ライバル企業の御曹司が夫に立候補してきます~全力拒否するはずが、一途な溺愛に陥落しました~
「お父さんと……鎌倉に行ってね」
「うん。いつの話?」
「結婚する前よ……。その、綺麗な紫陽花に囲まれてね、プロポーズ、されたの」
それは、まだ母が元気な頃にも聞いたことがある両親の思い出話だった。
幸せだった時代を懐かしんでいるのだろうか。
ただの昔話ならいいが、死期が近いことを暗示しているようでもあり、胸が締めつけられる思いがする。
「もう一度……あそこに行けたらな」
子どもみたいに純粋な目をして、母がぽつりと呟いた。
一カ月ほど前に自宅に帰ったきり、母は外出できていない。
その時もかなり無理を言って実現させたので、病状がさらに悪化している今の母が鎌倉に行けるとは到底思えなかった。
でも……どうにか母の願いを叶えたい。せめて、紫陽花を見せるだけでも。
そういえば、両親の思い出の花なのに、この病室では一度も紫陽花の花を見たことがない。
父も落ち込んでいるから、思い出の花をあえて避けているのだろうか。
「俺、今度花屋で紫陽花を探して来るよ」
母を喜ばせたい一心で言うと、母の表情が弱々しくも、笑顔と呼べる穏やかなものに変わる。
しかし、たくさん喋ったせいで疲れたのだろう。「ありがとう」の言葉はほとんど声にならない吐息だった。
それでも久々に母の笑顔が見られたことが、俺にはうれしかった。