神獣の花嫁〜あまつ神に背く〜
ゆらり、と、黒い影が動くのをかろうじて目の端にとらえ、セキは片腕を上げる。衝撃と痺れが腕を襲い、反射的になした攻撃は影に打ちこむ膝蹴りだった。

短いうめき声が聞こえた直後、次々に襲い来る手刀。寸でで(かわ)す身から、翻り、地に片手を付き、横へ飛ぶ。

着地と同時、身をかがめたまま様子をうかがえば、なんとか薄墨ほどになる黒い霧の向こう。走り寄ってくる足先が見えた。

(手荒な真似はしたくなかったが───)

このままでは(らち)があかない。迷いは瞬時に消え、セキは襲い来るモノの両脚を双手(もろて)で刈る。

「……っ」
「すまない! ただ、話を」

言いかけて、言葉につまる。押し倒していたのは、女の身体。

(しまった……!)

セキは、自分の判断を重ねて悔やんだ───手荒な真似をしてしまった相手の性別と、その雌雄(しゆう)の意味。

上体を起こし、思わず顔をしかめたセキの片頬に、女から放たれた鋭い拳が一発、入る。

醜女(しこめ)と、侮りやがって。くたばれっ」

甘んじて受け入れた打撃に続き、炎のゆらめきがその拳をつつむのが見えた───刹那(せつな)

「……(べに)、ごめん。捕まった」

抑揚のない若い男の高めの声音が、彼女───上総ノ国の黒い神獣、黒狼こと紅の手を止めたのだった。


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