愛に目覚めた凄腕ドクターは、契約婚では終わらせない
プロローグ
 午前七時半。
 藤本佳菜は、地域の基幹病院である藤本総合病院で心臓血管外科医として働いている夫、和樹を見送るため、ふたりで暮らしているマンションの玄関に向かった。
 紺色のスーツの上にコートを着た夫は、今日も息をのむほどかっこいい。間近で彼の顔を見ることにまだ慣れず、つい首の辺りを見てしまう。夫は背が高いから、それでも少し見上げる感じになる。
「今日のお帰りは、何時ごろになりそうですか?」
「おそらく、十時を過ぎると思います。食事は先に済ませてしまってください」
 優しいテノールがそう答えた。
 和樹はいつも、落ち着いている。
「わかりました」
 和樹の帰りは、同じ病院で小児科の看護師として働いている佳菜より遅いことが多い。
 そういう日の夕飯は、サッと食べられる軽めのものを用意しておくことにしている。
 靴ベラを使って革靴を履き、和樹が佳菜と向き合う。
「……」
 そのまますぐ、いってきますを言うのかと思ったら、なにか言いたげな顔で、黙って佳菜の顔を見てくる。
「……どうかなさいました?」
 まじまじと見られ、そわそわしてしまう。これ以上見つめられたら、顔が赤くなってしまいそうだ。
「いえ、なんでもありません」
 頭に浮かんだ考えを振り払うみたいに、和樹が首を横に振る。
「では、いってきます」
「はい、いってらっしゃいませ」
 佳菜は玄関から出ていった和樹を見送って、鍵をかけた。
 和樹はいつもかなり早めに出勤するが、三十分後には、今日は日勤の佳菜も家を出る。
「ふう……」
 小さくため息をついて、リビングへと廊下を戻る。
 また、明日から和樹の分もお弁当を作るかどうか聞けなかった。彼は今日のランチも、病院の地下にあるコンビニで買ったパンをかじるのだろう。
 朝晩だけでなく、昼食の弁当まで作るというのは、出過ぎた行為なのだろうか。
 どういう距離感で夫に接するのが正解なのか、誰か教えてほしい。
 結婚したというのに、佳菜は自分が夫に遠慮しすぎなのか、近寄りすぎなのか、よくわからなかった。
 それもそのはず、ふたりは交際期間を経ての恋愛結婚ではなく、まったく交際せず、突然契約結婚をしたばかりなのだ。

 ──話は十日前にさかのぼる。
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