亡国の奴隷姫と独裁国家の狼王子 ~処刑寸前に仇の王子の奴隷に落とされました~


 -◇-◆-◇-◆-

 入るなと言われたその扉を開けると、そこは嵐が起こった跡のように、壁に傷がつき、羽毛が散らばり、凄惨な状態であった。
 そして、燃えるように赤い狼が、寝台の上で蹲っていた。
 爪で寝台を削り、苦しみながら、誰も傷つけないように、ひたすら意識を落とそうとあがいている。

「……殿下」

 女の声に、赤い狼はびくりと揺れた。
 体が震え、爪が彼の肩をえぐり、血が滲み始める。

「殿下、いけません!」
「何をしに来た」
「殿下」
「出ていけ」
「こちらを見てください」
「出ていけと言っている!」

 牙を剥き、よだれを垂らしながら、レイファスはとうとう、シルフィリアの方を向いた。
 今にも彼女を食い殺さんとするその姿に、シルフィリアは無防備に近づいていく。

「殿下、こちらへ」
「死にたいのか!」
「レイファス」

 青い瞳が見開かれたところで、隙を見つけたとばかりに、シルフィリアは狼の胸に飛び込んだ。

「人の姿に、戻って」

 自身の胸に収まったかよわい人族の姫君に、その体から舞う花の香りに、狼は、思考がふわふわと揺らいでいくのがわかった。
 けれども、これはもう、どうしようもなく、もはや彼に抗うことは叶わない。

「お前が悪い」

 人に戻った狼の王子は、絞り出すようにそれだけ言うと、かみつくような勢いでシルフィリアに口づけた。

 シルフィリアはそれを受け入れ、――無詠唱の魔法を起動させ、左奥歯に変じさせていた解毒の秘薬を、液体に戻す。

 秘薬をしっかりと流し込むため、長い間口づけを受け入れていたシルフィリアは、ふと、なんだかこれが愛が故の行為のように思えてしまい、必死に彼を押し戻した。
 しかし、それを肝心のレイファスが邪魔してくる。

「も、もう要らないはずです……」
「まだ足りぬ」
「殿下」
「お前は、勝手すぎる」
「それはあなたもです」

 結局、もう十分だと言うシルフィリアを無視して、レイファスは散々彼女の唇を奪った。

 始め、獣の衝動に任せていたはずのそれは、秘薬が効いてきたのか、次第に激しさを失い、深くゆったりとしたものへと変わっていく。
 与えられる熱に、抵抗しながらも甘い声を上げ、翻弄されている乙女に対し、遠慮をする気は一切ないらしい。

 余す所なく秘薬を得る必要があるのだと、言い訳をするように続くそれに、奴隷姫はとうとう、声を荒げて抗議した。

「あなたは勝手です! 勝手に私を助けて、勝手に傷ついて、こ、こんな、勝手に……」
「すべて、理由があってのことだ」
「私だってそうです! 理由があって、行動しています」
「何故、薬を私に使った」
「……! じゃあ、何故あなたは、私を助けたのです!」
「お前のためではない」
「私だって、あなたのためではありません」
「だが、あれはお前のために使うべき薬だ」
「そういうことを、言うから!」

 ぼろぼろと涙をこぼすシルフィリアに、レイファスはとうとう口を閉ざした。

「あなたを、憎めない……」

 涙の止まらない彼女に、レイファスは何も言わず、そのまま彼女を見つめた。
 その後、何かを諦めたようにため息を吐くと、彼女の目に、涙に濡れた頬に、何度も口づけを落とし、そして、彼女を柔らかく抱きしめる。

「私は、お前の敵だ」
「嘘つき」
「私を信用するな」
「……どうして?」
「すべて、私が悪いからだ」
「じゃあ、悪いというその言葉を信用しません」
「……」

 シルフィリアの返しに、レイファスは意外にも眉尻を下げた。項垂れた狼王子を見て、亡国の奴隷姫は目を丸くした後、ようやく降参したのかと、不遜にも得意げな顔をする。
 腕の中で、楽しそうに笑っているかよわい人族の姫君に、圧倒的な力を持つはずの狼王子は、ただひたすら、困り果てた顔をすることしかできないらしい。

 その弱った顔を見ていると、なんだか込み上げるものがあって、シルフィリアは再度、彼の胸に顔をうずめた。
 先ほどと違い、彼はもう、それを咎めない。

 意外にも柔らかさのある筋肉質な胸板、その体の温もりに、なんだか意地を張っていた気持ちが溶けていくような気がした。

 もう、会えないかもしれないと思っていたのだ。
 本当はそれが一番怖かった。
 辛くて、心配で、無事を確かめるまで、気が気ではなくて。
 生きていると知ってからも、ずっとずっと、こうして会いたくてしかたがなかった。

「……守ってくれて、ありがとう」

 赤髪の狼王子は、身を強張らせる。

 長く動かない主人に、奴隷姫は不思議に思い、泣きぬれた緋色の瞳で彼を見上げた。
 すると、そこには情欲の色を浮かべた青い瞳があって、初めて彼が見せた欲に、心が絡め取られていくようだった。
 惹かれ合うままにゆっくりと近づいた二人は、おそるおそる唇を触れ合わせ、もどかしさに突き動かされるように舌を差し入れ、求め合うようにして、口づけを交わし始めた。

 それは、演技のためでも、香木のせいでも、薬を飲ませるためでもなく、それがわかっていても、二人はただ、互いを離すことができない。

「礼はもらったから、いい」

 長い触れ合いの後、それだけ言うと、狼王子はなんと、彼の奴隷姫をあっさりと部屋から追い出してしまった。
 追い出された美しき姫君は、しばらく茫然とした後、扉に背を預け、ずるするとその場で座り込む。

 脳裏に浮かぶのは、主人と交わした長く甘い口づけと――最後に見た、彼のこの上なく照れた顔だけだった。
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