亡国の奴隷姫と独裁国家の狼王子 ~処刑寸前に仇の王子の奴隷に落とされました~
シルフィリアは、森小屋を飛び出すと、ただひたすらに森を走り抜けた。
両手を塞がれたときのために用意されたレイファスの作戦は、シルフィリアを救った。
主犯格を刃物で薙ぎ、驚かせたところで、催涙ガスの呪文を唱える。五感の力で相手を圧することに慣れている獣人には、五感を封じてやるのが一番無力化しやすいというのが、彼の言であった。
作戦が成功したのは、事前の準備によるところが大きいが、それだけでなく、犯人達が人族であるシルフィリアの能力を低く見積もっていたことも一因となった。
人族は獣人よりも五感が鈍く、か弱い存在として軽視されがちだが、一方で、寿命は長く、魔力が多く、魔法行使の技術に長けているのだ。
特に、シルフィリアは王族であり、何よりも緋色の瞳を持っていたため、魔法についてはあらゆる技術を叩き込まれるようにして育った。
口を塞がれていた場合であっても、時間さえかければ、無詠唱で魔法を起動することもできる。
彼女は、人族として、魔術師としては上位の存在なのだ。
強い体躯を持ち、魔力を炎として行使する獣の化身レイファスの前では無力だけれども、獣に転変することのない普通の獣人が相手ならば、戦う術を持っている。
しかし、彼らはかよわいシルフィリアの見た目にすっかり油断し、両腕を抑えただけで、彼女の口を塞ぐことはなかった。
(まだよ。まだ、逃げきれてない)
シルフィリアは走り、そして、小屋が見えなくなったところで、足跡を消すようにして歩き、できるだけ彼女の痕跡を残さないよう、見かけられぬよう、木の間にまぎれるようにして歩を進める。
『――まずは、息をしろ』
レイファスは、逃げて誰にも見つからないところまで走ったら、まずは一呼吸しろとシルフィリアに告げた。
だから、シルフィリアは胸を押さえながら、おなかを動かすようにして、ゆっくりと息をする。
『それから、この丹薬を』
シルフィリアは、青いレースの胸当てから小さな丹薬を取り出すと、それを口に含んだ。
これは、魔法が込められたもので、口に含み、体内に取り込むことで、半日ほど、気配を消してくれるのだ。
これで、シルフィリアの匂いを追うことができなくなる。
(それで、次はどうしたら)
シルフィリアは、結わえてある自身の金の髪を、くるりと巻いてまとめ、後ろに垂れないようにした後、深緑色のジャケットを脱いで、髪を隠すように被る。
レイファスが緑色のデイドレスを選んだのは、こういうとき、森の中に紛れやすいからだ。
彼の赤く燃えるような髪の色に合わせるべきではないかと聞いたのに、彼はそんなことを考えている場合ではないと、シルフィリアをたしなめ、この服を用意した。乗馬パンツではなくデイドレスを選んだのも、仕込みを多くしやすいから。
そうして、レイファスは彼女を守ってくれていたのに、シルフィリアは今、自分の命を守ることができるかどうかの瀬戸際で、彼がどうなったのか、知るすべもないのだ。
悔しさのあまり、思わず唇をかみそうになるけれども、シルフィリアは必死にそれを我慢する。
唇をかんで、血が滲みでもしたら、丹薬の効果が台無しとなる。血の匂いは、獣人を強く興奮させる。
催涙ガスの効果が切れ次第、すぐさま居場所を探り当てられてしまうことだろう。
シルフィリアは、空を見上げ、腕に着けた時計を見ながら、今自分が居る位置を考える。
どこへ逃げたらいいのだろう。
レイファスの組の狩場は、神樹の森の入口にある運営会場からは、距離がある。
森小屋からは遠く離れるとしても、周りに配置された狩場を潜り抜けなければ、運営会場にたどりつくことはできない。
それに、たとえ会場にたどりつくことができたとして、そこに居るのは、国王ラザックである。
場合によっては、先ほどの男達からの報告を待つライアス第一王子が居ても不思議ではない。
シルフィリアは、どこに行くべきなのか。
そういえば、レイファスの狩場の南方には――。
「シルフィリア様!」
遠くからシルフィリアを呼ぶ声がして、彼女はびくりと体をこわばらせた。
それは男の声で、レイファスのものではない。
耳を凝らしていると、聞いたことがあるそれは、蛙の獣人であるエーベルのものだとわかった。
「シルフィリア様! いらっしゃいますか、シルフィリア様!」
エーベルは、ダニエル達一味の傍には居なかった。けれども、レイファスと同じように、何かに苦しみ始め、彼の傍に残っていたはずだ。だというのに、何故ここに居るのだろう。
ここで出て行くべきか、それとも、様子を窺うべきなのか。
迷うシルフィリアに、しかし、最終的に選択肢は与えられなかった。
彼女の背後に、ダニエルの手が伸びていたからだ。