ミルクティーの音色
別にいい。俺はピアノを弾いているときだけ、向こうに行ける気がする。


その『向こう』がどこなのか、俺は分かっているようで分からない。
いや、本当は分かっていて、分からないふりをしているだけなのかもしれない。


佐々木さんも以前、そんなことを言っていた気がする。


『本を読んでるときは、違う場所に行ける気がするんです。なんか、向こう側っていうか。それに、ぜんぶ忘れられる』


ぜんぶ、忘れられる。
忘れたいことがあるという意味を隠し持った言葉だった。


佐々木さんが忘れたいと願うことはなんなのだろう。
出来ることなら、俺もそれを忘れさせてあげられる存在になりたい。


俺といるときは、気も張らずにいてほしい。
安心して、すべてを預けられるような、存在になれたら───


考え事をしながら歩いていたからか、向こうから歩いてきた男とぶつかった。
すいません、と小声で呟く。
男からは舌打ちが返ってくる。
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