愛に目覚めた凄腕ドクターは、契約婚では終わらせない
第二章 契約結婚の提案
 翌朝。日勤として出勤した佳菜は、ロッカールームで和樹の噂を耳にした。それは珍しいことではなかった。
「──和樹先生に、またひとり、振られたらしいよ。昨日の診療時間後。今度は心臓血管外科の佐藤さん」
「まじで? あの人めちゃめちゃ可愛いのに」
「やっぱり、恋人いるんじゃないの?」
「それが、いないみたいよ。佐藤さんがどうしても諦めきれなくて聞いたら、そう言ったんだって」
「真面目か。適当に恋人いるって言っておけば、早く話が終わるだろうに」
「真面目なんだろうねえ。そういうところも魅力なんだけど。きっとああいう人と結婚したら、絶対浮気なんてされないんだろうなあ」
 昨日の診療時間後、ということは、和樹が寿司屋の店先に通りかかったのは、佐藤さんとの話を終えた後だったということだ。彼女の告白がなかったら、あんな絶妙なタイミングで助けてもらえることはなかったと思うと、ありがたいような申し訳ないような気分になる。
 それにしても、何人目だろうか。和樹に振られた人の話を聞くのは。
 藤本総合病院には、百人を超える医師がいる。その中で、こんなにも看護師たちから恋愛的な意味で注目されているのは、和樹だけだ。
 おかげで他科のドクターにもかかわらず、佳菜も和樹のことをまあまあ知っている。
 和樹は藤本総合病院の院長の次男だ。ふたつ年上の長男の方は、脳外科に勤めている。ふたりとも『藤本』なので、下の名前で呼ばれることが多い。
 藤本兄弟はふたりとも背が高く、すらりとしていて、顔だちも整っている。ブルーのスクラブと白衣を着ている姿は、まるでドクターを演じている俳優のようだ。
 医師としての腕も甲乙つけがたいようなのだが、看護師たちから人気があるのは、ダントツで弟の方だった。
 なぜなら、長男は既婚者だからだ。
 和樹が藤本総合病院に心臓血管外科を開いてから二年。何人もの看護師が彼に告白しては散っていった。
 理由はいつも同じ、仕事のことで頭がいっぱいで、いまはそういうことを考えられないから、だ。それはきっと、本当なのだと思う。病院に診療科を増やすということがどのくらい大変なことなのか佳菜にはわからないが、簡単なことではないだろう。
 院内でたまに見かける和樹はいつも真面目な顔をしていたから、仕事に対して真摯な人なのだろうなとは常々思っていた。
 昨日の和樹は、倒れていた宗治に接したときも、病室で病状について説明してくれたときも、とても冷静で丁寧だった。和樹が名医と呼ばれ、患者さんからの信頼が厚い理由がわかった気がした。

 着替えを済ませ、ナースステーションで夜勤の看護師たちから引継ぎを受ける。その場で佳菜は、祖父が心臓血管外科に入院したことを師長や同僚たちに報告した。大丈夫だとは思うが、祖父になにかあればすぐそちらに行かなくてはならないからだ。
「そう、おじい様が……それは心配ね。でも大丈夫、うちの心臓血管外科には、和樹先生がいるから」
 師長が励ましてくれた。
 同僚たちも、力になれることがあったらなんでも言ってと言ってくれる。本当に仕事仲間には恵まれたと、ありがたく思う。
 それから昼休みまでは、検温に回ったり、外来でドクターの手伝いをしたりしているうちに、いつも通り慌ただしく時間が過ぎた。
 小児科病棟には、いろんな子がいる。
 治療法の確立されていない難病で、退院のめどが立たない子も、何人もいる。
 だからこそ佳菜は、できる治療があるのにしないという宗治を歯がゆく思った。
 佳菜としては、すぐにでも冠動脈バイパス手術を受けてもらいたい。名医といわれる和樹が手術を勧めるということは、それだけの理由があると思うからだ。
 本当は宗治だってその方がいいとわかっているはずで、それでいて手術を拒否しているのは、ひとえに佳菜のことを思ってのことだ。
 自分のせいで祖父の寿命が縮まるかもしれないなんて、冗談じゃない。
 かといって、「いますぐ嫁に行くから、安心して手術を受けて」とも言えない。結婚どころか、恋人もいないのだから。
 こんなことなら、宗治の小言を聞き流さず、真面目に婚活しておくべきだったと、ため息が出る。
「──森下さん、そろそろ休憩入って」
 電子カルテに入力していると、師長から声がかかった。
「あ、はい」
 もうそんな時間か。
 今日はお弁当を作ってこなかった。下のコンビニでパンでも買って、宗治の顔を見ながら食べようか──と思ったときだった。
「森下さん、いますか」
 小児科のナースステーションに、ひょいっと顔を出したのは、今朝もナースたちの噂の的だった、和樹だった。
「えっ……」
 小さくどよめきが起こった。
 その場にいたみんなの視線が、いっせいに佳菜の方に向く。
「はい、なんでしょう」
 居心地の悪さを覚えながら、和樹のもとへと歩み寄る。
「今日、仕事のあとに時間があったら、ちょっと話せますか」
 和樹はいかにも勤務中という感じの、真面目な顔をしている。
 これはきっと宗治の話だ、と佳菜も気を引き締めた。
「はい、どちらに伺えばいいですか? 診察室ですか? 祖父の部屋ですか?」
「えー……と、できれば外の方がいいんですが……」
 和樹は少し言いづらそうだった。
「……? はい……」
 佳菜はなぜ院外で話す必要があるのか少々不思議に思ったが、病院の最寄り駅近くにある喫茶店で落ち合うことを約束した。なにか病院内では話しづらい事情があるのかもしれない。
 要件を言い終わると、和樹はすぐに戻っていった。
「はああ、びっくりしたぁ……」
 同僚が胸に手を当てて言った。
 和樹が小児科病棟にやってくることなんて、そうあることではないから、無理もない。
「そうだよね、森下さん、おじいさんが心臓血管外科に入院してるんだもんね」
「久しぶりに見たけど、やっぱりかっこいいなぁ……」
 周りのみんなは、入院している佳菜の祖父について話があるのだろうと、納得したようだ。そしてこのときは、佳菜もそう思っていた。



 定時で仕事を上がり着替えを済ませた佳菜は、宗治の病室に顔を出した後、和樹に指定された喫茶店へ向かった。
 チェーン店ではなく、昔からあるような純喫茶で、客の入りはまばらだった。デリケートな話になるだろうが、ここなら仕事帰りの藤本の職員が寄ったりはしなさそうだ。
 紅茶を頼んで、窓の外を眺める。
 仕事帰りの人たちが、足早に通り過ぎていく。
 和樹の話とは、いったいなんだろう。宗治には聞かせられないようなことなのは間違いない。
 致命的な病変が見つかったとか。わからないが、かなりシビアな話になりそうだ。
 早く聞きたいような、永遠に聞きたくないような気持ちで、和樹を待つ。
 紅茶は一口も飲まれず、冷めていった。
 十分ほど待ったところで、彼はやってきた。
「お待たせしてすみません」
「いえ、私もいま来たところです」
「……ブレンドコーヒーを」
 店員に飲み物を注文した和樹と、改めて向き合う。
 こんな至近距離でしっかりと顔を見るのは初めてだ。昨日はそれどころではなかった。
 意志の強そうな目元が、印象的な人だなと思う。
 コーヒーがくるまで、和樹は話し出さなかった。テーブルに肘をついてあごの前で手を組み、職場で見るのと同じように真面目な顔をしている。
「あの──」
 きちんとお礼を言っていなかったことに気づいて、口を開いた。
「祖父のこと、ありがとうございました。先生の処置が早かったおかげで、大変なことにならずに済みました」
「医師として当然のことをしただけです」
「それでも、本当に……すみませんでした」
「すみません、とは?」
 和樹が軽く首を傾げる。
「私、ナースなのに全然適切な対応ができなくて……ただパニックになって祖父を抱えているだけでした。先生が通りかかってくださらなかったら、救急車が到着するまで震えているだけだったと思います。自分が情けないです」
 佳菜はうなだれた。昨日からずっと、後悔と反省を繰り返していた。
「無理もないですよ」
 和樹に言われ、顔を上げる。
「え?」
「相手が身内だと、落ち着いて対処するのは難しいものです」
「先生でもですか……?」
「そうですね。落ち着いて対処しようと努力はするでしょうが、他の患者さんと完全に同じようにあたれるかといわれると、ちょっとわからないです」
 話し方は淡々としているけれど、慰めてくれているのがわかる。和樹の優しさが、佳菜にはありがたかった。
「お待たせしました」
 和樹の目の前にホットコーヒーが置かれた。
「ありがとうございます」
 和樹の視線が、小さく波を立てているコーヒーの表面に注がれる。カップを手に取って、飲む様子はない。
 佳菜は緊張したまま、和樹が本題に入るのを待った。
 祖父の具合は、そんなに悪いのだろうか。不安で、胸の奥に黒いもやがかかっていくようだ。
「ああ、違います、森下先生の話ではありません」
「え?」
 なにを言われたのか、一瞬わからなかった。宗治の話でなかったら、和樹が佳菜を呼び出す理由なんてないはずだ。
「あ、違わない……のか……?」
 和樹の話は要領を得ない。普段は論理的に話をしているだろうドクターらしくない。
「どういうことでしょうか」
 痺れを切らして、佳菜は尋ねた。
「──単刀直入に言います」
 和樹が心を決めたように視線を上げた。組んでいる両手には、グッと力が入っている。
「僕と、結婚しませんか」
「え?」
 なにを言われたのか、理解できない。
「ケッコン……って、あの結婚、ですか」
「その結婚です」
 頷いた和樹の表情は真面目そのもので、ふざけている様子はまったくない。そもそもこんな場面で冗談を言うような人でもない。
「結婚……」
 はい、とも、いいえ、とも言えず、佳菜は固まってしまった。
 二十四年と十一か月生きてきて、誰からも告白されたことがなかったのに、告白も交際もすっ飛ばして、プロポーズされてしまった。
「いかがでしょう」
 いかがって。
「あの……どうしてそういうお考えに至ったのか、伺ってもよろしいでしょうか」
 昨日までほぼ接点がなかったのに、結婚したいと思うほど好かれているとはとても思えない。
「森下さんが僕と結婚すれば、森下先生は手術に同意してくださるのではないかと考えました」
「あ、なるほど……」
 たしかに宗治は、佳菜が嫁にいくまでは手術したくない、という言い方をしていた。
 だからといって、宗治とは医師と一患者でしかない和樹が、昨日までろくに話したこともなかった佳菜と結婚するというのは、ずいぶんと突飛な考えのように思える。
「森下先生は、実力を持った方です。おそらく、この国で一番。だからこそ、自分が認めた人間以外に手術されることを拒まれている……現状、僕の肩書では満足されていないのが事実です」
「……すみません」
 宗治の考えがわがままに思えてしまい、申し訳なくなる。
「謝らないでください。僕の力不足です」
 和樹はフッと笑った。
「かといって、どんな人物なら先生のお眼鏡にかなうのかはわかりません。もしかしたら、そんな人物はいないのかもしれない」
「そう、ですよね……」
「薬物療法でもいいですが、それにも限界があります。僕は手術が最善だと信じています。そしてできる限り早く最善の治療を施すには、先生が誰よりも大事にしている森下さんと結婚して、伴侶としての信頼を得つつ、医師としての力も認めてもらうのがいいのではないかと考えました」
 そのための結婚ということか。
 佳菜は冷め切った紅茶を一口飲んで、考え込んだ。
 突拍子もない話ではあるが、たしかに、佳菜が和樹と結婚して、幸せに暮らしている様子を見せれば、宗治は手術を受ける気になってくれるだろう。
 しかし、だ。
「私は正直、とても助かります。でも和樹先生には、なんのメリットもないのでは?」
「メリットはあります」
 和樹は力強く言った。
「まず僕は、森下先生にぜひ安心して手術を受けてもらいたいと思っています」
 それだけでは納得できなかった。和樹が宗治のことをとても尊敬してくれているのは知っているが、ひとりの患者のためにそこまでするものだろうか。
「僕個人としても、独身でいると煩わしいことがいろいろあって。昨日の終業後も、ひと悶着あって、帰りが遅くなりました。それで、早く兄のように身を固めてしまいたいという思いがあります」
「な、なるほど」
 たしかに藤本兄弟はどちらもかっこいいし将来性もあるのに、ロッカールームでの噂の的は和樹ばかりで、それは彼が独身だからだ。
 和樹と結婚したがる女性は、いくらでもいる。それでもよく知りもしないはずの佳菜と結婚したがるのは、結婚に愛はいらないと考えているタイプなのかもしれない。
「僕は嘘が下手ですし、森下先生に結婚したふりはたぶん通用しないと思います。本当に結婚しましょう。そして先生が完治したとき、改めて結婚生活を続けるのかどうか考えませんか。とりあえず時間があまりないので」
「そう、ですよね」
 和樹は告白してきた相手に「恋人がいる」などと適当な嘘がつけないほど、正直な人だ。佳菜としても、できるだけ宗治に嘘をつきたくはない。
 時間があまりないのもその通りだ。手術は早ければ早いほどいい。
 和樹がじっと見つめてくる。
 佳菜はその目を見つめ返した。
 恋愛的な意味で和樹のことを好きなのかと問われれば、まともに話したのが昨日からなのでよくわからない。ただ、ひとりの医師として、彼のことをとても尊敬しているのはたしかだ。
 結婚しようと言われ、もちろん驚きはしたものの、嫌だとは思わなかった。
 和樹は優しく、真面目な人だ。そして佳菜は、彼が尊敬している宗治の孫だ。結婚すれば、きっと大事にしてくれるだろう。たとえそこに愛はなくとも。
 それに和樹が言うように、結婚したからといって、生涯添い遂げるといまから覚悟することもない。宗治の手術が終わって無事完治したとき改めて考えればいい。
 これは、お互いの利益のための、契約結婚なのだから。
「──わかりました」
「それでは……」
「はい、よろしくお願いします。私と、結婚してください」
 佳菜は深く頭を下げた。その向かいで、和樹も頭を下げてくれたのがわかった。
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