あの時の気持ちは、一生忘れないだろう。

心の中の鐘が、鳴り響くように。

そして、突風が心の中を吹き抜けるように。

衝撃以外の何物でもなかった。


 そうなんだ。あの時、僕は心を奪われたんだ。

綺麗で透き通るような長い髪。彼女とすれ違う

0.1秒。その瞬間、僕にそれが起きた。

 甘い香り。僕は、とっさに傘で顔を隠した。

そして、数秒後、振り返った。彼女は、長い髪を

揺らし学校の中庭を音楽室へと向けて歩いて行った。



 ある日の放課後は、晴れだった。

僕は、図書室にいた。ある本を探す為だ。

僕は本棚ぞいに歩きながら、本を探した。

”あっ、これだ”

僕は、心の中で囁きながら、その本を手に取った。

すると、手に取った本の隙間から、何かが見えた。

”あっ”

本の隙間の7,8メートルほど先に見えたのは、あの

彼女が、机に座って何かの本を読んでいる姿だった。

僕は、衝動に駆られた。彼女に声を掛けるかどうか・・・。

だが、それは止めた。彼女をただ眺めているだけで

よかった。

 凛とした鼻筋。少し切れ長な目。薄い唇。


”綺麗だ・・・”

僕は、心の中で呟いた。


"何の本を読んでいるんだろう・・・”

僕は、咄嗟に歩き始めた。そして、彼女の側に着いた時、

彼女の読んでいる本の表紙を見た。「恋」という本だった。

聞いたことがない。作者も分からない。ふと、彼女がこち

らを見た。僕は慌てて先ほど手に取った本を落としてしま

った。僕は、慌てふためいた。そんな僕を、彼女は優しく

見つめながら笑っていた。

 僕は、本で顔を隠してその場を走り去った。

 
 翌日の午後。

その日は、小雨だった。

中庭に咲いている草花の香りが、僕の心を落ち着かせる。

すると、音楽室から何かの音が聞こえてきた。

 それは、ピアノだった。

そっと、一階にある音楽室の窓を覗いてみる。

例の彼女が、ピアノを弾いていた。

 僕は、その音色に引き込まれた。そして、浸った。

十分、二十分とその場にいただろうか・・・。

正確な時間は、覚えていない。

 ただ、ただ、静かな時間だけが過ぎて行った。

「何してるの?」

それは、彼女だった。

いつの間にか、僕は我を忘れてしまい目をつむって

ピアノの音色を聴いていたようだ。

 その急な言葉に、僕は、ハッとした。

そして、僕はまるで、何か悪い事をしたかのように、

また、慌ててその場を走り去った。


 ある夜。僕は、音楽室にいた。

本当は、禁止されていることだけれども、僕はどうし

ても音楽室に入りたかった。その理由といえば、それは

ピアノを触りたかったのだ。ただ、それだけだった。

鍵が掛かっていたので、窓から入り込んだ。そこだけ、

鍵が壊れていることを僕は知っていた。意外と周知な

ことだった。

 僕は、恐る恐るピアノの鍵盤を触った。指先が震える。

音が鳴った。静かな暗い音楽室にそれが響いた。

僕は、置いてあった楽譜を開いた。そして、弾いてみた。

全く弾けない。それどころか、楽譜もろくに読めなかった。

「やっぱり、駄目か・・・」

僕は、呆然とした。

「誰?」

声がした。それは、あの彼女だった。彼女がいつの間にか、

目の前に立っていた。


「こんな夜に何をしているんですか?」

彼女は、言った。


「あなたこそ、こんな夜に・・・」

僕も、言い返した。

「私はただ楽譜を忘れたので、取りに来ただけ」

「す・・・すみません・・・僕は・・・」

今更ながら、僕は彼女に謝った。

ややあって。

「僕は、ただピアノを弾きたかったんです。でも弾けないん

です」

「そうですか・・・」

彼女が、おもむろに言った。

「ぼ・・・ぼ・・・僕にピアノを教えてください!」

僕は、勇気をだして言った。

「え・・・?」

「お・・・お願いします!」

また、ややあって。

「どうしてですか?」

「え? ぼ・・・ぼ・・・僕はピアノの音色が好きなんです」

静かな時間が、流れる。


「駄目ですか?」

「駄目とは言ってません。いいですよ。その代わり・・・」

「その代わり・・・?」

「厳しく教えますよ」

「えっ・・・そ・・・それは困った・・・できれば、優しく

教えてください。僕は、飲み込みが悪いんで」

「ハハハ・・・・・・分かりました。毎日、放課後に音楽室へ

来て下さい」

「え? それじゃぁ、いいんですか・・・?」


「もちろん。いいですよ」

彼女は、満面の笑顔でそう言った。


 僕は、彼女に言われたとおり毎日、放課後には音楽室へと

足を運んだ。そして、ピアノのレッスンを受けた。学校が休

みの日以外は、毎日、毎日レッスンを受けた。僕は、毎日、

放課後が楽しみだった。だが、突然その楽しみが、崩れた。


「私、学校をやめるの」


「え?」


「父の転勤で、引っ越すことになったの。だから転校するの」


その言葉を最後に、パタっと毎日のピアノのレッスンは終わった。


彼女とも、会わなくなった。だが、彼女が引っ越す前に、僕は


彼女に手紙を渡しておいた。レッスンの最後の日に。


            ―五年後―

 僕は、大学のキャンパスを歩いていた。今日はピアノ部の発表

会だ。毎年開かれるこの発表会は、僕にとって日頃の練習の成果

を披露することのできる最高の場だ。だが、今回は僕は出席しな

い。なぜなら、ある大事な用があるからだ。それは、五年前に遡る。

あの時、あの彼女に渡した手紙に書いた約束。彼女は、覚えている

だろうか。

 ”五年後、あの丘の木の下でお会いしましょう”

 僕は、キャンパスを急いだ。まさしく今日がその約束の日だから

だ。


 僕は、大学の近くの交差点にいた。信号が青に変わった。僕は、

足を速めた。その時、激しい音とともに僕の体に衝撃が走った。

 気付けば、そこは病院の処置室だった。気を失っていたようだ。

その時に聞いた話では、僕は大学の近くの交差点で車にひかれた

そうだ。だが、僕は助かった。運が良かったんだろうか・・・。


 いや、そうでもない。僕は大事なことを思い出した。あの彼女

との約束。僕は破ってしまった。僕は、自分の不運さに唖然とし

た。

            ―数週間後―


 僕は、退院をして家の自室のベッドで寝ころんでいた。そして、

開けていた窓から小鳥が舞い込んできたので、驚いた。その時、

僕は、ふと思った。


 ”行ってみよう。あの丘へ”


 あの丘は、五年前より緑が多く茂っていた。僕は、あの木の下

へと歩を進めた。そこには・・・。


 ”また五年後、待ってます”

 僕は、木に刻まれた文字を見て、天を仰いだ。そして、ゆっくり

とその文字に指でふれた。そして、僕はまじまじとその文字を見つ

めた。涙が溢れた。




            ―さらに、五年後―


 僕は、ぼうっと家の窓から空を眺めていた。


「あなたー。何してるのー。大丈夫? 買い物に行くわよー」


一階から声が聞こえた。


「ああ。了解です」

僕は、言った。


 それはそうと、あの時の彼女。今は、どうしているかって?

えーっと。さっきの声の人が、僕の奥さん。つまり、あの時の

彼女です。



 ちなみに、僕はむちゃくちゃ幸せです。そして・・・僕のピ

アノの先生でもある彼女は、厳しくて、とっても優しいです。












              <了>













































 

















 



























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