雨声~形のないラブレター
バイト初日に聴いたような切ないメロディ。
儚げな彼の表情にマッチするような。
忙しく行き交う駅構内の雑踏に掻き消されそうなほど。
コンコースにピアノが置かれていることすら気付かないくらいだ。
明るめな曲調じゃないから?
ポピュラーな曲じゃないから?
演奏している彼の気配もないくらい静かだから?
誰も足を止めることなく過ぎ去ってゆく。
チラッと視線を向ける人はいるものの、楽しく音に耳を傾ける人はいない。
……凄く上手なのに。
ピアノが弾けない紫陽花には、弾けるだけで天才だと思えるけれど。
彼の演奏は、それだけじゃない。
言葉では表現しづらいが、紫陽花の心にツーンツーンと響いて来るのだ。
彼の心の声。
何かを訴えているような叫びにも聞こえる。
甘く切なく。
よどみがないのに沈んでいくような世界観。
『助けて』とは違う。
『聞いて欲しい』でもない。
言霊のように聴こえるのに、しっくりとくる言葉が浮かんでこない。
それがあまりにもミステリアスで。
物憂いな感じがするのに、気高さも兼ね備えているような。
5メートルほど離れた場所から彼の演奏を聞いていた、その時。
「あっ……」
紫陽花の視線に気づいた彼が、パッと演奏を止めた。
そして、素早くフェルト地のピアノカバーを掛け、鍵盤蓋を閉めた。
アップライトのピアノはコンコースの通路脇の腰高の窓際に置かれていて、普段はそこにピアノがあることさえ見逃してしまうほど存在感がない。
たまに観光客が弾いて行くこともあるが、視聴する人々が座るような場所もなく、何故ここに置かれているのかすら疑問に思うほど。
昨日の謝罪をしたかったのに。
また嫌われるようなことをしてしまったようだ。
無言で去ってゆく彼の後ろ姿をじっと見つめるしかできなかった。