【完結】異世界シンママ ~モブ顔シングルマザーと銀獅子将軍~

43.滴る※


 ガウンを羽織ってヴォルクと共に続きの間のドアを開くと、ケイは目を見開いた。そこに置かれていたものに歓声を上げる。

「バスタブ……! えっ、すごい。この世界に来て初めて見ました……!」

「そうか。王宮にあって、陛下が疲労回復に良いと薦めるのでな……昨年、造ってみたのだ。まあ毎日使っているわけではないが」

「うわー……。懐かしい……」

 主の寝室の隣には、立派な猫足のバスタブがしつらえられていた。この国では非常に貴重なものらしく、それをさらりと取り入れられる侯爵家の財力に今さらながら感嘆する。
 蓋代わりの革をどかすと、湯気がふわっと立ち上る。湯の温度を確かめたヴォルクはさっさとガウンを脱ぐとそこにザブンと浸かった。ケイを見上げ、濡れた髪をかき上げる。

「入りなさい。湯が冷める」

「えっ。……あ、は、はい」

 当然のように促され、ケイはおずおずとガウンを脱ぐとなるべく体を晒さないようにして湯へと入った。湯は少しぬるくなっていたが、ほてった肌にはちょうどいい。
 久しぶりに足先から肩まで温かい湯に包み込まれ、思わず大きなため息が漏れる。

「うはぁあああ~。気持ちいい~……」

「くっ……。喜んでもらえたようで何よりだ。風呂は好きか?」

「はい。向こうでは毎日入っていたので」

「そうか。……地方の領地には温泉がある。落ち着いたら視察がてら、ココも連れて旅行に行こう」

「それいいですね……! ココも絶対喜びます」

 バスタブは広く、両端にいれば互いの体が触れ合うこともない。ハーブか何かが入れられているのか湯は濁っており、視覚的な恥ずかしさも意外と少ない。
 ケイはバスタブの縁に頭を預けるとうっとりと目を閉じた。

「最高です……。ココにも入らせてあげたい……」

「もちろん構わん。私が入っていないときに使うといい」

「ありがとうございます……!」
 
 ケイが目を開けると、ヴォルクは湯をすくって顔と髪を洗い流していた。
 ケイより上背があるため胸から上が見えており、落ちた前髪から水滴がしたたり、それを鬱陶しそうにかき上げる。濡れたたくましい腕と伏し目の競演に、ケイの心臓は跳ね上がった。

(かかか、カッコいい……! エロい……いや、違う。セクシー? いや、色気だ! 色っぽい……!)

 色気が大渋滞している近い将来の伴侶に、ケイは内心で喝采を送ると赤くなった顔を悟られないよう顎まで湯に浸かった。本当に、とんでもない人と夫婦になることになってしまった。
 ヴォルクはふと顔を上げると、沈んでいきそうなケイをぎょっとした目で見る。

「大丈夫か」

「は、はい」

「ココで思い出したが、そなたとココの部屋もそれぞれ準備せねばな……」

「え。お部屋を頂けるんですか?」

 ケイが驚いて返すと、ヴォルクは無言でうなずいた。適当な部屋に二人まとめて置いてもらえればそれで十分なのだが。

「当然だ。そなたは侯爵夫人だからな。あとは服と調度品と――」

「服……。ドレスですか……」

 さすがに毎日スカートを覚悟しなければいけないかとは思っていたが、上流階級ともなれば毎日ドレスを着なければいけないのだろうか。ケイがあからさまにげんなりすると、ヴォルクはなだめるように苦笑する。

「ふっ……。邸内では何を着ていても構わんが、対外的に必要なときもある。正装するのはせいぜい年に数度だ。別に毎日、一人では脱げないような豪奢なドレスを着る必要はない」

「……!」

 ふ、と色を含んだ視線を送られ、宴の夜の一件を思い出してケイは喉の奥が詰まった。そのまままたズルズルと湯に沈んでいくと、心を落ち着かせ、浮上する。

「あの……お願いがあるんですけど」

「なんだ?」

「ココの部屋はまだいいので、その……夜、ココと寝てもいいですか? 元の世界でも、こっちに来てからもいつも一緒に寝てたので……。私の国だと結構多いんですけど、ココが『もういい』って言うまでは一緒にいてやりたいんです。……駄目ですかね?」

 ケイがおずおずと切り出すと、ヴォルクは小さく目を瞬いた。
 ラスタに聞いても、こっちの国では親子は寝室を分けるものだと言われた。けれどヴォルクと再婚する予定になった今、部屋まで分けられてはココと触れ合う時間が減ってしまう。
 ケイのわがままに、ヴォルクはすんなりとうなずく。

「別に構わん。そなたが思うようにさせよう。……子供が子供らしくいられる時間は短い。そなたはそなたのやり方で、愛情を注いでやるといい。一人寝には慣れているしな」

「あ……ありがとうございます」

 意外なほどあっさりと許可が下り、ケイは逆に面食らった。そんなケイを見てヴォルクがふっと笑う。

「……なんだ? そなた、私が毎夜求めるとでも思ったか? 寝室から離さないとでも」

「なっ……! そっ――」

「残念ながらそんなに若くない。たまに来てもらえれば十分だ。……まあ、そなたが求めてくれるなら夜ごとでもやぶさかではないが」

「む、無理です。……からかってますね?」

「そなたの反応が愛らしくてな」

 上機嫌なヴォルクはバスタブの縁に頭を預けると、目を閉じた。首筋をマッサージしながら、ささやくように続ける。

「……本当は、今宵も朝まで離したくない」

「……っ。……すみません、お湯から出たら部屋に戻ります……」

「分かっている。言ってみただけだ。……数年後を楽しみにするとしよう」

 どこか寂しげに苦笑されて、ケイは申し訳ない気持ちになった。
 ヴォルクは、ケイの主張をほとんど聞き入れてくれる。それはありがたいが、自分も何か返せないだろうか。この関係になったからこそできる、自分だけのことを――

(……あ)

 ケイはそろそろとヴォルクに近付くと、彼の隣に座った。湯から手を出すと、そのこめかみに両手で触れる。

「ん……? どうした」

「いえ、また凝ってるかなと思いまして……。あの、目、閉じてください。温まったから楽になるはずです」

「…………」

 至近距離で目を合わせ、ヴォルクは瞬くとふっと笑って目を閉じた。ケイは少し身を乗り出すと、体はヴォルクに触れないようにしてぐっと指を押し込む。
 以前はプライベートな部分ゆえに、触れることができなかった。その顔面に今日ようやく手を伸ばせた。

「ん……」

「痛くないですか? 目の疲れといったらやっぱりまずは周りをほぐしたくなるので」

「大丈夫だ。……気持ちいいな」

 指先に力を込めて、こめかみを丸く揉みほぐす。そのまま眉毛をたどり、高い鼻梁の付け根を圧迫するとヴォルクは薄く息を吐いた。

「ヴォルクさ――、ヴォルク、いつも皺寄ってるから。駄目ですよ、目つきも視力も悪くなりますから」

「そうは言ってもな……。緩んだ顔で仕事をするわけにもいくまい」

「じゃあせめて、おうちにいる時ぐらいはリラックスしてください。えーと、心穏やかでいてください」

「言われずとも心穏やかだ。……そなたたちが屋敷にいた頃、顔が穏やかになったと陛下に言われた。これから先も、きっと続くだろう」

「そ、そうですか……」

 目を閉じたまま満足そうに笑うヴォルクは心からくつろいでいるように見えた。無自覚のカウンターパンチにケイだけが赤くなる。
 ケイは身を乗り出すと、今度はその濡れた銀髪に指を差し込んだ。指を開くと、ゆっくりと頭皮を揉みほぐしていく。

「ああ……。最高の気分だな……」

「そんな大げさな。髪、結構硬いんですね。ハゲなさそうでいいなあ……。うちのお父さん、ツルツルだから」

「そうなのか。……会ってみたかった」

「あんまりカッコ良すぎて『お前騙されてるんじゃないか!?』って私が言われますよ、きっと。……あ、後ろもほぐしますね」

「ああ。……こんなに心地良いなら、もっと早くやってもらえば良かった」

 ヴォルクが心底リラックスしているのが嬉しくなり、ケイのマッサージにも熱がこもる。目を閉じた端正な顔に、いつかの光景が重なった。

「……フィアルカ様も、髪を洗うと気持ちいいって言ってくださいました」

「そうか。……だがこういう場で、身内の名を出すべきではないな。後ろめたい気分になる」

「あはっ。たしかに」

 少し眉をしかめたヴォルクの発言にケイは苦笑した。ヴォルクの首筋をほぐしながら、ぽつりとつぶやく。

「フィアルカ様は、お怒りじゃないでしょうか……。大事な甥が、得体の知れない女にたぶらかされたって」

「くっ……。どちらかというと、たぶらかしたのは私の方だと思うが……。その心配はないだろうな」

「どうしてですか?」

 ケイが聞き返すと、ヴォルクは薄目を開けてケイを見上げた。そして再び瞳を閉じると続ける。

「私宛ての手紙に――いや、あれはもう遺言だな。……それに、『ケイを嫁にもらえ』と書いてあった」

「えっ!?」

 ケイは驚愕して思わず身を乗り出した。パシャンと湯が跳ねてヴォルクが顔をしかめる。

「ごめんなさい。いや、その……あの頃から好意はありましたけど、私そんな素振り見せてないはずですよ!?」

「私もだ。……まったく、今となってはどこまで気付かれていたか分からんな。本当に、死の間際まで心配をかけてしまった」

「はは……。まあ結果的に、フィアルカ様の望み通りになりそうなんでお喜びなんじゃないですかね……?」

「そうだといいが。……さて、ずいぶん長くやってもらったな。楽になっ、た……。――ケイ」

「はい」

「座ってくれ。目のやり場に困る……」

「へ? ――あっ」

 マッサージに一区切りつき、目を開けたヴォルクがそれを見開いた後に再び目を閉じた。腕で目元を隠してしまった彼につられてケイは自身を見下ろすと、小さく叫んでお湯の中に慌てて浸かる。

 ヴォルクの視線から見えたもの。それはしどけない濡れ髪と濡れた肌で、膝立ちで眼前に迫るケイだった。白い胸に押しつぶされそうになり、ヴォルクはとっさに目を閉じたのだった。

「すみませんすみません、決して見せつけるつもりでは――!」

「分かっている。もう何も言うな……」

 慌てて距離を取るが、ヴォルクはいまだ目元を手で隠している。彼は深いため息をつくと低くつぶやく。

「ケイ。悪いが先に出ていてくれ。私はいま出られん」

「え。でも――」

「事情がある。……察しろ」

 ヴォルクが目を開き、恨みがましくケイを見つめた。その目元がうっすら赤らんでいて、ケイはその事情(・・)に思い至った。

「すっ、すみません……!」

「そなたのせいではない。……くそ。まるで説得力がないと思うが、私はもともと欲が強い方ではない。なのにこんな――」

「…………」

 戸惑いをあらわにしたヴォルクは弱りきっていた。赤い顔でもう一度ため息をつくと、ケイに向かって首を振る。

「構わず行ってくれ。しばらくすれば鎮まるだろう。……はぁ。恥ずかしいところを見られたな」

 苛立たしげに髪をかき上げたヴォルクを、ケイはじっと見つめた。胸が、体が、再び熱を持ちはじめる。

(もう少し……だけ。二人の時間を――)

 満たされて、それで十分なはずなのにもっと欲しがる欲張りな自分が顔を出した。ケイはもう一度ヴォルクに近付くと、濡れたその肌を正面から抱きしめた。

「……どうしましょう。私も馬鹿になっちゃったみたいです」

「……ケイ」

「朝まではいられないですけど……もう少しだけ、一緒にいたいです。いいですよね……?」

 湯はとっくに冷めてしまった。それなのに、まだ肌が火照るのはなぜなのか。
 吐息で問いかけたケイに、同じくヴォルクが吐息で返した。

「……もちろんだ」


 新しい侯爵夫妻の熱すぎる初夜は、深夜まで続くようだった。


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