死にたがりの少女、夕空を見上げる
6.

エスケープ〜私たちの誤った選択

八月一日。

レンの夢をみた。   
レンと蒸気機関車に乗っていた。
機関車の中には、私たち以外に客の姿はなかった。

線路は左右を林に囲まれており、真上には星空があった。

周りが暗いので、星ばかりが目についた。
信じられないくらいの数の星が、夜空に散りばめられていた。

窓に顔を近づけて夜空を見上げながら、レンは、
「銀河鉄道みたい」
と言った。
確かに、星空の真ん中を走っているような気分だった。
このまま、どこまでもどこまでも、遠くへ走っていけそうな気がした。

ガタゴトと、機関車が走るのどかな音がする。
私は窓を持ち上げ、顔を窓から突き出して外の空気のにおいをかいだ。
夜の空気は柔らかな手触りがした。
何が香っているのか、白檀のような甘い香りがした。

心地の良い夜だった。
私は、このままずっと機関車に乗って、誰も私たちのことを知る人がいない場所まで走ってみたいと思った。

朝ーー。
夢が終わり、目が覚めると、病室のベッドの上にいた。
いつも通りの病棟での一日が始まる。

ラジオ体操をして、
朝ごはんを食べて、
薬を飲んで、
検温を受けて、
作業療法を受けて、
またご飯を食べて、
薬を飲んで……。

時々、ホールでレンを見かけた。
私とレンは、互いに知らない人みたいにすごした。
すれ違っても、目も合わせなかった。

私は午後から看護師さんと中庭を散歩した。
看護師さんは、中庭の花壇に咲くダリアやヒマワリを見て、きれい、と言った。

夏の空、夏の緑、色鮮やかなダリアやヒマワリ。
看護師さんはうっすらとうなじに汗をかいていた。おだんごにまとめた髪の、後毛がかかったうなじ。
彼女の白い肌は、明るい日差しの下で、よりいっそう白く輝かしく見えた。
そして、夏の暑さにも負けず、ヒマワリのような笑顔を浮かべていた。
私は彼女のことを、なんとなく夏が似合う人だと思った。

「夏は草木も花も色鮮やかできれいですね」

彼女は、私にそう言った。

色鮮やか。
確かにそう見える。
でも、私の心は薄い膜を被されたみたいに、
その景色に無反応だ。
私の外側にあるものーー周りの景色だとか、周りの人々の様子とか、一日の出来事とかーーに、私の心は関心を示さない。

色鮮やかな夏の庭も、私の心のフィルターを通すと、モノトーンの写真のように色味を失ってしまう。

白黒の世界に私はいた。
そこから、私はどうやったら逃げ出せるのかわからない。
夢の外の世界は、生きづらかった。

八月二日。

急に、何もかも放り出したくなった。
たいしたことをしているわけではないのにしんどい。
一日中しんどい。
息をするのもわずわしい。
世の中には、もっと不幸な境遇にある人や、その日その日の食べ物に困っている人もいる。
私はずっと恵まれている。
なのに、どうして、こんなにしんどいのだろう。
私は、人として劣っているのかもしれない。
そんな自分が、私は好きになれない。
こんな自分のために努力しようという気にはなれないから、治療にも前のめりになれない。
そんなふうだから、
毎日、なんの進歩もなくて、
毎日、こんな自分のままで生きている。
そして、そのことを他人に申し訳なく思っている。

おとといも、昨日も、今日も、
そんな日々の繰り返し。

どんどん深い穴に落ちていくみたい。

どんどん、どんどん、暗い穴へ。
深い、深い、人生の底へ。

八月三日。
午前の作業療法を休む。
そのことで、自己嫌悪を感じた。
午後から、全身のエネルギーを奮い起こして作業療法に参加した。

作業療法では、夏祭りの準備を行った。

七月から準備をしていた夏祭りも、いよいよ、今日が本番だ。
今日の夕方、入院患者の家族も招いて夏祭りをするのだ。

中庭では、屋台を組み立てる患者や病棟スタッフの姿があった。
水風船や射的、わたあめやジュース、かき氷や焼きそば。
今日は中庭にさまざまな屋台が建つ。
屋台の店番は主にスタッフが担うが、患者も時々店番をする。
患者は客としても店員としても夏祭りを楽しめるように、予定が組まれていた。

現在、患者やスタッフは、開場後の流れを確認したり、屋台に必要なものをかまえたり、屋台の飾り付けを行ったりしており、中庭は人であふれかえっていた。
その中に、レンの姿もあった。

レンを見た時、蒸気機関車の夢を思い出した。夢の中で、私たちは窓に顔を寄せて星空を見上げていた。
レンの吐息が、窓をくもらせた。

ありありと夢の景色が思い出される。
私たちは、頬がくっつきそうなくらいそばにいた。

だけど現実のレンは、私のそばをすれ違っても、私のことなんてまるで知らないし、見えてもいないみたいに振る舞った。

レンは屋台の奥に置かれた台に、射的のまとを並べていた。
屋台の手前に置かれた台には、割り箸やゴムを使って手作りした銃が用意されていた。

同じ病棟の女性患者が銃を手にして、
「試し撃ちしてみようかな」
とイタズラっぽく笑う。
そして、銃をレンの背中に向けた。

レンが、
「やめろよ」
と言う。

女性患者が楽しげに笑った。

レンも笑った。

レンが心から笑っているのかは知らないが、客観的に見て、二人は楽しげな様子に見えた。
どこか、みずみずしく、まぶしくもあった。
文化祭の準備をしている若い男女みたい。

私は、隣の屋台の飾り付けをしながら、二人の様子をチラチラと眺めた。
胸が針でチクチクと刺されるように痛かった。

私はきっと、その女性患者に嫉妬していた。

昨日の夜も、屋上で二人っきりで会ったというのに、それでも嫉妬していた。
昼間の時間に、堂々とレンと一緒にいられる女性に。

昨日、屋上で触れたレンの頬や首筋、胸や背中の感触を思い返す。
背中に腕を回して抱きついた時、額のあたりにかかったレンの吐息も。

その感触が肌にありありとよみがえるほど、切なく感じた。
今すぐ駆け寄りたいーー。
私の胸の内側から、泉のように、レンを思う気持ちが湧き出していく。
今にも、私の心におさまりきらなくなって、あふれだしてしまいそうだった。

その時、
ふとレンと目が合った。

私たちは、一秒にも満たない時間、視線を交差させていた。

そのわずかな時間の間に、
私たちは何時間もかけて会話したのと同じくらい、
たくさんのことをわかちあった。

私たちは、触れたがっていた。

どうしようもないほど、互いに好きになっていた。
私たちの気持ちは、はちきれそうなくらい胸の内側で膨らんでいた。

その時、中庭のどこかでパチンッという音がして、
「わっ!!」
と声があがった。

声がした方に目をやると、
水風船を膨らませていた患者が、焦った顔をしていた。

「何やってんだよ! 飛沫がかかったじゃないか!」

どうやら、水風船を膨らませすぎて弾けたようだった。
細かくちぎれた水風船の破片が地面に散らばり、その一帯の地面に水飛沫が散っていた。近くにいた患者のズボンも濡れてしまっていた。

「わざとじゃないだろ! そんなに怒らなくてもいいじゃないか!」

「なんだその言い方は!」

患者二人がケンカを始めた。
それを見て、患者の一人がパニックになってワアアと叫ぶ。
ケンカしている二人をとめようと、病棟スタッフが周りを取り囲み始めた。
そのそばには、われ関せずという様子でビニールプールに浮かんだ水風船を指でつついている患者もいた。

中庭は混沌としていた。

私はその時、数名の患者と一緒に、ペーパーフラワーを屋台に飾りつける作業をしていた。
しかし、私と一緒に作業をしていた患者はみな、作業の手を止めてケンカの成り行きを眺めていた。

射的の屋台の準備をしていた女性患者も、ケンカする二人を眺めていた。
その間に、レンは、女性患者に気づかれないように、そっと射的の屋台から離れた。

私はレンの動きに気がついて、
あたりの目を気にしながら、静かにその場を離れた。

レンは中庭のはずれに向かって歩いていく。私もその後を追った。
ケンカする患者二人とそれをとめるスタッフの騒がしい声が遠ざかっていく。

レンは中庭を囲む渡り廊下を通り抜け、高い塀と門に囲まれた駐車場にでた。
私もレンについて駐車場にでる。
レンはチラチラと私に振り返りながら、門に向かって駐車場を横切っていった。
私がついてきているか確認しながら歩いているみたいだった。

門のそばに警備員が立っているのをレンは見て、くるりと方向を変えた。
塀にそってグルリと病院の建物の裏側へ回る。
私もあとについて歩いた。

やがて病院の裏側に出た。
病院の建物の影が落ちる場所に、非常用と書かれた小さな扉があった。
その扉は、塀を四角くくり抜いて扉を押し込んだような外観をしていた。

レンはポケットから何かを取り出すと、
ドアの鍵穴に差し込んだ。

「まさか……、ここの鍵も持ってるの?」

レンはニッとイタズラっ子みたいな笑みを浮かべた。
レンは屋上の鍵だけでなく、いろんな鍵を持っているみたいだ。
主治医や病棟師長さんに知られたら、
言い逃れする隙もないくらい、こてんぱんに叱られるだろう。
その上、病院から追放されるかもしれない。

不安そうな顔をしている私に、レンは手を差し出した。

「どうするつもりなの?」
私はレンの手に自分の手を重ねながら尋ねた。

「エスケープ」

レンはそう言った。

ガチャリと鍵が開く。
ドアが開いて、四角くくり抜かれた塀の向こうに、青い空が見えた。

エスケープ。

私は、心の中でそうつぶやく。

胸のうちで、不安と、うずうずとした気持ちが複雑に混ざり合うのを感じた。

私たちはまだ塀の内側にいた。
今なら引き返せた。
でも、私たちはまだ未熟だった。
自分たちがしでかすことの、先すら考えられない子供だった。

私は、不安を抱えながらレンと手をつないで塀の外に出た。
とんでもないことをしていると思いながら、引き返せずにいた。

ガタンゴトンと私の耳に、夢で聞いた蒸気機関車の車輪の音がよみがえる。
私たちの前に、線路が伸びている気がした。

八月三日。

私たちは、手を取り合って病院を脱走した。
私たちは、子供で、浅はかで、無鉄砲で、
でも、精一杯恋をしていた。

続く~
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