昨日までの愛は虚像でした
「あなたは……イグナシオさまでは、ありませんよね?」
「ご明察、よく分かったね。なかなか、兄上と僕を区別できる人はいない」
侯爵令嬢ファティマの私室へ入ってきたのは、婚約者の公爵令息イグナシオにそっくりの男性だった。
そんな男性は、この世に一人しかいない。
「イグナシオさまの双子の弟君、レアンドロさまですか?」
相手の正体に確信を持つが、どうして訪ねて来たのかまでは分からない。
おそらく、使用人たちはイグナシオだと思って部屋へ通したのだろう。
そうでもなければ、ファティマがひとりでくつろいでいる所へ、未婚の男性を案内したりはしない。
「ご用件をお聞きしますわ」
ほんの少しの警戒心を隠して、ファティマはレアンドロに椅子を勧める。
だが、レアンドロはそれを断る。
「前置きは要らない。手っ取り早く終わらせよう」
「え……?」
ファティマがすべての疑問を口に出すより先に、レアンドロによって長椅子へ押し倒された。
横倒されたファティマの上に、馬乗りになるレアンドロの瞳には仄暗さしかない。
「な、何をするんですか!?」
「無理だろうけど、静かにしてもらおうか。終わるまでは見つかりたくないんだ」
レアンドロは結んでいたタイを解き、それをファティマの口へ突っ込んだ。
呼吸はできるが、喉まで詰められたタイのせいで、声が出せない。
(誰か! 助けて!)
もがくファティマを易々といなし、レアンドロはスカートの中を暴いていく。
ファティマにも、これから何が始まるのか分かってしまった。
(どうして!? イグナシオさまの弟のあなたが……)
ファティマは碌な抵抗もできないうちに、力の差でレアンドロに純潔を奪われてしまう。
それは、あっという間のできごとだった。
「さて、あとは誰かに発見してもらわないと」
声になんの感慨も浮かべず、無表情のレアンドロはファティマを残して出て行った。
長椅子の上では、乱れた髪と流れる涙をそのままに、憐れなファティマが気を失っていた。
◇◆◇◆
その後、家人に見つけられたファティマは、傷物になったことを理由に、イグナシオとの婚約を解消される。
そして代わりに、レアンドロと婚約することになった。
家格の違いもあって、ファティマの両親は公爵家へ強く糾弾できなかったらしい。
「すまん、ファティマ。お前を護ってやれず……」
苦々しい顔つきの父親に謝られたが、起きてしまった過去はどうしようもない。
ファティマはイグナシオを想って泣いた。
しかし、ファティマの哀しみを余所に、イグナシオはすぐに新たな婚約者を迎える。
相手はファティマより3歳も若い、同格の侯爵家の令嬢だという。
身ごもっている可能性もあったため、ファティマはすぐにレアンドロと結婚し、一緒に暮らし始めた。
だが、そこで聞かされたのは、思いもよらないイグナシオの話だった。
「お前を抱いたのは、兄上への仕返しのためだった。……兄上は五年前、僕の婚約者に手を出したんだ」
「イグナシオさまが……まさか」
狼狽えるファティマへ、レアンドロは絵空事ではない証拠を見せてくれた。
『私の愛するレアンドロへ』から始まる手紙には、レアンドロの婚約者だった男爵令嬢エルネスタの懺悔が綴られていた。
闇に紛れて夜這われたエルネスタは、相手がレアンドロだと思ったのだそうだ。
しかし朝になってみると、そこにいたのはイグナシオだった。
レアンドロを裏切ってしまった絶望で、エルネスタは自ら命を絶った。
「じゃあ、この手紙は……」
「エルネスタの遺書だ」
レアンドロへの愛があふれる文章に、ファティマは胸が締めつけられる。
エルネスタとレアンドロは、男爵家と公爵家という身分差を越えて、愛を育んでいたそうだ。
「僕は兄上と違って公爵家を継がないから、両親からエルネスタとの付き合いを見逃されていたんだ。だが、兄上はそれが面白くなかったんだろう。なにしろ自分は政略結婚をさせられるんだから」
それにファティマは反論した。
「私とイグナシオさまの間には、愛情がありました。決して、政略だけの関係では――」
「それは嘘だ。兄上は、見よう見まねで恋愛ごっこをしているだけだ。お前の代わりに婚約者となったアブリル嬢へも、さっそく偽りの愛を囁いていたよ」
「嘘だった? 恋愛ごっこ?」
「兄上は人を愛するってことが分かっていない。エルネスタに手を出したのも、興味本位だったんだ。恋愛ってものがどんなものか、味わってみたかったのさ」
「じゃあ、私とも……」
「もし兄上がお前に本気だったなら、こんなに簡単に婚約者のすげ替えが行われるはずがない。もっと両親に抵抗して、お前との婚約を継続させただろう」
ファティマだけが、イグナシオに夢中になっていたのか。
頭の中で、最後に会ったときのイグナシオを思い返す。
申し訳ありませんでしたと謝罪したファティマへ対し、ひとことも口をきかなかったイグナシオ。
怒っているせいだと思っていたが、最初からファティマに無関心だったとしたら、その態度も頷ける。
「私は道化だったんですね……ひとりで盛り上がって……」
「お前は本当に兄上が好きだったんだな。あんな男を好きになる女がいるとは、思ってもいなかったよ」
レアンドロは、ようやくばつの悪い顔をした。
双子の兄弟で、同じ顔で、公爵家を継ぐか継がないかの違いしかない二人。
どっちと結婚することになろうと、たいした差はないだろうと安直に考え、レアンドロは凶行に走った。
「悪かった。僕の復讐のために利用してしまって……。せめて今後は、お前が幸せになれるよう努力する」
しかし、そんなレアンドロの目を掻い潜り、ファティマは悪意にさらされる。
◇◆◇◆
「あら、どなたかと思ったら、イグナシオさまの元……」
パーティ会場で声をかけてきたのは、見知らぬ令嬢だった。
振り返ったファティマが首を傾げていると、自己紹介をされる。
「初めまして、新たにイグナシオさまの婚約者となりました、アブリルと申します」
「っ……!」
若さ溢れる肢体を惜しげもなく露わにした美しいアブリルに、会場のあちこちから羨望の眼差しが注がれている。
婚約を解消されたファティマと一緒にいる場面は、格好の噂話の的になっていることだろう。
「どんな経緯があったのかは知りませんが、もうあなたとイグナシオさまとの縁は切れたのですから、どうぞ未練など残されませんように」
うふふ、と薄笑いを浮かべ、ファティマへ意味ありげな視線を投げるアブリル。
ファティマよりも自分が上位に立ったことを、分からせに来たのだ。
二人を取り囲む貴族たちの囁きが、否応なく声高になる。
「ご覧になって、元婚約者と現婚約者の対立ですわ」
「アブリルさまは高圧的でいらっしゃるから」
「大人しいファティマさまでは、太刀打ちできないでしょうね」
「どなたか婚約解消の本当の理由をご存じないの?」
「急な取り替え劇でしたものね。でも原因はおそらく、ファティマさまの方に……」
「私の妻に、何か?」
そこへカツカツと靴音も高らかに現れたのは、レアンドロだった。
すぐにファティマの隣に寄り添うと、周囲を睥睨した。
多くの者はそれだけで、ひっと息を飲みそそくさと離れていく。
公爵家に面と向かって物言える貴族など、王族以外では限られている。
「イグナシオさまかと思ったら、レアンドロさまでしたのね。いまだに兄弟の見分けがつきませんわ」
アブリルだけが、居丈高に言い放った。
将来の義弟など、恐ろしくはないのだろう。
「まだ婚約者のあなたとは違い、ファティマはすでに公爵家の一員だ。無礼な振る舞いは控えてもらおう」
しかし、レアンドロも負けてはいない。
アブリルを一喝すると、ファティマを伴って会場を後にした。
残されたアブリルは、悔し気に顔をしかめるしかなかった。
「すまない、僕が目を離した隙に――」
「いいえ、助けていただいて感謝しています」
「君には何の落ち度もないんだ。すべては僕のせいで――」
こうした場面が何度かあって、ファティマはレアンドロ本来の律儀な性格を知るようになる。
初対面で見せた暴力的な部分は、日頃のレアンドロからは微塵も感じられない。
あの一瞬でレアンドロを判断するのは、早計だとファティマは思った。
(誰しもカッとなったり、魔が差すことがあるわ。私だって、それは否定できない)
犯した罪を反省し、償おうとするレアンドロの姿勢を、ファティマは評価しようと決めた。
そしてレアンドロをもっと知るために、ファティマは二人で会話する機会を設けるようになった。
◇◆◇◆
数か月も過ぎると、ファティマに慣れてきたのか、レアンドロは閉ざしていた心の内を見せるようになってきた。
そして時折、亡くなったエルネスタの思い出を、ぽつりぽつりと漏らすようになる。
「エルネスタとの出会いは、僕がまだ少年だった頃で――」
レアンドロが語るエルネスタの姿に、ファティマは癒された。
愛しあっていた二人の話を聞くと、改めてイグナシオとの間にあったものが愛ではなかったと感じる。
本当に愛しあう者同士は尊い。
もうファティマには望めないからこそ、よりレアンドロとエルネスタの関係は美しく思われた。
「僕はエルネスタの無念を晴らしたかった。でも……兄には通じなかった。ファティマだけを不幸にして、僕は――」
レアンドロは何度もファティマへ頭を下げる。
今になって、無意味だった仇討ちの虚しさが分かったのだろう。
むしろレアンドロはファティマを襲ったことで、より多くの苦しみを背負ったかもしれない。
「エルネスタのところへ行きたい。何もかも捨てて……。でもそれでは無責任だ」
レアンドロが傷つけてしまったファティマの名誉を、罵る者たちから護り抜く役目がある。
希死念慮に支配されそうな精神を、レアンドロは奮い立たせた。
「僕ができる償いは、それ位しかない」
エルネスタを失ってから、ずっとしおれていたレアンドロだったが、ファティマを得て気力を取り戻した。
社交界にも次第に、レアンドロとファティマの仲の良さが広まっていった。
それが気に喰わないのはイグナシオだった。
「僕が捨てた者を拾って、どうしてレアンドロは笑っていられる?」
◇◆◇◆
「僕ばかり、つまらない目に合うのはおかしいじゃないか」
「イグナシオさま……?」
「やはりファティマは、正確に僕たちを見分けるね」
パーティ会場から離れた薄暗がりに、ファティマは引きずり込まれた。
そしてその相手に驚愕する。
「手を放してください!」
「何を乙女ぶっているんだ。もう君は傷物だろう?」
「それとこれとは、話が別です」
「違わないさ。弟とやるのも、僕とやるのも」
「嫌! 止めて!」
ファティマの叫びは、レアンドロに届かない。
「前の女は抱いたら死んだが、君は死んでくれるなよ? 男爵令嬢と違って、もみ消すのが大変そうだからな」
心無いイグナシオの言葉に、ファティマの胸はえぐられる。
どれだけレアンドロがエルネスタを愛していたのか、知っているからなおさらだ。
「どうしてそんな酷いことができるの……?」
ドレスの胸元を破られたファティマは、抵抗しつつもイグナシオを問い詰める。
それがイグナシオに響かないと分かっていても、言わずにはいられなかった。
「酷いことでもないだろう? 君は僕に惚れていたじゃないか。こうされて嬉しいはずだ」
感情のこもらない声にゾッとする。
イグナシオの本当の姿を知らず、恋焦がれていたファティマは愚かだった。
今さらかもしれないが、イグナシオに触れられて鳥肌が立つ。
「誰か! 助けて!」
ファティマが懸命に上げた声を聞きつけたのは、まさかのアブリルだった。
イグナシオと絡むファティマを見て、つかつかと駆け寄ってくると、ビシャリと頬を引っ叩く。
「よくもイグナシオさまを誘惑したわね!」
責められたファティマは呆然とした。
イグナシオに迫られて嫌がっているのは明らかにファティマだ。
この状況で、どうしたらアブリルのような判断ができるのか。
「離れなさいよ、この売女! イグナシオさまと、よりを戻そうとしたのね!」
「ち、違うわ! そんなこと……」
「おい、アブリル。邪魔をするな」
もみ合いになったアブリルとファティマを、イグナシオが止める。
「せっかくいいところだったのに」
「イグナシオさま、この女が悪いんでしょ? そそのかされて、うっかり手を伸ばしたのよね?」
「僕を馬鹿にしているのか? 僕の行動は、僕が決める」
「ど……どういうこと?」
「傷物になった女がどんなものか、興味があっただけだ。大袈裟に騒ぐな」
興がそがれた、と零してイグナシオは立ち去る。
助かったファティマは慌てて身なりを整え、女性用の休憩室へ逃げだした。
そこに隠れていれば、戻ってこないファティマを心配して、レアンドロが迎えに来てくれる。
――ぽつんと残されたアブリルは、イグナシオの言葉を反芻していた。
「傷物になった女がいいの? じゃあ私に手を出してくれないのは、私が傷物じゃないから?」
それから数日後、イグナシオとアブリルの婚約が解消された。
アブリルは自分を傷物にするため、パーティ会場で複数人の貴族令息に清らかな体を明け渡したのだ。
そしてその饗宴をイグナシオに見せつけ、「さあ、傷物になった私をどうぞ召し上がれ」と脚を開いたのだが、侮蔑の視線を向けられただけであっけなく捨てられた。
「どうしてええ! どうしてよおおお! イグナシオさまああああ!!!!」
未来の公爵夫人になるための捨て身の努力は、アブリルの首を絞めただけだった。
◇◆◇◆
「またイグナシオは婚約が駄目になったのか」
「父上、もう兄上に好き放題させるのは、止めた方がいいですよ」
溜め息をつく公爵に諫言するのはレアンドロだ。
「いくら公爵家と言っても、悪評が立ちすぎです。二人もの侯爵令嬢と婚約を解消して、次が見つかると思いますか?」
「ファティマ嬢の件は、お前が原因だろう?」
「それだって兄上が、エルネスタに手を出したせいですよ」
あああ、と公爵は頭を抱える。
最近は胃も痛いのか、常備している薬に手を伸ばした。
それを見たレアンドロは、ここぞと提案する。
「いっそのこと兄上じゃなく、僕を後継者にしませんか? 兄上にまともな婚約者が見つかるまでの、期間限定で構いませんから」
「そうだな……しばらくイグナシオは大人しくさせるか」
こうしてレアンドロは、イグナシオから次期公爵の座を奪った。
そしてイグナシオは父親の監視下に置かれ、外出すらも禁じられたのだった。
「ファティマ、これで安心していい。兄上はもう牙を抜かれた獣だ」
「でも……新たな婚約者が見つかれば、復帰するのでしょう?」
「僕がさせない。すべて握りつぶすよ」
奇妙な縁から生まれたファティマとレアンドロの関係だが、このところ上手くいっている。
それどころか、全身全霊でファティマを護ろうとするレアンドロに、ファティマは淡い恋慕すら抱き始めていた。
(だけど、レアンドロさまの中には、今もエルネスタさまがいる。私の入り込む隙間なんて、どこにもないって分かっているわ)
それでもいいから、とファティマはレアンドロを想った。
しかしレアンドロもまた、不可解な自分の感情に戸惑っていた。
(僕が好きなのはエルネスタだ。だが、最近はファティマのことばかり考えている。これではエルネスタにとても顔向けができない)
悩める二人の距離は、なかなか近づかなかった。
◇◆◇◆
そんな中、転機が訪れる。
「……そろそろ孫の顔が見たいと言われた」
久しぶりに公爵家本邸に呼び出されたレアンドロが帰ってくるなり、そう呟いた。
実は二人の間には、最初の一回しか関係がない。
レアンドロはファティマを傷つけた行為を猛省し、それからは一切手出しをしなかったからだ。
「考えてみれば、兄上から次期公爵の座を奪った時点で、次の後継者を残すのは僕だと、気がつかなくてはならなかった。僕の失態だ」
イグナシオから乱暴を働かれそうになったファティマを護るために、レアンドロがイグナシオの失脚を画策した。
おかげで、あれからファティマは安全に暮らせている。
「……跡継ぎについては、僕に考えがある。ファティマは心配しないで」
一体どうするのか。
嫌な予感がしたファティマは、口を濁らせるレアンドロを問い詰めた。
それに対しての回答は――。
「ファティマは知らないかもしれないけど、そういうのを仕事にしている女性がいるんだ。なるべくファティマに似た容姿の人を選んで、愛人契約をしたら子を授かるまで囲おうかと思っている」
ファティマは反対した。
「そんなことをしなくても、私が生みます」
「それはできない。もう僕は、ファティマに手を出さないと誓ったんだ」
「でも、レアンドロさまの妻は私です」
「ファティマの妻の地位は揺るがないよ。あくまでも、相手は子を生んでもらうためだけの愛人だ」
話はしばらく平行線を辿った。
レアンドロを密かに想うファティマにとって、レアンドロが他の女性を抱くなんて想像もしたくない。
たとえそれが、後継者を残すと言う使命のためであったとしても。
(ああ、カッとなって魔が差すというのは、こういうことなのね……)
ついに愛人を見つけようと動き出したレアンドロに、ファティマはこっそり媚薬を盛った。
前後不覚になったレアンドロを、ファティマは寝台へ押し倒す。
そして二人は、二回目の関係を持ったのだった。
◇◆◇◆
「申し訳なかった。僕はもっと、理性的でいなくてはならなかったのに」
翌朝ファティマは、レアンドロから謝られた。
「またファティマを、怖い目に合わせてしまったのではないか?」
「レアンドロさま、私の話を聞いてください」
埒が明かないと判断したファティマは、己の隠し通すつもりだった気持ちを打ち明ける。
「レアンドロさまへの嫌悪感は、ずっと前に無くなっています。むしろ、私の中でレアンドロさまは……」
「僕は……?」
「とにかく、私をもっと妻として扱って欲しいのです。レアンドロさまがエルネスタさまを、今もお慕いしているのは分かっています。だから気持ちがこもらなくてもいいので――」
レアンドロは息を飲んだ。
顔を赤らめて話すファティマの姿は、愛を告白しているも同然だった。
ファティマへの想いを拗らせていたのは、レアンドロだってそうだ。
レアンドロに無理やり乱暴され、そのせいでイグナシオに捨てられた憐れな犠牲者のファティマ。
それにも関わらず、エルネスタを失ったレアンドロの哀しみに共感し、あまつさえ理不尽な行為を許してくれた。
その強さと優しさに、凛とした姿に、レアンドロは心をときめかせていたのだから。
「ファティマ、僕の妻は君だけだよ。始まりは最低だったけど、僕はこの関係を大事にしたいと思っている」
「レアンドロさま……」
「僕の中で、ファティマが一番大切だ。護り切れなかったエルネスタには、いつか謝りに行くよ」
それまでは夫婦でいよう、と締めくくられた。
ファティマとレアンドロは、それから本当の夫婦として生活を始める。
お互いを慈しみ、愛し合った。
その結果、思ったよりも多くの子宝に恵まれ、公爵家は繁栄する。
レアンドロがついにイグナシオへ爵位を譲ることはなかった。
◇◆◇◆
そして――レアンドロの旅立ちの日がやってくる。
「ファティマ、先に逝く。あの世でエルネスタに、君との出会いからこれまでのすべてを話すよ」
「レアンドロさま……」
「そして謝るよ。手紙で『私のことは忘れて』って言われたのに、できなかったって。そのせいで、無関係のファティマを傷つけてしまったって。エルネスタに叱られてくる」
ファティマは皺だらけのレアンドロの手を握る。
もう会話をするだけで、息が途切れ途切れになっている。
レアンドロとのお別れはすぐそこまで来ていた。
「できたら君とのことを、エルネスタに許してもらいたい」
レアンドロはそう言い残し、この世を去った。
25歳でファティマと結ばれ、70歳で倒れるまでの45年間を、立派な夫として過ごして。
レアンドロがエルネスタと恋人同士だった5年間よりも、長い期間をファティマは妻として暮らした。
「だから、私は満足しているわ。レアンドロさまに、たくさん愛してもらえたから。どうかあの世では、エルネスタさまを幸せにしてあげて」
少しでも長く、レアンドロとエルネスタが二人きりで過ごせるように、ファティマは長生きをした。
そしてレアンドロよりも12年ほど遅れて、ファティマは病に倒れ床に臥す。
幸せなことに、たくさんの子どもと孫とひ孫に囲まれ、惜しまれながら静かにこの世を去ろうとした――その時。
『迎えに来たよ、ファティマ』
出会ったときの若い姿で、レアンドロがファティマに手を伸ばす。
白く透き通ったレアンドロの隣には、見知らぬ少女がいた。
少女はファティマに頭を下げる。
『お礼を言いたくて、ついてきました。ありがとうございました。おかげで私の心の傷は、すっかり癒えました』
その言葉を聞いて、これはエルネスタだと分かる。
『本当ならば自死をした私は、もう生まれ変わることが出来ません。でも……立ち直った私に、特別にお許しが出たのです』
きらきらと光を放ちながら、輪郭がなくなっていくエルネスタ。
それを慈しみの目で見送るレアンドロ。
『さようなら、エルネスタ』
『お二人の来世に、幸多からんことを』
完全に消えてしまったエルネスタから、レアンドロの視線がファティマに戻る。
『行こう、ファティマ』
『良かったの? エルネスタさんに、ついて行かなくて?』
気づけばファティマもまた、透き通った姿になっていた。
おそらくこれは魂の姿なのだろう。
『レアンドロも一緒に行けば、同じ時期に生まれ変われるのではないの?』
もしかしたら、二人はやり直せるかもしれないのに。
『僕はファティマを待っていたんだ。これから生まれ変わるまでの静かな時間を、君と過ごしたいと思って』
『私と?』
『まだ伝わっていない? 僕はね、ファティマを愛しているんだよ』
ファティマは、レアンドロのいない死後の世界を、ひとりで過ごすと思っていた。
そうじゃないと分かって、嬉し涙がこぼれ落ちる。
レアンドロはすかさずそれを拭った。
『ファティマ、来世も君と夫婦になりたい。今度こそ、あんな出会いじゃなく』
『レアンドロさま、私も、またあなたの妻になりたい』
手を繋いだ二人の魂が天に昇っていく。
穏やかな春の日の青空へ、それは瞬きする間に消えていった。
「ご明察、よく分かったね。なかなか、兄上と僕を区別できる人はいない」
侯爵令嬢ファティマの私室へ入ってきたのは、婚約者の公爵令息イグナシオにそっくりの男性だった。
そんな男性は、この世に一人しかいない。
「イグナシオさまの双子の弟君、レアンドロさまですか?」
相手の正体に確信を持つが、どうして訪ねて来たのかまでは分からない。
おそらく、使用人たちはイグナシオだと思って部屋へ通したのだろう。
そうでもなければ、ファティマがひとりでくつろいでいる所へ、未婚の男性を案内したりはしない。
「ご用件をお聞きしますわ」
ほんの少しの警戒心を隠して、ファティマはレアンドロに椅子を勧める。
だが、レアンドロはそれを断る。
「前置きは要らない。手っ取り早く終わらせよう」
「え……?」
ファティマがすべての疑問を口に出すより先に、レアンドロによって長椅子へ押し倒された。
横倒されたファティマの上に、馬乗りになるレアンドロの瞳には仄暗さしかない。
「な、何をするんですか!?」
「無理だろうけど、静かにしてもらおうか。終わるまでは見つかりたくないんだ」
レアンドロは結んでいたタイを解き、それをファティマの口へ突っ込んだ。
呼吸はできるが、喉まで詰められたタイのせいで、声が出せない。
(誰か! 助けて!)
もがくファティマを易々といなし、レアンドロはスカートの中を暴いていく。
ファティマにも、これから何が始まるのか分かってしまった。
(どうして!? イグナシオさまの弟のあなたが……)
ファティマは碌な抵抗もできないうちに、力の差でレアンドロに純潔を奪われてしまう。
それは、あっという間のできごとだった。
「さて、あとは誰かに発見してもらわないと」
声になんの感慨も浮かべず、無表情のレアンドロはファティマを残して出て行った。
長椅子の上では、乱れた髪と流れる涙をそのままに、憐れなファティマが気を失っていた。
◇◆◇◆
その後、家人に見つけられたファティマは、傷物になったことを理由に、イグナシオとの婚約を解消される。
そして代わりに、レアンドロと婚約することになった。
家格の違いもあって、ファティマの両親は公爵家へ強く糾弾できなかったらしい。
「すまん、ファティマ。お前を護ってやれず……」
苦々しい顔つきの父親に謝られたが、起きてしまった過去はどうしようもない。
ファティマはイグナシオを想って泣いた。
しかし、ファティマの哀しみを余所に、イグナシオはすぐに新たな婚約者を迎える。
相手はファティマより3歳も若い、同格の侯爵家の令嬢だという。
身ごもっている可能性もあったため、ファティマはすぐにレアンドロと結婚し、一緒に暮らし始めた。
だが、そこで聞かされたのは、思いもよらないイグナシオの話だった。
「お前を抱いたのは、兄上への仕返しのためだった。……兄上は五年前、僕の婚約者に手を出したんだ」
「イグナシオさまが……まさか」
狼狽えるファティマへ、レアンドロは絵空事ではない証拠を見せてくれた。
『私の愛するレアンドロへ』から始まる手紙には、レアンドロの婚約者だった男爵令嬢エルネスタの懺悔が綴られていた。
闇に紛れて夜這われたエルネスタは、相手がレアンドロだと思ったのだそうだ。
しかし朝になってみると、そこにいたのはイグナシオだった。
レアンドロを裏切ってしまった絶望で、エルネスタは自ら命を絶った。
「じゃあ、この手紙は……」
「エルネスタの遺書だ」
レアンドロへの愛があふれる文章に、ファティマは胸が締めつけられる。
エルネスタとレアンドロは、男爵家と公爵家という身分差を越えて、愛を育んでいたそうだ。
「僕は兄上と違って公爵家を継がないから、両親からエルネスタとの付き合いを見逃されていたんだ。だが、兄上はそれが面白くなかったんだろう。なにしろ自分は政略結婚をさせられるんだから」
それにファティマは反論した。
「私とイグナシオさまの間には、愛情がありました。決して、政略だけの関係では――」
「それは嘘だ。兄上は、見よう見まねで恋愛ごっこをしているだけだ。お前の代わりに婚約者となったアブリル嬢へも、さっそく偽りの愛を囁いていたよ」
「嘘だった? 恋愛ごっこ?」
「兄上は人を愛するってことが分かっていない。エルネスタに手を出したのも、興味本位だったんだ。恋愛ってものがどんなものか、味わってみたかったのさ」
「じゃあ、私とも……」
「もし兄上がお前に本気だったなら、こんなに簡単に婚約者のすげ替えが行われるはずがない。もっと両親に抵抗して、お前との婚約を継続させただろう」
ファティマだけが、イグナシオに夢中になっていたのか。
頭の中で、最後に会ったときのイグナシオを思い返す。
申し訳ありませんでしたと謝罪したファティマへ対し、ひとことも口をきかなかったイグナシオ。
怒っているせいだと思っていたが、最初からファティマに無関心だったとしたら、その態度も頷ける。
「私は道化だったんですね……ひとりで盛り上がって……」
「お前は本当に兄上が好きだったんだな。あんな男を好きになる女がいるとは、思ってもいなかったよ」
レアンドロは、ようやくばつの悪い顔をした。
双子の兄弟で、同じ顔で、公爵家を継ぐか継がないかの違いしかない二人。
どっちと結婚することになろうと、たいした差はないだろうと安直に考え、レアンドロは凶行に走った。
「悪かった。僕の復讐のために利用してしまって……。せめて今後は、お前が幸せになれるよう努力する」
しかし、そんなレアンドロの目を掻い潜り、ファティマは悪意にさらされる。
◇◆◇◆
「あら、どなたかと思ったら、イグナシオさまの元……」
パーティ会場で声をかけてきたのは、見知らぬ令嬢だった。
振り返ったファティマが首を傾げていると、自己紹介をされる。
「初めまして、新たにイグナシオさまの婚約者となりました、アブリルと申します」
「っ……!」
若さ溢れる肢体を惜しげもなく露わにした美しいアブリルに、会場のあちこちから羨望の眼差しが注がれている。
婚約を解消されたファティマと一緒にいる場面は、格好の噂話の的になっていることだろう。
「どんな経緯があったのかは知りませんが、もうあなたとイグナシオさまとの縁は切れたのですから、どうぞ未練など残されませんように」
うふふ、と薄笑いを浮かべ、ファティマへ意味ありげな視線を投げるアブリル。
ファティマよりも自分が上位に立ったことを、分からせに来たのだ。
二人を取り囲む貴族たちの囁きが、否応なく声高になる。
「ご覧になって、元婚約者と現婚約者の対立ですわ」
「アブリルさまは高圧的でいらっしゃるから」
「大人しいファティマさまでは、太刀打ちできないでしょうね」
「どなたか婚約解消の本当の理由をご存じないの?」
「急な取り替え劇でしたものね。でも原因はおそらく、ファティマさまの方に……」
「私の妻に、何か?」
そこへカツカツと靴音も高らかに現れたのは、レアンドロだった。
すぐにファティマの隣に寄り添うと、周囲を睥睨した。
多くの者はそれだけで、ひっと息を飲みそそくさと離れていく。
公爵家に面と向かって物言える貴族など、王族以外では限られている。
「イグナシオさまかと思ったら、レアンドロさまでしたのね。いまだに兄弟の見分けがつきませんわ」
アブリルだけが、居丈高に言い放った。
将来の義弟など、恐ろしくはないのだろう。
「まだ婚約者のあなたとは違い、ファティマはすでに公爵家の一員だ。無礼な振る舞いは控えてもらおう」
しかし、レアンドロも負けてはいない。
アブリルを一喝すると、ファティマを伴って会場を後にした。
残されたアブリルは、悔し気に顔をしかめるしかなかった。
「すまない、僕が目を離した隙に――」
「いいえ、助けていただいて感謝しています」
「君には何の落ち度もないんだ。すべては僕のせいで――」
こうした場面が何度かあって、ファティマはレアンドロ本来の律儀な性格を知るようになる。
初対面で見せた暴力的な部分は、日頃のレアンドロからは微塵も感じられない。
あの一瞬でレアンドロを判断するのは、早計だとファティマは思った。
(誰しもカッとなったり、魔が差すことがあるわ。私だって、それは否定できない)
犯した罪を反省し、償おうとするレアンドロの姿勢を、ファティマは評価しようと決めた。
そしてレアンドロをもっと知るために、ファティマは二人で会話する機会を設けるようになった。
◇◆◇◆
数か月も過ぎると、ファティマに慣れてきたのか、レアンドロは閉ざしていた心の内を見せるようになってきた。
そして時折、亡くなったエルネスタの思い出を、ぽつりぽつりと漏らすようになる。
「エルネスタとの出会いは、僕がまだ少年だった頃で――」
レアンドロが語るエルネスタの姿に、ファティマは癒された。
愛しあっていた二人の話を聞くと、改めてイグナシオとの間にあったものが愛ではなかったと感じる。
本当に愛しあう者同士は尊い。
もうファティマには望めないからこそ、よりレアンドロとエルネスタの関係は美しく思われた。
「僕はエルネスタの無念を晴らしたかった。でも……兄には通じなかった。ファティマだけを不幸にして、僕は――」
レアンドロは何度もファティマへ頭を下げる。
今になって、無意味だった仇討ちの虚しさが分かったのだろう。
むしろレアンドロはファティマを襲ったことで、より多くの苦しみを背負ったかもしれない。
「エルネスタのところへ行きたい。何もかも捨てて……。でもそれでは無責任だ」
レアンドロが傷つけてしまったファティマの名誉を、罵る者たちから護り抜く役目がある。
希死念慮に支配されそうな精神を、レアンドロは奮い立たせた。
「僕ができる償いは、それ位しかない」
エルネスタを失ってから、ずっとしおれていたレアンドロだったが、ファティマを得て気力を取り戻した。
社交界にも次第に、レアンドロとファティマの仲の良さが広まっていった。
それが気に喰わないのはイグナシオだった。
「僕が捨てた者を拾って、どうしてレアンドロは笑っていられる?」
◇◆◇◆
「僕ばかり、つまらない目に合うのはおかしいじゃないか」
「イグナシオさま……?」
「やはりファティマは、正確に僕たちを見分けるね」
パーティ会場から離れた薄暗がりに、ファティマは引きずり込まれた。
そしてその相手に驚愕する。
「手を放してください!」
「何を乙女ぶっているんだ。もう君は傷物だろう?」
「それとこれとは、話が別です」
「違わないさ。弟とやるのも、僕とやるのも」
「嫌! 止めて!」
ファティマの叫びは、レアンドロに届かない。
「前の女は抱いたら死んだが、君は死んでくれるなよ? 男爵令嬢と違って、もみ消すのが大変そうだからな」
心無いイグナシオの言葉に、ファティマの胸はえぐられる。
どれだけレアンドロがエルネスタを愛していたのか、知っているからなおさらだ。
「どうしてそんな酷いことができるの……?」
ドレスの胸元を破られたファティマは、抵抗しつつもイグナシオを問い詰める。
それがイグナシオに響かないと分かっていても、言わずにはいられなかった。
「酷いことでもないだろう? 君は僕に惚れていたじゃないか。こうされて嬉しいはずだ」
感情のこもらない声にゾッとする。
イグナシオの本当の姿を知らず、恋焦がれていたファティマは愚かだった。
今さらかもしれないが、イグナシオに触れられて鳥肌が立つ。
「誰か! 助けて!」
ファティマが懸命に上げた声を聞きつけたのは、まさかのアブリルだった。
イグナシオと絡むファティマを見て、つかつかと駆け寄ってくると、ビシャリと頬を引っ叩く。
「よくもイグナシオさまを誘惑したわね!」
責められたファティマは呆然とした。
イグナシオに迫られて嫌がっているのは明らかにファティマだ。
この状況で、どうしたらアブリルのような判断ができるのか。
「離れなさいよ、この売女! イグナシオさまと、よりを戻そうとしたのね!」
「ち、違うわ! そんなこと……」
「おい、アブリル。邪魔をするな」
もみ合いになったアブリルとファティマを、イグナシオが止める。
「せっかくいいところだったのに」
「イグナシオさま、この女が悪いんでしょ? そそのかされて、うっかり手を伸ばしたのよね?」
「僕を馬鹿にしているのか? 僕の行動は、僕が決める」
「ど……どういうこと?」
「傷物になった女がどんなものか、興味があっただけだ。大袈裟に騒ぐな」
興がそがれた、と零してイグナシオは立ち去る。
助かったファティマは慌てて身なりを整え、女性用の休憩室へ逃げだした。
そこに隠れていれば、戻ってこないファティマを心配して、レアンドロが迎えに来てくれる。
――ぽつんと残されたアブリルは、イグナシオの言葉を反芻していた。
「傷物になった女がいいの? じゃあ私に手を出してくれないのは、私が傷物じゃないから?」
それから数日後、イグナシオとアブリルの婚約が解消された。
アブリルは自分を傷物にするため、パーティ会場で複数人の貴族令息に清らかな体を明け渡したのだ。
そしてその饗宴をイグナシオに見せつけ、「さあ、傷物になった私をどうぞ召し上がれ」と脚を開いたのだが、侮蔑の視線を向けられただけであっけなく捨てられた。
「どうしてええ! どうしてよおおお! イグナシオさまああああ!!!!」
未来の公爵夫人になるための捨て身の努力は、アブリルの首を絞めただけだった。
◇◆◇◆
「またイグナシオは婚約が駄目になったのか」
「父上、もう兄上に好き放題させるのは、止めた方がいいですよ」
溜め息をつく公爵に諫言するのはレアンドロだ。
「いくら公爵家と言っても、悪評が立ちすぎです。二人もの侯爵令嬢と婚約を解消して、次が見つかると思いますか?」
「ファティマ嬢の件は、お前が原因だろう?」
「それだって兄上が、エルネスタに手を出したせいですよ」
あああ、と公爵は頭を抱える。
最近は胃も痛いのか、常備している薬に手を伸ばした。
それを見たレアンドロは、ここぞと提案する。
「いっそのこと兄上じゃなく、僕を後継者にしませんか? 兄上にまともな婚約者が見つかるまでの、期間限定で構いませんから」
「そうだな……しばらくイグナシオは大人しくさせるか」
こうしてレアンドロは、イグナシオから次期公爵の座を奪った。
そしてイグナシオは父親の監視下に置かれ、外出すらも禁じられたのだった。
「ファティマ、これで安心していい。兄上はもう牙を抜かれた獣だ」
「でも……新たな婚約者が見つかれば、復帰するのでしょう?」
「僕がさせない。すべて握りつぶすよ」
奇妙な縁から生まれたファティマとレアンドロの関係だが、このところ上手くいっている。
それどころか、全身全霊でファティマを護ろうとするレアンドロに、ファティマは淡い恋慕すら抱き始めていた。
(だけど、レアンドロさまの中には、今もエルネスタさまがいる。私の入り込む隙間なんて、どこにもないって分かっているわ)
それでもいいから、とファティマはレアンドロを想った。
しかしレアンドロもまた、不可解な自分の感情に戸惑っていた。
(僕が好きなのはエルネスタだ。だが、最近はファティマのことばかり考えている。これではエルネスタにとても顔向けができない)
悩める二人の距離は、なかなか近づかなかった。
◇◆◇◆
そんな中、転機が訪れる。
「……そろそろ孫の顔が見たいと言われた」
久しぶりに公爵家本邸に呼び出されたレアンドロが帰ってくるなり、そう呟いた。
実は二人の間には、最初の一回しか関係がない。
レアンドロはファティマを傷つけた行為を猛省し、それからは一切手出しをしなかったからだ。
「考えてみれば、兄上から次期公爵の座を奪った時点で、次の後継者を残すのは僕だと、気がつかなくてはならなかった。僕の失態だ」
イグナシオから乱暴を働かれそうになったファティマを護るために、レアンドロがイグナシオの失脚を画策した。
おかげで、あれからファティマは安全に暮らせている。
「……跡継ぎについては、僕に考えがある。ファティマは心配しないで」
一体どうするのか。
嫌な予感がしたファティマは、口を濁らせるレアンドロを問い詰めた。
それに対しての回答は――。
「ファティマは知らないかもしれないけど、そういうのを仕事にしている女性がいるんだ。なるべくファティマに似た容姿の人を選んで、愛人契約をしたら子を授かるまで囲おうかと思っている」
ファティマは反対した。
「そんなことをしなくても、私が生みます」
「それはできない。もう僕は、ファティマに手を出さないと誓ったんだ」
「でも、レアンドロさまの妻は私です」
「ファティマの妻の地位は揺るがないよ。あくまでも、相手は子を生んでもらうためだけの愛人だ」
話はしばらく平行線を辿った。
レアンドロを密かに想うファティマにとって、レアンドロが他の女性を抱くなんて想像もしたくない。
たとえそれが、後継者を残すと言う使命のためであったとしても。
(ああ、カッとなって魔が差すというのは、こういうことなのね……)
ついに愛人を見つけようと動き出したレアンドロに、ファティマはこっそり媚薬を盛った。
前後不覚になったレアンドロを、ファティマは寝台へ押し倒す。
そして二人は、二回目の関係を持ったのだった。
◇◆◇◆
「申し訳なかった。僕はもっと、理性的でいなくてはならなかったのに」
翌朝ファティマは、レアンドロから謝られた。
「またファティマを、怖い目に合わせてしまったのではないか?」
「レアンドロさま、私の話を聞いてください」
埒が明かないと判断したファティマは、己の隠し通すつもりだった気持ちを打ち明ける。
「レアンドロさまへの嫌悪感は、ずっと前に無くなっています。むしろ、私の中でレアンドロさまは……」
「僕は……?」
「とにかく、私をもっと妻として扱って欲しいのです。レアンドロさまがエルネスタさまを、今もお慕いしているのは分かっています。だから気持ちがこもらなくてもいいので――」
レアンドロは息を飲んだ。
顔を赤らめて話すファティマの姿は、愛を告白しているも同然だった。
ファティマへの想いを拗らせていたのは、レアンドロだってそうだ。
レアンドロに無理やり乱暴され、そのせいでイグナシオに捨てられた憐れな犠牲者のファティマ。
それにも関わらず、エルネスタを失ったレアンドロの哀しみに共感し、あまつさえ理不尽な行為を許してくれた。
その強さと優しさに、凛とした姿に、レアンドロは心をときめかせていたのだから。
「ファティマ、僕の妻は君だけだよ。始まりは最低だったけど、僕はこの関係を大事にしたいと思っている」
「レアンドロさま……」
「僕の中で、ファティマが一番大切だ。護り切れなかったエルネスタには、いつか謝りに行くよ」
それまでは夫婦でいよう、と締めくくられた。
ファティマとレアンドロは、それから本当の夫婦として生活を始める。
お互いを慈しみ、愛し合った。
その結果、思ったよりも多くの子宝に恵まれ、公爵家は繁栄する。
レアンドロがついにイグナシオへ爵位を譲ることはなかった。
◇◆◇◆
そして――レアンドロの旅立ちの日がやってくる。
「ファティマ、先に逝く。あの世でエルネスタに、君との出会いからこれまでのすべてを話すよ」
「レアンドロさま……」
「そして謝るよ。手紙で『私のことは忘れて』って言われたのに、できなかったって。そのせいで、無関係のファティマを傷つけてしまったって。エルネスタに叱られてくる」
ファティマは皺だらけのレアンドロの手を握る。
もう会話をするだけで、息が途切れ途切れになっている。
レアンドロとのお別れはすぐそこまで来ていた。
「できたら君とのことを、エルネスタに許してもらいたい」
レアンドロはそう言い残し、この世を去った。
25歳でファティマと結ばれ、70歳で倒れるまでの45年間を、立派な夫として過ごして。
レアンドロがエルネスタと恋人同士だった5年間よりも、長い期間をファティマは妻として暮らした。
「だから、私は満足しているわ。レアンドロさまに、たくさん愛してもらえたから。どうかあの世では、エルネスタさまを幸せにしてあげて」
少しでも長く、レアンドロとエルネスタが二人きりで過ごせるように、ファティマは長生きをした。
そしてレアンドロよりも12年ほど遅れて、ファティマは病に倒れ床に臥す。
幸せなことに、たくさんの子どもと孫とひ孫に囲まれ、惜しまれながら静かにこの世を去ろうとした――その時。
『迎えに来たよ、ファティマ』
出会ったときの若い姿で、レアンドロがファティマに手を伸ばす。
白く透き通ったレアンドロの隣には、見知らぬ少女がいた。
少女はファティマに頭を下げる。
『お礼を言いたくて、ついてきました。ありがとうございました。おかげで私の心の傷は、すっかり癒えました』
その言葉を聞いて、これはエルネスタだと分かる。
『本当ならば自死をした私は、もう生まれ変わることが出来ません。でも……立ち直った私に、特別にお許しが出たのです』
きらきらと光を放ちながら、輪郭がなくなっていくエルネスタ。
それを慈しみの目で見送るレアンドロ。
『さようなら、エルネスタ』
『お二人の来世に、幸多からんことを』
完全に消えてしまったエルネスタから、レアンドロの視線がファティマに戻る。
『行こう、ファティマ』
『良かったの? エルネスタさんに、ついて行かなくて?』
気づけばファティマもまた、透き通った姿になっていた。
おそらくこれは魂の姿なのだろう。
『レアンドロも一緒に行けば、同じ時期に生まれ変われるのではないの?』
もしかしたら、二人はやり直せるかもしれないのに。
『僕はファティマを待っていたんだ。これから生まれ変わるまでの静かな時間を、君と過ごしたいと思って』
『私と?』
『まだ伝わっていない? 僕はね、ファティマを愛しているんだよ』
ファティマは、レアンドロのいない死後の世界を、ひとりで過ごすと思っていた。
そうじゃないと分かって、嬉し涙がこぼれ落ちる。
レアンドロはすかさずそれを拭った。
『ファティマ、来世も君と夫婦になりたい。今度こそ、あんな出会いじゃなく』
『レアンドロさま、私も、またあなたの妻になりたい』
手を繋いだ二人の魂が天に昇っていく。
穏やかな春の日の青空へ、それは瞬きする間に消えていった。