愛に目覚めた凄腕ドクターは、契約婚では終わらせない
第一章 天の助け
師走のある特別寒い日の夜。
森下佳菜は、父方の祖父である宗治とともに、行きつけの寿司屋のカウンターで夕食を楽しんでいた。
地元の商店街の一角にあるこの店は、一品料理も美味しく、値段も良心的で、宗治のお気に入りだった。
作家ものらしき皿に盛られた石鯛の煮物には、細く刻まれたショウガが添えられている。さっそく箸を伸ばし、身を口に運ぶと、しっとりとしていて甘みがあり、思わず口元が緩んだ。
「んーっ、この煮物最高です、大将」
「石鯛は、いまが旬だからね」
丸い顔をした寿司屋の店主が、さらに顔を丸くして笑う。
「そうそう。生き物には、旬ってものがあるんだ」
祖父はまあまあ酔っているようだ。赤い顔で徳利を傾けたが、お猪口には雫しか落ちなかった。
「佳菜、お前もう二十五だろう」
「まだ二十四と十一か月だよ」
佳菜の誕生日は、クリスマスイブと同じ日だ。みんな一発で覚えてくれる。
「そんなこと言って、ぼやぼやしてたらあっという間に旬が過ぎちまうぞ」
こんな小言を言われるのは、いつものことだ。そして、佳菜が右から左へと聞き流すのも、いつものことだ。
「果物は腐りかけが美味しいって言うじゃない」
佳菜は二十四年間生きてきて、一度も恋人というものができたことがない。
かといって、男性が苦手なのかというと、べつにそんなことはなかった。ただ中高一貫の女子校を出て、大学の看護学科に進んだものだから、周囲が常に女性だらけで、男性と縁がなかったというだけで。
いまも、勤め先が総合病院の小児科なので、出会う男性は子供か、その父親ばっかりだ。
「佳菜が腐りかけるまで待たされたら、俺は腐り終わって骨になっとるわ」
「おじいちゃん、まだ七十四でしょ。若い若い。私が五十になるくらいまでは、ピンピンしてるって」
佳菜は本気でそう思っていた。
実際、宗治はもう七十を過ぎているとは思えないほど若々しい。肌には張りがあるし、髪だってさすがに白いものが増えてはきたものの、まだフサフサだ。大きな病気をしたことも、一度もない。
「まったく、ああ言えばこう言う」
大将、そろそろ寿司くれ寿司、と宗治がカウンターの向こうに声をかけた。
「はいよ、アワビお待ち」
威勢のいい声とともに、握りたての寿司が宗治と佳菜の前に置かれた。
さっそくいただく。
「ん~、これこれ」
目をつぶって味わう。コリコリとした食感がたまらない。磯の風味が口いっぱいに広がっていく。
佳菜は寿司で、貝類が一番好きだ。大将はそれを知っているから、何も言わずともいつもアワビから握りをはじめてくれる。
この寿司屋には、七十まで現役で心臓血管外科医を続けていた祖父とふたりで、月に一回は夜に食べにくる。
佳菜はいま、祖父とふたり暮らしだ。
佳菜の両親は、佳菜が小学校に入ってすぐの頃、交通事故で亡くなった。十二月の中旬、佳菜を祖父母に預け、ふたりで佳菜への誕生日プレゼント兼クリスマスプレゼントを買いに行った帰りに、居眠り運転をしていたトラックと正面衝突してしまったのだ。
それから佳菜は父方の祖父母に育てられたが、可愛がってくれた祖母は、佳菜が成人式の振袖を着たのを見た数か月後に、末期の肺がんで亡くなってしまった。
母方の祖父母は佳菜が生まれる前に亡くなっているから、ひとりっ子の佳菜にとって身寄りといえるのは、もう宗治しか残っていない。
だから、早く結婚しないかと祖父がヤキモキしてしまう気持ちもわかるのだ。とはいえ、相手の必要な話だから、心配されてもどうしようもないのだが。
「だいたい私が結婚しちゃったら、おじいちゃんどうするの。ひとりで暮らせないでしょ。毎日お寿司食べにきてたら、年金なんてすぐなくなっちゃうよ」
次々と握られてくる寿司を口に運びながら、佳菜は言った。
宗治は、典型的な昭和の男だ。庭の手入れや壊れた家具の修理などはやるが、家事はほとんどしない。元心臓血管外科医だけあって手先はものすごく器用なひとだから、やらなくてはいけない状況になれば、なんでもできるのだろうが。
「俺か? 俺は、たったひとりの孫娘が嫁に行ったら、安心してコロリと逝くさ」
「またすぐそういうこと言う」
人間は案外コロリとなんて逝けないことを、よく知っているくせに。
「大将、日本酒」
「もうだめ。最近血圧高いのに飲みすぎ。大将、赤だしください。私の分も」
「はいよ」と、店主は笑って言う。
「佳菜ちゃんはほんとしっかりものだよね。いい嫁さんになるよ」
「ありがとうございます」
カウンターに置かれたシジミの赤だしを味わう。
美味しい。貝のうまみが、じんわりと体に染みわたっていくようだ。酒を終了させられたことにぶつぶつ言っていた宗治も、「美味い」と小さく呟いた。
コートを着て、カラカラと引き戸を開き、店の外に出る。
「寒っ」
十二月の冷たい空気が、容赦なく襟元から入ってくる。大判のストールをぐるぐると適当に首に巻いていると、お会計を済ませた宗治が上着を手に持って中から出てきた。
「うおっ、寒いな」
「ね。早く上着着なよ」
空からはハラハラと小さな花びらみたいな雪が降っていて、地面は湿っている。朝には積もっているかもしれない。
ここから家までは、歩いて十分くらいだ。早く帰って、熱いお風呂に入りたい。
佳菜は歩きだそうとした。
しかし、宗治がついてくる様子がない。
「おじいちゃん?」
振り返ると、片袖だけ上着に通した宗治が、左胸を押さえて立っていた。
苦し気な表情から、ただ事ではないとわかり、佳菜は慌てて宗治に駆け寄った。
「おじいちゃんっ、どうしたの、胸が痛いの!?」
「だいっ──」
大丈夫と言おうとしたのだろうができず、宗治は膝から崩れ落ちた。それをなんとか受け止めて、佳菜は「おじいちゃんっ」と叫んだ。
異変を察して、寿司屋の中から店主が飛び出してきた。
「佳菜ちゃん、どうしたっ」
「大将、救急車呼んでください、おじいちゃんがっ……!」
「わかった」
店主はすぐさま店の中にとって返した。
「ぐうぅ……」
宗治が自分の腕のなかで、苦しそうに呻く。服の胸元を握りしめている右手は、ぶるぶると震えている。
どうしよう、どうしよう。
佳菜の頭のなかはそればっかりだった。仮にも看護師なのになにもできず、おろおろするばかりで情けないったらない。
電話を終えたらしい店主が再び店の外に出てきて、佳菜と宗治の前にしゃがんだ。
「宗治さん、しっかりしろ、いま救急車が来るからなっ」
「おじいちゃん……やだよ……」
子供みたいな声が出た。
道路についた膝が、溶けた雪でじんわり濡れていく。
祈るような思いで救急車を待った。
ちらほらといる通行人が、どうしたのだろうというようにこちらに視線を送ってくる。
「──どうしました?」
斜め後ろから声を掛けられ、パッと振り返る。
「あっ……」
紺色のコートとスーツを着た男性の顔を、佳菜はよく知っていた。
佳菜が勤めている藤本総合病院の心臓血管外科医、藤本和樹だ。院長の次男で、三十二の若さで外科のエースと呼ばれている。
こんなときに心臓の名医に会えるなんて、天の助けとしか思えなかった。
「あのっ、おじいちゃんが、急に胸を押さえて苦しみだして……!」
佳菜が話し終える前に、和樹は宗治の前に膝をついていた。
「森下さん、森下さん、大丈夫ですか」
宗治の肩を二回叩いて、和樹が尋ねた。佳菜は彼が祖父を森下と呼んだことに驚いた。
「胸が、無茶苦茶いてぇ……」
絞り出すように、宗治が言った。
「意識はハッキリしてますね。救急車は?」
「もう呼びました」
「よし、うちの病院に運んでもらいましょう」
そう言われ、さらに驚いた。
話しぶりからすると、和樹は佳菜のことも知っているようだ。
藤本総合病院は、地域の基幹病院で、医師だけで百人以上いる。看護師となるとその五倍はいるし、佳菜は他科の看護師だ。宗治に至っては、四年前まで心臓血管外科医ではあったが、藤本総合病院と繋がりがあったなんて話は聞いたことがない。
だから、とても意外に思った。
いったいなぜ、和樹は自分たちのことを知っているのだろう。
「この人は?」
と、寿司屋の店主が不思議そうな顔をしている。
「私が働いてる病院の、お医者さん」
「お医者さまか! それは安心だ」
少しして、サイレンを鳴らしながら商店街の細い道に救急車が入ってきた。
立ち上がった和樹が救急車に向かって、大きく手を振る。その背中が大きく見えた。
救急車がすぐ前に停車し、中から救急隊員がふたり、ストレッチャーを運んできた。
「患者さんはそちらですか」
「心筋梗塞の疑い、意識レベル一。私は藤本総合病院の心臓血管外科医の藤本です、私が診ます」
てきぱきと指示を飛ばし、和樹は宗治とともに救急車に乗り込んだ。
「森下さんも一緒に」
「は、はいっ」
店主に小さく頭を下げ、佳菜も救急車に乗った。
救急車が、またサイレンを鳴らして、走りだす。その間に、和樹はもう宗治の胸元をはだけさせて、聴診器を当てている。
「……もうそんなに痛くない」
横たわっている宗治が、気まずそうに呟いた。
「先生、その様子だと胸痛初めてじゃないでしょう」
和樹はたしなめるように言った。
宗治を、先生と呼んだ。やはり医師だったことを知っているようだ。
「そうなの? おじいちゃん」
「知らん」
強がってはいるが、宗治の額には脂汗が浮かんでいる。握っている手も冷たい。ピークは越えたようだが、まだかなり痛むのは間違いない。
「不整脈も少し出てますよ。まず間違いなく、心筋梗塞の前兆です……藤本病院にコールしてください」
和樹は救急隊員に指示を出し、すぐに電話を替わった。病院に残っていたスタッフに指示を出している。心臓血管外科の専門用語が多く、小児科のナースである佳菜には、着いたらすぐなんらかの処置をしてもらえるということしかよくわからなかった。
それでも、和樹の様子が落ち着き払っていたので、不安はずいぶんと軽減された。
藤本総合病院には、十分ほどで到着した。
救急玄関に停車してすぐに救急車のドアが開き、宗治が運び出された。待ち構えていた病院のスタッフの中には、佳菜の同期の看護師がいて、驚いた顔をされた。
「あら、森下さん?」
「私の祖父なんです。どうぞよろしくお願いします」
「そうだったの、了解。先生、冠動脈造影検査、準備できています」
「わかった。森下さんは、ひとまず廊下の椅子で待っていて」
「は、はい」
宗治が救急の処置室へ運ばれていく。
宗治のコートを抱え、佳菜は邪魔にならないよう、すぐに廊下に出た。
いくらもしないうちに、宗治が心臓外科の検査室へ移動するためにストレッチャーに乗ったまま出てきた。術衣に着替えさせられ、酸素マスクをつけられている。
「おじいちゃん……」
宗治の見た目が若々しいうえに、実の父親を早く亡くしたこともあり、佳菜は宗治のことを祖父というよりは父親に近い感覚で捉えているところがあった。
それが、こんなふうに患者としての姿を見せられると、急に老けたように感じてしまい、心細くなる。
なんでもない、というように、宗治がひらひらと手を振る。
続いて、こちらもドクターのユニフォームである青いスクラブに着替えを済ませた和樹が、廊下に出てきた。
「森下さん」
「は、はい」
佳菜は立ち上がった。
「これから、冠動脈に造影剤を流し込んで、X線撮影する検査をします。股の付け根から動脈にカテーテルを入れ、冠動脈まで持っていきます」
「はい」
「結果が出て詰まりかけている箇所がはっきりしたら、そのままバルーンとステント──筒状になった網目の金属を使って、血液を再開通させます」
「……はい」
心臓の血管に金属を入れるなんて、なんだかとても恐ろしい感じがした。
不安は顔に出たらしく、和樹は大丈夫、というようにひとつ頷いた。
「メスを入れるわけではないので、体の負担は軽いです。入院も数日で済みますよ」
心臓血管外科の名医である和樹がそう言ってくれるなら、心強い。
「わかりました。どうぞよろしくお願いします」
と、深く頭を下げる。
そのあとは運ばれていく宗治に邪魔にならないようについていき、検査室前の椅子に腰を落ち着けた。
時刻は午後九時を過ぎている。
通常の診療時間を過ぎているため、病院内の照明は昼間より暗い。
静かだ。コツコツと誰かが廊下を歩く音が、遠くからかすかに聞こえてくる。
ここには毎日出勤しているし、夜勤にだって入ることがあるのに、いつもの病院とはまったくべつの場所のように感じた。
宗治のコートを抱えなおす。嗅ぎなれた、祖父の匂いがした。
和樹は、宗治の胸痛が初めてのことではない可能性に言及していた。
いったいいつから異変を抱えていたのだろう。一緒に暮らしているのに、全然気づかなかった。
腕時計を見て、時刻を確かめる。前回見た時から、二分も経っていない。あまりの時間の進まなさに、時計が壊れているのではないかと思ってしまう。
宗治のことが心配で、かといってできることもなく、佳菜はスマートフォンを開いた。
ずらっと並んだ連絡先を眺める。そして、自分にはこんなときに連絡する相手のひとりもいないことに気が付いた。
友達がいないわけではないが、祖父のことなど報告されても困るだろう。仕事を休む必要はなさそうだから、上司に話すのも明日の業務時間内でいい。
親戚はいない。恋人もいない。そのことを寂しいと思ったことはいままでなかったが、誰もいない病院の廊下でポツンと座っていると、冬の空気のような寂しさを感じた。
スマートフォンを鞄にしまう。
「おじいちゃん……」
首に巻いたストールに顔をうずめて、目を閉じる。泣いてしまいそうだった。
佳菜にとっては何十時間にも思えた時間が過ぎ、やっと処置室から出てきた宗治は、空いていた個室に運ばれた。
佳菜も一緒に部屋に入る。
「おじいちゃん、大丈夫?」
「おう」
さすがに疲れた顔をしているが、もう痛みはないようだ。酸素マスクももう外されている。繋がれている管は、点滴のみだ。
「森下さん、どうぞ座ってください」
和樹がベッド脇に置かれている丸椅子に座り、その隣にある椅子を佳菜に勧めてきた。
宗治を運んできた看護師たちは、点滴の具合を確認して部屋を出ていく。
「まず……改めまして、ご無沙汰しております、森下先生。藤本総合病院の心臓血管外科医、藤本和樹と申します」
和樹が宗治に深く頭を下げた。
「どこで君に会ったかな。覚えていなくて申し訳ない」
「覚えていらっしゃらなくて当然です。僕が医学部を出てすぐの初期研修のときだけですから、当時先生がいらした病院の心臓血管外科にお世話になったのは」
「ああ、研修生だったのか」
医大を出て医師国家試験に受かった者は、専門科を決定する前に二年間、様々な診療科で研修をすることになっている。
「藤本、ということは、院長のご子息か?」
「はい。僕は次男です」」
「たしかに腕が立つご子息がいると噂で聞いたことがあるが……この病院は、脳外科で有名なはずだ。なぜ心臓血管外科医に?」
「僕も自分が脳外科に進むものだとばかり思っていたのですが……初期研修で先生の手技を目の当たりにして、感銘を受けました。まさに神の手でした」
当時を思い出したのか、和樹は感慨深げに言った。
「それで研修期間終了後、すぐ藤本には入らず、大学病院の心臓血管外科で修業を積んで、二年前、藤本に心臓血管外科を作ったんです」
佳菜が大学の看護学科を卒業して藤本に入ったのと同時期に、和樹が入ってきて心臓血管外科を作ったのは知っていた。しかしまさか、それが宗治の影響だったとは。
「おじいちゃんって……そんなにすごい人だったんですか?」
家で見る宗治はずっと、どこにでもいるようなごく普通の男性だったし、仕事の話をすることはほとんどなかった。
「有名も有名。この国の心臓血管外科医で森下先生のことを知らないドクターなんてひとりもいませんよ」
そう言われても、あまりピンとこなかった。
「俺の話はいいよ、もう引退した、ただの爺さんだ」
宗治がひらひらと手を振る。
「では、病状のご説明をさせていただきます」
和樹が表情を引き締めた。
佳菜も丸椅子の上で背筋を伸ばす。
「冠動脈造影検査後、そのままカテーテル・インターベンションを行い、狭窄していた血管はひとまず押し広げました。ただ……一枝病変でしたらこれだけでよかったのですが、他の冠動脈もあまりいい状態とは言えません。なので、僕としては、冠動脈バイパス手術を受けられることをお勧めします」
和樹がそう言うと、宗治は思い切り渋い顔をした。
「こんなじいさんにか」
冠動脈バイパス手術とは、体の別のところから切り取ってきた血管の、一方を大動脈に繋ぎ、もう一方を詰まった箇所の先に縫い付ける手術だ。バイパス用の血管としては、胸や胃、上肢の動脈がよく使われる。ということを、佳菜は待たされている間にスマートフォンで調べていた。
「手術に耐えられないほどご高齢ではないと思います」
「しかし、百パーセント安全な手術でもない」
「そんな手術はありません。先生はよくご存じではないですか」
「じゃあ、しない」
「おじいちゃん!?」
佳菜は耳を疑った。誰よりも知識があるはずの宗治が、まさか手術を断るだなんて思ってもみなかった。
「俺は五千人の心臓を切ってきた。いまさら自分が手術されるのなんざ怖くはないが、この子が嫁に行くまでは絶対に死ねないんだよ」
「えっ、私?」
佳菜は自分を指さした。
「万に一つでも、俺が死んだら、佳菜が一人になっちまうだろうが」
佳菜はさっき廊下で待っていたときの心細さを思い出した。
宗治が亡くなったら。そんなことは考えたくもない。
でも自分のために、宗治が必要な手術を受けないのは、違う気がした。
「おじいちゃん、すぐ手術を受けた方がいいって。おじいちゃんが一番若いのは、いまなんだから」
そうそう、というように、和樹が隣で頷く。
「なるべく早いうちに手術していただいた方が、成功率が高いです」
「──先生は、何人死なせた?」
「え?」
「俺は五十一人だ」
宗治は和樹をまっすぐに見つめて言った。
「全員のことを、いまでもはっきり覚えている。手術しても回復しないまま亡くなった人もいれば、いったん回復しても合併症で違う病気になって、結局亡くなった人もいる。いいか、五十一人だ。さっき先生が『神の手』と言った俺でもだ」
「私は──」
「まだ一人も死なせていないか? それは先生が若くて、症例が少ないからだろう。俺が最初の一人目にならないとどうして言える? 先生は俺より腕がいいと、胸を張って言えるのか?」
「……それは」
和樹は口をつぐんだ。表情に悔しさが滲んでいる。
「おじいちゃん……」
佳菜にも、宗治が言わんとすることがわかった。
冠動脈バイパス手術は、成功率がそれほど低い手術ではない。それでも宗治は、うまくいかなかった場面に何度も立ち会っている。
だからこそ、たとえ名医と言われていようとも、自分よりかなり若く経験の浅い和樹を信じられないのだ。
「佳菜はもう二十五だ。あと何年もしないうちに嫁に行くだろう」
「いや、それは……あと、二十四と十一か月だってば」
これから恋人を作って、結婚して、となると、何年かかってしまうのか想像もつかない。この人なら恋人になってくれそうという心当たりもまったくないし、どうやって探せばいいのかもわからなかった。
「一番まずかったところにはステントが入ったんだし、リスクを伴うくらいなら、佳菜が片付くまでは薬で騙し騙し生きていた方がいいと思っている……まあ、酒はまたやめるさ」
「おじいちゃん……」
宗治は現役時代、いつ病院に呼び出されるかわからなかったから、休みの日でもほとんど酒を飲まなかった。かなりの酒好きなのにだ。
それがまた禁酒生活に戻るなんて。しかも佳菜のために。
世間体だとか、ひ孫が見たいだとか、そんな理由で宗治が結婚しろとうるさいのだったら、馬鹿なこと言ってないで手術を受けてと、もっと強く言える。
しかしそんな理由ではなく、長年かけて築き上げてきた外科医としての思いや、自分がいなくなったあとの佳菜の身を案じてのことだとわかるだけに、どうしていいのかわからなくなる。
佳菜は助けを求めるように、隣にいる和樹を見た。
和樹はあごの下に指をあてて、考え込むような表情をしていた。
「……先生のご意向はわかりました。でも、もう一度よく考えてみてください」
心筋梗塞についての知識がふんだんにある宗治相手に、和樹もそれしか言えなかったようだ。
彼が手術をすると言ってくれているのに、こんな家庭の事情で振り回すような形になってしまって、本当に申し訳ないと佳菜は思った。
森下佳菜は、父方の祖父である宗治とともに、行きつけの寿司屋のカウンターで夕食を楽しんでいた。
地元の商店街の一角にあるこの店は、一品料理も美味しく、値段も良心的で、宗治のお気に入りだった。
作家ものらしき皿に盛られた石鯛の煮物には、細く刻まれたショウガが添えられている。さっそく箸を伸ばし、身を口に運ぶと、しっとりとしていて甘みがあり、思わず口元が緩んだ。
「んーっ、この煮物最高です、大将」
「石鯛は、いまが旬だからね」
丸い顔をした寿司屋の店主が、さらに顔を丸くして笑う。
「そうそう。生き物には、旬ってものがあるんだ」
祖父はまあまあ酔っているようだ。赤い顔で徳利を傾けたが、お猪口には雫しか落ちなかった。
「佳菜、お前もう二十五だろう」
「まだ二十四と十一か月だよ」
佳菜の誕生日は、クリスマスイブと同じ日だ。みんな一発で覚えてくれる。
「そんなこと言って、ぼやぼやしてたらあっという間に旬が過ぎちまうぞ」
こんな小言を言われるのは、いつものことだ。そして、佳菜が右から左へと聞き流すのも、いつものことだ。
「果物は腐りかけが美味しいって言うじゃない」
佳菜は二十四年間生きてきて、一度も恋人というものができたことがない。
かといって、男性が苦手なのかというと、べつにそんなことはなかった。ただ中高一貫の女子校を出て、大学の看護学科に進んだものだから、周囲が常に女性だらけで、男性と縁がなかったというだけで。
いまも、勤め先が総合病院の小児科なので、出会う男性は子供か、その父親ばっかりだ。
「佳菜が腐りかけるまで待たされたら、俺は腐り終わって骨になっとるわ」
「おじいちゃん、まだ七十四でしょ。若い若い。私が五十になるくらいまでは、ピンピンしてるって」
佳菜は本気でそう思っていた。
実際、宗治はもう七十を過ぎているとは思えないほど若々しい。肌には張りがあるし、髪だってさすがに白いものが増えてはきたものの、まだフサフサだ。大きな病気をしたことも、一度もない。
「まったく、ああ言えばこう言う」
大将、そろそろ寿司くれ寿司、と宗治がカウンターの向こうに声をかけた。
「はいよ、アワビお待ち」
威勢のいい声とともに、握りたての寿司が宗治と佳菜の前に置かれた。
さっそくいただく。
「ん~、これこれ」
目をつぶって味わう。コリコリとした食感がたまらない。磯の風味が口いっぱいに広がっていく。
佳菜は寿司で、貝類が一番好きだ。大将はそれを知っているから、何も言わずともいつもアワビから握りをはじめてくれる。
この寿司屋には、七十まで現役で心臓血管外科医を続けていた祖父とふたりで、月に一回は夜に食べにくる。
佳菜はいま、祖父とふたり暮らしだ。
佳菜の両親は、佳菜が小学校に入ってすぐの頃、交通事故で亡くなった。十二月の中旬、佳菜を祖父母に預け、ふたりで佳菜への誕生日プレゼント兼クリスマスプレゼントを買いに行った帰りに、居眠り運転をしていたトラックと正面衝突してしまったのだ。
それから佳菜は父方の祖父母に育てられたが、可愛がってくれた祖母は、佳菜が成人式の振袖を着たのを見た数か月後に、末期の肺がんで亡くなってしまった。
母方の祖父母は佳菜が生まれる前に亡くなっているから、ひとりっ子の佳菜にとって身寄りといえるのは、もう宗治しか残っていない。
だから、早く結婚しないかと祖父がヤキモキしてしまう気持ちもわかるのだ。とはいえ、相手の必要な話だから、心配されてもどうしようもないのだが。
「だいたい私が結婚しちゃったら、おじいちゃんどうするの。ひとりで暮らせないでしょ。毎日お寿司食べにきてたら、年金なんてすぐなくなっちゃうよ」
次々と握られてくる寿司を口に運びながら、佳菜は言った。
宗治は、典型的な昭和の男だ。庭の手入れや壊れた家具の修理などはやるが、家事はほとんどしない。元心臓血管外科医だけあって手先はものすごく器用なひとだから、やらなくてはいけない状況になれば、なんでもできるのだろうが。
「俺か? 俺は、たったひとりの孫娘が嫁に行ったら、安心してコロリと逝くさ」
「またすぐそういうこと言う」
人間は案外コロリとなんて逝けないことを、よく知っているくせに。
「大将、日本酒」
「もうだめ。最近血圧高いのに飲みすぎ。大将、赤だしください。私の分も」
「はいよ」と、店主は笑って言う。
「佳菜ちゃんはほんとしっかりものだよね。いい嫁さんになるよ」
「ありがとうございます」
カウンターに置かれたシジミの赤だしを味わう。
美味しい。貝のうまみが、じんわりと体に染みわたっていくようだ。酒を終了させられたことにぶつぶつ言っていた宗治も、「美味い」と小さく呟いた。
コートを着て、カラカラと引き戸を開き、店の外に出る。
「寒っ」
十二月の冷たい空気が、容赦なく襟元から入ってくる。大判のストールをぐるぐると適当に首に巻いていると、お会計を済ませた宗治が上着を手に持って中から出てきた。
「うおっ、寒いな」
「ね。早く上着着なよ」
空からはハラハラと小さな花びらみたいな雪が降っていて、地面は湿っている。朝には積もっているかもしれない。
ここから家までは、歩いて十分くらいだ。早く帰って、熱いお風呂に入りたい。
佳菜は歩きだそうとした。
しかし、宗治がついてくる様子がない。
「おじいちゃん?」
振り返ると、片袖だけ上着に通した宗治が、左胸を押さえて立っていた。
苦し気な表情から、ただ事ではないとわかり、佳菜は慌てて宗治に駆け寄った。
「おじいちゃんっ、どうしたの、胸が痛いの!?」
「だいっ──」
大丈夫と言おうとしたのだろうができず、宗治は膝から崩れ落ちた。それをなんとか受け止めて、佳菜は「おじいちゃんっ」と叫んだ。
異変を察して、寿司屋の中から店主が飛び出してきた。
「佳菜ちゃん、どうしたっ」
「大将、救急車呼んでください、おじいちゃんがっ……!」
「わかった」
店主はすぐさま店の中にとって返した。
「ぐうぅ……」
宗治が自分の腕のなかで、苦しそうに呻く。服の胸元を握りしめている右手は、ぶるぶると震えている。
どうしよう、どうしよう。
佳菜の頭のなかはそればっかりだった。仮にも看護師なのになにもできず、おろおろするばかりで情けないったらない。
電話を終えたらしい店主が再び店の外に出てきて、佳菜と宗治の前にしゃがんだ。
「宗治さん、しっかりしろ、いま救急車が来るからなっ」
「おじいちゃん……やだよ……」
子供みたいな声が出た。
道路についた膝が、溶けた雪でじんわり濡れていく。
祈るような思いで救急車を待った。
ちらほらといる通行人が、どうしたのだろうというようにこちらに視線を送ってくる。
「──どうしました?」
斜め後ろから声を掛けられ、パッと振り返る。
「あっ……」
紺色のコートとスーツを着た男性の顔を、佳菜はよく知っていた。
佳菜が勤めている藤本総合病院の心臓血管外科医、藤本和樹だ。院長の次男で、三十二の若さで外科のエースと呼ばれている。
こんなときに心臓の名医に会えるなんて、天の助けとしか思えなかった。
「あのっ、おじいちゃんが、急に胸を押さえて苦しみだして……!」
佳菜が話し終える前に、和樹は宗治の前に膝をついていた。
「森下さん、森下さん、大丈夫ですか」
宗治の肩を二回叩いて、和樹が尋ねた。佳菜は彼が祖父を森下と呼んだことに驚いた。
「胸が、無茶苦茶いてぇ……」
絞り出すように、宗治が言った。
「意識はハッキリしてますね。救急車は?」
「もう呼びました」
「よし、うちの病院に運んでもらいましょう」
そう言われ、さらに驚いた。
話しぶりからすると、和樹は佳菜のことも知っているようだ。
藤本総合病院は、地域の基幹病院で、医師だけで百人以上いる。看護師となるとその五倍はいるし、佳菜は他科の看護師だ。宗治に至っては、四年前まで心臓血管外科医ではあったが、藤本総合病院と繋がりがあったなんて話は聞いたことがない。
だから、とても意外に思った。
いったいなぜ、和樹は自分たちのことを知っているのだろう。
「この人は?」
と、寿司屋の店主が不思議そうな顔をしている。
「私が働いてる病院の、お医者さん」
「お医者さまか! それは安心だ」
少しして、サイレンを鳴らしながら商店街の細い道に救急車が入ってきた。
立ち上がった和樹が救急車に向かって、大きく手を振る。その背中が大きく見えた。
救急車がすぐ前に停車し、中から救急隊員がふたり、ストレッチャーを運んできた。
「患者さんはそちらですか」
「心筋梗塞の疑い、意識レベル一。私は藤本総合病院の心臓血管外科医の藤本です、私が診ます」
てきぱきと指示を飛ばし、和樹は宗治とともに救急車に乗り込んだ。
「森下さんも一緒に」
「は、はいっ」
店主に小さく頭を下げ、佳菜も救急車に乗った。
救急車が、またサイレンを鳴らして、走りだす。その間に、和樹はもう宗治の胸元をはだけさせて、聴診器を当てている。
「……もうそんなに痛くない」
横たわっている宗治が、気まずそうに呟いた。
「先生、その様子だと胸痛初めてじゃないでしょう」
和樹はたしなめるように言った。
宗治を、先生と呼んだ。やはり医師だったことを知っているようだ。
「そうなの? おじいちゃん」
「知らん」
強がってはいるが、宗治の額には脂汗が浮かんでいる。握っている手も冷たい。ピークは越えたようだが、まだかなり痛むのは間違いない。
「不整脈も少し出てますよ。まず間違いなく、心筋梗塞の前兆です……藤本病院にコールしてください」
和樹は救急隊員に指示を出し、すぐに電話を替わった。病院に残っていたスタッフに指示を出している。心臓血管外科の専門用語が多く、小児科のナースである佳菜には、着いたらすぐなんらかの処置をしてもらえるということしかよくわからなかった。
それでも、和樹の様子が落ち着き払っていたので、不安はずいぶんと軽減された。
藤本総合病院には、十分ほどで到着した。
救急玄関に停車してすぐに救急車のドアが開き、宗治が運び出された。待ち構えていた病院のスタッフの中には、佳菜の同期の看護師がいて、驚いた顔をされた。
「あら、森下さん?」
「私の祖父なんです。どうぞよろしくお願いします」
「そうだったの、了解。先生、冠動脈造影検査、準備できています」
「わかった。森下さんは、ひとまず廊下の椅子で待っていて」
「は、はい」
宗治が救急の処置室へ運ばれていく。
宗治のコートを抱え、佳菜は邪魔にならないよう、すぐに廊下に出た。
いくらもしないうちに、宗治が心臓外科の検査室へ移動するためにストレッチャーに乗ったまま出てきた。術衣に着替えさせられ、酸素マスクをつけられている。
「おじいちゃん……」
宗治の見た目が若々しいうえに、実の父親を早く亡くしたこともあり、佳菜は宗治のことを祖父というよりは父親に近い感覚で捉えているところがあった。
それが、こんなふうに患者としての姿を見せられると、急に老けたように感じてしまい、心細くなる。
なんでもない、というように、宗治がひらひらと手を振る。
続いて、こちらもドクターのユニフォームである青いスクラブに着替えを済ませた和樹が、廊下に出てきた。
「森下さん」
「は、はい」
佳菜は立ち上がった。
「これから、冠動脈に造影剤を流し込んで、X線撮影する検査をします。股の付け根から動脈にカテーテルを入れ、冠動脈まで持っていきます」
「はい」
「結果が出て詰まりかけている箇所がはっきりしたら、そのままバルーンとステント──筒状になった網目の金属を使って、血液を再開通させます」
「……はい」
心臓の血管に金属を入れるなんて、なんだかとても恐ろしい感じがした。
不安は顔に出たらしく、和樹は大丈夫、というようにひとつ頷いた。
「メスを入れるわけではないので、体の負担は軽いです。入院も数日で済みますよ」
心臓血管外科の名医である和樹がそう言ってくれるなら、心強い。
「わかりました。どうぞよろしくお願いします」
と、深く頭を下げる。
そのあとは運ばれていく宗治に邪魔にならないようについていき、検査室前の椅子に腰を落ち着けた。
時刻は午後九時を過ぎている。
通常の診療時間を過ぎているため、病院内の照明は昼間より暗い。
静かだ。コツコツと誰かが廊下を歩く音が、遠くからかすかに聞こえてくる。
ここには毎日出勤しているし、夜勤にだって入ることがあるのに、いつもの病院とはまったくべつの場所のように感じた。
宗治のコートを抱えなおす。嗅ぎなれた、祖父の匂いがした。
和樹は、宗治の胸痛が初めてのことではない可能性に言及していた。
いったいいつから異変を抱えていたのだろう。一緒に暮らしているのに、全然気づかなかった。
腕時計を見て、時刻を確かめる。前回見た時から、二分も経っていない。あまりの時間の進まなさに、時計が壊れているのではないかと思ってしまう。
宗治のことが心配で、かといってできることもなく、佳菜はスマートフォンを開いた。
ずらっと並んだ連絡先を眺める。そして、自分にはこんなときに連絡する相手のひとりもいないことに気が付いた。
友達がいないわけではないが、祖父のことなど報告されても困るだろう。仕事を休む必要はなさそうだから、上司に話すのも明日の業務時間内でいい。
親戚はいない。恋人もいない。そのことを寂しいと思ったことはいままでなかったが、誰もいない病院の廊下でポツンと座っていると、冬の空気のような寂しさを感じた。
スマートフォンを鞄にしまう。
「おじいちゃん……」
首に巻いたストールに顔をうずめて、目を閉じる。泣いてしまいそうだった。
佳菜にとっては何十時間にも思えた時間が過ぎ、やっと処置室から出てきた宗治は、空いていた個室に運ばれた。
佳菜も一緒に部屋に入る。
「おじいちゃん、大丈夫?」
「おう」
さすがに疲れた顔をしているが、もう痛みはないようだ。酸素マスクももう外されている。繋がれている管は、点滴のみだ。
「森下さん、どうぞ座ってください」
和樹がベッド脇に置かれている丸椅子に座り、その隣にある椅子を佳菜に勧めてきた。
宗治を運んできた看護師たちは、点滴の具合を確認して部屋を出ていく。
「まず……改めまして、ご無沙汰しております、森下先生。藤本総合病院の心臓血管外科医、藤本和樹と申します」
和樹が宗治に深く頭を下げた。
「どこで君に会ったかな。覚えていなくて申し訳ない」
「覚えていらっしゃらなくて当然です。僕が医学部を出てすぐの初期研修のときだけですから、当時先生がいらした病院の心臓血管外科にお世話になったのは」
「ああ、研修生だったのか」
医大を出て医師国家試験に受かった者は、専門科を決定する前に二年間、様々な診療科で研修をすることになっている。
「藤本、ということは、院長のご子息か?」
「はい。僕は次男です」」
「たしかに腕が立つご子息がいると噂で聞いたことがあるが……この病院は、脳外科で有名なはずだ。なぜ心臓血管外科医に?」
「僕も自分が脳外科に進むものだとばかり思っていたのですが……初期研修で先生の手技を目の当たりにして、感銘を受けました。まさに神の手でした」
当時を思い出したのか、和樹は感慨深げに言った。
「それで研修期間終了後、すぐ藤本には入らず、大学病院の心臓血管外科で修業を積んで、二年前、藤本に心臓血管外科を作ったんです」
佳菜が大学の看護学科を卒業して藤本に入ったのと同時期に、和樹が入ってきて心臓血管外科を作ったのは知っていた。しかしまさか、それが宗治の影響だったとは。
「おじいちゃんって……そんなにすごい人だったんですか?」
家で見る宗治はずっと、どこにでもいるようなごく普通の男性だったし、仕事の話をすることはほとんどなかった。
「有名も有名。この国の心臓血管外科医で森下先生のことを知らないドクターなんてひとりもいませんよ」
そう言われても、あまりピンとこなかった。
「俺の話はいいよ、もう引退した、ただの爺さんだ」
宗治がひらひらと手を振る。
「では、病状のご説明をさせていただきます」
和樹が表情を引き締めた。
佳菜も丸椅子の上で背筋を伸ばす。
「冠動脈造影検査後、そのままカテーテル・インターベンションを行い、狭窄していた血管はひとまず押し広げました。ただ……一枝病変でしたらこれだけでよかったのですが、他の冠動脈もあまりいい状態とは言えません。なので、僕としては、冠動脈バイパス手術を受けられることをお勧めします」
和樹がそう言うと、宗治は思い切り渋い顔をした。
「こんなじいさんにか」
冠動脈バイパス手術とは、体の別のところから切り取ってきた血管の、一方を大動脈に繋ぎ、もう一方を詰まった箇所の先に縫い付ける手術だ。バイパス用の血管としては、胸や胃、上肢の動脈がよく使われる。ということを、佳菜は待たされている間にスマートフォンで調べていた。
「手術に耐えられないほどご高齢ではないと思います」
「しかし、百パーセント安全な手術でもない」
「そんな手術はありません。先生はよくご存じではないですか」
「じゃあ、しない」
「おじいちゃん!?」
佳菜は耳を疑った。誰よりも知識があるはずの宗治が、まさか手術を断るだなんて思ってもみなかった。
「俺は五千人の心臓を切ってきた。いまさら自分が手術されるのなんざ怖くはないが、この子が嫁に行くまでは絶対に死ねないんだよ」
「えっ、私?」
佳菜は自分を指さした。
「万に一つでも、俺が死んだら、佳菜が一人になっちまうだろうが」
佳菜はさっき廊下で待っていたときの心細さを思い出した。
宗治が亡くなったら。そんなことは考えたくもない。
でも自分のために、宗治が必要な手術を受けないのは、違う気がした。
「おじいちゃん、すぐ手術を受けた方がいいって。おじいちゃんが一番若いのは、いまなんだから」
そうそう、というように、和樹が隣で頷く。
「なるべく早いうちに手術していただいた方が、成功率が高いです」
「──先生は、何人死なせた?」
「え?」
「俺は五十一人だ」
宗治は和樹をまっすぐに見つめて言った。
「全員のことを、いまでもはっきり覚えている。手術しても回復しないまま亡くなった人もいれば、いったん回復しても合併症で違う病気になって、結局亡くなった人もいる。いいか、五十一人だ。さっき先生が『神の手』と言った俺でもだ」
「私は──」
「まだ一人も死なせていないか? それは先生が若くて、症例が少ないからだろう。俺が最初の一人目にならないとどうして言える? 先生は俺より腕がいいと、胸を張って言えるのか?」
「……それは」
和樹は口をつぐんだ。表情に悔しさが滲んでいる。
「おじいちゃん……」
佳菜にも、宗治が言わんとすることがわかった。
冠動脈バイパス手術は、成功率がそれほど低い手術ではない。それでも宗治は、うまくいかなかった場面に何度も立ち会っている。
だからこそ、たとえ名医と言われていようとも、自分よりかなり若く経験の浅い和樹を信じられないのだ。
「佳菜はもう二十五だ。あと何年もしないうちに嫁に行くだろう」
「いや、それは……あと、二十四と十一か月だってば」
これから恋人を作って、結婚して、となると、何年かかってしまうのか想像もつかない。この人なら恋人になってくれそうという心当たりもまったくないし、どうやって探せばいいのかもわからなかった。
「一番まずかったところにはステントが入ったんだし、リスクを伴うくらいなら、佳菜が片付くまでは薬で騙し騙し生きていた方がいいと思っている……まあ、酒はまたやめるさ」
「おじいちゃん……」
宗治は現役時代、いつ病院に呼び出されるかわからなかったから、休みの日でもほとんど酒を飲まなかった。かなりの酒好きなのにだ。
それがまた禁酒生活に戻るなんて。しかも佳菜のために。
世間体だとか、ひ孫が見たいだとか、そんな理由で宗治が結婚しろとうるさいのだったら、馬鹿なこと言ってないで手術を受けてと、もっと強く言える。
しかしそんな理由ではなく、長年かけて築き上げてきた外科医としての思いや、自分がいなくなったあとの佳菜の身を案じてのことだとわかるだけに、どうしていいのかわからなくなる。
佳菜は助けを求めるように、隣にいる和樹を見た。
和樹はあごの下に指をあてて、考え込むような表情をしていた。
「……先生のご意向はわかりました。でも、もう一度よく考えてみてください」
心筋梗塞についての知識がふんだんにある宗治相手に、和樹もそれしか言えなかったようだ。
彼が手術をすると言ってくれているのに、こんな家庭の事情で振り回すような形になってしまって、本当に申し訳ないと佳菜は思った。