亡国の奴隷姫と独裁国家の狼王子 ~処刑寸前に仇の王子の奴隷に落とされました~
シルフィリアは目を見開くと、すぐさま立ち上がり、中央広場を出て、庭園の奥に逃げ込んだ。
必死に彼から距離を取り、しかし、何をどうしたらいいのか、思いつくことができない。
服装は、貴族令嬢用のデイドレスで、靴もヒールが高く、このような場所で走るような恰好ではない。
さっと見渡した限りだと、上の階へ抜けることができる階段は、先ほどまでいた中央広場の中心にある螺旋階段のみで、他に地上に繋がっているのは、明かりのさしている天井ぐらいのものだろう。
シルフィリアは逡巡の末、庭園の端々に見える、外の光を取り込んでいる天窓まで走ることにした。
天窓に施された防音魔法や防御術式は遠目ではよく見えないけれども、近くに寄って解析すれば解除できるかもしれない。
となると、魔力が多く残っているうちに、天窓近くまでたどりつかなければ。
シルフィリアは、胸当てから丹薬を取り出し、それを口に含んだ。
最近、彼女はレイファスと離れることが多く、念のため仕込みを普段から装着するようにしていたのだ。
気配を消す丹薬を使い、その後、シルフィリアは爪に硬化の魔法をかけて、自らの靴のヒールを切断する。
これで少しは走りやすくなったと息を吐き、切り取ったヒールを太ももの仕込みベルトの空いた枠に入れ、足跡を消し、木々の間に隠れて静かにうずくまる。
「――二分だ」
声が聞こえた後、シルフィリアはその場から動かなかった。
二分で、天窓のある場所までいくことはできない。
とにかく、リチャードを一度やり過ごし、彼が離れた隙に、移動するしかないのだ。
丹薬の効果があるうちは、シルフィリアは声さえ出さなければ見つからないはず。
そう思っていた彼女は、自分の考えが甘かったことに気が付いた。
天井近くに、星のような、小さな光が大量に浮かび上がり、それが何なのか認識する前に、流れ星のようにすべてが落ちてきて、木々を、土を、石畳を――そして、シルフィリアの体を刺しぬいていく。
「……っ!」
声は、上げなかった。
しかし、血を流してしまっている。
獣人は、血の匂いに敏感だ。
だから、これはもう――。
「ここに居たのか」
頭の後ろで声がして、振り向く間もなく、左腕を爪に切り裂かれた。悲鳴を上げるシルフィリアに、リチャードは愉快極まりないといったふぜいで嗤っている。
「レイファスの女も、そのように血まみれでは台無しだなあ!」
シルフィリアは痛みで意識が飛びそうになる中、必死に目を凝らした。
ここで気絶してしまえば、すべてが終わってしまう。
狐は、爪を濡らした血をなめとり、狂ったように嗤い続けた。
「あいつを呼んでも、ここに来るまでに時間はかかるだろうな。それまでには殺してやるが……まだ、早いのではないか?」
煽るようなその視線に、シルフィリアは唇をかんだ。
左腕の感覚がなくなりそうだ。
かなり深くえぐられていて、出血もひどい。
しかし、治癒の魔法には制限があるのだ。
セディアスの助言により知ることとなったそれ。
その縛りが故に、今のシルフィリアが治癒の力を行使する回数が限られている。
使うことができるのは、全部で三度。
ここでその一度目を使ってしまいたくはないが、仕方がない。
白い光を放ちながら、傷を癒した緋色の瞳の姫君に、リチャードは興奮を隠さず、喜びに口元をゆがめ、牙を剥いた。
「それか。それが、治癒の力! いいぞ、いいじゃないか。面白い!」
それから二度、リチャードが二分待ち、シルフィリアが追われ、そして傷だらけになった上で、治癒の力を使うこととなった。
もう、シルフィリアには手持ちがない。
それを、リチャードに伝えるべきかどうか。
「さきほどまでの威勢はどうした。随分とそそる姿になったではないか」
切り刻まれ、血のにじんだ服をまとう奴隷姫を、狐はじりじりと追い詰めていく。
シルフィリアの背が木の幹にぶつかり、目の前に狐が迫ったところで、シルフィリアは彼の目をはっきりと見て、懇願した。
「リチャード殿下。もうこれ以上、治癒魔法を使うことができないのです」
「はあ?」
「この力には、制約があります。ですので、どうか」
顔を上げ、毅然とした態度で向かい合う緋色の瞳に、リチャードはそのダークブルーの目を細めると、つまらなさそうにつぶやいた。
「では、もう要らぬ」