眼差しより鋒をくれ

1

 射すような視線に気付く。雪は黒板から振り返った。黒板といいながら、濃い緑色の板へ押し付けられた白墨の粉が砕け落ちていく。
 教師である。前に立っているのだし、視線が集まるのは不思議ではない。授業中だ。黒板へ注目するほうが理想的なくらいである。だが、そうではない。今から引かれる白い線への関心ではない。それとは異質の眼差しがある。
 雪は、その主を探し当てた。これが初めてではない。だが誰のものなのかは曖昧にしていた。けれども、それももう叶わないらしい。()ち合ってしまう。
 色白の、髪の黒さがさらにそれを強調した男子生徒だ。癖毛が瀟洒(しょうしゃ)な印象を与えるために、頭髪の加工禁止の校則を犯しているように見えた。
「もう、鏑木(かぶらぎ)くん。そんな見つめないでよ。先生、照れちゃうじゃない」
 彼女はおどけてみせた。生徒たちが一気に鏑木という生徒を見遣った。最もベランダ側に近い列の最後尾、掃除用ロッカーの前の席である。クリーム色のカーテンも、彼を嘲笑うように、風を抱いて(たわ)む。
 どっと笑いが起こった。
 上手くやったつもりでいたのは、ほんのわずかな時間のことであった。一生徒が笑われてしまう結果になってしまったのだ。
「前を見るのはいいことだけれど、黒板ね。ほら、こうやって、内職してる子もいるんだから」
 雪は別の教科のワークを開いている生徒のもとへ行き、それを取り上げた。
「ごめ~ん」
 その生徒は両手を合わせた。ちょうどよかった。
「じゃあ、牧村くん。便覧の42ページを読んで」
 牧村はあたふたとページを繰った。
「うん。あ……待って、雪ちゃん」
「先生、ね」
「あ、うん、塔本せんせ。ここの字、読めない」
 開かれたページを覗き込む。牧村から、男性用ボディペーパーにありがちなシトラスとミントの匂いがした。
「先生」
 牧村の指が示す漢字を探る。その間に、また別の生徒が声を上げた。
「ちょっと待ってね―」



 雪は頭の沈む浮遊感で目が覚めた。ついていた頬杖で、そのまま顔を覆った。すでに日が沈んでいる。気怠い身体を無理矢理立ち上がらせた。
 ドアポストから紙が滑り落ちてくる。拾わずとも、書かれている内容は知っていた。今から出れば、入れた相手を捕まえられるはずである。しかし怖かった。相談する機関はいくらでもある。だが彼女はそれで安堵しなかった。


 学年主任に呼び出されたのは放課後のことであった。数日前の事柄についての指導である。つまり、鏑木という生徒に対しての注意の仕方が適切ではないという旨のことであった。生徒と教師である。あのような指導は誤解を招くらしい。実際、雪と鏑木が並々ならぬ関係にあるという噂さえ流れているらしい。或いは、雪が鏑木を贔屓しているとさえ。
 鏑木は、見目の麗しい男子生徒であった。それは雪も認めるところである。だが、子供である。親の保護と養育なしに何もできない子供だ。成績優秀で、授業態度も悪くはなく、対人関係にも何ら問題のない、手のかからないゆえの都合の良い愛らしさがあることは認めるが、そこに色恋の情はない。
 気にしていなかったことだけに、驚きと相俟って、大きな罪悪感を芽生えさせた。同時に内心では自己弁護しようとしていた。しかし謝るほかない。まずは、それを指導するしかない学年主任へ。それから、鏑木へ。
 鏑木の家へ電話を掛けたが、出たのは家事代行員であった。家が資産家らしかった。それを羨む声を聞いたことがある。
 雪もまた、公僕と蔑まれ、聖職とも謳われる教師だが、俗世間の、格差社会の一員である。社会的動物であれば、力関係というものを気にしてしまうのだ。税金を食み、公平と平等の理想を掲げようと、貧困家庭よりも資産家の力というものを恐れるのである。一口にいえば、彼女はこの瞬間、家事代行員などというそう普遍的ではない概念と触れ合ったときから、鏑木 兎馬(とうま)を恐れた。教室の端の、無害で穏和しい、手のかからない分存在の薄い生徒を。


 雪はドアポストの紙を拾った。溜めておくわけにはいかない。拾った(はず)みで、習慣として、無意識に、二つ折りのそれを開いてしまう。
『淫乱教師』と書いてある。彼女は咳をするように乾いた笑いを漏らした。


 外面上は避けまいと努めていた。しかし意識してしまう。鏑木のクラスでの授業が苦痛になった。
 執拗な眼差しの往なし方も分からない。鏑木と関わりたくなかった。気付かないふりをした。そこにも気力を削がれていく。
「雪せんせ」
 牧村が呼んだ。素行は悪くないが、成績については悩ましい生徒であった。地頭は悪くないが鈍さがある。
「塔本先生、ね」
「うん。とぉもとせんせー。ここ、よく分からんです」
 教壇側の生徒が辞書か何かを取りに、ロッカーへと向かっていった。雪は牧村のほうへ寄って通路を空ける。
「先生」
 それが誰のものかなど、ろくに考える間もなかった。咄嗟に振り向くと鏑木が手を挙げている。
「ちょっと……待って………」
 牧村の質問が頭に入らなかった。窮鼠というのは大袈裟だったが、雪のなかに、ある閃きが起こる。
「みんな!分かった人は、分からない人に教え合おうか」
 ところが、無駄である。鏑木が他の生徒と親しくしているところなど見たことがない。あの生徒には友達などいないのだろう。
「あ!分かった。鏑木くん、問4でしょ?えっとね―……」
 牧村が勢いよく振り返る。日焼けで傷んだ髪が外へ上へと跳ねている。捻られた首から、ボディシートの清涼感が薫った。


 ピンポーン……
 ピンポーン……ピン……ピンポーン
 ピンポ……ピンポンピンポンピンポンピンポン

 シンクへ、何か物が落ちた。高い音が鳴る。雪の肩が跳ねた。幻聴である。だが彼女の心臓は早鐘を打ち、落ち着くのにはまだ時間がかかる。

 ピンポーン


「先生」
 そこに音もなく、鏑木が立ってる。
 放課後に受け持ったクラスで、書類をまとめていたときだった。生徒たちがみな帰り、職員室へ行こうとしていた。雪は座っていた。立っている鏑木を見上げるかたちになる。伏せがちな長い睫毛が反って見えた。瞳が、その奥まで曝け出さんばかりに雪を見つめている。授業中の、(きっさき)じみた眼差しを注がれている。
「ど、どうしたの」
 雪は髪を耳に掻けた。無意識が、彼を恐ろしいものだと認識している。人間は俗世間に甘やかされ、人間至上主義を錯誤し、捕食者を気取っているけれど、所詮は被捕食者なのだと、知らしめられる。人間の世界では、目を合わせることが礼儀とされているが、野生動物ならば違うのだろう。それをまざまざと理解させられる。
「塔本先生に相談があるんです」
 彼女はこの子供が怖かった。忙しいふりをして立ち上がる。特に今する必要のない正理整頓をはじめた。
「授業のこと?どこか分からないところがあった?わたしの授業が分かりづらいとか……?」
 ゆえに、あのような、睨むのともまた異なる眼差しをくれるのか。
「違います」
 切り捨てるような即答であった。
「成績のこと?進路のことかな。西谷(にしたに)先生なら職員室にいらっしゃると思うけれど」
 授業内容の相談ではないのなら、クラス担任の西谷先生にするべきだ。
「塔本先生に相談があるんです」
「そ、そう……じゃあ、職員室で……」
 妙な噂が流れていると、学年主任は忠告したが、雪自身がそれを感じたことはなかった。だが火のないところに煙は立たない。煙を湯気と勘違いする輩もいる。煙かと思えば目脂かも知れない。
 だが、厄介なのは、鏑木の縹緻(きりょう)がいいことにある。教師と生徒。女と男。要らない誤解を招く。
「いいえ……他の人には聞かれたくないので」
 一体、何の相談だというのだろう。興味よりも、不安が募る。あの授業中、その視線について言及さえしなければ、疑うことなどなかったのだろう。
「忙しい……ですか」
 相手に忖度を求めるような沈黙があった。明らかに萎縮した鏑木の顔を見ると、雪も良心が痛む。
「分かった。多目的室でいい……?」
 雪は鏑木を置いていくかのようにせかせかと歩いて移動した。共にいるところを見られたくなかった。幸い、校舎に残っている人たちは少なかった。
「塔本せんせ~」
 スクイズボトルを持った牧村が、裏玄関から入ってきた。そこが部室棟から一番近かった。
 牧村は人懐こく雪のところへやって来て、それから後ろの鏑木を一瞥した。
「面談?」
「そ。牧村くんは部活か。頑張ってね」
「うん~。せんせ~、さよぉなら」
「さようなら」
 陽気な生徒は水道に用があるらしかった。部室棟の水道が埋まると、時折運動部が裏玄関からやって来ることがある。
 人気(ひとけ)のないところまで来た時だった。
「先生は、牧村がお気に入りなんですか」
 鏑木がぽつりとこぼした。
「え……?」
 立ち止まって振り返る。鏑木はふいと目を逸らした。
「……っ」
 眉間に皺が寄っている。
「何を言っているの?」
 厳しい口調になってしまった。また妙な噂が立つことを恐れた。牧村を贔屓しているつもりはなかった。ただあの生徒の気質として、関わり合いが多くなるだけである。
「なんでもないです」
「おかしなこと言わないで」
 鏑木とは何もないのだ。それを知らしめようとばかりに、語気が強くなる。しかしそれを鏑木に知らしめたところで、噂が鎮火するとも思えなかった。そしてその噂がどの程度、流布(るふ)しているのかも雪自身知らずにいる。
「……すみません」
 彼女は男子生徒を睨みつけてから、また歩を進めた。
 多目的室は増設されたばかりの多目的棟にあった。補習や選択制の科目で使われていた。どこか病院を思わせる内装であった。床が艶やかに照っている。校舎の陰気な古臭さがない。
 入ってすぐの部屋を選んだ。先に鏑木を通したが、閉めろとばかりの視線を食らう。他に人はいなかったけれども、教師として生徒のプライバシーは守らなければならなかった。
「それで、相談って?」
 鏑木の座っている机に、雪も椅子を回して座った。何気なく置いた手に、鏑木の手が伸びる。体温が重なった。瑞々しい肌理(きめ)を感じる。咄嗟に手を引っ込めようとしたが、乗っていた掌に力が入った。重みによって、手を退げることができない。児啼爺とかいう妖怪を思わせた。手を掴まれている。
「な、何……?」
「勉強に、身が入らなくて……」
 男子生徒は顔を俯かせていた。手を掴む力が強まっている。
「何か、悩んでいることがあるの……?」
 取り繕って笑みを浮かべる。手を退こうとするが、放そうとしない。雪は苛立っていた。自身にも悩みがある。それは目の前の生徒についてだった。教師が生徒に手を出しているなど、矜持を傷付ける噂だ。不名誉なことこのうえない。信用を失う。
 悩んでいるのはこちらであると怒鳴り散らしたい気分だった。そもそも、クラス担任の西谷に打ち明けるべきことである。そうでなければ、西谷の顔に泥を塗るようなものである。クラス担任を差し置いて、教科担任に相談を求めるなど。子供には分からない、縦の繋がりがあるのだ。
 牧村について揶揄されたことにも腹が立っている。
 雪の怒りは静かなものであった。黙っている鏑木を冷ややかに見ていた。黙っていては何も分からないと嫌味のひとつでもぶつけたくなってしまった。しかし体面を保っていたかった。相手が切り出すのを待つ。他人の体温が熱い。色の白い、涼しそうな鏑木にも体温があるらしい。
「先生のことばかり、考えてしまうんです……」
 彼女は手を引っ込めようとした。しかし固く握られていた。爛れそうだ。疼く。
「どうして?やっぱり授業が、分かりづらい?」
「……先生が、好き。先生のことが、好きなんです」



 インターホンが鳴った。この高い音が嫌いだった。
『姉ちゃん、オレだよ、オレ』
 雪は安堵した。けれど恐ろしくも慌てて玄関扉を開いた。弟の(あられ)が立っている。
「よかった……霰。変な人に会わなかった……?」
 彼女はすぐに弟を引き入れようと腕に触れた。だが躊躇した。弟は数日前に、何者かに切り付けられたのだった。
「ああ、さっき、モデルみたいなイケメンとすれ違ったよ。こんなマンションにも、あんな人がいるんだねぇ」
「こんなマンションって。一応わたしが住んでるんですけど」
「はっはっは。でもどうして?何かあったの?」
「ううん。別に」
 霰は切り付けられたことについて、まったく気にしている様子がなかった。楽観的なのだろう。酔っ払いや、質の悪い人間の仕業だと思っているらしかった。警察にすら通報していない。そういう人間はどこにでもいるのだそうだ。しかし呑気なことである。
「あ、そうだ、これ、お土産ね」
 ケーキの箱が差し出される。最近は、必要最低限の外出しかしていなかった。弟なりに、そんな姉を気遣っているらしい。
「ありがとう。わたしもそろそろ、とりあえずアルバイトからでも、働きに出ないと……」
「なんだよ、急に。……もう少し休んでいたら。お金のことなら気にするなって、親父も言ってたし、さ」
 弟が笑った。ふと、亡くなった生徒の顔がそこに重なった。


「……勘違いじゃない?」
 静かな部屋であった。早まっている鼓動を聞かれているのではあるまいか。彼女は努めて冷静な態度を装った。
「あなたたちくらいの年頃になるとね、年上の女の人に憧れを持ち始めるの。教師としてはあまりこう言える立場ではないけれど、そういうのは、本当は同じ年頃の女の子たちに向くものだから、きっと勘違い。聞かなかったことにしてあげる。だから勉強、頑張ってね。次のテスト、楽しみにしているから」
 語気が柔らかくなるように、彼女なりに努力したのだった。この男子生徒は、教師にそういったことを打ち明ければ、相手にどれほどの負担がかかるのか理解していないのだろう。成績は優秀だが、結局のところまだ子供である。子供を突き放さなければならないのには気力が要る。
「勘違いではありません。勘違いなんかじゃないんです」
「今はそう思うだけ。もう少し大人になったとき、きっと今の発言が軽率だったと気付くだろうし、きっと恥ずかしくなると思うの。先生は忘れるから、鏑木くんも、もうそのことはあまり考えてはだめ。勉強も大事だろうけれど、少し休んだほうがいいんじゃない?睡眠時間はきちんととれているの?しっかり食べて、しっかり寝る。それが大事」
 この生徒は何を期待しているのだろう。たとえそれが本気の恋慕だったとしても、教師と生徒で恋愛をするわけにはいかない。それを知らないのであろうか。勉学一辺倒というのも考えものである。
 重なっている手が冷えていく。そして這うように去っていった。
「どうして、先生は……そんなふうに言うんですか。困るなら困ると言ってくれればいいじゃないですか。どうして、俺の気持ちごと否定するんですか。俺はずっと、今後……この気持ちは全部、勘違いかも知れないって思いながら生きていくんですか」
 雪の目は、無意識に鏑木を疎んでいた。視界に入らないようにしていた。所在なく、窓の外を凝らしていた。この学校の生徒の溜まり場になってしまいそうな密集した商業施設を。斜向かいのホームセンターは、最近できたばかりで、敷地内には一軒屋のファストフード店を抱えている。そういう場所で、生徒同士語り合っていればよかったのだ。何故、本人に撃ち落とされに来るのであろう。
 ところが彼女は、震える音吐(おんと)を聞き、鏑木のほうを向いた。俯いているために脳天だけが見えた。加工を疑ってしまうウェーブした黒い髪が垢抜け、よく似合っていた。指導されたとおり、直毛に矯正はしていないようだ。加工は原則禁止のはずだが、直毛にするならば加工が認められているのもおかしな話である。
 背は平均的にはあるけれども、華奢な肩を戦慄かせ、やがて小さな水滴を落とした。
「俺は確かに、未成年で、年下です……断られるのは仕方ないと思っていました。でも、そんなふうに、なかったことにされるなんて思ってませんでした。勉強が手につかないのも、ごはんが喉を通らないのも、眠れないのも、全部……気のせいだっていうんですか。ただ断ってくれるだけで、よかったんです、俺は」
 彼女は子供に求め過ぎてしまった。断られることを理解しているのなら何故打ち明けたのか。断る側の労力について慮りはしないのか。それを知らされて、今後どのように接すればいいのか。相手は教師といえど他者である。甘えすぎだ。鏑木を責める言葉が喉の辺りで渦を巻き、段々と腹が立ちはじめた。しかし、己の立場を鑑みれば、呑み込むほかない。教師である。大人である。相手は未成年で、生徒だ。
「分かった。それは先生が悪かったよ。鏑木くんの気持ちを否定してごめんなさい。打ち明けてくれてありがとう」
 苛立ちに身体が熱くなっていた。だが雪は、そういう内面はひた隠し、この場の空気に合わせ、毅然とした態度で接していた。
「……時間を割いてくださって、ありがとうございました」
 鏑木は静かに席を立った。


 インターホンが鳴った。今度こそ、鼓膜を震わせ音である。頭の中で鳴り響いている音ではなかった。
 雪は出るか出まいか迷った。
『ガス点検でーす』
 忘れていた。そういうはがきが確かに来ていた。エントランスのポストは封じてしまったため、中傷ビラに紛れて、ドアポストに届いていたのだった。今日だったらしい。彼女はチェーンを外して、玄関扉を開けた。何か白いものが、ドアから落ちていく。紙であった。玄関前は紙が散乱していた。ガス点検業者にすまなく思った。
「やっと出てきてくれた……」


 ただでさえ気の重かった授業は、鏑木によってさらに嫌気が差してきていた。告白は断ったはずである。相手もそれは承知しているかのような口振りであった。だがあの眼差しは今も変わらない。
「雪せんせ~」
 息苦しさのあまり溜息を吐きたくなったとき、牧村が手を挙げた。
「塔本先生、ね」
「とぉもとせんせぇ、ここ分かんない」
 雪は牧村の開く教科書を見遣った。そして説明文に線を引き、解説する。
「おお~、とぉもと先生、好き~」
 にぎやかな生徒には、にぎやかな友人たちがついている。牧村、塔本先生のこと大好きだからな。
「あら、嬉しい。プラス5点してあげちゃう」
 ふざけがちな牧村とその友人たちに、雪なりにふざけたつもりだった。しかし視界を突っ切るような眼差しに気付くと、そちらを見遣らずにいられなかった。鏑木の燃えるような双眸に曝されていた。毛穴のひとつひとつに薪を焚べるかのような視線なのだ。
 雪は慄然として、目を逸らす。生徒たちとのじゃれ合いは楽しかった。しかし冷水をかけられた気分であった。水を差された心地である。
「さ、みんな。あと2分、頑張ってみて」
 腕時計を確かめて、手を打ち鳴らす。
「先生」
 鏑木が、呼んだ。
 雪はその男子生徒を一瞥した。
「分からない人がいたら、教え合ってもいいよ」
 ところが人数的に、鏑木の席だけぼこりと1つ後ろに出ているのだった。とはいえ、周りにも生徒はいる。しかし決まって、仲の良い間柄でしかコミュニケーションは生まれなかった。鏑木は艶福家ではあるようだが、こういったときに頼り頼られる相手ではないらしかった。
 雪は、焦った。
「先生。分からないです」
 行かねばならなかった。オフィスサンダルを踏み出した。
「何、鏑木くん。どこが分からないの?」
「塔本先生!問5じゃない?そこはね、」
 牧村は4つほど席の離れた鏑木を振り返って、先程雪が解説したところの説明をはじめた。成績は悪いが、地頭はそう悪くない生徒だった。
「どう?今ので、分かった?」
 鏑木は牧村のほうを見ていたが、話が終わると、雪を見上げた。瞳孔のすべてで食らいつこうとするような貪欲な希求を、彼女はそこに見つけそうになってしまった。
「分かりません、先生」
 無防備に、机に手を置いた。
「どこが分からないの?全部解けてるみたいだけれど……」
 そこに他人の体温が重なる。反対の手で、設問をなぞろうとしたときだった。
「先生……やっぱり俺…………先生のことが、」
 冷たい手に、強く握られる。何故、今言うのか。何故……
「もう、鏑木くんたら。答え、もう分かってるじゃない」
 牧村に接するように声を上擦らせた。
「正解。答え合わせするまで、待っててね」
 逃げるように教壇へと戻る。もう鏑木のほうを見ることができなかった。
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