死にたがりの少女、夕空を見上げる
2.

恋って知ってる?

ーー恋って何か知ってる?

三ヶ月前の、梅雨のある日、
レンが私の病室にやってきてそう尋ねた。

レンがこんなふうに私の病室を訪ねてきたのは、その日が初めてだった。
でも、私は驚かなかった。

言葉にはできない何かが、私たちの間には通い合っていた。

私たちは同じ病棟に入院してから、その時すでに数ヶ月が経っていた。
世間の同じ歳の子達は、高校に通っている。
私たちだけ、時が止まったみたいだった。

レンが病室に入ってきた時、私は窓のそばに椅子を置いて雨の音を聞いていた。

ーーすごい雨。

と、レンはベッドに腰かけて言った。

ーーバケツをひっくり返したみたいだな。

私は目を閉じて、雨の音を聞いた。
雨の音は、目を閉じた方が近くなる。

ザアザア、ザアザア。

街一個、飲み込みそうなくらい雨が降っている。

私は水没した街を想像した。
入学してから半年くらいしか通えなかった高校も、
お母さんとお父さんが住む家も、
「さくら園」も、
何もかもが水の底。

中学校も、小学校も。
近所の公園も、駄菓子屋も、
同級生が住んでいた団地も、
金魚鉢の底の、かざりみたい。

さみしい思い出、悲しい思い出、
いろんな記憶ごと、街を水の底に閉じ込めている。

私は立ち上がって、雨の音に耳を澄ましながら、窓ガラスに額をくっつけた。
額がひんやりと冷たい。

気がついたら、レンが私の背中にそっと寄り添っていた。
私を腕で囲うように、窓ガラスに両手をつく。

ーーこんなところ、看護師さんに見つかったら、叱られるよ。

異性の部屋に入ったり、異性同士で過度に親しくなることが、精神科の病棟では禁止されていた。

レンは、返事をしない。

静かなレンの呼吸の音だけが、耳のすぐ近くで聞こえていた。

窓の外を電車が走る音がする。

病院の近くに、電車の線路が走っているのだ。
電車は、毎日、たくさんの学生服を着た人を乗せて走る。
彼ら彼女らは、私とレンが切り離された学校という場所に、毎日通う人たちだ。
普通の日々を生きる人たち。

私は通学時間の電車を窓の外に見るたびに、迷子になったような気分になる。
進むべきレールを見失ったみたいな気分に。

ーーリコは、恋って何か知ってる?
と、レンがもう一度聞いた。

ーー俺は、一生分からないかもしれない。
人を大事にしたり、人から大事にされたりできないかもしれない。

ーーなんで、そう思うの?

ーー人から大事にされたことがないから。

私は、レンに振り返った。

レンの顔は、すぐ近くにあった。
レンの息遣いを感じながら、レンの瞳をのぞきこんだ。

瞳の奥には、胸がしめつけられそうなくらいの悲しみがあった。
どんな過去を生きてきたのか知らないけれど、〝大事にされたことがない〟という言葉が嘘じゃないと思えるだけの暗い瞳をしていた。
この人は、孤独を知っている人だと思った。

私は、「さくら園」にいたたくさんの子供たちを思い出した。
そこには、いろんな事情で親と一緒に暮らせない子供がいた。
みんな、いい子達だった。
庭で遊ぶ時は楽しそうにしていた。
でも、時々、迷子になったような目をしていた。

自分が、この先、どんなふうに生きていくのかーー。
親元に帰れるのかーー。
ずっと施設にいるのかーー。
自分の未来は明るいのかーー。

自分の進む先がまったく見えなくて、途方に暮れているような目をしていた。
そして、その瞳には、計り知れないくらいの孤独感がただよっていた。

きっと私もそこで、同じような目をしていたはずだ。

ーー人を大事にすることも、
大事にされることも俺は知らないけれど、
さみしいのは嫌いなんだ。
誰かと一緒にいたいんだ。

レンは言った。

私はレンの頬にそっと両手で触った。
優しく包み込むように、そっと。

一緒にいよう。

私の口から出てきたのは、そんな言葉だった。

レンがうなずく。

私はレンの瞳をじっと見つめ、顔をそっと撫でた。
頬の骨や、ひんやりとした皮膚の感触が、私の手に伝わった。

レンは顔を撫でられている間、私から視線をそらしていた。人に慣れていない猫のように、体を緊張させていた。

だけど、私がそっと手を離そうとすると、私の手をつかんで、体を緊張させたまま不器用に顔を近づけてきた。

私たちは、キスをした。

これが恋かも分からないまま。
人を大事にすることも、されることも、
分からない同士で。

私たちは、きっと路頭に迷う。
だって、二人とも迷子同士だから。
もしかしたら、互いにひどく傷つけあう日もくるかもしれない。

それでも、私はレンに強く惹かれていた。
レンもきっと、同じ気持ちだと思った。
私たちは、迷子だけれど、もう一人きりで迷わなくても良いのだ。
手を繋いで、一緒に歩ける人を見つけたのだ。

ーーリコ、そばにいて。

私はその言葉に答える代わりにレンを抱きしめた。

できることなら、二人で生まれる時からやり直したいと思った。
ごく普通の家庭に生まれて、学校で知り合い、ごく普通の恋をしたかった。

でも、私たちは普通ではないので、
私たちなりの幸せを探しにいかないといけなかった。

レンも私を抱きしめた。
ほっそりしたレンの腕。ゴツゴツとした胸。

これが、レンと親しくなった最初の日だった。

続く~
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