【完結】異世界シンママ ～モブ顔シングルマザーと銀獅子将軍～
36.秘密※
「ヴォルクさ――、っん……！」
ほのかに明かりがともされた部屋に連れ込まれ、手を取られたまま壁に押し付けられた。視界が陰り、降ってきた口付けをケイは驚きと共に受け止めた。
「あ、の……。……んむ……っ」
「…………ケイ……」
上背をかがめてケイの唇を奪ったヴォルクが低く名を呼ぶ。その掠れた響きに身を震わせると、ヴォルクは何度もケイの唇をついばんだ。
白い手袋をはめた指が顎を掴む。たやすく唇をこじ開けられ、眉を寄せたケイにヴォルクは深く唇を重ねた。
反射的に目を閉じるとぬるりと熱いものが唇に触れ、ケイは身をよじった。抵抗する間もなく、ヴォルクの舌が口腔に入ってくる。
「ん、ン……ッ！ ヴォルクさ――、待っ……、あっ……」
「……っ」
ケイの腰を抱き、もう片方の手がケイの指を深く握る。壁に縫いとめられ、逃げ場のないケイは強引にねじ込まれるヴォルクの口付けをなすすべもなく受け入れるしかなかった。
普段の彼らしからぬ性急な動きに足がわななき、息が十分に吸えないのもあって次第に頭がぼうっとしてくる。狼に仕留められるウサギのように、濡れた音と熱い舌に完全に制圧された。
そうしてわずかな抵抗も抑え込み、ケイの口内をたっぷりと堪能したヴォルクはやがてゆっくりと体を離した。
息の上がったケイがぼんやりと見上げると、眉根を寄せてじっと耐えるような表情をしている。ケイの口紅が口の端に色移りして、色事など無縁そうな整った顔が急に生々しい男の顔に見えた。
「……すまぬ。どうしても……こらえられなかった。……そなたを独り占めしたい」
「……っ」
「……嫉妬だ。そなたが誰にでも分け隔てなく気安いのは稀有な美点だと分かってはいるが――陛下に触れられるそなたを見たら、自制できなかった。あの方は冗談で我々をからかっているだけだと分かっているのに……！ ……他の誰にも、そなたに触れさせたくない」
ヴォルクが苦しげに息を吐き出す。その瞳の中に、ケイへの愛情と己の行動への困惑、そして紛れもない男としての欲が宿っているのを感じ取りケイの胸が強く高鳴った。
「この夜を、そなたと過ごしたい。他の誰にも立ち入らせず、そなたを感じたい。……私を受け入れてはくれないか」
「……っ。ヴォルクさん……」
ケイの顔は、いまや真っ赤だった。顔を押さえると、ヴォルクの唇の感触がまざまざとよみがえる。
今夜が泊まりだと聞いて、こういう事態をまったく予想していないわけではなかった。けれどかすかな期待を、「いやいや、まさか」と見て見ぬふりをした。
だから今、その状況を前にして小娘のようにうろたえている。
強引なキスとストレートな言葉にケイは陥落寸前だったが、それでもヴォルクはケイの許しを待っていた。奪おうと思えばいくらでも奪える人が、そうされたならケイは抗わずに流されるだろうに、ケイに受け入れてほしいと請うていた。
胸が疼く。ケイの意思を大切にしてくれる人を、自分も大切にしたい。
……彼に触れたい。彼を感じたい。彼に女として愛されたい。
この夜を――ヴォルクと共に過ごしたい。
ケイはおそるおそるヴォルクの手を取ると、真っ赤な顔で小さくうなずいた。
「……ありがとう」
「……ッ！ あ、あのでも、ちょっと待って！ ……ま、待ってください。一つだけ、お願いが――」
耳元でささやくやいなや、腰を引き寄せ再び唇を重ねようとしてきたヴォルクをケイは慌てて遮った。手のひらでヴォルクの口を塞ぐと、一瞬目を見開いたヴォルクは逆にケイの手を取りそれを自身の頬へと滑らせる。
目を細めてケイを見下ろすと、ふっと色めいた微笑を浮かべた。
「どうした……？ 今さら部屋の外には逃さぬぞ」
「そっ……うではなくて、あの、あの……化粧を落とさせてください……」
「……は？」
ケイが絞り出した言葉にヴォルクの目が丸くなる。ケイは泣きそうな顔で重ねて懇願した。
「これ、私の顔じゃないですから……！ 汗とかかいたら崩れてひどいことになりそうだし、顔だけでも洗わせてください……」
「……女人はだいたい、化粧を落とす方が嫌だと思っていたが」
「そりゃ私もすっぴんは嫌ですけど、厚化粧のままは騙し討ちみたいでもっと嫌です……。申し訳なくて」
「……くっ！」
とうとうヴォルクが噴き出した。ケイの手を離すと、口を押さえて肩を震わせる。
ひとしきり笑うと、ヴォルクは笑いの残る顔で眉を歪めた。
「私相手では、騙し討ちにはならぬと思うが……。そなたは本当に可愛らしいな」
「えっ」
ヴォルクから贈られた初めての言葉にケイはさっと赤面したが、当の本人は自分の発言に気付いていないようだった。部屋の奥にある扉を指し示すとケイの背をそっと押す。
「汗をかくほど激しくするつもりはなかったが……化粧を落とすなら、余計な心配もいらぬな」
「えっ！ いや、そういう意味じゃ――」
「冗談だ。……続きの間に湯が用意してあるはずだ。ゆっくり行ってこい」
「は、はい……」
本気だか冗談だか分からない言葉に送られつつ、ケイはほっと続きの間の扉に手を掛けた。しかし、あることを思い出しヴォルクを振り返る。
「あの……もう一つお願いが……。先ほどの侍女さんを呼んでもらえませんか……」
「なぜだ？」
「ドレスが……一人で脱げません……」
ケイは再び泣きたい気分になった。このタイミングでこの空間に第三者が立ち入るのは「私、これから致します！」と宣言するようで非常に恥ずかしかったが、できないものはできないからどうしようもない。
うつむいたケイの背後にヴォルクが無言で立ち、ため息をつく。
「それは、必要ないな。……私が手伝おう」
「えっ。でも着付け――」
「そなたが私のことをどう思っているかは分からんが……私とて貴族の男だぞ。着せるのはともかく、ドレスの脱がせ方ぐらい知っている」
「……！」
ほの暗い空気を滲ませてヴォルクがつぶやくと、背中のリボンの結び目がシュル……と解かれた。
編み上げられたドレスの背中が、少しずつ寛げられていく。ケイは真っ赤に固まってその時間が終わるのを待っていた。
やがて緩んだ後ろ身頃をヴォルクが左右に開くと、ふわっと胸元に空気が入った。
まずい、見える……！ ケイは慌ててドレスごと胸元を押さえると扉に手を掛けた。
「ありがとうございます！ あとは大丈夫ですから！ それじゃ、行ってきます……！」
勢いよく告げて扉を閉めると、その奥で小さな笑い声が聞こえた。
（焦ったー。焦ったー！ 何あれ。何アレ……！！）
続きの間に飛び込むと、ケイは扉の前にずるずるとへたり込んだ。胸を押さえるとバクバクと激しい鼓動が伝わってくる。
顔どころか耳まで赤くしながら、ケイは左右に揺れて悶えた。
（ヴォルクさん、あんな感じなの！？ 優しいけど、優しいけど、なんか……すごい。しかもほんのちょっと意地悪……！？）
好意を隠さなくなったヴォルクは以前と変わらずひたすら優しい。
けれど、そこに色事の空気が混ざると清廉で真面目なだけではない、年齢相応の――というか普段が普段なだけに綺麗なものの隠された一面を暴くような、背徳的な色気が漂っていた。
それがまっすぐに自分に向けられ、ケイは10代の少女のように激しく動揺する。子供まで産んでるのに、余裕なんて全然ない。
（これからどうなっちゃうの……！？ 私、大丈夫！？）
「はっ……！ 急がないと。えっと、お湯――」
動揺はすれど、いつまでもヴォルクを待たせるわけにはいかない。ケイは立ち上がるとまずは身を包むドレスや下着をすべて脱ぎ捨てた。コルセットからも解放されて、ふぅと大きく息をつく。
続きの間はいわゆる支度部屋になっていて、ケイはドレスを丁寧に椅子にかけた。
あたりを見回すと、この世界での標準的な入浴設備である大きなたらいとポットにお湯が準備されていた。いわゆる湯舟はなくともこれなら上出来だ。
たらいに湯を張ると足だけ浸かり、その他気になるところを手早く洗う。化粧も落としてアップヘアをほどくと、少し結い癖のついた髪といつもの薄い顔が現れた。
湯から上がると、迷ったが用意されていた厚手のガウンにショーツだけを身に着けた。そもそも今日はブラを着けていなかった。
心もとなくスースーする胸元を押さえ、ケイは扉を開けるときょろきょろと室内を見渡す。
「……上がったか」
「あ、はい……」
ケイが部屋に戻ると、ちょうどヴォルクが廊下から入ってきたところだった。どこかに行ってきたのだろうか、酒のボトルと瓶詰の何かを抱えている。
上着を脱いでラフな姿になったヴォルクは、部屋の奥に据えられたベッドのサイドテーブルに瓶を置き、そこに無言で腰かける。
「おいで」
「……はい」
先ほどは室内を見る余裕もなかったが――ベッドが広い。しかも天蓋付きだ。こんなの海外ホテルの検索サイトでしか見たことがない。
ヴォルクに手招かれ、ケイはおずおずとその隣に腰かける。
「そんなに緊張するな。……まあ、私も緊張しているが。少し酒でも飲まないか。厨房で良いものを貰ったのだ」
「あ……いいですね」
照れ臭そうに告げたヴォルクが棚からグラスを二つ出し、サイドテーブルに並べる。そこに琥珀色の液体を注ぐと小さく縁を触れ合わせた。
隣に座るヴォルクは落ち着いていて、緊張とは無縁に見えた。ケイの口紅がまだうっすらと残っていて、この顔で厨房に現れた侯爵に城の使用人はどんな反応をしたのだろうかと心配になった。
「あの……本当に緊張してます？」
「している。……表に出さぬだけだ」
静かに杯を傾けるヴォルクに問いかけると、小さく苦笑しながら答えられた。それが本当なら羨ましい特技だ。
それでもまだ信じがたくて探るように見つめると、ヴォルクは困ったように笑った。それを見て、ケイは少しほっとした。半分程度注がれたグラスに口を付ける。
「あ……美味しい。なんですか？ これ」
「ハーブ酒に蜂蜜を加えたものらしい。……私には甘すぎるな。そなたは好きか」
「はい。体に良さそうな気がします」
少し独特なハーブの味が、まろやかな甘みでうまく中和されている。口に含むと薄いアルコールがほわっと香り、ケイの肩の力が抜けた。
「こっちはなんですか？」
ケイはサイドテーブルに置かれたもう一つの瓶に目を移した。ジャムぐらいの小瓶に液体が満たされ、薄茶色の丸い種のようなものが数個浮いている。
色は薄いがタピオカのような見た目だ。酒に合うおつまみだろうか。
「これは……また後でな。……そなたに一つ、話しておきたいことがある」
「……？ はい」
グラスを置いてヴォルクが手を組んだ。思いのほか深刻な顔にケイもグラスを置くと、ヴォルクの言葉を待った。
だがしばらく待ってもヴォルクはなかなか話し出そうとしない。それほど言いづらい話なのかと固唾を飲んでいると、ヴォルクがようやく口火を切った。
「連れ込んでおいて、今さら言うのも卑怯だが――もしかしたら、今日は最後までできないかもしれない」
「…………。えっ」
予想外の言葉にケイは目を見開いた。ヴォルクを見つめると、彼は気まずく手元を見つめる。
「ど、どうしましたか。急に体調でも……？」
「いや、そうではない。そうではなく――。……前妻が死んでから、男として……十分に機能しない」
「……っ……」
かなり婉曲な表現をされたが――つまり、勃たないということか。眉を寄せるヴォルクにケイは静かに問いかける。
「体の問題ですか……？」
「いや、違う。心の問題だと医者に言われた。実際、生理的なものは見られるし欲もある。ただ、実際の女人を前にすると、大量に出血して死んでいった前妻の顔が浮かんで――駄目だった」
「…………」
ケイは小さく眉を下げた。それは明らかなトラウマではないのか。
そういえば、元の世界の友人も立ち合い出産後に旦那がEDになったと言っていた。ハードな出産、ましてその後に相手が死に至った光景を見てしまったら、そういうこともあるのだろう。それを責める気持ちにはならなかった。
「あ……。もしかして、ずっと再婚しなかったものそれが理由ですか……？」
「それもある。私に再婚話を持ちかける者たちは、多かれ少なかれ侯爵家との姻戚を望んでいるからな。……子を作ろうと意気込んでやってきた花嫁の相手が、不能な男ではあまりに哀れだろう。さすがに理由は告げていないが、とても受け入れる気にはなれなかった」
「そうですか……」
「陛下も心配して、良い医者を紹介してくれたり、しょうか――盛り場に連れ出したりと気遣ってくれたが、効果はなかったな。……将軍と呼ばれる男が、情けないことだ」
「そんな……。関係ないですよ」
ヴォルクが重く息を吐き出す。だが顔を上げると、彼は真剣な目でケイを見つめた。
「それでも、今宵は……そなたとなら、大丈夫なような気がするのだ。……抱きたいと思った。こんなことは、初めてだ」
「……っ」
切実な瞳の中に揺らめく雄の熱に、ケイの頬が染まった。
ケイはもじもじと指を組むと、グラスに残った酒をぐっと流し込む。それを飲み干して勢いをつけると、震える口を開いた。
「あの……それじゃ私も、言いたいことがあって。ヴォルクさんが先に言ってくれたんで、後出しみたいになるんですけど、その――。私、ぬ……」
「ぬ……？」
聞き返され、カーッと、アルコールとそれ以外の恥ずかしさで顔が赤くなる。ケイは目を閉じると消え入りそうな声でつぶやいた。
「濡れ…にくくて……。前からそうなんですけど、産後は特にひどくて、痛くて……。元夫には不感症って言われました。あの、潤滑剤とか、ないですよね……？ 私こそ、最後までできないかもしれません」
「…………」
ヴォルクが呆気にとられたようにケイを見下ろす。言ったそばから、ケイは後悔していた。
元の世界でケイを苦しませたことの一つ。夫婦生活。
結婚前からその兆候はあったが、産後は自身の体の変化なのか心の余裕がなかったからなのか分からないが、本当に苦痛だった。
結局最後までできたことはなく、元夫には冷淡な言葉を投げられた。それもあってか浮気までされて、もとから乏しかった女としての自信はすっかりなくなってしまった。
しょんぼりとうつむくケイに、ヴォルクの大きな手が重ねられた。
「……同じだな。少し……安心した」
「え……」
「私もそなたも、完全ではないということだ。そう思えば、少しは気が楽ではないか？」
顔を上げると、目を細めたヴォルクが見下ろしていた。ケイの頬を撫でながら、慈しむように告げる。
「やるだけやってみよう。お互い、最後までできずとも良い。挿入ばかりが情交ではない。そなたと抱き合って眠れれば……もう、それだけでも十分だ」
「ヴォルクさん……」
ヴォルクの瞳の中に、穏やかな灯りとケイが映っていた。その奥に見え隠れするケイの知らない彼の顔を、感情を、もっと見たい。
ケイは自分から距離を詰めると、そのたくましい首に手を回した。
「……はい」
先に動いたのはケイかヴォルクか。唇を重ねると互いの体温が溶け合い、ヴォルクが低く笑った。
「……甘いな」
