の子がスキップを楽しんでいるようにも見える。
「あ、柿口、」
「部長、話しかけちゃダメですよ」
「いや、いいんだ。――あのさ、街のキャラクター達の話を聞きたかったら、自分のキャラクターを、話したい街のキャラにぶつけてくれ。そうすると会話が始まる」
「あ、はい……」
「まあ、こっちはしゃべれねえから、一方的に聞いて、独り言を言うだけなんだけどな」
「相手によっては、ぶつかっちゃうだけだけど」

 独り言? ――なるかはゲーム画面の中で『SA』と浮かぶ女の子を動かす。すぐ近くにいた大きな人間に話しかけたかったので、その大きな人間に女の子をぶつけようと操作した。

 ドボ~ン♪ ――という異質な音が、ヘルメットの中に鳴り響いた。

「あ……」
 横からひょいと現れた赤いリボンの女の子にぶつかってしまったのであった。それは頭の上に『NA』というマークが浮かんだ、サリの動かしている女の子である。
「やだ…、ちょっと、じゃなくて……。――もう、急にびっくりした~。も~、急にぶつからないでよ~うふふふふ~」
 サリの声が聞こえた。――なるかも急いで声を返す。もちろん、ゲーム画面を見つめながら。
「ごめんなさい、まだよくわかってなくて……」
 なるかは……ん?――とゲーム画面を見つめた。
 ゲーム画面では、自分の周りを、赤いリボンの女の子がぐるぐると歩いていた。これでは、動けない……。
 このまま女の子を動かせば、また赤いリボンの女の子とぶつかってしまう。
 なるかは、困った。
「あの~……」
「うふふ~……、閉じ込めた! もうあんたはここから出られないわよ!」
 サリの陽気な声が聞こえた。
「え?」
 閉じ込めた、と言われたので、なるかは女の子を前に動かしてみる。――すると、女の子が赤いリボンの女の子とぶつかって、また『ドボ~ン♪』という可笑しな音がヘルメットの中に鳴り響いた。ゲーム画面では二人の女の子がひっくり返って、二、三秒の間、ピコピコと両脚をもがいていた。
「あぁ……」
「痛ったいじゃないの!」
「あ……あは、ごめん。んふふ」
「やったわね~!」
 なるかは起き上がった女の子を走らせた。どうやら、深くコントローラーを倒し込むとキャラクターが走るらしい。――後ろからは赤いリボンの女の子、つまりは、サリが追いかけてきている。
「待ちなさいよぉ~~!」
「嫌ぁ~だよぉ~」
 横から響くサリの声と、ゲーム画面の自分を追ってくる赤いリボンの女の子が、一つに思えてくる。
 それがサリなのだと、徐々にそんな楽しい感覚がなるかに始まってくると、なるかは己でも気づかぬうちに、大声で笑い、叫んでいた。

       4

 校舎の放送室から発信される、古臭い鐘のチャイムが鳴り響いていた。
 学校が一学期の終業式を迎えるこの日、なるかは溜息を連発させていた。部活の時間はあの日以来、急激に楽しく感じている。サリとは相変わらず見えない壁があるままであるが、やはり以前よりも仲良く会話ができるようになった。他の四人とも同様に、これまで一切なかったはずの会話は、あの日以来、飛躍的に生産されている。
 では、どうしてなるかは溜息を連発しているのであろうか。
 一日の学校課程を全て終わらせ、なるかは校門の前で風に吹かれていた。セーラー服が真夏の風に靡(なび)いていて、放課後に感じるあの独特の風の匂いを体感している。
 これから、楽しくも寂しくも、自由に変化していく放課後に感じる風の香りであった。
 絶える事なく生徒達が校門を通り過ぎていく。何人かの生徒はなるかと同じく校門前に立っている。そんな生徒達は誰かを待っているのかもしれない。しかし、やはりそれ以外の全ての生徒達が、そこに立つ誰に視線を向けるわけでもなく、校門を通り過ぎていった。
 校門前に構えた昇降口には、靴を履き替えている生徒達の姿がある。何処かからまた風が吹き込めば、真夏の爽やかな匂いを運ぶように、植木の木々がさわりさわりと音を立てる。日差しは暑くて強く、セミの鳴き声が無性に喉を乾かせた。
 放課後、たまにしか感じる事のない、風の匂い。
 なるかは校門前で校舎を振り返ったまま、そんな風の匂いを寂しいと感じていた。

「えっ?」
 なるかは驚いて、腹から声を出した。
「ごめん。なんか、やっぱり夏休みも使えないみたいなんだ」
 夏休みを目前に、最後の部活にと集まったのは、なるかを含めたあの六人と、たった三人の熱心な部員達だけであった。
 部長はそんな八人を前に、申し訳なさそうに、理科室で頭を下げていた。
 村瀬はふてくされている。
「パソコン使えないんじゃ、俺、なんでここに入ったのかわっかんないっすよ」
 村瀬は静かに苛立ちをあらわにしていた。
「くそ顧問だな……、ちくしょ」
「先生は、なんて言ったんですか?」
 サリはずっと冷静であった。
「夏休みの活動は?」
「うん……」
 部長は申し訳なさそうにする。もう、それだけですべては窺えた。
「夏休みの活動は……、今年はない」
「ないのう?」
 フトルがすぐに驚いた。
 なるかも驚いていた。去年は夏休みにも、あの涼しい科学室で何度かパソコンを弄っていたのであった。
「夏休みには、海にでも行けって言いたいんですか?」
 メガキンが一番悔しそうにしていた。
「一度でも…、あの無責任顧問を、尊敬していた事が悔しい……」
「今日が、二学期最後の活動になる……」
 部長は、一番覇気がなかった。
「この後、粘菌を電子顕微鏡で観察して、葉っぱの葉緑素を、やっぱり電子顕微鏡で覗くだけだから…。うん……。このまま帰りたい人は、今日は帰ってもいい。研究データは自分達で持っているだろうから、家にパソコンがある人は、そっちで本来の部活の続きをする、という事にしよう」
 部長は、『これじゃ理科部だからね』と、弱く苦笑して言った。
 それからすぐに、三人の一年生部員達が『家で続きをします』と言って、帰っていった。
 そして、村瀬も。
「俺は幻滅しましたよ、科学部の意味ないじゃん」
 村瀬は部長にあたっていた
「すまん……」
 部長はあやまるだけであった。
 村瀬は帰っていった。
 そして、メガキンも。
「部長がしっかりしてくれないと………。いいです、言い過ぎました」
「いや…、その通りだ」
 部長はずっとあやまっていた。
「すまん、みんな」
「僕も、家で部活をします」
 メガキンは最後だけ、いつもの顔で苦笑した。
「一人きりじゃ、つまんないかもしれないけど」
 最後に、フトルも出て行く。
「ごめん部長…、俺もぉ……」
「ああ、いいよ。今日は自由参加だから」
 部長は明るくしていた。
「他の部員達も、ここにさえ来てないしな。また理科室へ行けと、クラスで科学部の活動発表があったんだろう。うん…。冷房使えないんじゃ、ははは、帰った方が楽しいもんな」
「ごめん……。俺、実験とかは、あんまり…」
 フトルが帰っていくと、そこには、もう三人しか残っていなかった。
 まだ何も用意されていない、使用前の理科室。流し台とコンロを常備した長台が幾つも等間隔に並列(へいれつ)している。教室の前方に大きな黒い黒板があり、三人は、そこにぽつん、と立っていた。
 なるかはフトルが教室を出ていった後も、何も語ろうとしない部長とサリを気まずく見つめていた。
 サリはフトルが教室を出て行くのを見送ったまま、そのまま教室のドアに身体を向けて俯(うつむ)いている。
 部長は黙ったままで、黒板に書かれた『顕微鏡を使うように』という、顧問教諭の書き残した研究課題の文字を黒板けしで消していた。
「顕微鏡…って、どこにあるんでしたっけ?」
 サリが部長に振り返った。
 なるかはその場所を知っていたが、まだうまく声を出せなかった。
「うん……」
 部長はサリを見て、そして、なるかの事も見た。
「無理して僕に付き合わなくてもいいよ。僕も、もう少ししたら、帰るから」
 なるかは何も言わなかった。ただ、部長の優しい細い眼から、視線を外す事しかできなかった。
 サリも気まずそうに、そうしていた。
「僕はもう三年だから、あと三学期に少しの活動しかできないけど、まだ三学期があるからね」
 部長はサリを見て微笑み、同じ顔で、なるかの事も見た。
「三学期には、あの科学室を取り戻すよ。そしたら、また部員達も戻ってきてくれるし…。夏休み中に、先生にお願いしてみる。うん。あの故障してるパソコンじゃないと、一瞬のワープは、できないみたいだしな」
 部長はそう言って、また黒板の文字を消し始めた。背中を向けたまま、二人に『あ、本当に、もう今日は帰っていいぞ~』と、明るく言いながら。
 なるかとサリは教室を出た。理科室を出て、技術室を通り過ぎて階段に辿り着くまで、なるかはずっと、教室を出る時に部長に言われた『お~う、また三学期な~』という、明るい声を何度も思い出していた。
 蛍光灯の切れかかっている地下一階の階段を、昇降口のある一階へと向けて上り始める。
 階段の照明は暗くはないが、見つめる自分の脚元がやけに寂しく感じられた。
 並んで階段を上がるサリも、何も言わなかった。
 だから、なるかは気を遣って、声をかけた。理科室から続いている雰囲気は、並大抵の辛さではないのだ。
「汐崎さん…さ、」
「ん?――なに?」
 なるかはサリの顔を見る。
「パートナーが、ずっと部長とだったんだ?」
「うん」
 サリはキツネのような顔で、そのまま頷いた。
「あのパソコンじゃないと、ダメなんだよね?」
「うん。少し壊れてるのよね…。ヘルメットなの。あのパソコンにヘルメットを繋げると、ヘルメットに違和感が出てくるのよ」
 サリは真剣なのか、はたまた普通なのか、顕在的なつり眼を引っ張り上げたような顔でなるかに話した。
「家に、ゲームのデータが入ったUSBを持って帰って、試したみたい。でも、ダメだって」
 サリは脚を止めた。なるかも脚を止める。
 そこは地下一階と一階を繋ぐ、階段の踊り場であった。
「ヘルメットも、ちゃんとかぶったって?」
 なるかがきいた。
 サリは頷いた。
「ダメだってさ」
「えー…、ふ~ん……。あ、そうそう。みんなはあれ、どんな感じなの?」
 なるかは、意識的に表情を明るいものに変えてきいた。
「みんなもゲームの世界に行けた、んでしょう?」
「……んふ。うん」
 サリは少しだけ苦笑を見せて、なるかに言う。
「それね……。行ったというか…。それは、柿口さんだけよ」
「ん?」
 なるかは顔を前に突き出す。
「え?」
「私達は、あのゲームの中にね…。少し、ほんと、ちょっとね…。あ、気が遠くなる…てなってから、気を失うだけ」
 サリはもう笑っていない。しかし、その説明をするサリの顔は、あの日一度きりとなった時間によく似ていた。
「気がつくと、本当に行ったような気になってるの。――だって、全員が必ず気を失うなんて、普通ありえないでしょ?」
 なるかは戸惑いながら『うん…』と頷いた。それからすぐにサリが壁際へと歩み寄ったので、なるかも壁にぴたりと背をつけて寄り掛かった。
「私、部活が命なんだ。部活でのあの時間と、あの時間を一緒に過ごす仲間が、私の全てなの。みんなどん臭い奴らだけど………。だから、パートナーになろうよ」
 なるかはゆっくりとサリを見つめて、『うん』と頷いて、そして微笑んだ。
「理科室に戻ろっか?」
 なるかは大きな瞳をいっぱいに笑わせて、サリに言った。
「最後の部活さ、二人でさ、やって帰ろ」
「うん」
 サリは頷いた。
 二人は鞄を持ち、それから、駆け脚で階段を下りた。
 そして、廊下を静かに走って、サリと一言二言を交わしながら、なるかは理科室のドアを勢いよく開いた。
 そこで二人は、教卓(きょうたく)に両手をついたまま、顔を俯けて静かに泣いている、部長の背中を見たのであった。

 サリは『今日はやっぱり、帰った方がいいわ』と言って、寂しそうに一人で帰っていった。なるかと自宅の方向が違う為、サリはそのまま、校門から振り返らずにとぼとぼと歩いていったのであった。
 なるかは校門に立ったままで、今学期最後となる校舎を見つめていた。そこからでは見えない理科室を思い浮かべ、校舎の景色にどうしようもなく胸が痛くなる。
 もう、確実に他人ではなく思えていた。
 たった一度の秘密の遊びであったが、村瀬も、フトルも、メガキンも、そして部長もサリも、もうただの部活仲間ではない。
 六人の心がバラバラになってしまったようで、心にどうしようもなく寒い風が吹き抜けていく。
 真夏の最中だというのに、なるかは砕け散った何かに、無性に寒い思いを残したまま、校門を後にした。
 帰宅した後は、クラスの友達に電話をしなくてはならない。プールに出掛ける予定を決めようと約束をしている。部屋の中を片付けるようにと母にも言われている。
 通信簿も連絡用紙も母に出さなくてはならない。宿題も山程ある。
 随分と暖かい風が吹いている。――住宅街の路地に差し掛かった辺りで、もう自分の家が見えていた。
 明日からは暑い暑い、真夏の夏休みが始まる。
 暑い暑い、夏休み。
 歩く事をやめたなるかは、それが一体なんなのかもわからぬ悔しさに、どうしてか顔を隠したままで涙しているのであった。
 なるかは静かに、路に立ち尽くしたままで、しばらく泣いていた……。

       5

 夏休みの初日。植物が光合成を果たせる絶好の大晴天であった。

「え? 何突然、え、どうして?」
「だからぁ……、ね? 私達が言えばいい、のかなぁ~と、思ったわけですよ」
「私達が? 言うったって……。たった二人で?」
「だってぇ…、じゃないと、夏休みが終わっちゃいますもん。ね? 行こう?」
「どこに?」
「だからぁ……、学校?」

 静まり返った学校。校門から近くに見えるグラウンドでは、野球部の活発で熱血的な姿が窺える。それ以外に動きのある風景はなかった。制服を着ている生徒さえ、なるかとサリの二人しかいない。
 校門で短くサリが文句を言った。はあはあと肩で息を切らしている。何処に住んでいるのかは知らないが、サリはなるかが適当に指定した時刻をしっかりと守って参上してきたのであった。
「柿口さんあんたっ……はぁ…ちょっとねえ……はぁ」
「ふふなに?」
 なるかは可笑しそうな顔でサリを見る。
「あ走ってきたの?」
「走ってくるの見えたでしょっ! ……ちょっとそれより、…はぁ、……はぁ~……」
「ん?」
 なるかは陽気に無表情を作る。
「一方的に電話切らないでよっ!」
 サリはカンカンに怒っていた。しかしそれは初めから顔を見れば一目瞭然である。
「切るってあんたが言ってから、私はまだ何も言ってなかったじゃないっ! はぁ…はぁ…なんで切るのよっ!」
「あ~……、ごめんね?」
「ううん気にしないで、とは言わないわよっ! このニコニコ娘っ!」
 少しだけサリが喧(やかま)しく怒鳴り散らした後は、なるか的に仲良く昇降口で上履きを履いた。
 二人は職員室を目指して、まっすぐに廊下を突き進む。緊張を表情の前面に出しているのはサリで、なるかはにこにこと笑顔で廊下を歩いている。何度もサリに『夏休み~って感じがするよね?』と呟いていた。
 職員室の前で深呼吸したのはなるかであった。サリはおろおろとなるかの顔を見ている。
「ふうぅ~~………。ん?」
「…ううん、別に」
「えはは」
 なるかは微笑む。
「緊張するね?」
「してるのう?」
 サリは不思議そうに言った。
「あは」
 なるかは上目遣いで髪の毛を触る。
「ポニーにしてきちゃった……。これね? あ、このゴムね? 引っ越してくる前にぃ、友達に貰ったやつなんだよ」
「そう……」
「そ!」
 なるかの返事と同時に、職員室のドアを開いた為に、なるかの『そ!』は近くにいた職員に聞こえたかもしれない。サリに至っては、どうしてか『あバカっ!』と、わけもわからずに叫んでいた。であるからして、サリの『あバカっ!』も、無論、職員室には響いている。

「職員室ぅ?」
「うん。顧問のぉ……おしり先生だっけ? 絶対違う……。でもまあ、とりあえず、おしり先生に会ってぇ、 直接頼んでみない、ですか?」
「先生に言ったって無駄よ…。部長がもう頼んだみたいだし」
「わっかんないじゃないですか。――えだって、部活の時間って、ちゃんと研究してたよ、ねえ?」
「してたけど…」
「三角形の漫画だって、研究になりますよねえ?」
「なる……けど、何で知ってるのよ……」
「だあ~ったら、…だいじょぶ、じゃないかなぁ? …クーラーとかを、節電してぇ、使うパソコンだけさぁ、何台か、貸してもらえるように、お願いしに行きません? お願いしてみようよ」
「まさか……。無理よ。だって、あの先生がエコを授業してるのよ?」
「私だって授業してるよ?」
「は? ……ああ、授業を受けたって意味ね…そうね。そうよ、私も受けたの。だったらわかるでしょう? 先生は認めないわよ。あの人、強情なんだから……。しかも、おしり、じゃなくて、尾尻(おじり)よ、オジリ先生」
「んーどうでもいいけどさあ、」
「何よどうでもいいって……」
「私、これから二時半になったらさぁ、職員室ぅ、行ってみますね? それまで留守番してろってお母さんに言われたから、二時半までは家にいるけど」
「え、ちょっと…、本気で?」
「あのパソコン一台でもいいんでしょ?」
「もう今学期の部活は終わったのよ? 部長だって受験勉強があるし、他のみんなだってもう」
「私先生に頼んでみるね? うん。じゃあもう切りますね」
「えっ、ちょっと待ってよ、あなた……、もしもし?――もしもしちょっと!」

 コーヒーカップから湯気が立っている。ピタッと繋げられた職員用のデスク。あまり面識のない職員用のデスクの上を見てみると、そこには意外にも個性豊かな私物が並んでいた。
 散らかったデスクに、辞書やファイルを立て並べてあるデスク。
 所狭しとしながら、無駄な物が飾ってある、子供が使用しているようなデスク。
 ビニール製のデスクカバーが敷いてあり、その中に家族であろう写真が飾ってあるデスク。
 なるかはそれらをじっくりと時間をかけて観察する。職員室自体になるかはあまり関係性がない為、こんなチャンスは二つとないだろう。
 整頓されたデスク。上には何も載っていない。それが、現在背中を向けたままでしゃべっている科学部顧問の尾尻教諭(きょうゆ)のデスクであった。
 尾尻教諭のデスクには、湯気を立てているコーヒーカップしかない。その時取りかかっている仕事分しか物を置かない主義らしい。私物と呼べそうな物は何一つ見当たらなかった。
 尾尻教諭から囁かれる言葉に、サリはピンと背筋をはって話を聞いている。しかし、なるかは、あからさまにその顔を職員室の景色に向けていた。デスクの上が気になるらしい。
「部屋の使用許可はもう取ってないんだよなぁ」
 尾尻教諭は、二人に背を向けたままで、何かのファイルを作成している。カチャカチャと不器用な音を立てながら、次々とファイルに金具を取りつけていた。
「瀬川先生が鍵を管理してるからさあ、俺に言われてもどうしようもないんだよなぁ。もっと早く言えばよかったのに、なあ?」
 尾尻教諭はまた『なあ?』と言って、後ろの二人を振り返った。
 なるかはジョリジョリと音を立てそうな粒々のひげを見つめたまま『はぁい…』と、ただ呆然と笑みを浮かべて黙っていた。ここに来てからは、どうしてかサリ一人だけがだんまりを決め込んでいる。なるかは職員室に入った途端に、人形のように笑顔を維持したままになって、たどたどしくはあるが全ての会話を買って出ていた。得意の、笑顔で、である。
 二人して職員室を出た後は、会話も程ほどに、すぐに昇降口へと向かった。
 肩を落としたまま、サリが上履きを下駄箱に戻すと、なるかが『んふふ、汐崎さん、それ持って帰らなくちゃ』と笑った。その時にサリが『ああ…、そうね』と微笑みを取り戻し、なるかが『あーーっ!』と破天荒に大声を出したのであった。その瞬間にサリは『ひいっ!』と小さく悲鳴を上げている。
「ちょっと……。大声出さないでょ…。心臓弱いんだから……」
「あー、あは、ごめん」
 なるかは笑顔のままであった。
「でもさぁ、あの、…いい事思いついたよ?」
「なによ」
 サリはキツネ顔に戻っていた。
「もう無駄な事には付き合わないわよ」
「ううん、付き合って」
「えぇ?」
 サリは真顔できき返す。
「何によ……。柿口さん、要件を先に言ってくれる?」
「あー…、うふふ」
 なるかはそう怪しく肩を上げて笑うと、突然に下駄箱から廊下へと飛び出していった。そのまま勢いよく職員室の方向に向かっている。
 サリが焦って声をかけると、なるかはまた大声で『ちょっとそこで待ってて下さーい!』とサリに叫んだ。
「どういう子なのよ……」
 サリの顔が歪んでいく。――初めからつん、と、とんがったような顔つきが、更にとんがり、眉間(みけん)にも皺(しわ)が寄って、実に不愉快を絵に描いたような顔に仕上がっていった。しんと静まり返った下駄箱に、サリの『もうっ』という荒い息遣いだけが鮮明に響く。
 その声はすぐに消え、下駄箱は元の静寂を取り戻す。グラウンドからの声も届かない。放送でも流れない限り、そこは沈黙するのであろう。
 すでに学校行事は終了している。後は部活動しか残されていない。校舎は本来の役割を終え、ひっそりと夏のひと休憩に入っているのである。
 サリは己でも気づかないうちに、顔をしかめていた。自分にとって、夏の部活動はすでに終わったのだ。夏に最も魅力的に感じる科学室は、授業以外を立ち入り禁止とされ、自分達は、生真面目な者しか普段入室もしない理科室での部活動を強いられていた。そして、その部活も、とうとう終わったのであった。
 サリは己がその下駄箱で立ち尽くしている事で、全てが終わったのだと、無意識に深く実感していた。苦手ななるかと電話し、無駄なあがきを相談しあって、できる事を全てやったのだ。――だからこそ、サリの顔は、泣きそうなキツネから戻ろうとしない。
 しかし、五分も経たないうちになるかが下駄箱に戻ってくると、サリはまるで魔法をかけられたカボチャの馬車のように、その顔を瞬時にして、清々しい陽気な笑顔に変えたのであった。
 満面の笑みでピースサインを作り、なるかがその手に握って帰ってきたのは、そう、すでにサリがあきらめていた、あの『科学室』の鍵であった。

       6

「簡単だったよ?」
 なるかは満面の笑みで言った。
「ぶらぶら~ってぶら下がってたの、さっ、て取ってきただけだもん」
「ぶら下がってたって、それをかってに取ってきたの?」
 サリの顔はその言葉に不釣り合いな笑顔であった。
「うん、…って、ふふ、いけないのよ?」
「いけないねえ」
 なるかはちょこん、と小首を傾げた。
 誰もいない夏休みの科学室。ひっそりと静まり返った室内にはひんやりと冷えた冷房もパソコンの稼働光もない。
 ただそこにあるのは、明るい二人の話し声と、靴下でぴょんぴょんと飛び跳ねる元気の良い脚音だけであった。
「ああ…、ちょっと信じられない」
 サリは飛び跳ねる事をやめ、胸の前で手を組んでから、感極まった顔で天井を見上げた。
「主よ……、私はもう罪人ね? ありがとうございます」
 一方、なるかはせかせかとパソコンを起動させていた。部長のパソコンである。
 しかし、すぐに感極まった言葉を天井に捧げているサリに、これまた極まった顔のなるかが大声を上げるのであった。
「あ~~~~!」
 なるかはサリを大きく指差す。
「な! ちょ、ちょっと、しっ、し~~~!」
 サリは大慌てで人差し指を口元に立てる。
「なに指差してんのよ! 柿口さんだって同罪じゃない、私だけが罪人じゃないのよ? それに大声を出さないで、見つかっちゃうじゃない!」
 なるかは笑顔をフリーズさせてサリを見つめた。言っている事がよくわからなかった。しかし大声を出すな、という部分は理解できたので、出すのをやめた。
 なるかはサリを指差したままで言う。
「汐崎さん、私、部長のゲーム持ってきてない……」
 なるかは笑顔をフリーズさせたままで言った。
「ゲームできない……。ソフトないもん」
「あるわよ…。ちょっと、いいからその縁起でもない指をお、ろ、し、な、さい!」
 サリはそう言うと、制服のシャツから銀色に鈍く光沢をつくっている十字架の首飾りを取り出した。
「主よ……、あの子はカモシカと同じく天然記念物なんです。私は人に指を差される事はしていません。先生に怒られる事しかしていません、それも見つからなければ帳消しになります、私は…」
「汐崎さん、ゲームはどこにあるの?」
 なるかはサリの独り言を掻き消した。サリは不満そうに睨んでいる。しかしなるかの知った事ではない。
「てか、ね早く、やろうよ、先生来ちゃうから」
「ん……そうね、そうしましょう」
 サリは急な急ぎ脚で室内をバタバタと歩き出した。
 なるかはパソコン画面に視線を落としてから、ふらふらと室内を歩き出す。
 冷房が設置してある、部長のデスクから近い場所にある壁まで移動して、室内温度を二十二℃に設定してから、冷房を起動させた。
「………」
 なるかは音を立て始めた冷房を気が済むまで見つめてから、今度は、科学室の室内をふらりと見渡してみた。
 サリが中腰になってパソコンをカチャカチャとやっている。
 静まり返った室内。中央からドアの方面だけ蛍光灯の明かりが灯っていない。
 蛍光灯のつけられた半分の絨毯がはっきりとグレーに見える。夏休みが始まって間もない初日であるが、それがとても懐かしい色に見えた。
 なるかはもう一度ぐるりと室内を見回しながら、冷房が効いてきた事を実感する。冷房を涼しく思いながら、中腰でカチャカチャとパソコンを操作しているサリの背中に向かう。
 部長デスクの隣のデスクには、バイク用のヘルメットを未来的に改造したようなヘルメットが二つ。同じく、コントローラーであるプラスティックの板に簡単なボタンと、握る為のスティックがついた懐かしいコントローラーが置かれていた。
「できそう?」
 なるかはコントローラーを弄りながら言った。
「できるわよ」
 サリの嬉しそうな声が答える。
 なるかの顔に笑みが浮かんできた。これでまた、あの楽しいゲームができる……。
 ほんの少しだけ、違う世界にワープしてしまったかのような、あの不思議な体験をまた味わう事ができるかもしれない……。
 そこでなるかは更に笑顔になった。
「ねね、汐崎さん、部長達も呼ぼうよ!」
 サリが、細い眼で無造作に振り返った。
「ね? ダメ? 部長達も呼んであげようよ? せっかく部室に入れたんだから」
 サリはまたパソコン画面に顔を向け直して、カチ、カチ、とマウスを操作し始めた。
「来ないわよ……」
「……何で?」
「部長は三年生……。これは悪い事なのよ、内申書に響いたらどうするの」
 サリは躊躇(ためら)いながらも、淡々と言った。
「メガキンとフトルは今携帯電話が故障してるみたいだし、村瀬はあれでも真面目なの。顧問の尾尻先生とも仲がいいし、先生を裏切ったりはしないわ。意外と発言力もなくて、弱気な奴だから、これが使用禁止になった時も自分では何も言わなかったの。だから部長に望みを託したのよ」
「そうなんだ……」
「うん」
 カチャン、と大きくキーボードが鳴った。見ると、サリがなるかに微笑んでいた。
「さ、できるわよ!」
 サリは満面の笑みで両手を合わせていた。
「私達で四人の分も楽しむの。夏休みに密かに活動して、あの四人を三学期に驚かせましょ」
「うん! そだね」
 なるかは笑顔で隣のデスクの椅子に座った。それから、ヘルメットとコントローラーをサリに手渡す。
「えと、私がー、あの、汐崎さんになればいいん、だよね?」
「そよ~、私が柿口さんよ~」
 サリはご機嫌でヘルメットとコントローラーのコードをパソコンにセットする。
「うふふふふ、カッキーーーン! …ふふ、こんな感じでいいかしら?」
「んふふ、こっちもこんな感じでいいの?」
 なるかは両眼のはじっこをひっぱった。
「ひっぱたくわよあんた!」

 私が向こうでは、汐崎さん。
 そうよ。私が柿口さんのキャラを動かして、あなたになりきるわ。
 掟(おきて)って、それだけ?
 ゲームを楽しくする為の掟だから、二人の場合はそれでいいわ。
 楽しみだね?
 ええ。本当は柿口さんのマネなんて嫌だけど。
 私はー…、嫌じゃない、かな。
 そう……。ほら、始めるわよ。ゲームの中に入るつもりになって。
 わかった。あっは、向こうで鬼ごっこしようね?
 ええ、しましょしましょ。は~あ楽しみ。いい? 本当は三十分だけど、今日は二人だから、時間の制限が無いの。だからゆっくり……、楽しむわよ?
 は~い。
 それじゃ、私になりきってちょうだい。――コントローラーで動かし始めたら、もうスタートよ。
 わかったわ、なるかちゃん。
 ふふふ…。ええ、行きましょう、サリちゃん。

 それからすぐに二人の愉快な笑い声が始まった。だんまりの室内に、ひっそりと稼働するパソコンゲーム。その画面のゲーム世界に興奮しながら、魂を入れ替えたつもりの二人がはしゃいでいる。
 冷房は程よく室内に行き届き、整った快感的な夏の環境に、二人の笑い声は加速していく。
 しばらく経ってから、なるかは一瞬だけそのゲーム画面の中で立ち止まった。つまりは、コントローラーを動かさなかったのである。
 それは、サリの動かすキャラが立ち止まっていたからであった。
 横にいる本物のサリの姿はヘルメットで見えないが、もしかしたら、またあの一瞬だけ気の遠くなるような現象が起こっているのかもしれない。そう思うと、なるかは楽しくて仕方がなかった。
 異世界に行くのが幼い頃からの夢であった。この手作りのマニアックなゲームと出逢って、それがほんの少しであるが、前に一度、実現したような気になったのである。
 もうそれはないと思っていた。科学室を使用禁止にされ、そこにあるパソコンでないと不思議なゲームは出来ないと言われた。
 しかし、自分はサリと今、そのゲームをやっている。そしてまた、一瞬でも、いつかの夢であった異世界の国を感じれるかもしれないのである。
 そう思っていると、暗闇のヘルメットの中、ずっと眩しく光り輝いていたゲーム画面で、サリの動かす赤いリボンのキャラクターがまた動き出した。
 なるかは自然と湧いてきた笑みを受け入れる。そして『行ってきたの?』と嬉しそうな声を発した。しかし、サリの返答はなかった。その変わり、ゲーム画面では丸く弧を描くように赤いリボンのキャラクターが忙しなく走り回っている。
 なるかは楽しさを笑顔にしまってから、またそのコントローラーを握り直した。赤いリボンの女の子に体当たりをして、またふざけてみよう。『ドボ~ン♪』というあの可笑しな音が鳴り響いて、サリが怒って追いかけてくるであろう。

 楽しいな……。

 それが、なるかの残した最後の言葉であった。
 ヘルメットをかぶったままのなるかは、コントローラーから崩れるように手を下ろし、そして首をだらんとする。
 隣でも同じく、サリが椅子に座ったまま、天井を見上げるように茫然(ぼうぜん)としていた。その手にはコントローラーは握られていない。
 静かに小さなメロディを鳴らし続けているパソコン画面では、激しく動き回る赤いリボンの女の子と、ぴたりと止まったままで呆然と街を見つめ続けている女の子のキャラがいる。
 街の不思議な住人達は何食わぬ動きでようようと歩き、その二人のキャラだけが、まるで生きているかのように、その街を個性的に見回しているのであった。

 ~始まりの国~

 静かな景色であった。まず印象的だったのは、赤い煉瓦(れんが)の煙突のおうち。それが眼の前にあった。
 人がいっぱいに、そこらじゅうを歩いている。
 頭の中がふらふらとしていた。
 自分が地べたに座り込んでいるのがわかる。
 しかし意識、というか、その眼は景色を眺めている。
 景色ではなく、風景というべきか。
 水車が回っている。朱色の煉瓦を敷き詰めた地面の端の方に、細い溝が造られている。
 溝には水が流れているのだろう。そこに人間ぐらいの大きさの、水車が回っている。
 まっすぐに延びた溝の左側が煉瓦の地面で、自分はそちら側の方に座り込んでいる。
 溝の右側には家が並んでいた。
 どれも個性的な家であった。
 自分は水の流れる溝の方に身体を向けている。すぐ眼の前には赤い煉瓦の煙突がある家があった。家というよりは、おうち、と言った方がしっくりくる気がする。
 可愛らしい、丸みがかったおうち。それがいっぱいに、びっしりと並んでいる。
 おうちを辿るように、左の方に視線を向けていくと、並んだおうちの中にパン屋らしき建物があった。そこに街の人々が集まっている。
 なるかは後ろを振り返った。おうちの逆側には、大きな河(かわ)が流れていた。
 それは、とてつもなく大きい河であった。
 その大きさに呆気に取られていると、ふと気がついた。――橋がある。
 河には橋が架かっている。丸太で組んだような、大きな橋であった。
 河の向こう側、その遠くの方に、森のような物が広がっている。
 なるかは、立ち上がった。
 おろおろとしたまま、とにかく、自分が街の中に立っている事だけは理解できた。
 自分の正面には煉瓦の地面が続き、その向こうまでがずっと住宅街と商店街が混ざり合ったような景色になっていた。それは右側だけである。
 右側だけの街。左側は、やはり遠くの方までも大きな河になっている。
 なるかは、声を出せない……。
 何が起こったのかと考える……。
 すぐに例の現象が起きたのだと思った――。
 しかし、胸には凄まじい不安の脈が打っている。
 滞在時間が、長すぎる……。
 もういい……。
 帰りたい……。
 なるかは瞬発的に泣きそうになりながら、後ろの景色も振り返ってみた。
 まだ頭の中がふらふらとしている。
 街の景色が頭を機能させない。
 ぼうっと、ただ街の風景を確かめるだけになってしまう。
 後ろには、自分がいた。
 なるかはその時だけ、ほっと溜息をついた。
 すぐにまた、自分の後ろ側の景色を確かめる。今度はしっかりと意識を保とうと、なるかはくっきりと景色に意識を集中させた。
 変わらない風景がずっとずっと先の方まで続いている。左手側には、やはり住宅街と商店街の混ざり合った街、地面は朱色の煉瓦、右手側は大きな河になっている。
 眼を見開いて、もっとよく、確実に風景を見つめてみる。
 ずっと遠くの方で、街が終わっているような気がした。点のように小さな景色は、そこから、ガラッと煉瓦色の街から黒い色の景色に変わっている。
 なるかはとりあえず、ふうっと息をついて、先程の自分を探す。
 また前を見ると、そこに自分がいた。
「あっは」
 自然と笑い声が洩れた。
 自分は、何食わぬ顔で街を歩く二本足の動物達に、仰天しながら、あたふたと歩き回っている。
 自分が振り返り、こちらに気がついた。自分は驚いた顔のまま、口を半開きにして、こちらに歩いてくる。
 なるかはけらけらと笑いそうになる。自分も確かに最初は怖かった。すぐに帰りたくなってしまったのである。
「あっはは、ねえここってさ、汐崎さっ…………。え――」
 しゃべりたかったのだが、声はそこで消えてなくなった……。
 なるかの表情を何かが一瞬で奪い去った。
 そう、眼の前に、自分がいるのである……――。
 なるかは、その異常な光景に、ようやく気がつけた。
「あ、あな…あなた…あ…あな……」
 自分が、こっちを指差して興奮している。
 なるかは、固まった表情をそのままに、何とかで、出てくれそうな小さな声を振り絞る。
「え……、なんでっ……私ぃ? なんでぇ、私がいるの……?」
「あなたっ……あ、…あなたっ!」
「え……、私がいる………」
 こちらを指差して興奮している自分を尻目に、なるかは両手で己の顔を触ってみた。
 しかし、よくわからない。
 夢を見ているのか。――その時、一瞬の解決策が浮かぶ。
 なるかは、自分の顔をつねってみた。その時であった……。
 眼の前で興奮している自分が、手鏡を開いている。
 その手鏡をこちらに向けて、ピーチクパーチクと騒ぎ立てている。
「っ……っ………――」
 なるかは言葉を失った。
 完全に声を失ったまま、その手鏡の中に視線を釘付けにする。
 鏡の中を凝視する。
 しかし、その眼から恋のレーザー光線は出ていなかった。
 その手鏡の中で自分の頬をつねっていたのは、あの、キツネ顔の汐崎佐里なのだから。

       7

 サリは己の頬から手を放した。そのままぶらんと垂らすと、つねくった頬がひりひりと宙に浮いているように感じた。
「ちょっとあんた大変よう!」
 なるかが騒いでいる。
「ちょっと待って! ………わかったわ、いいでしょう、ちょっと…、落ち着きましょう…あ、どうしよう……いい、落ち着いて……そう、落ち着きましょ…」
 赤い大きなリボンが可愛かった。なるかの頭の上にぽこんと乗っている。どうやってリボンがついているのかが謎であるような飾り方であるが、確かに可愛い。
 サリは言われたままに、すでに落ち着いていた。
 サリは、なるかの頭の上にある赤いリボンの、更にその上を見つめた。そこには『NA』というアルファベットが浮かんでいる。
 どうやって飾っているのだろう。サリはふと考えていた。
 それを眼の前の柿口なるかが呼び覚ます。
「いいわ、ちょっと聞いて……」
 なるかは大きな瞳を、ぎんぎらと見開いて興奮していた。右手の手の平をめいっぱいに開いて、サリに向けている。
「あなた……、自分の名前を……あ、いい? 質問にだけ答えてちょうだい、いいわね?」
 サリは、こくんと頷いた。
「自分の名前を言ってみてちょうだい……」
 なるかはそう言うと、大袈裟に腕組みをして鼻の穴を開いた。
「汐崎、サリ」
 サリは、にこりと答えた。
「さり?」
 なるかは中途半端に腕組みを解いて、アホな顔をした。
 サリはくすっと笑った。
「え……ちょっと」
 なるかは慌てふためくように、おろおろと言う。
「嘘よ! あなたは柿口さんでしょ?」
 サリはすぐに答える。
「落ち着いて、そうだよ……」
「え?」
 なるかが嬉しそうな顔をする。サリの肩を掴もうとしていた腕が、すっと下におりた。
 サリは頷いた。
「ここはー、ゲームの中ぁ、ですね。うふふ」
 サリは可愛らしく、微笑んで言う。キツネ眼がいっそう細くなった。
「なんか今日は長いですね。んふ、うふふ」
 なるかは、助かったとばかりに、その場へとへたり込んだ。サリもすっと脚の力を抜くようにその場にしゃがみ込んだ。しかし、落ちるようにしゃがみ込んでしまった為、サリは己の脚でバウンドして、頭からなるかの顔に突っ込んだ。

 ドボ~ン♪

「ほっが…ふがっ」
 なるかは顔面を押さえて高速で後ろに吹っ飛んだ。
「あ! ごめんなさいっ」
 サリは頭を押さえたまま、顔を歪めてなるかに焦る。
「わざとじゃないよ! 絶対わざとじゃないから!」
「ん……、んご……ごほっ……」
 なるかは涙を流しながら、むくり、と口元を押さえて起き上がった。その顔は必死にサリの事を見ている。
「ゴボンって…音がした……。ゲームなのね」
「ごめんね? ほんとに、だいじょぶ?」
 サリは心配そうに言った。なるかが頷いたので、もう一度『ごめんね』と小さく呟いた。
 なるかは痛そうに顔をしかめたまま、軽く片手で尻を払って、その場を立ち上がった。涙眼で辺りを見回してみる。
 サリもなるかに続くように立ち上がり、確認するように辺りを見回した。
 そこは、街の風景と呼ぶには、少し景観に違和感を潜(ひそ)めていた。キッズアニメに登場してくるような外観なのである。家々の外壁から顔を覗かせた植木は、なんだか造り物に見える。葉がてかてかと光沢をつくり、少し硬そうにも見えた。
「なるかちゃん…」
「待って……」
 なるかは、片手で止めた。そして素早く顔をしかめる。
「私はサリよ、混乱するじゃない」
「え…、でも、ここでは」
「いいわ、でもちょっと黙ってて」
 なるかはそう言って、また街の風景に没頭した。
 煉瓦造りの街並み。住宅にも、最も煉瓦が多く用いられている。家には煙突が必需品らしい。煙も出ていないのに、それはほぼ必ずどの屋根にも存在している。
 路面には街灯がなかった。おそらく、ここには夜が訪れないのであろう。
 街中を、様々な動物達が行き交っている。
 それらは洋服を着こなし、二本足で生活している。その場で立ち止まったまま、ずっとしゃべり続けている動物達もいた。
 なるかは、大きな深呼吸を一回だけ消化すると、サリに振り返って、照れ臭そうに言う。
「あなた……、その身体を、大事にしてね……」
 なるかは視線を斜め下に逸らし、もじもじと呟くように、サリに言う。
「その洋服、とっても…、似合ってると思う」
 サリは己の服装を改めて見てみた。そういえば、まじまじと確認するのはこれが始めてである。
 サリは青い洋服を着ていた。半袖で、それはふわりと横に広がったスカートと繋がっている。スカートの中からは白いひらひらが顔を出していた。
 靴も青い光沢をつくっている。それはプラスティックのような物であった。しかし触ってみると、それは柔らかい。
「あは、あり、がと。んふふ」
 サリは小首を傾げて、恥ずかしそうに苦笑した。実に可愛らしいサリである。
「なるかちゃんも、可愛いよ!」
「ありがと。うっふうふ」
 なるかも、嬉しそうに小首を傾げた。
 なるかはサリと全く同じ格好をしている。その色だけが、青から赤に変わっているだけであった。頭の上に浮いているなるかの『NA』のアルファベットも、サリの『SA』のアルファベットも、浮かび方は同じである。しかし、赤いリボンだけは、なるかの頭にしかなかった。
「ここは私達全員でつくった街よ」
 なるかはそう言いながら、突如、前に歩き始めた。焦ってサリはついていく。一歩を歩くごとに、ピコピコと可愛らしい脚音が鳴った。
「みんなの街なんだー」
 サリは嬉しそうに街を眺めた。
「可愛い~」
「五人の意見を集めて、みんなの街の、中心につくったの、ほら」
 なるかはサリにそう言って、左手側の大きな河を指差した。
「あの橋を渡った向こう側が、村瀬の国よ」
 なるかの表情には、極上の笑みが浮かんでいる。
「えぇーー。へぇ~~……」
 サリも関心を示しながら、つり眼を引き上げた。
「で、あっち、ね?」
 サリは指差された方向を見る。――それは正面の風景であった。なるかはそのずっと先を指差しているらしい。
「ここからじゃ見えないけど、あっちに、フトルの国があるの」
 なるかは、長いまつ毛をばさりと瞬きさせて微笑んだ。
「あ、フトル君?」
 サリは嬉しそうに、なるかの肩に手を掛けた。
「フト」
「うわあっ!」
「ええっ⁉」

 ドボ~ン♪

 なるかはズザザザ…ザ…――と、激しい音を立てて、背中から地面に着地した。その顔は空を見上げながらふがふがと興奮している。
 サリもうつ伏せになり、なるかとは逆側の地面に吹き飛ばされていた。
「ちょ…、ちょとあ~た……」
 なるかは鼻筋に皺をつくって空を睨んでいる。
「嬉しいと…、人を…、突き飛ばすわけ…?」
「ちが、あたし、何もしてない……」
 サリは痛そうな顔で、赤くなった肘を気にしながら、立ち上がった。
「かってになったの……、いっっ、たぁ……」
「何もしてない? 押してないの?」
「押さないよぉー…」
 なるかのその顔は驚いている。
 サリは眉間を顰(ひそ)めて、首を傾げていた。
「わかったわ、この世界だと、キャラクター同士がぶつかると吹き飛ぶ事になってるのよ!」
 なるかはぴょこんと跳ね上がる。大きな瞳が三日月のように湾曲して笑っていた。
「やったわうわ~んすっごいパ~フェクトよ!」
「んふ……、あはは」
 サリもこすっていた肘を忘れ、なるかのジャンプに合わせて、笑顔で手拍子をする。
「なんか、わっかんないけど、あはは、良かったね。なんで嬉しいの? わ~い」
「確実にっ、ゲームの世界に来ているのよ!」
 なるかはサリに抱きついた。

 ドボ~ン♪

「………」
 サリは地面に寝転がったまま、びっくりしている。
「……夢じゃないの、ちょと、ごめんなさい忘れてたの」
 なるかは受け身の取れなかった頭を抱えながら、必死に眼玉をむいてサリに説明する。
「これは…夢じゃないのよ…、痛いでしょ、死にそうに痛いわよね…。わかるでしょ、もう…。私達は、ついにゲーム世界へのワープを完成させたのよ……ちょっと、ヤバい角度で着地したわ」
「あの…、大丈夫?」
 サリは洋服を払いながら立ち上がる。しかし汚れは一切見当たらなかった。
「あの、どうして背中から倒れるの? 危ないよ?」
「そ、…そうね」
 なるかは冬眠から目覚めた熊のようにもっさりと起き上がった。頭を必死にさすっている。それはもうなるかの顔とは言えなかった。
「とにかくね…、あつつ…、帰る時まで……、お互いに触らないようにして、ここで遊びましょう……。行きたい場所はある?」
「てか…、どうやって帰るんだろうね?」
 サリは近くを通りかかった猿に微笑みながら言った。
「帰る?」
「えーお猿さん可愛いー、うー…」
 サリは胸の前で手を組む。可愛らしいポーズで猿に恋のレーザー光線を発射している。
 しかし、なるかは猿を見ていなかった。
 なるかの激しく痛がりながら嬉しがっていた顔が、徐々に無表情に近くなる……。
 なるかは頭をさする作業を中断した。
 空気を見つめる……。
「ねね、ちょいちょい、見て見て、あのお猿さんがしてるリボン、どっかに売ってないのかな?」
 サリはつり眼で笑いながら、なるかに走り寄る。
「あ、お店とかさぁー、あったら、行きたいかも。いーやかぁなぁりぃ行きたいかも。いいや行きたいはず!」
 なるかは、激しくサリの顔を見た。
「お…。んー? どした?」
「……ないわ」
「え?」
 サリは眉を上げた。
「なになにぃ?」
 なるかはその可愛らしい顔を消去するように、表情から全ての笑みを取り消した。
「どうしたの?」
 サリは不思議そうに尋ねる。
 サリへの視線を雪崩のように逸らし、なるかはその場に崩れるようにして、膝から座り込んだ……。
「どうし、ました?」
 サリは不安な顔つきで、なるかの顔を覗き込む。
「あの~…、はーるっかちゃん……。かっきー……。え、ほんと、どした?」
 すぐ近くにある煉瓦の家から、ロックスターのような派手な洋服を着た林檎人間が出てきた。サリはそれを一瞬だけ一瞥(いちべつ)して怯えた。しかし、すぐにまた林檎人間を見つめる。
 そして、林檎人間の短い観察に満足すると、今度はなるかの顔を覗き込むように、サリもその場にしゃがみ込んだ。
「え。ほんと、どうしたの?」
「帰れないわ」
「え?」
 サリは明るい顔のままで、眉をいっぱいに持ち上げた。
 林檎人間は二人に気づいていないかのように、そこからすぐそばにある煉瓦の路面を何食わぬ顔で通り過ぎていった。
 しかし、サリはなるかだけを見つめている。
 なるかの顔は、泣いていた。
「帰る方法なんて、ないのよ………」

       8

 漆黒の森には、人間以外の生物は存在していなかった。風に揺れる精密に造られた人工的チックな枝葉にも、やはり昆虫といった類は姿を見せていない。そこには肌を露出させた人間の姿と、大自然しか存在していない。
 サリとなるかは、そんな森林で、ぱくぱくと入手したおにぎりを食べていた。
「美味しいわ…。少し、不思議な味だけど」
 なるかは、感情を消した顔で、ぱくぱくと食事しながらサリの顔を一瞥する。
「意外とど根性女なのね、あなたって……。尊敬するわ」
「あの子が転んでたから、土を払ってあげただけー」
 サリはそう言って近くを指差した。そこにはサリとなるかにおにぎりを用意してくれた同年代ぐらいの少女の姿があった。彼女の家は大木の太枝に設置されている小屋がそうであるらしい。彼女は散歩の途中との事であった。
 少女は大木の周りを二周してから、また少し離れた洞窟の前まで散歩を再開しようとしている。
「この国では人とぶつかるとゴボーンっていう、あの音が鳴るのね。きっと食事をもらえるイベントの発生を知らせる為よ」
「あ、女の子が行っちゃう。ありがとね~~!」
「聞こえないわよ、触れないと会話できないんだから」
 おにぎりを食べ終えると、サリとなるかはまた寒いという事で、元の洞窟に戻っていった。
 しかし、そこで少し困った事が起きた。戻った途端に、裸の男がいたのである。その容姿から、それが老人である事がわかる。
 二人はそれを遠目に立ち尽くしていた。老人は洞窟で自分の胸をもんでから眠りに入った様子であった。
「恐ろしい光景だったわね……、今の…」
「自分のでもいいんだね、変なの」
 サリは真剣なキツネ眼で辺りを見回す。
「どう、します? あそこは人の家みたいだよ」
「ここもそろそろ……、そうね」
 なるかは、洞窟に溜息を吐くように、大きく肩を上下させた。
「とうとう帰りのワープが来なかった……」
「別の国に行く?」
「そうね…、うん。原始時代には、もう、いたくないわ」
 なるかはそう言ってから、薄く微笑むように隣のサリを振り返った。身体には触れないように、お互い気を配っている。
「柿口さんが、おにぎりも貰ってくれたから、何とか歩けそうだわ…。ふふ、よくあんな暗闇で外が見えたわね」
 サリはにっこりと微笑んだ。
「んふふ、この眼って夜行性みたい」
 なるかもにっこりと微笑んだ。
「ええ、私は視力がいいのよ。二.〇だから」
 その後、サリの『キツネさんみたいだよね!』という言葉に『ざっけんじゃないわよ!』となるかが怒鳴った後で、二人はがやがやと騒がしく洞窟へと集まってきた男の集団から逃れるようにして、森林の中へと走り出した。
 夜の森はとても険しかったが、なるかの叫んだ『お爺さんなんで大家族なの~! 洋服を着なさい洋服を~!』という声に、サリがくすくすと笑い、それに影響されるように、なるかの顔にも元の可愛らしい明るさが戻った。
 二人はたっぷりと時間をかけて、村瀬の国を抜ける。大きな渡り橋まで戻ってくると、そこには晴れ渡る真昼の世界が広がっていた。

 ~フトルの国~

 現実の中で現実感を再確認するような景色であった。しっかりと設計しくまれたような、洋風の建築物。街と呼ぶに相応しいその光景は、つい先程まで歩いていた『始まりの街』を遥かに超越して、二人にリアリティを体感させた。
 それはゲームの中であるという恐怖の現実を忘れさせ、瞬時にして二人に『外国』を連想させたのである。
 森林の造形物に繊細な造りだと関心を寄せた心はとうに消えてなくなっている。始まりの街で見渡した煉瓦造りの家々も、すでに玩具(おもちゃ)のように思えていた。
 そこは通常世界とよく類似した現実感の塊であり、フランスかイギリス、パリやロンドンといったシティを思わせる。
 サリは口に指を咥えていた。なるか、つまりは中身は本物のサリであるなるかが、今早々に街の住人と会話を始めている。
「煙突なんてないじゃない……。どこにあるのよ」
 なるかは忙(せわ)しなく問い質(ただ)す。ここに来てから、すぐにでも帰れそうな、そんな気がしていたのであった。
「言っても無駄だと思うけど、詳しく説明してくれないかしら……。この街は初めてじゃないけど、ある意味で、初めてなのよ」
 なるかは『フトルの国』に来て、すぐに眼の前を歩いていた住人に突進した。あの不思議な音は住人との接触時には流れない。その変わりに、住人との会話が発生するようになっている。それがこのゲーム世界での共通のシステムであった。
 住人の硬度は無論その形体や性質によって異なる。この世界が設定に忠実に存在している為、岩の姿をした住人に突進していけば大けがをするであろう。
 しかし、なるかが現在会話をしている住人は、とてもソフトな形体をしていた。
 サリは指を咥えたまま、無言で二人に近づいてみる。
「この路をまっすぐに行くんです」
 住人は横眼でちらり、とサリを一瞥して、また、その可愛らしいお目目を眼の前のなるかに戻した。
「良かったら僕が一緒に行きますけど、どうします?」
「やだ、ちょっと…、柿口さん、ここの人達、やっぱり生きてるわ!」
 なるかは、その美形な顔を器用に豹変させて喜ぶ。声が上ずっていた。その眼も三角に湾曲し、嬉しそうにサリに驚きを表現している。
「柿口さん、もしかしたら帰れるわ! この街には占い師がいるの、占い師は悩み事に対して助言をする偉い人の設定なのよ! 私達にもヒントをくれるかもしれないでしょ?」
「ねねね…ねぇねぇ、…もしかして、ここ、食べれる?」
 サリは可愛らしく、住人の頭を指差した。
 住人は怯えた顔でサリを凝視している。若者風のオシャレな洋服を着こんだ住人は、大きなソフトクリームの頭をしていた。
「ちょっと、柿口さん聞いてるの? あなたの問題でもあるのよ?」
「これとけないの?」
 サリの口からよだれが垂れた。
「ちょと、ちょっとだけ…。さわってもいい?」
「食べないで下さい……」
「脅迫してどうすんのよあなたバカでしょ!」
 ソフトクリームの青年に道案内を任せながら、サリとなるかは『大聖堂』と呼ばれる占い師の住まう宮殿に招待された。しかし、そこは日に二時間しか扉が開かないらしい。
 なるかとサリは、無念を押し込め、逸(はや)る気持ちをなんとか誤魔化しながら、前向きに行動する。その後、会話の果てに、先頭を歩くソフトクリームの青年の家に招待される事になった。
 車両用の道路と自動車だけを除外したような、ヨーロッパ風のハイセンスな街並みを歩きながら、なるかが、先頭を歩くソフトクリームの青年の眼を盗んで、隣を歩くサリに、こそこそと耳打ちをした。
 無論、お互いに触れない事を意識している。
「フトルは食べ物が大好きなのよ……、だから、食べ物と話をするのが夢みたいなの」
 なるかは青年を確認しながら、こそこそと小声で続ける。
「部長に会話の設定を調節してもらってるみたいね…。こっちが街の人の身体から一定の距離を離れない限り、たぶんずっと会話を心掛けてくれるはずよ……。このままお世話になっちゃいましょ」
「あ……、とけそう」
 ソフトクリームの青年が怯えた眼で振り返った。
「んふふ大丈夫ですか?」
 サリは、なるかに言われた通り、優しい顔を意識して話す。
「頭がふふ、頭がとけて美味しそうになってますけど……。痛くないの?」
 ソフトクリームの青年は、眼を潤ませて『大丈夫です…』と短く答えた。また、前を向いて、とぼとぼと歩き始める。
「んふふ、可愛い子だね?」
 サリはなるかに微笑んだ。
 なるかはそう言われ、気がついたかのように、その嬉しそうな顔を解除した。
「うふっ、ダメよ~、まだそれじゃまるで怖い人の発言よ、サリちゃん」
 なるかは帰れそうな嬉しさに任せて、この世界での呼び名を設定に忠実な物へと戻していた。
「サリちゃん、食べたら彼は死ぬからね、食べれるかもしれないけど、ゲームとはいえ、主はお喜びにならないわ。食べちゃダメよ?」
「食ぁべないよぉー…」
 サリは笑顔だが、唾(つば)を呑み込んでいた。それから『食べませんよ』と後ろ姿の青年に頷いた。
「見るだけだから……。あでも、とけて落ちそうなところとかなら、いいのかな?」
「そういう言い方が怖いのよ」
 ソフトクリームの青年の両肩は、山のように固く緊張していた。
 コンクリートで全てを制作したような、見事なまでの打ちっぱなしの建造物であった。そこがソフトクリームの青年の暮らす家だと聞かされ、二人は例のこそこそ話で『やっぱり食べる食べないは失礼みたいね、普通の人間だと思いましょ』と打ち合わせをしていた。
 お茶を用意すると言って、リビングから退出したソフトクリームを確認してから、二人は室内を見回す事もなく、早々に会話を開始させる。
「打ちっぱなしのコンクリート建造…。こんなに細部まではゲームで再現してないわよね…。どうしてこんなにリアルになってるのかしら、会話の長さと何か関係があるのかしらね?」
「あの…、うち。うち、っぱなし? てなんですか?」
 サリはぱちぱちと瞬きをした。
「ほら、」
 なるかは室内を指差した。
「壁紙とかがいっさいないでしょ? こうやって…、コンクリートがむき出しになってる若者風の建物の造りを、打ちっぱなしのコンクリート建造って言うのよ」
「えー。ふうん…、へぇー……」
「村瀬の国も、始まりの街も、ここまで現実感はなかったわ……」
 なるかは険しい表情で、室内を簡単に見回してみた。
「会話の設定が長文になってるから、街の現実化もリアルなんじゃないかしら……。ほら、いっぱいしゃべる設定を貰ってる分、ここの人は他の国の人達よりも、自分が人間であるという認識力が強いのよ。だから、その生活レベルも高いのね…、たぶん」
「んん……そっかぁ。食べ、たら…、本当に、死んじゃうのかな?」
 サリはソファに腰をバウンドさせながら、深く座った。その表情はソフトクリーム人間への底知れぬ疑問に納得していない。
「ちゃんと聞いてからさあー、あの、ちょっと、さわってみる?」
「あんた映画とか観てないの? ……あのね、こういう世界で好きかってに行動するとねえ、あっという間に、住人全てが敵になっちゃうのよ」
 なるかは、厳しい顔でサリに言う。
「顔食べられたら誰だって怒るでしょう? あなたちょっと耳食べていい? とか言われて、サリちゃんはいいって答える度胸ある?」
「でもアンパンマンは、食べれるよね?」
 サリは笑顔だが、真剣であった。もう、この国に入ってから、サリはずっとそんな顔をしていた。
「だって、えだって…、食べる為に顔がソフトクリームなんじゃないの?」
「あんたは親切にしてくれたアンパンマンを食べちゃうわけ?」
「少し…、だよ?」
 サリは指先で、少し、を表す。
「このぐらい」
「食べないで下さいって言われたじゃない」
「言われたぁ、けど……。えだって、さっきね、ちょこっとだけとけて、下に落ちてたもん」
 サリは、登場してきたソフトクリームの青年に顔を向ける。
「落ちちゃうのは、もったいなかったなーって…」
「し、黙って」
 なるかは素早く、笑顔でソファを立ち上がった。
「家族ね? あ~ら…、か~わいい、みなさん種類が違うのね?」
 二人の前には、スイーツ店などでお馴染みの顔ぶれが揃っていた。彼らはソファにいる二人の前に並んで立ち、二人に礼儀正しいお辞儀をした。
「妹の、シュークリームです」
 ソフトクリームは笑顔でその子を紹介した。
「ほら、挨拶しなさい」
 シュークリームは四歳児ぐらいの少女の服を着ている。しかし、例によりその顔はシュークリームに眼と口がついているだけである。しかしソフトクリーム同様、それは感情豊かな人間の表情を作っている。
 シュークリームは照れながら、ぺこり、と小さく二人に頭を下げた。
 二人も短い挨拶を返した。
「こっちが、弟のショートケーキです」
 ソフトクリームは、背中に隠れた弟を強引に前に立たせた。
「ほら、挨拶をしなさい」
 それは十歳ぐらいの男の子の洋服を着ていた。
 紹介されたショートケーキは、もじもじを一度やめて、ちらり、と素早くサリの顔を覗いてみる。
 サリは笑顔で『ん?』と首を傾げていた。しかし、その顔は笑っているが、たまに声を消して『おいしそ~』と口を動かしていた。
 ショートケーキは頭を下げてから、また兄の背中の後ろへと戻った。
「父です」
 モンブランの父が短く頭を下げた。
 二人は挨拶を短く返した。自己紹介はしていない。
「これが、家内のチーズケーキです」
「どうも初めまして、ソフトクリームの母でございます」
 チーズケーキは爽やかな微笑みで、強烈な異臭を放っていた。動くと匂いが漂ってくる。
「ごゆっくりしていって下さいな」
 チーズケーキは優しく微笑んでいる。性格も感情も全てがわかりやすかった。
「おほほ、家族以外と会話をするのは、本当に久しぶりなんです。ソフトクリームったら、もう喜んでしまって」
「ちょっと母さん……」
「ええ、あの、突然であれなんですけど」
 なるかは、慣れた顔つきでさっさと話し始めた。スイーツ家族達が、素早くシリアスな顔つきになる。
「ワープ…みたいな、あの、瞬間移動のような現象って、この辺りで起こりませんか?」
「ああ、起こるよ」
 ソフトクリームが言った。
 なるかは激しくその顔をソフトクリームに向ける。サリも走り出したショートケーキに激しくそのキツネ顔を向けていた。というか、ずっと向けていた。ちなみにショートケーキはあまりの恐怖に夢中になって泣き叫んでいる。
 話は一時中断となり、父と母と妹が突然に逃げ出していった弟を心配して追いかけていった後で、ソフトクリームが改めて床に座り込み、二人の話を深刻に受け止める時間となった。
 時間が存在していないのか、そのリビングには時計が飾られていなかった。無機質な打ちっぱなしコンクリートの室内には、テーブルセットとソファと絨毯しか置かれていない。
 寒気がするような灰色の空間を、ただ電気が照らしているような単純なリビングであった。
「違う世界から?」
 ソフトクリームはその瞳を大きく興奮させていた。
「じゃあ………、え、たまに遊びに来る村瀬さんとか…。待ってください、それは……、本当の事なんですか?」
「ええ、嘘は言ってないわ」
 なるかは激しい顔で頷いてみせた。隣のサリにも、同じ顔のままで説明する。
「村瀬は、つまりフトルの事よ」
 サリは真剣に頷いた。唾を呑み込んで、今度はソフトクリームの顔を見る。
「あの、はいあの…、帰れないんです……」
 サリは顕在的なキツネ眼でしっかりとソフトクリームに話しかける。
「いつも遊び、えと、ここに、遊びに来てるぅ……村瀬君とかもぉ…、最後には私達の世界に、帰ってこれてるんですけどぉ…、私達だけ、なんか帰れなくなっちゃって……」
「それで、帰り道を探してるんですけど……」
 なるかがすぐにサリに続いた。
「そのワープは、どこで起こるんですか?」
 ソフトクリームは驚いたままの顔で、ゆっくりとその声を発した。
「名前も知らない国なのですが………」
「え? 国の名前を、知らないんですか?」
 そうサリがすぐに言うと、なるかが『待って』と言ってソフトクリームの説明を仰(あお)いだ。
「誰も知りません……。危険な国ですから」
 ソフトクリームは二人の顔を、ゆっくりと交互に見て話を始める。
「その国の事は、風の噂でしかこの国には届きません…。ですが、その国ではいま、人々が徐々に消えている、という噂です」
 なるかがサリの顔を見た。しかしサリがソフトクリームの顔を見つめて口に指を咥えていたので、なるかはあきらめてその顔を改めてソフトクリームに戻した。
「消えるって、どうやって? ピシュンって消えちゃうのかしら?」
「それはどうかわかりませんが……、噂では、ウサギが消す、と伝わっています。なんでも、この世界を支配しようとしている、凶悪で、とても恐ろしいウサギらしいのです」

       9

 少し経ったら出発となるかに言われ、サリは思い残す事がないように、ショートケーキの部屋に遊びに来ていた。
「あっはは、あー、そう思ってたの? お姉ちゃんそんな事しなぁーいよぅー」
 サリは優しく微笑んだ。
 ショートケーキは土台が木製造りのベッドに座り、丸くなっている。サリはそこにちょこん、と腰を置いていた。
「食べなあい?」
「んふ、食べない!」
 サリは優しく、うん、と頷いた。
「お話ししようよ。もしかしたら、お姉ちゃん達もうすぐ帰っちゃうかもしれないから。だからさぁ、ね? 少~し、お話ししよう?」
「僕のこと、食べなあい?」
 ショートケーキは背筋を伸ばして一所懸命に言った。
 サリは微笑んだまま、真剣に胸の前で両手を合わせ、『食べませ~ん!』と頷いた。しかし、それは『いただきま~す!』によく似ている。
 ショートケーキはけらけらと笑って、サリにその無邪気な笑顔を見せた。
「ケーキ君はぁ、学校は、あるの?」
「なあにぃそれぇ」
「お姉ちゃん達が向こうの世界で通ってる~……、んー…、お勉強? するところ。お勉強はわかる?」
「うん」
 ショートケーキは真剣な面持ちで頷いた。
「美味しくなるお勉強するぅ。それとね、それとね、パイ投げするお勉強するぅ」
「パイ投げ? へー、パイ投げ。するんだ?」
 サリは短く笑った。
「パイは生きてないの?」
「生きてないよ?」
 ショートケーキは不思議そうに首をひねった。
「これだもん」
 そう言って手を差し出した少年の手には、いつの間にか、大きな生クリームの載った紙皿が出現していた。
 サリは驚いて、慌てている。
「え、え、え今、今どこから出した?」
「みんな出せるよ。パイ投げやるぅ?」
 ショートケーキは嬉しそうに微笑んだ。サリが頷いたので、少年はベッドに立ち上がり、元気よく床へと飛び移った。
「じゃあ行くよ?」
「えちょっと、何いくよっていくよじゃなくて、だ、ダメダメ、待った待った、ちょっと待って!」
 サリは、パイを振りかぶったショートケーキに慌てて手の平を前に出して『やめろ』を強調した。そして、サリはまた慌てて驚いた。
「えっ、あれ!」
 サリの手には、すでにパイの載った紙皿があった。
「へひゃひゃ、え~い!」
「やっ…っ……。ちょ~っと」
 サリはクリームのついた横顔で苦笑する。すぐに自分も立ち上がった。
「じゃこっちも行くからね~……、行っくぞ~…そりゃっ!」
「わあんっ」
「あっは、やったー…へいへいへーい」
「まだだもん、え~い!」
「このっ、こっちだって、このっこのっ!」
 手の平を強く開けば幾らでもそのパイの皿は出現してくれた。
 サリは少年と夢中になってパイ投げ合戦に熱中する。大声で笑って、たまに脚が縺(もつ)れて壁に体当たりしても、また二人で大笑いした。生クリームは少しすると消えていく。顔や洋服に付着した生クリームも、壁やベッドに飛び散った生クリームも、何秒かすると透明になって消えていった。
 サリはつり上がった眼を更に細くし、ショートケーキの少年にパイの嵐をおみまいする。少年は大喜びで、へひゃひゃ、と笑顔を振りまいていた。

 なるかは強烈に顔をしかめていた。リビングの静寂も手伝い、飛び抜けて可愛いはずのなるかの雰囲気は欠片もない。見事なまでに鼻筋に走っている皺は、パイプ椅子で殴られたプロレスラーに類似した迫力がある。
 ソフトクリームは眼を逸らした。
「………ちょっと」
 なるかは、更に顔をしかめる。
「じゃあ、日に一度なわけ?」
「ええ、ですから…僕達は毎日行って、占ってもらいたい事を、占ってもらえるまで……あのうぅ……」
 ソフトクリームは、未だかつて味わった事がないであろう緊張感を味わいながら伝える。
「十年間続けて運勢だけを言われた人もいます……。あの、うちの母なのですが」
「帰れないじゃないのよ……」
「それは、でもまだわからない事ですし…。一発で帰る方法を占ってもらえる場合も…」
「運しだい、って事? そんな、遊びじゃないのよこの問題は……」
 時間を告げに来たサリとショートケーキと合流し、なるかはその難しい表情を元の愛らしい物へと戻した。
 二人はソフトクリーム達の両親にお礼の挨拶と別れを済まし、さっそく長老の占い師が待つ『大聖堂』へと街の中を歩き始める。
 ソフトクリームとショートケーキも占ってもらうとの事で、ついて来てくれた。
「ほーんと、超綺麗な街……、シマエナガとか飛んでたら、もっといいんだけどなぁー」
「素敵な街ね~…、部長のつくったゲームじゃ、こんな街じゃなかったのに」
「ええ、気に入っています」
 ソフトクリームは自慢げに胸を張った。
「素晴らしい街だと、ここに住む人は口を揃えて毎日会話を楽しんでいますよ。村瀬さんも優しいし」
「村瀬は、つまり、フトルの事よ」
 なるかは前を見たままで言った。
「うん、もう慣れた。わかるわかる」
 サリは笑顔のままで答えた。
 見上げる程に超高層なモダンな建物が続く街並みには、甘い香りが漂っている。それは街を歩く住人達の顔から漂う物であった。
「でも、本当にそうね~……」
 なるかは赤いリボンを揺らして、上品に笑った。
「フトルにしては、確かに可愛い街を注文したわねぇ」
「この子達もさ、んふふ、ちゃんとお勉強してるから、ふふ。すっごい、美味しそうだしね?」
 サリは手を繋いだショートケーキに微笑む。ショートケーキは照れ、サリの腕に顔をくっつけていた。街の人々は美味しくなる為に、日々努力をしているらしい。
 尚、ショートケーキは先程からサリの腕に纏わりついているが、生クリームはそれ程つかなかった。顔の形が崩れないようにそうなっているらしい。くっついた分も数秒で消えてしまう。先程、サリはその設定を知ると『太らない夢のスイーツやん!』と何度もパイを出現させ、ショートケーキと共にそれを食べていた。
「ここです」
 五分程の入り組んだ路を全て歩き終えると、両端に家々を持つその路は、やがて路の突き当りに建つ、巨大な宮殿のような建物を最後として路を塞いだ。
 その街並みに似合わぬインド王宮の宮殿ような建物が、長老と呼ばれる住人が住まう、占いの大聖堂であった。
 宮殿を取り囲む城壁はないが、玄関である建物の中央に造られた扉が、実に数十メートルにも及ぶ巨大なスケールを誇っていた。鉛(なまり)で出来ているようなどっしりひんやりとした冷たい扉は、鈍い重さを重々と四人に打ち放っている。
「誰が開けるのよ……」
 なるかは見上げたままで呟いた。
「なんたら・D・ルーフィじゃないんだから、こんな困難、乗り越えるの? 私達のうち二人は女子よ? 冗談にしても笑えないわ……」
 サリは、そう言ったなるかの肩に顔を出して言う。
「あーでも、そこはルーフィじゃなくて、中原ちゅうやの汚れし悲しみ発動で、触れた物の重力のベクトルを操って開けた方が早いかと……」
「何わけのわかんない事言ってんのよ、これから四人でこれを開けるのよ? 漫画の知識じゃなくて、テコの原理かなんかの知識を絞り出しなさいよ」
「あー私、腕立て伏せ、一回もできないから」
「うっそでしょ、なんでよあなたが運動神経いい事私知ってるんだから!」
「それとこれとはぁー……、あーしかも、良くないし、運動神経も」
「力の限りを尽くすのよ! なんでそんなに落ち着いてるのよあんたはっ、このバカでかい扉を開けて帰りの方法を絶対に入手するのよっ、燃えなさい今よ魂を燃やす時は!」
 先頭で扉を見上げていたソフトクリームは、真顔で後ろを振り返る。
「自動ドアです」
「はぁ~~やく言いなさいそう言う事はっ!」
 なるかは大きく腕を振りかぶって突っ込みを入れていた。
 ソフトクリームに続いて、三人が中に入る。堂内に入ると、なるかはすぐに突っ込みで飛び出しそうであった眼玉を引っ込めた。
 大聖堂の中は吹き抜けの空間になっている。それは巨大な教会のような造りになっていた。祭壇と祈りの席はないが、床の中央に敷かれた紅い高貴な絨毯がなるかのテンションを煽っていた。サリは『ひっろ!』と驚いている。
「そうそう、ここってこんなだったわ!」
 なるかは天井を見上げながら、両手を広げてくるくると嬉しそうに回っている。
「いっつもフトルと村瀬が来てるもんっ、そうよ、ここだったわ、あっは~ん嬉っしい、こんな聖域だったのね!」
 正面の壁に数十メートルのパイプオルガン。両端の壁には装飾彫りが施されている。透過光が美しく光る一面のステンドグラス。シンプルな造りではあるが、それは壁に施されている白一色の繊細な彫刻模様と、美しい色彩のステンドグラス、途方もなく高い位置に設置された数多くのシャンデリアによって、充分な大聖堂の役割を果たしている。
 サリとショートケーキは殿内に入るなり、うふふ、へひゃ、と笑いながら『美しい物』について熱く語り始めていた。ところどころには街の住人の姿がある。やはり住人達もサリ達のように楽しそうに会話をしているか、なるかのように大聖堂の中をじっくりと眺めて歩いているのであった。
「ねえ、ここって素晴らしいわね!」
 なるかは隣を歩いていた平(たい)らな顔に話しかけた。
「ここの雰囲気は心が休まるわぁ……、ねえそう思いませんか?」
「そうだね」
 そう答えたのはポテトチップスのようであった。
「あなたも占う為にここに?」
 なるかは笑顔で尋ねる。
「そうだよ」
 ポテトチップスは淡々と答えた。
「お前も?」
「は? お前とは何よ……。生意気なガキね」
 なるかは瞬間的に元に戻った。
「大聖堂でそんな口をきくもんじゃないわ。細い顔してるくせに……」
 サリとショートケーキが手を繋いだままでそばに寄ってきた。ソフトクリームも隣にいる。
「え、なんで普通にしゃべってるの?」
 サリは、不思議そうになるかに言った。
「ふふ、大聖堂ではねえ、みんなが心を通わせる物なの。そう、ここでは言葉遣いに気を配りなさい?」
 なるかはポテトチップスにぷいっと顔をしかめてから、ポテトチップスが頷いたので、また微笑んだ。
「いい子ね、そう。素直に人の話を聞くといい事があるのよ」
「あるわけねえじゃん」
 平らな顔が言った。
「あら………」
 なるかは露骨に、機嫌の悪い顔を平らな顔に向ける。
「こんなクソガキもいるのね……」
「あの、ねねぇ、えー、いつぶつかったの?」
「誰とよ?」
 なるかはそのままの顔でサリを見つめる。サリは真顔で、ポテトチップスの顔を指差していた。
「ぶつかってないよ?」
 ポテトチップスが平らな顔で答えた。
「うん。なんで? ぶつかってないわよ?」
 そう言った後で、なるかは竜巻のように猛烈な勢いで、じっくりとポテトチップスの顔を睨みつけた。
「あんた……」
 なるかはパイプ椅子で殴られたプロレスラーのような顔をする。
「どうして…ちょっと……、あんた…なんでかってにしゃべってんのよ……」
 ポテトチップスは不思議そうに『なんだお前?』と言っているので、ソフトクリームに確認を求めようとすると、ソフトクリームもショートケーキも、ポテトチップスに深く頭を下げて跪(ひざまず)いていた。
「占うのか?」
 ポテトチップスがソフトクリームに真顔で言った。
 なるかは表情を驚愕(きょうがく)させ、すぐに『そういえばそうだったわ!』とサリの肩に触って吹っ飛んだ。
「あのうぅ…、まずは、あの二人の事を占ってあげて頂けないでしょうか?」
「寝てるからやだよ」
「そこをなんとか…」
「やだよ、起きてる人だけだよ」
 なるかとサリは高い天井を見上げていた。
「なるかちゃん……、だい、じょうぶ?」
「柿口さん…こそ、…ごめ…、忘れ…てたの……」
「サリって呼ばなきゃダメだよ……。掟(おきて)だもん」
 サリは、顔を痛がらせたままで呟いた。
「ねえ、だいじょぶだった?」
「…ええ、生きてる。い、痛ったいもん……」
 なるかは転んだ瞬間から驚いた顔のままである。彼女は運動神経が非常に鈍い為、受け身を取れずに何度も後頭部を床にバウンドさせていた。眼玉が飛び出しそうになっている。
「ねえ……、背中から落ちるの、やめた方がいいよ…、痛たた…」
「そうね……、でもわざとじゃないの……」
 その後、二人が立ち上がった後に受け取った日に一度の貴重な占い結果は、『イチゴは冷やして練乳をかけると美味しいだろう』という物であった。
「イチゴって、帰る方法と関係ないじゃないのよ!」
「あー…でも、確かに冷やしてから、練乳かけて食べると美味しいよね?」
「イチゴには練乳ね。確かに。確かにじゃないわよあんた! なんで平気なの! 今日はもう占ってもらえないのよ?」
「練乳かけて、イチゴ食べたいなぁー……。あちゃんと冷やしてからね? 占い師さんに言われたし」
「もういいわ。この占い師は偉い人設定だったけど、どうやら占いに期待するのはバカみたいね」
「イチゴに練乳かけて、食べようね? 帰れたらさ……、あちゃんと冷やして!」
「はいはい。帰れたらね」
「約束ぅ~!あはは」

       10

 ~サリの国~

 柿口なるか(かきなるか)の中身【精神や魂といえるもの】は、汐崎佐里(しおさきさり)である。汐崎佐里の中身は、柿口なるかであった。――現在この二人は、科学部の部長が制作したゲーム世界、つまりは科学部の秘密の仲間達一人一人の理想からつくり出したゲームの異世界に、突如としてワープしてしまい、このゲームを楽しむ為に科学部の秘密の仲間達で取り決めた硬い掟(おきて)によって、半ば強制的にこの異世界では互いの身体を交換させられているのであった。

 サリは大興奮で、お菓子のおうちを見回している。――ウェハース・クッキーの壁に、綺麗な飴(あめ)の窓。窓の縁(ふち)はポッキーで出来ている。床は板状のチョコレート。木目の柱はプリッツ。部屋中に置かれた家具や装飾品も、全てフェットチーネグミやピュレグミ、ケーキやフルーツなどで造られていた。
「えー、お、おお、かぁーわいいぃー!」
 サリは瞳を輝かせながら、胸の前で両の手の平を半開きにして、おおはしゃぎしている。感情が前面に出た声は、完全な鼻声になっていた。
「え、これぜーんぶ、ほんとに食べていいのぉー?」
「誰がいいって言ったのよ、観賞用よ、観賞用」
 なるかは部屋の中をピコピコと歩き回っている。口調は怒っているが、その顔に浮かんだ表情は入室からずっと半笑いになっていた。
「中途半端に食べたら、お化け屋敷みたいになっちゃうじゃない……。こ~れは観賞用」
「いやでも、これなんか…んん、美味ひいけど」
「あ~食べたらダメよあんたぁ!」
「んっふふふ、食べてないよ~~だ、あっははは、あと一週間ぐらいここにいてもいいよねえ?」
 サリは満面の笑みでなるかに言った。
「どうせ向こうは夏休みだしさー」
「……困るわ」
 なるかは忙しく笑顔を解除した。
「何言ってるのよ」
「え」
 サリはフリーズした笑顔で、眼を見開いてなるかを見る。
「なんで? なんで、だろ……。いや、ディズニーランド、ぽいしぃ…」
「異世界なんて、閉じ込められたら、怖いだけじゃない……」
 なるかは俯いた。
 そこには、悩み抜いて部長にお願いしたチョコレート板の床がある。そのすぐ先にはせんべえのテーブルに、菓子パンの本棚が見えた。
 どれも一日中悩み抜きながら、ルーズリーフに書き込んだリクエストであった。
「取り残されたのよ……私達は」
 なるかはサリの方を冷静に振り返った。
「愛犬にも会えない…。家族に文句を言う事もできなければ、友達にだって会えないじゃない」
「でも、ほら。今は私がいるから」
 サリは笑顔で、己を指差して言った。
 なるかは、サリに顔を向ける。
「柿口さんとなんて、つい最近じゃない……。今まで満足に話だってしてなかったのに、そんなあなたとここで楽しめっていうの?」
 なるかはボディ・ランゲージを加えて、大袈裟に、そして冷静に、感情を口にする。
「ここで柿口さんとスキップでもするの? あなたは私と鼻歌を歌うの? ……二人しかいない世界で? お腹いっぱいケーキを食べた後は何をするの? 街の人達と無駄話でもして時間を潰す? じゃあ明日は? その次は?」
「あの、さ……。なんか、なに、オシャレな洋服が売ってる店があるって、さっき」
「二人しかいない世界でどうしろっていうのぉ‼」
 突然のなるかの激情に、サリは委縮する。――とっさに、用意していた友好的な言葉をしまった。
「あなたなんて大嫌いよぉ、怖がる私がバカなんでしょぉ…。こんな世界、理想の悪夢じゃない!」
「なるかちゃん……」
 サリは声を絞り出す。そんな自分を見ている事に、激しい違和感があった。
「違くて、あのね、私ね……」
 なるかは泣き顔を隠す事なく、サリを激しく睨みつけてから、その脚を走らせた。
 玄関に向かってピコピコと不釣り合いな脚音が鳴る。
「なるかちゃん!」
 サリの声に、カステラのソファの前で、なるかが振り返る。――その眼はサリを睨んでいる。窓から射し込む日差しで、なるかの頬には涙の光沢が出来ていた。
「いつまでも…、そうやってゲームごっこをしてればいいわ……。私は…、汐崎佐里よ」
「待ってなるかちゃん!」
 サリは精一杯で大きな声を出した。
「何で怒ってるの? ねぇ怒らないでよ…。なるかちゃん」
 自分の姿をした友人が、何処かへと行ってしまう気がする……。
「ごめん私……」
 サリは自分を睨むなるかを、おろおろと見つめたままで、必死に言葉を探した。
「はる……、サリちゃん。ごめん……、でも、あんまり、暗くならない方が」
「この家の周辺にいてっ、私は一人で方法を探すっ!」
 サリはなるかへと踏み出そうとしていた脚を、そのままでぎゅっと踏み留めた。
 どうしてか、声を出しても走り出しても、――彼女を引きとめられない気がした。
 開かれたホワイト・チョコのドアから、眩い日差しが射し込んでいた。
 なるかが外の世界に出ようとしている。
 借り物のサリの心臓に、激しい脈が打ち込んだ。
「感情的になってる事は…、許してね。傷つけるつもりなんてないのよ。…だけど」
 なるかは鋭く開かれた瞳で、サリを睨んでいた。
 サリはなるかの言葉に支配されている。思考はおろか、呼吸以外の身体中の活動まで止めてしまっていた。
 頭上に『NA』と『SA』の表示を持つ、入れ替わった互いの違和感――。眼の前の相手は自分であり、自分であるはずのそれは、自分ではない、自分。
 鼻先を掠める、甘い生クリームの香り。
 ショートケーキの可愛い友人。
 気まずくなりながらも、大笑いで走り抜けた巨大な森林。
 何度も吹き飛んで学んだ禁止(タブー)の接触。
 夜の来ない街。自由な時間。非現実的な、夢の国々。
 青い洋服がサリで、赤い洋服がなるか。
 それはサリではなく、なるかではない。
 決して自分ではなく、それこそが自分自身。
 現実ではない痛みと、現実でしかない痛み。
 透明な喜びと、不透明な喜び。
 二人の脳裏に、一つの言葉が浮かび上がり、そして消えない。

 理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………理想の悪夢………。

 理想の悪夢………――。

「私達はパートナーであって…、友達じゃないのよ」
 なるかはお菓子造りの部屋にサリを残して、ドアの向こうの景色へと飛び込んでいった。

 視界には、小麦色をした砂地の路面が広がっている。商店街のように、小さな家々が砂地の路の両脇に並び建てられている。赤い屋根や緑の屋根、どの家も同じようにまるみがかった三角屋根の家々であったが、その壁や屋根の色合いは美しいパステルカラーをしていた。
 始まりの街とも違う、そこは地面に生えた個性的な植物が点々と見つけられた。
 なるかは自分が激しい感情を宿していた事を忘れていた。すでにその脚は、お菓子の家の前に生えている地面の植物へと向かっている。この国の住人は全てが動物らしい。それらは周囲の景色と違和感なくとけ込んでみせている。
 なるかは脚を止め、恐る恐る、その植物に触れてみる。青色の太い茎(くき)に、何本か、うちわのように立派な緑色の葉が生えている。茎は親指程度の大きさ。葉は手の平を合わせたぐらいの大きさであった。
 震える指先が緑の葉を掴んでみると、そこからパラパラと緑色の粉が落ちた。なるかは指先に付着した粉を確認してみる。
 それは甘い匂いのする粉であった。そしてなるかは思い出す。緑色の葉は、確かクッキーで出来ているのだ。
 今度は青い茎の部分を強く摘(つ)まんでみる。触った感触と見た目で、すぐにそれがフェットチーネグミである事がわかる。それも、自分が部長に詳しく説明してつくってもらったのであった。
 熱い衝撃が、なるかの中に湧き上がっていた。
 辺りを見渡せば、そこは全てが自分にとっての夢の国である。街の中を当たり前のように歩き回っている動物達は、この植物がお菓子である事を知っているのであろうか。
 なるかの美しい顔には、顕在的である笑みが浮かんでいる。気がつくと、赤いふんわりとした、あまり形を崩さないドレスを可愛らしく揺らしながら、赤いリボンをつけた長く綺麗な髪の毛が大きく揺れていた。
 大きな藁(わら)をかぶったような、ふさふさとした後ろ姿の住人に手を伸ばした。
「ねえ、あの葉っぱは、食べられるの?」
 なるかは笑顔のままできいた。伸ばされた指先は、先程の奇妙な色の植物を指している。
「食べた事ある?」
「食べた事はないけど、食べれない事はないよ。見れば一目瞭然じゃないか」
 可愛らしいライオンはそう言い、大きな牙をむき出して太い鼻に縦皺(たてじわ)を走らせると、大袈裟になるかの顔を見て言う。
「一口でも二口でも三口でも美味しいよぉ。考えればわかるだろぉ? 材料は誰だってわかるんだ、見事なまでに美味しいよぉ。でもさでもさ、ここにはもっとも~っと美味しい物がいっぱいさ。考えなくたってわかる。ここは遠い国からの旅人だって必ず立ち寄っていく、サリの国なんだから」
 なるかは眼を見開いたまま、ぬいぐるみのライオンを見つめたままで硬直している。
 ライオンは言う事を言ってすっきりとしたのか、もうなるかに背中を見せて歩き始めていた。
 なるかは瞬間的に全身を駆け巡る熱い血液を感じる……――。ライオンのぬいぐるみが口にした言葉……。たった今自分に囁かれたその言葉は、自分が喜ぶ為に生まれた言葉だ。
 自分はそこに立っている。
 誰が決めたわけでもない、ぬいぐるみが二本足で立ち、自由に生活する街。
 それは外(ほか)でもない、汐崎佐里が愛する世界なのである。

 サリの国。――ぬいぐるみの動物達が生活する街。生息する植物や建物は全て可愛らしい物で造られている。
 助け合いながら日々の生活を営(いとな)んでいる住人達は、誰もが独特の世界観を持っている。
 隠し設定やイベントの発生などは一切存在しない。世界観を楽しむ為の観賞用の街。そこに存在しているぬいぐるみの動物達とは、接触する事で世間話を楽しむ事ができる。

 なるかは眉毛をつり上げたまま、何かに驚きを表現しているような顔で、忙しく砂糖の砂を蹴った。
 何を迷う事なく、もうなるかの華奢(きゃしゃ)な手先はホワイト・チョコのドアを豪快に開いていた。
「サリちゃんごめんっ、私が間違ってたのっ、一週間ぐらい滞在してても………」
 なるかは呆然と停止しようとする表情に、素早く強烈な鞭(むち)を入れた。
「あああ~~っ!」
 悲鳴を上げたなるかの眼の前では、チョコレートの床に正座しながら、一所懸命に綿菓子のクッションを食べている、サリの姿があった。

       11

「そう、名前もあるんだ…。それはまだ誰も言ってなかったわ、あほんとぉ~…。じゃあ、本当に全員ここで生きてるのねぇ」
 なるかは腕組みをして淡々と言う。
「あなたの名前もあるんでしょ? あなたの名前は?」
 ワニのぬいぐるみは、なるかと同じような高飛車な仕草で『ワニよ』と答えた。ワニはシンデレラのような豪勢な純白のドレスを着ている。声はとても綺麗な小声であった。
 道端(みちばた)で帰る為の聞き込みを開始してから、もう随分と時間が経っていた。腕時計も存在しない街の中では、精確な時間経過は確認出来ないが、サリはもう弱音を吐きそうになっている。
 しかし、なるかの方は、ぬいぐるみ達との代わり代わりの会話を活き活きと楽しんでいた。なるかはやけにぬいぐるみ達と意気投合している。
「私は柿口なるか。本当は汐崎佐里って名前なんだけど、こっちではなるかじゃないと、たぶん帰れないのよ。意味は、わかる?」
 なるかは腕組みのままに、すっと眉毛だけを持ち上げた。
 ワニは素早い頷きを返す。しかし、その仕草はどこか上品であった。
「わかる…。だってさっきそれを掟(おきて)だって説明くれたでしょ?」
 ワニは淑(しと)やかに大きな口元だけで微笑んだ。
「大変ねえ、あら…。じゃ、そちらの方がパートナーなのかしら? あなた名前は?」
 サリはぴくん、と構える――。なるかの方を一瞥してみたが、なるかはサリを振り返ろうとしていなかった。
「サリ、です……」
「まあ可愛らしい名前ですこと」
「この子が私になってるのね。まあ私もこの子もなりきれてないけど、帰れないようだったら、いずれなりきってみせるわ」
 なるかは顔に似合わぬ淡々とした口調で言う。腕組みが解かれて、両腕がウサイン・ボルトの決めポーズのように、弓矢を引いたようなポーズになる。
「カッキーーーン! ……ごめんなさいね突然。でも、まあ、こんな事も必要になるのよ」
「かっきーん? まあ、それってこの先の柿好きのお猿さんに見せておあげなさいよ、驚いて嬉しがって、きっとたあいへんよ? 柿くれるわよ」
 ワニは裂けた口を上品に保つ。
「あなた綺麗なお顔してるから、そういうの似合うわね。かっきーんでしたっけ? ちょっと…、どうやってやるのかしら、教えてくれるぅ?」
 サリは溜息を吐きながら二人のそばを離れる。――なるかは先程から、そうして自由な会話を楽しんでいるのであった。あくまでもこの時間は、帰る為のヒントを掴む為の物。サリは、なるかからそう説明されている。ならば互いに別れ、それぞれが別々に情報を集める方が効率的であろう。しかし、サリは十分も経たぬうちに、なるかのそばに戻ってきてしまっていたのであった。なるかもなるかで会話を楽しんでいる始末である。
 しかし、今また、こうしてサリはなるかから離れ、正面から歩いてくるリスのようなぬいぐるみに話しかける。
 気は進まないが、黙ってなるかのそばに立っているだけでは、なるかに怒られてしまう。
 サリは決心するかのように、そのリスのようなぬいぐるみの肩に手を掛けた。
 すぐに、ぬいぐるみは笑顔も作り、一秒間の間隔もなく口を開く。
「どうもう、ご機嫌いかがお過ごし?」
 サリは焦って言葉を用意する。
「あ、えー、とあ、元気です…。あ、そっちは?」
「考えてみなさい…。私は悲しそうな顔をしてる?」
 リスは顕在的に可愛い顔でサリを冷静に見据える。
「どんな顔に見えて?」
 サリは笑顔を心掛ける。
「あ、じゃあ元気なんだ?」
「あなた程じゃないわ」
「うん……」
 サリはわけもわからずに俯いた。
 この街のぬいぐるみ達は、なぜか会話が優しくなかった。どうしてかサリとは会話が弾まない。それどころか、尋ねたい事をきき出すまでに一苦労してしまう。
 サリは後ろを振り返ってみる……。そこでは、高い声を上げて笑っているなるかとワニの姿があった。
「話しかけておいてシカト?」
 サリはぐっと腹に力を入れて、笑顔を作ってからリスを振り返った。
「リスさんは、これからどこに行くの?」
 リスは迷いなく後ろに振り向いてから、露骨に顔をしかめて、またサリに顔を戻した。
「リスなんてどこにいる?」
 ぬいぐるみの表情は実に可愛らしくない。
「マイネームイズ、マングース……。リスはどこかしら?」
「マングースさんは……」
 サリはなんとかで笑顔を立て直す。
「えと、マングースさんは、これからどこに行くの?」
「またシカト?」
 サリの顔から完全に笑顔が消えた……。
「間違えたんだもん………」
「故意的に? それとも不可抗力?」
 マングースは息遣いが荒い。
「何で答えないの? それは故意と受け取っていいのね?」
「何言ってるのか、わかんないもん……」
 サリは、胸に走った暗い感情の痛みを、必死で堪える。
「わざとじゃないから……。ごめんなさい」
 マングースはサリの顔をまじまじと観察した後で、『初めっからそう言えばいいじゃん』と小声で呟いた。
 サリはマングースの頭を、ボコン、と叩いた。
「きゃあ!」
 ボコン、ボコン、と無表情で叩いてから、サリは全速力で後ろへと走っていく……。
 先程も、サリは同じように通行人のぬいぐるみをボコン、ボコンして、なるかの近くに走ったのであった。それから会話をあきらめて、時間を潰していたのである。
 数メートル離れた場所から、マングースが脚音を怒らせて三人の横を通り過ぎていった。サリはなるかの身体をうまく使い、なるかを柱のようにしてマングースをやり過ごしていた。
「またケンカしたの? ちょっと…、触らないでよ?」
 なるかは呆れてサリを睨む。
「サリちゃん…。本当に聞く気ある?」
 サリは弱った眼つきで何も答えない。狼(おおかみ)に睨まれたキツネのようである。
「この子が使えないわけね、なんとなくわかるわ」
 ワニが言った。
「置いてっちゃったら?」
 サリは無言でワニの頭を、ボコン、と凹ました。
「ぎぃゃあ!」
 サリは続いて、ボコン、ボコン、とワニの頭を凹まし、また急いでなるかの影に隠れた。
 サリは、弱った顔でなるかの背中からちょこん、とワニの顔を真剣に覗く……。
「あんた……。いいわ」
 なるかは疲れた表情で、ワニに向き直す。
「もう行ってちょうだい。悪かったわね、忘れて」
 ワニは悲愴な顔でサリに何度か文句を吐き捨ててから、それから間もなく、脚音を怒らせながら退散していった。
「なんで手を出すのよ…、あなたは……」
 なるかは腕を組んでサリを振り返る。
「そういう人なの?」
 サリは、弱った顔のままで呆然としている。
「あなた…、ちょっと危ないわよ?」
「悪口、言った……」
 キツネ眼をぱちつかせながら、サリが声を出す。
「みんな、だって意地悪するんだもん……。え、だって……、さっきのマングースだって、あ、の、私、何もしてないのに、かってに怒ってきてさぁ」
「顔を叩かれたら誰だって怒るでしょう?」
「口じゃ勝てないもん」
「あなた……。じゃあサリちゃん、私とケンカしたら、私を殴るつもり?」
 なるかは腕組みのまま、肩をリラックスさせて、じっくりと訝しげにサリの顔を見つめる。
「これ、あなたの顔だけど、それでも殴るの?」
「殴んないよ……。んーなん、殴るわけないやん」
 サリはよくわからない顔で興奮する。
「ぬいぐるみだから、痛くないんでしょ、だから、……だよ。さっきカメレオンが痛くないって言ってきたもん」
「何人ぶん殴ったのよあんた」
 そう言われた後で、サリが両手を使って数え始めたので、なるかは困った顔で首を掻いた。
 二人の近くには絶えず住人である動物のぬいぐるみ達が行き交っている。こちらから話しかけぬ限り、ぬいぐるみ達には二人が空気に見えているらしかった。
「いい? この子達は、み~んな価値観を持ってるの」
 なるかはすぐ近くを歩いているペンギンのぬいぐるみを、手のはらを上に向けて指差した。顔はなるかに似合わず、笑顔がない。
「あのペンギンもそうよ、可愛い見た目は忘れなさいよ…この際。いい、考えてみて? みんなどこかへと目的を持って歩いてるのよ? 声をかけられて脚を止めるんだから、対等な話ができない人には不快感をいだくでしょう? 話しかけてきた人がもじもじやってたら、サリちゃんはどう? ――そうでしょう?でもこの子達は会話をするように設定されてるから、私達を無視できないの。怒らせたままなら悪口だって言われるのよ。……腹が立ったらもう話なんてしたくないでしょう? でもこの子達はそうはいかないのよ…。会話が続いてるようなら、ずっと話をするしかないの。わかるでしょう?」
 サリは、通り過ぎていったパンダを眺めながら頷いた。きゅうと細身がかった表情には、まだ幾らかの不安が感じ取れた。
「会話なんて簡単に成立するはずよ?」
 なるかは自分を見つめたサリに、頷いてみせる。
「楽しいぐらい。私、さっきだって楽しそうだったでしょう? ワニだって楽しそうだったじゃない」
「なんか……、サリちゃんに似てるんだけど……。あ、今はなるかちゃんか。うん…。なるかちゃんに似てる……」
 サリは地面を見つめる。
「何が?」
 なるかは深呼吸するように、鼻から息を吹き出して適当にきき返す。
「性格の事?」
 サリはもじもじと頷いた。
「私? …それとも、柿口さんって事?」
「そっち」
 サリは上目遣いで答えた。
「話し方とかが、なんか似てる気がする……」
「別にいいじゃない……。何か問題があるの?」
 そう言うと、なるかは感情的に、大きく整った瞳を細く歪めた。
「え、ちょっと待って……。それって、ちょっとぉ…。わざと何かを言いたいの?」
「ううん、…別に」
「ちょっと……、なんか傷ついてるんだけど私……。ねえ」
 なるかはサリに自分を見つめさせる。彼女の顔が自分に向けられると、なるかは、それからまたゆっくりと表情をしかめていった。
「わざと? ……。それとも、それって天然? ……私が性格悪い、みたいに聞こえるんだけど……。はあ?」
 サリはキツネ顔を困らせて、必死にあまり体験した事のない返答を探してみる。
「困ったらシカト?」
 なるかは器用に、顔の原型を消した。しかし、まだどこかに可愛さが残っている。ぬいぐるみと違い、彼女の原型は強かった。
「性格悪いって私に言って、それで何を得するの? はっきり言うからには理由か何かあるんでしょう? ねえそうでしょう?」
 サリは無表情でなるかを見る。
 顔が呆然としていた。
「ちょっと、」
 なるかは、一歩だけサリから離れる。
「殴ったら、絶交だからね……」
「殴らない殴らない」
 サリはふっと肩の力を抜いた。その瞬間に表情もはっきりと戻る。
「わかった。じゃあ~……、また別々に、帰りの方法、きいてみよ? あ、それとぉ…、私、悪口のつもりじゃないから。私なるかちゃんは好きだし。んふふ」
「ん~…、ならいいわ」
 なるかは笑わずに、右の口元を引き上げた。
「はい、仲直り…。私もこれからは不要な体力を極力削減するから。そうね……、じゃあ、これからは私もワープの事だけを聞くから、柿口さん……じゃなくて……、サリちゃんもそうしてね」
「はぁい」
 サリは周囲を窺って、頷いた。
「わかった」
「それじゃ、お互いが見える範囲で、始めましょ」
 なるかは辺りを見回した。動物のぬいぐるみ達は、前からも後ろからも歩いてくる。
「なるかちゃん……」
 サリが言った。
「ん?」
 なるかは振り返る。
「なに?」
「やっぱり帰りたいもんね」
 サリは微笑んでいた。
 なるかは、ぬいぐるみ達の方に顔を戻す。
「ええ」
「がんばって帰ろう?」
「うん……」
 なるかは前に歩き出す。
「一緒にね……。科学室のクーラーもつけっぱなしだし、早く帰らなくちゃ」
「うん! うふふ」

 サリは、なるだけ明るい笑顔を心掛けて、首を横に振った。
「じゃあなんで何も言わないわけ?」
 シマウマのぬいぐるみは興奮している。
「私がシマシマだからなめてる? 」
「そうじゃなくて、ただ、何を言おうかな、って迷ってただけだから」
 サリは笑顔を浮かべる。
「シマウマは可愛いと思うよ? あ、間違った…。シマシマは可愛いと思う」
「わざと間違った?」
 シマウマは大きな鼻から息を噴出する。大量の湿った二酸化炭素がサリの前髪を持ち上げた。
「シマウマは、とか言ったわね、あんた……。じゃあ馬はなんなのよ、私の価値はシマシマだけだって言うの? 私は列記とした馬なのよ? こんにゃろう……」
「ごめんなさい」
 サリは丁寧に頭を下げる。
「馬さんも好きだし、シマウマさんも好きなの、ほんと。今の、ただちょっと間違えただけ、です。ごめんなさい」
「もっと謝罪しなさいよ……」
「ごめんね」
 サリは微笑む。そして、また丁寧に頭を下げた。
「ごめんなさい……。もうしません…。んふふ」
「へらへらして…、何が楽しいわけ……」
 シマウマは強烈に顔をしかめて、『ぶるるるぅ!』と唇(くちびる)を震わせた。
 ぴちゃぴちゃぴちゃ、と、顔面にかかった唾に、サリはとっさに眼を瞑っていた。
「シマウマなめちゃダメよ? この街でシマウマって言えば、オシャレでクリスチャンで……」
 シマウマは、サリの顔をまじまじと見る。
「何よ……」
 ボコン、ボコン。

 なるかは顔をしかめた。
「危険なんじゃないの?」
「危険だからって、行かないわけにはいかないんだろう?」
 トラのぬいぐるみは表情を器用に豹変させながら言葉を続ける。
「帰るってのが…、ここじゃないんなら…、そ~んな世界と繋がっていそうな場所なんて、異世界しかないもんな」
 トラがその身体を方向転換しそうだったので、なるかは次の言葉を急いだ。
 一切の風が吹かぬぬいぐるみの街に、ガサリ……と、植物の崩れる音がすぐ近くからしていた。
「行っても……、だってウサギがいるんじゃないの?」
 なるかは眉間を顰めてトラに言う。隣に葉っぱのクッキーを食べているサリが並んだ。しかし、なるかはサリを一瞥しただけで、次の言葉を急いだ。
「そこには凶悪なウサギがいるんでしょう? 人を消してしまうって、違う国で聞いたわ……」
 サリは残りの葉っぱを口の中に入れて、トラの顔を呆然と見た。
 トラは真顔で腕を組んでいる。
「噂だろう? 人を消すウサギなんて、俺なら信じないけどな」
 トラはサリを一瞥する。
「キツネさんも信じないだろう?」
「ど~こがキツネだってんのよこのトラこうっ!」
 どうしてか、なるかが興奮した。
 トラは猛烈に顔をしかめて、なるかを威嚇(いかく)している。
「……ふぅー。キツネじゃないじゃない」
 なるかは苦笑し、トラに可愛らしい笑顔を振りまいて、会話をやり直した。
「だってこの子…、超可愛いでしょどう見たって…。でしょ? どこがキツネ? 絶対違うじゃん…、ふふ、変なトラさんね~」
「顔が似てるんでしょ?」
 サリは自分の顔を指差す。
「しばき倒すわよあんた!」
 なるかが必死だったので、サリは何だかわからないが、笑った。
「違うよ、なんだよさっきから……」
 トラは不機嫌に喉を唸らしてなるかを睨んだ。太い指先の爪は、サリの顔を指差している。
「キツネはこっち……。別に、あんたは可愛いよ。こっちの顔をキツネって言ったんだ。なんであんたが騒ぐんだよ、あんたは可愛いって」
 なるかはトラの顔を両手でがっしりと掴んだ。
「んむぶぅ!」
 トラは驚いている。
「ん……むぅむぐぅ!」
 なるかは両手で、トラの顔をせんべえのように潰している。
「やわらかいのね……」
 なるかの顔に感情はなかった。あえていうならば、面倒臭そうにトラの顔を凹ましている。
 行動の設定が施されていない為、トラはその間、ずっと悲鳴を上げているだけであった。
 程よくそれにサリが大笑いした後で、二人は不愉快そうに帰っていったトラを笑顔で見送った。
 名残惜しい街を、再度、眼に焼きつけるようにして、二人は歩く。擦れ違うぬいぐるみ達に声をかける事なく、二人はまっすぐに砂糖で造られている土の上を歩いた。
 向かう先は、始まりの街――。そこに戻るまでに、ワープ現象が起こらなければ……。
 次に向かう先は、この世界の住人に『異世界』と呼ばれた、最後の国になる。
 それは部長が具現化した国である。
「お腹壊すわよ…。葉っぱなんて、美味しかったの?」
「あー意外と? 美味しかったかもーんふふ。甘かった」
「ふぅ~ん……。お土産に、持って帰れたらいいのに」
「あー、ねー!」
 それは、冒険家がこぞって訪れる、陽の光が存在しない国。
 始まりの街から延びた、急激に黒ずんだ大地。
 それは最果ての土地。
「絶対に誰にも話しかけちゃダメよ?」
 なるかは、行きがけに取ったクッキーの葉っぱを口に入れながら言う。
「ウサギにも、街の人間にも、絶対に話しかけちゃダメ」
「ほ~い」
 サリは小さく手を上げた。
「うふふ、あのさ、でも、始まりの街に行ったら、洋服屋さんにちょっと寄り道しようね?」
「着替えなんてたぶん無理よ?」
「見るだけ。アニメのコスとか、あるかもしれないし」
「まあ…、いいわ」
 その国に入国したならば、武器を装備しなければならない。
 その街で会話とされるそれは、全て強さの象徴である。

 部長の国。――弱者が脚を踏み入れてはならない街。眼を逸らしてはいけない街。気を抜いてはいけない街。
 異世界と呼ばれる暗黒の大地。多くの事柄は不明とされている。国々を代表する腕自慢の冒険者達が集まっている。冒険者達との会話により、多数のイベントが発生する。
 イベントが発生した場合、それを消化するまでは、全てのコマンドは一時停止される。その間は、ゲーム世界の何処へ行こうとも、誰とも会話を楽しむ事はできない。
 モンスターの退治を志(こころざ)す冒険者達は、誰もが武具を装備している。その国に入国するからには、誰もが同じく武具を装備する必要がある。
 狂ったウサギと、出逢ってはいけない。

       12

 ~部長の国~

 始まりの街から、はや十五分といったところで、すぐに始まりの街は見えなくなった。脚を踏み入れたそこは黒土の大地であり、三次元空間を麻痺させる漆黒の空気が取り巻いている。
 浮かび上がった景色はどれも建物であった。空はなく、大地だけが黒い土であると知覚する事が叶う。建物はどれも年季の入った城を小さく造り直したような物ばかりである。植物も風景もなく、黒い空間に、ただ黒い土があり、そこに小さな城のような建物が建っている。
 村人と思われる住人はいた。しかしそれは村人ではない。住人でもない。そこには集落(しゅうらく)がなかった。そこにいる全ての者は、己が武勇を信ずる兵(つわもの)どもである。
 サリの右手には長身の剣が持たれていた。鋭く見える刃渡りは一メートルはある。柄(つか)の部分は大きくて持ちづらく、柄と刃を分かつ部分には美しく繊細で派手な装飾が施されていた。植物の葉のように広がっているそれは、相手の攻撃から手を守る為の物であった。
 サリは入国すると同時にいつの間にか掴んでいたそれを、今は引きずって歩いている。重さは綿菓子(わたがし)程度の重さでしかなかった。
 なるかの左手には盾(たて)が持たれていた。野球のホームベースを縦長にしたような形体の盾であった。大きさはサリの剣と同じく、一メートルはある。背を屈(かが)めれば楽々と大人一人分は身を隠せるだけの大きさがあった。
 なるかもそれを引きずって歩いている。重さは、やはり飴玉程度のものであった。
「ねーこれさぁー……、捨てちゃダメなのかなぁ~……」
 サリはぐずった顔でぐずった事を言う。
「別にさぁ~……使わなくない?」
「ウサギ対策よ」
 なるかは真剣に周囲を見回している。
「どこから襲いかかってくるのか、わかったもんじゃないわ……」
「ウサギが見えたら逃げればいいんじゃ……」
「簡単に言わないで」
 なるかは周囲を見回したままで、厳しく顔をしかめた。
「本気で私があなたを追いかけたら、そう簡単には逃がさないわよ」
「えー、だってさぁー……」
 サリは剣を見つめながら、それを持ち上げた。
「これ使わないよねぇ? ……別に、だって、ウサギとは戦わないんでしょ?」
「……」
 なるかは脚を止めて、盾を見た。
「それもそうね……」
 盾は捨てて、剣だけを持ち歩く事にした。
 サリの剣はなるかが持つ事になった。
「レベルとか、上がるのかしら……」
「何それ?」
 サリは可笑しそうに笑った。
「んふふ、なんのレベル?」
「なんの……。あぁ、なんのレベルなのかしらね」
 なるかは両手で剣を掴み、それを観察しながら歩く。
「戦うゲームにあるのよ。年齢とは別に、もう一つ数字を持たされるの。そのレベルが低いと、なになに斬りぃ~…とか、できないから、強い敵には勝てないの。殺されちゃうのよ」
「それは知ってるけど、えぇ~~……」
 サリは渋くなるかの横顔を見た。
「殺されるとか、残酷すぎる……」
「ええ、そうね。野蛮には違いないわ」
 なるかは片手で剣を素振りし、勇ましい笑顔でサリに頷いた。
「レベルがあったら、サリちゃんは武道家よ。私はぁ~……さしずめ、勇者っ…て、ところかしらね。んふ、サリのつるぎ、なんちゃって」
「なるかでしょ?」
 サリはにこりと微笑む。
「なるかのつるぎ」
「そうだったわね」
 なるかもにっこりと微笑む。
「十字架斬りぃ…なんて、できるなら、少し男の子達の気持ちもわかるかも」
「キツネ斬りぃ」
「どんな技よあんたっ!」
 二人はゆっくりとした歩調を保ったまま、漆黒に染められている周囲の景色をまじまじと見物していた。
 そこには武具を装備した冒険者達の姿がある。珍しい事に、中には冒険者同士で力自慢の会話を楽しんでいる者達もいた。
 ここに来てからは、どうしてかピコピコという脚音が少し弱くなっていた。――それは、轟轟(ごうごう)と周囲に唸っている風の音がそうさせているのかもしれない。
 サリは冒険者達の事をまじまじと観察していた。強そうな事を楽しげに語っているが、その見た目は実に可愛らしい。
 いい匂いを香らせているバームクーヘンの戦士。大笑いで腕組みをしているマカロンの武道家。どっしりとした鎧を身につけて地図を開いている犬のぬいぐるみ。どの冒険者もつぶらな瞳と口があった。
「へえぇ……、ふふ」
 サリは呟く。
「本当にみんな強いのかな?」
 横を振り返ってみると、そこになるかはいなかった。
「え?」
 すぐに後ろを振り返ってみると、そこになるかの姿があった。
「あ、いた……」
 なるかは真横を向いたままで、近くに立っているぬいぐるみの戦士をじっと見つめているようであった。
 サリはその場でなるかに声を上げる。
「なるかちゃ~~ん、どうしたの~~?」
 ふとサリの方に振り返ったなるかは、サリに声を返す事なく、そのままでピコピコと脚音を立ててサリの元へと小走りを始めた。
「どうしたの?」
 サリがそう質問した時、サリの後ろから低い声が言った。
「よお、お前さん」
 サリは振り返る。
「はい?」
「わっ、おバカっ!」
 なるかが到着した時には、もうすでに遅かった。サリはゾウのぬいぐるみと会話をしてしまっていた。
「なんでしゃべんのよっ!」
 なるかは強烈な勢いでサリに怒鳴った。
「プログラムが働いちゃうじゃないの! なんであんたはそうやすやすとゲームの罠にひっかかるのよっ!」
「お前さん達は、どこの国から来たんだい?」
 サリはどちらに答えようかとおろおろしていた。ゾウと言葉を交わしてしまった罪悪感もしっかりと表情に浮かび上がっている。
「もう……しゃべんないとダメ。このままじゃ、誰にも、何も聞けないわ」
 なるかは潔(いさぎよ)い笑顔で、仕方がなく、ゾウの戦士と向き合った。
「始まりの街からよ」
 サリは『ごめんね』と小さく呟いた。なるかはゾウの言葉に意識を集中させている為、その謝罪には最高の笑顔で素早く対応していた。
 ゾウは一方的にしゃべっている。
「俺はサリの国から来たんだよ。国では一番の力自慢だった。ここでもきっとそうだぞう」
 ゾウは小さな瞳で、その手に持った剣を高々と持ち上げて見つめた。可愛らしい黒目の端に、剥き出した白目が微かにのぞいていた。
「こおんな物を使わなくたって、俺はこの鼻さえあれば何でも来いなんだあ。大木を握り潰した事もあるぞう」
「かってに人の街を壊して……」
「んふふ、クッキーの木だ」
「本当はこんな剣、捨てたってかまわないのさ。でも、ここは絶対に必要になるよな?」
「そうね」
 なるかは、待っていたかのように答えた。
「さっきも、そこで犬さんが素振りしていたわ。ファイヤ~と言いながら、火は出ていなかったけど」
「技の練習かい?」
「そうみたい」
 サリはなんとなくゾウのぬいぐるみを見つめてから、なるかを見つめた。しかし、なるかはそれ以上何も言おうとしていかった。必要以上の言葉は返さないつもりらしい。
 サリはぎゅ、と口のチャックをしめた。しゃべればしゃべっただけ、しなくてはいけない事が増えてしまう気がする。
「武器もないよりはマシなのさ。大事な家具を売っぱらって剣を手に入れる奴もいるぐらいだぞう。お前さんも、やっとで手に入れたんだろう?」
「そうよ」
「………」
 轟(ごう)、轟(ごう)、轟(ごう)と、やけに大袈裟な風が吹いている。身体には何も感じないが、そこにはしっかりと風が吹いているような音がしていた。その為、ゾウの声もたまに小さく聞こえる。
 サリは周囲をぐるり――、と見回してみる……。
 轟、轟、と吹いている風……。それは、吹いていない。
 風ではないのかもしれない。
 では、この音は、一体何なのだろうか――。
 空から、大地から、それは何処から聞こえているのだろうか……。
「この国で英雄になるんだから、こおんな武器でも、ないよりはマシさ。そう思うだろう?」
「ええ、思うわ」
「俺の銅像が建つ時、剣ぐらい持ってたほうがっっ――」
「あー…、あーはいはい、あわかった!」
「きぃゃあ‼」
 サリは大喜びでなるかを振り返った。
 しかし、そのまま、一瞬のうちに、
 サリはゾウの方を振り返っていた……。
 なるかの突発的な悲鳴が響いている――。
「…っっ……っ……」
 サリは絶句して、細い眼を全開にしてそれを垣間見る――。

 「ひっひっひっひっひ」

「ああぁ……た、助け、…て……」

 ドボ~ン♪

「わああ!」
「っきゃあ!」
 サリは地面に激しく手をついた。――なるかがサリの腕を掴んできて、そのまま両者共、ベーゴマのように大地に弾き飛んだのであった。
「柿口さんっ」
 意識が朦朧(もうろう)としている中、なるかの激しい声に、サリは必死で顔を向けた……。
「何してるの逃げてぇっ」
 逃げる……。
 逃げる?
 そっか。
 逃げなくちゃ……。
「ウサギよぉっ‼」
 次の瞬間、サリは猛烈な勢いで後方へと駆け出していた。

 狂ったウサギと、出逢ってはいけない。

 少し前を、赤いスカートを上下させながら、なるかが走っている。
 振り返る事もなく、サリはその全力疾走の中で、その瞬間を鮮明に思い出そうとしていた。

 『ああぁ……た、助け、…て……』

 恐怖に怯えたゾウの瞳を思い出す……。彼は、身動き一つ取れずに、脚元からゆっくりと、――とけていた。

 ピコピコピコピコ。
 ピコピコピコピコ。

「始まりの街まで走ってぇ!」
 なるかは全力疾走の中で大声を叫んだ。
「映画なんかでよくあるのぉ!」
「えぇ?」
 サリも全力疾走の中で、強烈に声を叫び返していた。
 黒い街に滞在していた兵(つわもの)どもが、蜘蛛(くも)の子を散らしたように逃げ惑う景色……。
 今までに体験した、どんな恐れとも、それは違っていた。
 どこか狂っている笑い声が、自分達の背中を、嚙みちぎろうとしている。
「ゲームの中で殺された人はっ」
「…っ……」

 「ひっひっひっひっひ」

「元の世界には帰れないのよぉっ‼」
 周囲に響き渡る悲鳴が狂っている。
 それは点々と聞こえている。
 そして、点々と聞こえる死の鳴き声の中を、それが泳いでいるようであった。
 まるで楽しくて楽しくて、死んでしまいそうな程、それは狂っている。
 発狂した、呪いの笑い声。
 その恐怖は瞬間移動でもしているのか、周囲のあらゆる場所にその笑い声を響かせている。
 胸が破けてしまいそうな恐怖。――サリは呼吸を止めた全力疾走の途中で、自分の後ろ、その光景を振り返ってみた――。
 前方に誰の姿もなくなった時、ようやく、始まりの街に辿り着くのだと、サリは強く意識に木霊させる。黒い黒い黒いそこを、そのまま全力疾走で駆け抜ければ、太陽光に常に包まれた優しい街が待っている。
 ウサギは、大きく左右に首を振りしきっていた。
 まるで何かに絶叫しているような、過剰すぎる恐怖を満面に浮かべ上げて、ウサギは大声で笑い狂っているのであった。
 一歩ごとに高く跳ね上がり、宙を駆ける幅跳びの選手のようにもがいては着地し、狂った笑気を叫び上げながら、ジグザグに壮絶なスピードで冒険者達の肩に指を触れていく……。
 風の抵抗でその大きな耳ははたはたと揺れ、笑い声に感化されているような首は、今にも弾け飛びそうに左右に振り子されている。
 皆がとけていく……。
 悲鳴と無念を呻(うめ)く鳴き声はやがて嗄(か)れ、
 狂った狂気が大きく笑い、
 そこは、ウサギに消されてしまう……。
「サリちゃあぁあああ~~っん‼」

 暗闇の土を抜ける瞬間、サリであった少女の身体は、眩い閃光に包まれて、
 なるかになった……。

 サリであったなるかは泣き声を大きく張り上げて、その脚を走らせる。
 加速した景色に、その声が鮮明に耳を支配していた。

「誘ったのは、わ、私達だから………。逃げて、柿口さん……」

 がたがたと肩に震えを走らせながら脚を止めていたなるかの身体に、眩い閃光の塊が脚元から渦を巻いて包み込んでんでいく……。

「ダメ走ってぇぇサリちゃあぁぁぁんっ‼」

 サリであったなるかは、眼尻に涙をこぼし、その暗闇を走り抜ける――。

 ――なるかであった少女の身体は、サリになった。

「主よ………どうか、神のご加護を……。生きてね、柿口さん……」

 「ひっひっひいぃぃぃ」

 サリは大きく剣を振りかぶり、狂ったウサギへと、飛び込んでいった――。

 瞼(まぶた)を覆(おお)う、とても強力な真昼の光線であった。――なるかの脚取りは、瞬間的にスピードを落としていった。何も変わらない風景がある。
 和やかなそれは、自分が夢見ていたそれに近い。
 この、一寸先で、自分達に何が起こったのか、そこはそれを考えもしないのであろう。
 赤い煉瓦細工の家々を見つめていた。
 泣く事をやめようとしない感情が、激しく暴れ回り、乱れきった息遣いを整えさせてくれない。
 水の流れる音が聞こえる……。なるかは、空間を真っ二つに割っている、その黒一色の空気を見つめた。
 サリの声が、聞こえない。
 サリの姿が、帰ってこない。
 優柔不断に壊れてしまった感情は、想像を絶する恐怖と、脳細胞を破壊する混乱と、そして、大事な友を残してきた事実を見つめている。
 最も凶暴に強い感情が、なるかの頬に、一雫(ひとしずく)だけ、それを流させていた。
「ウサギ………」
 始まりの街には、平和な雑踏が鳴り響いていた。
「ウサギぃぃぃ………」
 なるかは、そこをまっすぐに歩く。
 暗闇の瞬間に、一瞬だけ瞳を瞑り、その涙を流させる……。
 そして、なるかは眼を開いた。
「ウサギぃぃ………、サリちゃん……、……返してよ」

 「ひっひっひっひっひ」

 真っ赤な眼をしたウサギの手には、あの、大きく美しい、剣が握られていた。

 「ひっひっひっひっひ」

 轟、轟、とした音が、更に大きく耳に木霊していた。今はウサギの狂った笑い声がそれを邪魔し、耳に反響しようとしている。
 なるかはごしごしと眼をこすりながら、ぐずぐずと泣いて、その黒い土をとぼとぼと歩いていた。
 もう、そこには誰もいなかった。
 兵(つわもの)どもの姿はなく、周囲には建物だけの存在感しかない。漆黒に染まる空間に、洋服を着ていない、白い毛皮のウサギだけが激しく笑い狂っている。
 サリの姿はなかった――。絶叫に笑い狂っているウサギが、サリの握っていた剣を持っている。
 轟、轟、轟………。竜巻のような喧騒が、今度は、ウサギの笑い声を、掻き消そうとしていた。
 なるかはウサギの眼の前で歩く事をやめた……。

 「ひっひっひっひっひ」

 ウサギの首は連続して左右に振られている。それはちぎれてしまいそうに激しく、恐ろしい。悍(おぞ)ましい振り子は、なるかの事を間近で見下ろしている。
 凝結した、充血の眼(まなこ)。頭部にまでむきあげられた、裂けた口が笑っている。

 「ひぃあ~っはっひっひっひ」

「サリちゃんを、返してよ………、バカっ………」
 なるかは弱く弱く、弱く、泣きながら。――ウサギの頬をはたいた……。

 轟、轟、轟。

 ウサギの頬を叩いた腕は、そのままで固まったようであった……。脚も、身体も、動かない。
 なるかは下に顔を俯けたまま、片手で瞳をこすっている。その泣いたままの姿で。
 ウサギの笑い声を聞いていた……。

 轟、轟、轟。

 水になっていく夢を見た。
 それはとても純粋で、気持ちがいい。身体の芯から広がる冷気の浸透感がたまらない。
 自分は水になって、土の中に吸い込まれていく、それがとても当たり前の事に思えた。
 轟、轟、が唸っているのだから、ウサギの声も聞こえなかった。

 今はもう、水になったのだから、何も関係がない。これから土の世界へ旅立って、身体中で駆け巡らなければならない。
 自由に飛び回って、冷たい浸透感をいっぱいに満喫する。心地良いだろう。それは、もう、すぐにはじまる。
 あと少し、それで、じぶんは完全な水になることができる。
 そう、水になれる………。

 ごう、ごう、ごう。

 わたしは、みずに、なった………。

       13

「保健室?」
 サリは強烈に顔をしかめた。
「そんな、……保健室になんて行ったら、逆に怪しまれちゃうじゃない」
「どうします?」
 メガキンは部長の顔を見上げる。
 部長はずっと腕組みをしたままで、なるかの眼の前にあるパソコンの起動画面を睨んでいた。
 そこには、始まりの街でピコピコと脚踏みをしている『NA』と『SA』がいる。
「やっぱり……、このゲーム、危険だな」
「そっすね」
 村瀬が、寝ているなるかを心配そうに覗いてから、部長に頷いた。
「今日で、異世界は終わりにしましょう……」
 フトルはそれを確認するようにしてから、マウスをクリックし、そのゲーム画面を強制終了させた。
「なんで起きないんだろ……」
 メガキンはまた、その声を張り上げる。
「柿口さん! …柿口さん!」
「なるか君!」
「おい、柿口!」
 フトルも村瀬も、その声を再開させた。
 なるかがぱっちり――と、何の前触れもなく、眼を開けた。
 その時、部長と村瀬とフトルが声を合わせて『おおお~』と声を漏(も)らしていた。
「ちょっと、柿口さん」
 サリは心配そうに顔をしかめて、なるかに身を寄せた。
「大丈夫? 気分は悪くない?」
「あ………」
 サリはなるかの額(ひたい)に手を当てて、もう片方の手で己の額の体温をはかってみた。
「熱は…ないわね。大丈夫?」
「ゲームでまたワープしてたんだ」
 部長が言った。
「あ、…声、……聞こえてました」
 なるかはにこり、と皆に笑った。
 皆は驚きの顔と声を単発に返していた。なるかはにこりと微笑んでから、もう一つ、皆に頷いてみせた。
 異常に高揚(こうよう)している感情が、頬を笑わせて、何から何をどうしたらいいのか、全くわからない状態であった。
 まずは、猛烈な肌寒さを感じて、腕をこすった。半袖の夏シャツから覗いているなるかの腕には、鳥肌が立っていた。
 周囲は完全な科学室であった。そこは、もう科学室のパソコンの席であった。
 なるかはそこに着席している。己の前にあるパソコンは、画面を終了させる準備をされていて、部活仲間の仲良し五人組が、ざわざわとなるかの周りを囲っていた。
 室内は冷房でギンギンに冷やされている。
「これぇ…、原因って、ヘッドホンかなあ?」
「ヘルメットだろ」
「うん、確かに、ヘルメットには接触不良あるよね」
 フトルと村瀬とメガキン、三人は揃って難しい顔をし、異世界の超常現象(トリップ)についてを話し合っていた。
 なるかは身体中に浸透するような冷房の冷たさを、腕をこする事で紛らわせた。そして、その消えようとしない微笑みのままで、なるかは部長に言う。
「台風みたいに聞こえてました。えへへ」
「?」
 部長は少し考えて、きいた。
「あ、声か?」
「はい」
 なるかは笑顔で頷いた。
「気分は?」
 サリが矢継ぎ早になるかに尋ねる。
「大丈夫なの?」
「んへへぇ、うん。大丈夫。んふふ」
 なるかは溢れんばかりの笑顔で、サリを見上げた。
「そっちは? 大丈夫だったんだ?」
「ええ、大丈夫だったわ」
 サリは苦笑した。
 なるかの心に、じんわりと、耐え切れぬ感情の大波が押し寄せた……。
「サリちゃ~ん!」
 なるかは椅子を跳ね飛ばして、サリの胸に飛び込んだ――。後ろにいたメガキンが椅子の暴走に巻き込まれている。
「やだ、何よ?」
「大好きい」
「なに? この子ったら……」
 サリは真っ赤に赤面しながら、部長の顔を窺う。近くでは『NO!』と脚を抱えて叫ぶメガキンを、村瀬とフトルが笑っていた。
「ありがとう!」
 なるかはサリに抱きついたままで言う。
「だ~い好きぃ!」
「ちょっと……、もう」
 サリは部長に赤面を向けて、苦笑していた。
「どうしたのかしら…、こらっ、ちょっとよしなさいったら」
「二人で帰ってきたんだ…。うん、わかるよ」
 部長はにこやかにそう言うと、その表情を少しだけ険しくして、自分に顔を向けていた村瀬に言う。
「ここに六人が集まったのはいい偶然だった。異世界は………、破棄しよう」

 科学室を出る時、なるかは水になった事を思い出していた。随分と変わった夢であった。
 しかし、それはよくある事で、おそらくは、冷房に冷やされた身体が、そんな変わった夢を見させたのであろう。夢が持つ特有の納得感があった。
 そして、もう二度と、あの科学室で異世界を体験する事はない。――と、なるかはそれを納得する。
 少しだけ、それが寂しい事に感じた。水になってしまった自分は、もうあの世界には戻れなくなったのだ。と、そんな気がしていた。
 なるかは職員室に鍵を返しに行って、下駄箱で待つ五人に『なんにも聞かれませんでした』と笑った。五人はその報告に、尊敬の驚きを揃って上げていた。
 学校鞄を持たない六人は、それから間もなくして校門を出る。夏の木々に揺らされた枝葉が、心地の良い不規則なリズムを奏でている。
 なるかはそれを、胸いっぱいに吸い込んだ。
 淋しい匂いではなかった。そこに吹いている風の匂いは、少しだけ懐かしい、と、そんな気にさせてくれる爽やかな風の匂いであった。
 夏指定の半袖シャツ。そんな制服姿の六人組は、室内での秘密を捨て、初めてとなる外での合同での行動に、ゲームセンターへと脚を進めていた。前の方を四人の男子部員達が歩き、その少し後ろを、二人の女子部員が歩いていた。
 ミインと鳴くセミの声が興奮している。駅へと向かう閑静な住宅街の景色はそれ一色で賑わい、家々がいっぱいに汗をかいているようにも感じられた。照りつける太陽の日差しに、街のあらゆる風景は日影をつくり、風で揺れる全ての物が爽やかで気持ちがいい。
 フトルがアイスを買うと言って、また三人に大笑いされていた。ゲームセンターへと向かう六人の脚取りは、その真夏の陽気のようにとても清々しくテンションを上げている。
「んふ、ウサギにさわったから、消えたのかなぁ?」
 なるかはにこにこと声を弾ませる。冷房の後の外の気温は、爽快以外の何物でもなかった。
「あ、でもさぁー、なんか、あれ、心がちゃんとさあ、その人になってないと帰れない、みたいな事言ってなかった?」
「そうね」
 サリは微笑んだままで答えた。
「ねぇ~何がなんだかわっかんないよね? あはは」
 なるかは上機嫌であった。
「服の色がさあ、急に、え、青から赤に? って、急に変わったからさぁ、あ、なんか変わった、戻ったかも、て一瞬で思ったよね。あだからさぁ、あのままウサギにさわんなくてもさぁ、たぶんうちら帰ってこれてたよね?」
 サリはくすくすと笑みをこぼして聞いていた。
「あ…、でもぉやっぱりぃ……」
 なるかはくるっと、サリを見て微笑んだ。
「ウサギが消すって、サリちゃんの街で聞いたもんねぇ? あぁ~…じゃあ、やっぱり、ウサギで帰ってこれたのかなぁ~……」
「いいわねぇ~…」
 サリは悔しそうに言った。
「私も五分でいいから、理想の街で遊んでみたかったなぁ」
 なるかはくすりと笑った。
「クッション、食べちゃってごめんね。うふふ、お腹、すいてたから。んふふ」
「ふふふ、どういう謝罪なのよ、それ」
「あっはは」
「クッションを食べたの?」
 サリは細い眼を糸にしてなるかを見た。
「んっふ。それで、私はなんて言ってた?」
「……あ、なんて言ったんだっけ?」
 なるかは小首を傾げた。
「私は知らないわよ」
 サリは苦笑する。
 なるかは歩いていた脚を止めて、不思議そうに振り返ったサリに、視線を凝視させた。
 セミの鳴き声が、ミイン、ミイン、と夏の光線をいっそう際立たせていた。
 サリは眩しそうに、こちらに振り返っている。
「どうしたの?」
「なるかちゃん……」
「え?」
「………」
 なるかは、サリの隣に急いで並んだ。
「何も憶えてないの?」
 また、二人は歩き始める。――少し先を行ったところでは、四人の滅裂な歌声がエコ問題を明るくラップしていた。
「え、何も憶えてない?」
 なるかは必死になっていた。
「な~に言ってんの、まさかとは思ったけど……」
 サリは更に、落ち着いた苦笑でなるかに微笑んだ。
「あれはヘルメットの故障で、少しだけ眩暈(めまい)がしたり、気が遠くなったりしてるの。柿口さんはそれに敏感だったのよ。寝てたの、……気絶か」
 サリはなるかに微笑んでいる。――その当たり前のような微笑みに、なるかは急激である不安を、もう受け入れようとしていた。
 それは、やはり儚(はかな)い夢だったのであろうか……。
「でも、向こうでは、ちゃんと私になったんでしょ?」
 サリが機嫌良さそうに言った。
 なるかは、サリに顔を向ける。
「え?」
 自分をにこやかに見つめていたサリに、なるかは、気持ちを慰(なぐさ)めるように、頷いた。
「うん……」
「信じるわ」
 サリは優しく言った。
「柿口さんが異世界を好きだって事も、私と旅をしたって事も…。そんなに真剣になって、嘘なんか誰もつかないもん」
「うん」
 なるかは、頷いた。
 どうしようもなく、じわっと沁みる、胸が張り裂けそうな温かな快感を感じていた。――それは間違う事もなく、人生で初めて体験する、果てしない大冒険だった。
 驚きの連続で、計り知れない程に楽しくって、それはとてもとても恐ろしかった。
 いつも時も、隣にいてくれたよね。あんなに楽しかったのも、不思議だったのも、怖かったのも、初めてだよ。理想の国々を巡る旅の中で、お互いを交換したんだよね。まるで、それは誰にも信じられないぐらい、嘘みたいな本当の、夢の中の物語。
 旅をしたよね。ずっと隣を歩いてくれたよね。いつも怒ってばっかりで。腹を立ててばっかりで。気性が荒くって。気難しくって。怒られてばっかりの私を、命を懸けて守ろうとして………――。
 どうして?
 へまばっかりしてたのに。
 いう事もきかなかったよね。
 ごめんね。
 ありがとう。
 命を懸けた私達の大冒険は、私が見ただけの、ただの夢だったのか……。
 それでもね。
 楽しかったんだ。
 サリちゃん。
 大好きだよ。
「何度も…、何度もね……、サリちゃんには、……ううん。なるかちゃんには、叱られたの……。それでも、私を…、許してくれて」
「叱るでしょうねぇ……。あなたと冒険するんなら、そりゃ一度や二度と言わずに、叱るタイミングは多いはずよ」
「また叱って……」
 なるかは、涙ぐんで、微笑んだ。
「何よそれ……」
「ちゃんと叱って」
「えぇ?」
「素直に聞けるから」
 ぽろり――と、なるかの瞳から、大粒の涙が落ちていった。
「何よ、それ……。ふふ、わかったわ。叱ってあげる」
「んふふふ」
 住宅街を歩く時間、その時間の中だけは、確かに、瞬間瞬間を使って、自分の何かが、学校へとサリを誘ったあの時間を間近に感じさせている。それから、すぐに学校内の時間、科学室の時間。――そして、今の時間に繋がっている。
 あの世界、あの国々で過ごした時間は、何日間だったのか、それとも何時間だったのか。それは全く考える余地もない。一体それがどんな体験で、どんな感覚であったのかという事だけを覚えている。
 サリになっていた、異世界の体験……。
 それは科学室への帰還で、ほんの数分であった事がわかった。始めから、すぐに自分達は気絶してしまい、そして、部長達が来てくれた。
 サリが眼を覚まし、自分が次に眼を覚ました。
 サリが行き、自分が行った。
 自分はサリで、彼女はなるかであった。
 なるかがいて、自分がいたのであった……。
「楽しかった……ね?」
 なるかの瞳には、笑顔と一緒に、涙が浮かんでいた。
「……。ええ」
 サリは戸惑った表情をやめ、なるかに、そう、優しい微笑みを返した。
「怖かったねぇ~……っふふ」
 なるかはごしごしと、滲んだ涙を手でこすった。
「すっっっごい…、楽しかった……。でも、ちょっとだけ、ふふん、怖かったんだよ?」
「ええ」
 サリはなるかに頷いた。
「そうでしょうね。聞かせて」
 なるかは大きく頷き、満面の笑みで、何からサリに話そうかと、とても不思議であったあの時間の事を考え始めた。
 少しだけ寂しい気持ちは何処かへと隠れてしまい、それは、サリの笑顔と、夏の象徴的なミイン、ミイン、の鳴き声で水色に透き通った。
 自分が隣で微笑んでいる。
 自分も、自分に微笑んでいるのであった。
 それが自分であったのだと、隣の自分は何も知らない。
 爽やかな夏休みの一日目。ゲームセンターへと向かうなるかの脚取りは、もう、それを素直に受け入れていた。

「あ~あっちぃ……。ゲーセンにジュースってあったっけ?」
「心配するとこが違うんだよお前は~」
「この場合は先生の見回りだよ」
「ははは、販売機があるよ、たぶん」

 今は、これから六人で向かう新しい一日(いせかい)が、楽しいのであった。

「あのねえ、ソフトクリームの子とか、あのぉー、あのね、ショートケーキちゃんとかがいてえ」
「うん、うふふ」

「お~い、女だけで別行動すんなよな~」
「置いてきますよ~」
「部長がアイスおごってくれるってさ~」
「嘘だぞ~~!」

「あはは、行こっ」
 なるかは、サリの手を引っ張った。
「あっ……」
 サリは、少しだけ慌ててから、溜息をついて、笑った。
「びっくりするじゃない……」
 なるかは、にっこり、と笑った。
 たぶん、それはなるかだけにしか、わからない。
「ぼよよ~ん……」
「ん?」
「ううん、あははは」
「変な子ねぇ……」
「変でいいもぉ~んだ、んふふ」
 四人は騒がしく路上で待っている。なるかとなるかは、繋ぐ事のなかったその手を繋ぎ合って、その路を走り出した。
 それは、なるかとなるかの時間。
 なるかとなるかの時間が終わり、始まる――。
 なるかと、サリの時間。
 頭の上から『NA』と『SA』の消えた、こちら側での二人の時間――。
 セミの歌声は騒がしく賑やかで、二人で過ごす夏休みの始まりを、どこかで予感しながら、どうしようもなく賑わっているようでもあった。
「あ~のポテトチップスの占い師……、イチゴ全く関係ないじゃない……」
「あっはは……え。……え?――」
 サリを見つめたなるかの時間が、一瞬だけ、時を止める……――。
「ま、いいわ……。後で冷やしてから、練乳かけて、一緒に食べましょうね。イチゴ、約束だもん」
 サリは顕在的なつり眼で、にっこり――と、なるかに微笑んだ。
「あっははははっ、カッキーーーン!」
「カッキーーーン! 行きましょう、サリちゃん」
「うんっ。行こうなるかちゃん!」


   ~完~
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