雨声~形のないラブレター
6月下旬のとある日の放課後。
私、橘 紫陽花(17歳)は、通学で利用している沿線のとある駅で下車した。
高校からは2駅ほどしか離れていないが、普段は利用しない駅。
見慣れない景色にちょっと緊張しながら、改札口へと向かう。
盆地でもあるこの土地はちょっとした観光地でもあって、田舎街なのに結構人気がある。
山の中にあるから都会の雰囲気とは違うが、緑豊かでほのぼのとしている雰囲気は、ちょっとしたリゾート気分を味わえる。
「健兄っ」
「おっ、早いやん」
健兄こと、染野 健一郎(28歳)。
紫陽花の姉・実椿(25歳)の夫でもある。
江戸時代に築城された(現在は城跡)この地の、ハブ的な駅のコンコースにあるカフェ『éclair』。
そのカフェを祖父から引き継いで経営しているのが健一郎だ。
2年前に、健一郎に嫁いだ実椿は先天性難聴を抱えていて、補聴器をつけているものの、殆ど耳が聞こえない。
他者とのコミュニケーションが取りづらい実椿は、料理や手芸、工作などが幼い頃から好きだった。
自分の個性を表現できるということもあるが、誰かを笑顔にすることができる唯一のものでもあったからだ。
6年前の春先。
街のイベントで幼い子供たちにせがまれながら、楽しそうに絵を描いたり折り紙を折ったりしていた実椿に健一郎は一目惚れした。
子供たちの輝く瞳と同じくらい、実椿の笑顔がキラキラと眩しく見えたのだ。