愛に目覚めた凄腕ドクターは、契約婚では終わらせない
第三章 結婚の報告
翌々日の日曜日の午後。そろって非番だった佳菜と和樹は、私服姿で宗治のもとを訪れた。
「おや、佳菜。先生も」
宗治はベッドの上に身を起こし、文庫本を読んでいた。
「顔色いいね、おじいちゃん」
佳菜は宗治の枕元の丸椅子に座った。その隣に、和樹も腰掛ける。
「おお、絶好調だ。おかげで暇でしかたない」
「その様子なら、予定通り明日には退院できそうですね」
そう言った和樹を、宗治は少し不思議そうな顔で見ている。
和樹がスクラブも白衣も着ていないからだ。
「先生、今日はお休みかい?」
「はい。今日は医師としてではなく、ひとりの男として森下先生に面会しにきました」
スーツ姿の和樹が言う。
和樹は落ち着いた様子だが、佳菜はもう、自分の方が頻脈で入院になるんじゃないかというくらい、心臓バクバクだ。
祖父はどういう反応を示すだろう。
当然驚きはするだろうけれど、それ以前に、突然結婚するなんて、信じてくれないかもしれない。いきなり馬鹿なことを言うなと叱られる可能性も高い。
佳菜だって、まだどこか信じられない思いなのだ。正直、和樹の落ち着いた語り口調に流されたところもないとは言えない。
「それは、どういう……?」
宗治は訝しそうに首を傾げた。
「佳菜さんと、結婚させてください」
和樹は両膝に拳を置いて、頭を下げた。
その隣で、佳菜はスカートをぎゅっと握った。
「……は」
宗治の口から、空気が漏れるような音がした。
そのまま口をあんぐりと開けて、固まってしまっている。
「佳菜さんと、結婚、させてください」
「いや、聞こえなかったわけじゃない……え? 先生が? 佳菜と……結婚!?」
宗治が途方に暮れたような顔で、佳菜の方を向く。頭のなかがクエスチョンマークでいっぱいなのがよくわかる。
「うん、あの……突然で驚いただろうけど、そういうことになって……」
「許していただけないでしょうか」
「いや、許すもなにも……君ら、そういう雰囲気だったか?」
「森下先生が驚かれるのも、無理はありません。僕と佳菜さんは、交際していたわけではないので」
「それなのに、結婚するのか!」
宗治は信じられないという表情で目をぱちぱちさせた。
ふたりは結婚するにあたり、必要のない嘘はなるべくつかないという約束をした。そこから話に綻びが生じるからだ。だから、実は交際していたという嘘はつかないことにした。
「交際こそしていませんでしたが、僕は以前から佳菜さんの熱心な仕事ぶりを尊敬し、好意を抱いていました。そこへ今回のことがあり、森下先生が佳菜さんの結婚を望んでいるのなら、結婚を先延ばしにする意味はないと思い、交際を申し出るのではなく、求婚させていただきました」
「私も、同じ病院で働いているから和樹先生のことは、すごくよくとは言わないけど知ってたし、とっても尊敬していたの。たしかに急なプロポーズでびっくりしたけど、喜んでお受けしたんだ」
同じ職場というのは、この場合強い。もともと知っていたということで、交際をすっ飛ばしても、なんとか本気で結婚したいのだという話に説得力が出る。
「おじいちゃん、ずっと私に早く結婚しろって言ってたじゃない。和樹先生が相手じゃ不満なの?」
「不満……てことはないが、しかしなあ……急すぎて、こう、実感が……」
宗治はまだ、半信半疑という感じだ。無理もない。佳菜だってそうなのだから。
しかし、少しでも早く宗治に心臓手術を受けてもらうためにも、ここはなんとしてでも納得してもらわないとならない。
「……先生のご両親にはもう話したのか? そちらはどうおっしゃってるんだい?」
宗治が和樹に尋ねた。
「父も母も、藤本で働いてくださっているナースであり、森下先生のお孫さんだということで、うちにはもったいないようなご縁だと大喜びしてくれています」
「そうか……」
和樹の言ったことは本当だ。今日ここに来る前に、和樹と佳菜は和樹の実家にふたりで挨拶してきた。
藤本総合病院から車で約十分ほどのところにあるその家は、和樹の曽祖父が建てたという見事な日本家屋だった。
佳菜だって、医師だった祖父に育てられたので、金銭的に苦労したことはない。それでも、代々病院を経営している家は格が違うなと思い、とても緊張した。
和樹が前もってどういうふうに話してくれていたのかわからないが、和樹の両親は佳菜を大歓迎してくれた。
独立して近くに住んでいる和樹の兄夫妻も三歳になる女の子を連れてきていて、皆で楽しく談笑した。
帰り際に、お兄さんからこそっと「もうわかってるかもだけど、あいつ家ではほんとポンコツだから、なにとぞよろしく頼みます」と言われたときは驚いた。冗談か、家では病院にいるときよりは多少気が抜けているということなのだろうが。
「藤本先生のところがそう言ってくれているのに、俺が反対するわけにはいかないわな」
自分に言い聞かせるようにそう言って、宗治はベッドの上で正座をした。
「ふつつかな孫ですが、精いっぱい、いい子になるよう育てたつもりです。どうぞ……よろしくお願いいたします」
宗治が深く頭を下げた。
「おじいちゃん……」
罪悪感で、ぎゅっと胸が痛んだ。
宗治は佳菜の幸せを強く願っている。しかしこの結婚は、宗治に心臓手術をしてもらうための、愛のない契約結婚なのだ。
佳菜はちらりと、隣にいる和樹を見た。
和樹の表情からは、後ろめたさは感じられなかった。
「こちらこそ、まだまだ至らないところの多い男ではありますが、全力で佳菜さんと幸せになりたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします」
頭を下げた和樹の顔は真剣そのもので、佳菜は面食らってしまった。これでは、本当に愛されていると錯覚してしまいそうだ。
と、そこへ、トントンとノックの音が聞こえてきた。
「はい」
外科の看護師かと思い返事をすると、引き戸が開き、ついさっき家にお邪魔した院長が顔を出した。
「失礼いたします」
「父さん?」と、和樹も院長が来ることを知らなかったらしく、驚いた顔をしている。
佳菜は立ち上がって、宗治に一番近い場所を院長に譲った。
「初めまして、私、藤本総合病院の院長を務めております、藤本正和と申します。森下先生が入院されているとも知らず、ご挨拶が遅れてしまって申し訳ありません」
「私のことをご存じで?」
「外科医で先生のことを知らないものはいません」
おじいちゃんってそんなにすごい人だったんだ、と佳菜は改めて思った。宗治は家で仕事の話をしないから、全然知らなかった。
「このふたりが結婚するという話はお聞きになりましたか」
宗治が言った。
「はい。私どもの息子は、見ての通り真面目だけが取り柄みたいな男ですから、もしかしたら一生結婚できないのではと危惧しておりました。それがこんなに素敵なお嬢さんとご縁があるなんて……妻ともども、大喜びしております」
院長は満面の笑みを浮かべて言った。
こちらも本当に喜んでくれているようで、佳菜はまた、罪悪感で胸が痛くなる。
宗治の手術が無事終わったら、結婚生活を維持するかどうかわからない。いくらも経たないうちに離婚します、となったら、宗治も院長もどんなに悲しむだろう。
やっぱり、愛のない結婚なんてするべきではないのではと、いまさら思う。
「それで、あの……結婚式なのですが」と、院長が話を切り出す。
「私どもの仕事の関係で、ある程度の規模の式を挙げさせていただけたらと思っています。ああ、費用はすべてこちらで持たせていただきます」
「いや、ドレス代なんかはもちろんこちらで払いますが……そうか、結婚式か。いつ頃やる予定なんだ?」
宗治が佳菜を見た。
院長が出てきたことで、この突然の結婚話が本当なのだと信じられたようで、もう訝しげな様子はない。
「春頃にできたらって思ってるけど……おじいちゃんの体調が、その頃どうかだよね」
さりげないふうを装って言ったが、佳菜は緊張していた。ここまで断りづらい状況を作っても手術を固辞されてしまったら、契約結婚をする意味がない。
「俺? 俺かぁ……」
宗治はぽりぽりと頭を掻いた。
「森下先生、和樹は若いですが腕はいいです」
院長は自信ありげに言った。
和樹は口を開かなかった。ここで押しすぎるのもよくないと思ったのかもしれない。
「ううむ……」
さすがに親を前にして「おたくの息子の腕が信用できない」とは言えないらしく、宗治は気まずそうにしている。
「……少し、考えさせてください」
「もちろんです」
院長の横で、佳菜は宗治の口から少しでも譲歩する言葉が出てきたことにホッとしていた。
あとは、和樹と結婚して佳菜は幸せに暮らしていると安心してもらえたら、もっと態度が軟化しそうだ。
「森下先生、今後とも末永く、どうぞよろしくお願いいたします」
院長が右手を差し出す。宗治がその手を握り返す。
「こちらこそ、なにとぞよろしくお願いします」
固く手を握り合うふたりを前に、佳菜は覚悟を決めた。
この結婚に、恋愛感情はない。それでも、宗治や院長からは誰よりも幸せな夫婦に見えるように、全力で頑張ろう。
ふたりの結婚のニュースは、光の速さで病院中に伝わった。
翌日のナースステーションで、佳菜はさっそく同僚たちに囲まれた。
「いやあ……今年一番の衝撃的なニュースだよね。まさか森下さんが、和樹先生と結婚するなんて」
先輩看護師の田辺鈴奈が、いまだに信じられないという様子で言った。
今年で三十歳になる鈴奈は、仕事ができて、すらりと背が高く、スタイルがいい。佳菜はひそかに鈴奈に憧れていた。
「そんな気配、みじんもなかったもん」
みんながうんうんと頷く。
そりゃそうだと佳菜は思った。隠していたのではなく、そもそも交際している事実がなかったのだから。
「どうして昨日の今日でみんな知ってるのか、私もびっくりなんですけど……」
「昨日の朝、けっこう早い時間に、院長が小児科に来たんだよね」
鈴奈が言った。
「え、そうだったんですか」
「それで、森下さんのことをあれこれ聞いていったの。たぶん小児科のドクターとも話をしていったんだと思うよ」
昨日の朝ということは、和樹とふたりで家を訪ねる前だ。身辺調査というほどではないが、サッと評判を確認するくらいのことはされていたらしい。
「感謝してよねー、真面目で仕事熱心で患者さん思いで、あんないい看護師はそうそういないって褒めちぎっておいたんだから」
同期の早川愛理が、胸を張って言った。
「あ、ありがとう……」
なんだか恥ずかしくて、顔が熱くなってしまう。
みんなニコニコ笑っている。小児科の仲間たちは、ものすごく驚きはしたようだが、おおむね祝福してくれているようだ。
「……だけどね、他科の人たちまでもれなく手放しで祝福してくれてるとは思わない方がいいよ」
愛理が声量を落として言った。
「さすがにそこまでは思ってないけど」
「特に、和樹先生と、ついこの前和樹先生に振られた佐藤さんのいる心臓血管外科とか。急に現れて和樹先生をかっさらっていった佳菜のこと、おもしろく思ってないのが丸わかり」
「ああ……」
佐藤さんの気持ちになれば、そんな話聞いてないよと思ってしまうだろう。佐藤さんと仲のいい看護師たちが、佳菜のことを許せない気持ちになってしまうのもわかる。
愛し合って結婚するわけではないことを知っているのは、和樹と佳菜だけなのだから。
もしこの結婚で、心臓血管外科のチームワークによくない影響があったらどうしよう。
いままでそんなこと考えていなかったが、急に不安になる。
「……森下さん」
不安は顔に出ていたらしく、鈴奈にポンと肩を叩かれた。
「おじいさんが心臓血管外科に入院してらっしゃるから、気になってしまうのはわかるけど、気にしすぎるのは彼女たちに失礼よ。みんなプロなんだから、たとえ心のなかでおもしろくない思いをしていようと、仕事はきっちりしてくれるわよ」
「そう……ですよね」
佳菜は素直に反省した。
「それで、結婚式はどうするの?」
鈴奈が尋ねてきた。
「籍だけ先に入れて、式は春くらいって考えてはいるんですけど……祖父の病状が落ち着いてからかなって」
「ああ、そういえばおじいさん、心臓血管外科に入院してるんだっけ」
「今日退院なんです」
「え、行かなくていいの?」
「さっき病室に顔出したんですけど、一人で帰れるから、しっかり働けって追い出されちゃいました」
タクシーで帰ると言うし、付き添わなくても大丈夫だろう。
「結婚式かあ……いいなあ、藤本病院の院長の息子だもんね。きっと豪華なのやるんだろうなあ」
「結婚式には呼んでよね。あ、でも全員呼んだら、小児科がカラになっちゃうか」
同僚たちは、きゃっきゃと楽しそうだ。
まさか佳菜が、春までこの結婚が続いているかわからないと思っているなんて、考えもしないのだろう。
「──おはようございます。さ、ミーティングしますよ」
副師長がナースステーションに入ってきた。
佳菜たちは気を引き締めて、頭を仕事モードに切り替えた。
「おや、佳菜。先生も」
宗治はベッドの上に身を起こし、文庫本を読んでいた。
「顔色いいね、おじいちゃん」
佳菜は宗治の枕元の丸椅子に座った。その隣に、和樹も腰掛ける。
「おお、絶好調だ。おかげで暇でしかたない」
「その様子なら、予定通り明日には退院できそうですね」
そう言った和樹を、宗治は少し不思議そうな顔で見ている。
和樹がスクラブも白衣も着ていないからだ。
「先生、今日はお休みかい?」
「はい。今日は医師としてではなく、ひとりの男として森下先生に面会しにきました」
スーツ姿の和樹が言う。
和樹は落ち着いた様子だが、佳菜はもう、自分の方が頻脈で入院になるんじゃないかというくらい、心臓バクバクだ。
祖父はどういう反応を示すだろう。
当然驚きはするだろうけれど、それ以前に、突然結婚するなんて、信じてくれないかもしれない。いきなり馬鹿なことを言うなと叱られる可能性も高い。
佳菜だって、まだどこか信じられない思いなのだ。正直、和樹の落ち着いた語り口調に流されたところもないとは言えない。
「それは、どういう……?」
宗治は訝しそうに首を傾げた。
「佳菜さんと、結婚させてください」
和樹は両膝に拳を置いて、頭を下げた。
その隣で、佳菜はスカートをぎゅっと握った。
「……は」
宗治の口から、空気が漏れるような音がした。
そのまま口をあんぐりと開けて、固まってしまっている。
「佳菜さんと、結婚、させてください」
「いや、聞こえなかったわけじゃない……え? 先生が? 佳菜と……結婚!?」
宗治が途方に暮れたような顔で、佳菜の方を向く。頭のなかがクエスチョンマークでいっぱいなのがよくわかる。
「うん、あの……突然で驚いただろうけど、そういうことになって……」
「許していただけないでしょうか」
「いや、許すもなにも……君ら、そういう雰囲気だったか?」
「森下先生が驚かれるのも、無理はありません。僕と佳菜さんは、交際していたわけではないので」
「それなのに、結婚するのか!」
宗治は信じられないという表情で目をぱちぱちさせた。
ふたりは結婚するにあたり、必要のない嘘はなるべくつかないという約束をした。そこから話に綻びが生じるからだ。だから、実は交際していたという嘘はつかないことにした。
「交際こそしていませんでしたが、僕は以前から佳菜さんの熱心な仕事ぶりを尊敬し、好意を抱いていました。そこへ今回のことがあり、森下先生が佳菜さんの結婚を望んでいるのなら、結婚を先延ばしにする意味はないと思い、交際を申し出るのではなく、求婚させていただきました」
「私も、同じ病院で働いているから和樹先生のことは、すごくよくとは言わないけど知ってたし、とっても尊敬していたの。たしかに急なプロポーズでびっくりしたけど、喜んでお受けしたんだ」
同じ職場というのは、この場合強い。もともと知っていたということで、交際をすっ飛ばしても、なんとか本気で結婚したいのだという話に説得力が出る。
「おじいちゃん、ずっと私に早く結婚しろって言ってたじゃない。和樹先生が相手じゃ不満なの?」
「不満……てことはないが、しかしなあ……急すぎて、こう、実感が……」
宗治はまだ、半信半疑という感じだ。無理もない。佳菜だってそうなのだから。
しかし、少しでも早く宗治に心臓手術を受けてもらうためにも、ここはなんとしてでも納得してもらわないとならない。
「……先生のご両親にはもう話したのか? そちらはどうおっしゃってるんだい?」
宗治が和樹に尋ねた。
「父も母も、藤本で働いてくださっているナースであり、森下先生のお孫さんだということで、うちにはもったいないようなご縁だと大喜びしてくれています」
「そうか……」
和樹の言ったことは本当だ。今日ここに来る前に、和樹と佳菜は和樹の実家にふたりで挨拶してきた。
藤本総合病院から車で約十分ほどのところにあるその家は、和樹の曽祖父が建てたという見事な日本家屋だった。
佳菜だって、医師だった祖父に育てられたので、金銭的に苦労したことはない。それでも、代々病院を経営している家は格が違うなと思い、とても緊張した。
和樹が前もってどういうふうに話してくれていたのかわからないが、和樹の両親は佳菜を大歓迎してくれた。
独立して近くに住んでいる和樹の兄夫妻も三歳になる女の子を連れてきていて、皆で楽しく談笑した。
帰り際に、お兄さんからこそっと「もうわかってるかもだけど、あいつ家ではほんとポンコツだから、なにとぞよろしく頼みます」と言われたときは驚いた。冗談か、家では病院にいるときよりは多少気が抜けているということなのだろうが。
「藤本先生のところがそう言ってくれているのに、俺が反対するわけにはいかないわな」
自分に言い聞かせるようにそう言って、宗治はベッドの上で正座をした。
「ふつつかな孫ですが、精いっぱい、いい子になるよう育てたつもりです。どうぞ……よろしくお願いいたします」
宗治が深く頭を下げた。
「おじいちゃん……」
罪悪感で、ぎゅっと胸が痛んだ。
宗治は佳菜の幸せを強く願っている。しかしこの結婚は、宗治に心臓手術をしてもらうための、愛のない契約結婚なのだ。
佳菜はちらりと、隣にいる和樹を見た。
和樹の表情からは、後ろめたさは感じられなかった。
「こちらこそ、まだまだ至らないところの多い男ではありますが、全力で佳菜さんと幸せになりたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします」
頭を下げた和樹の顔は真剣そのもので、佳菜は面食らってしまった。これでは、本当に愛されていると錯覚してしまいそうだ。
と、そこへ、トントンとノックの音が聞こえてきた。
「はい」
外科の看護師かと思い返事をすると、引き戸が開き、ついさっき家にお邪魔した院長が顔を出した。
「失礼いたします」
「父さん?」と、和樹も院長が来ることを知らなかったらしく、驚いた顔をしている。
佳菜は立ち上がって、宗治に一番近い場所を院長に譲った。
「初めまして、私、藤本総合病院の院長を務めております、藤本正和と申します。森下先生が入院されているとも知らず、ご挨拶が遅れてしまって申し訳ありません」
「私のことをご存じで?」
「外科医で先生のことを知らないものはいません」
おじいちゃんってそんなにすごい人だったんだ、と佳菜は改めて思った。宗治は家で仕事の話をしないから、全然知らなかった。
「このふたりが結婚するという話はお聞きになりましたか」
宗治が言った。
「はい。私どもの息子は、見ての通り真面目だけが取り柄みたいな男ですから、もしかしたら一生結婚できないのではと危惧しておりました。それがこんなに素敵なお嬢さんとご縁があるなんて……妻ともども、大喜びしております」
院長は満面の笑みを浮かべて言った。
こちらも本当に喜んでくれているようで、佳菜はまた、罪悪感で胸が痛くなる。
宗治の手術が無事終わったら、結婚生活を維持するかどうかわからない。いくらも経たないうちに離婚します、となったら、宗治も院長もどんなに悲しむだろう。
やっぱり、愛のない結婚なんてするべきではないのではと、いまさら思う。
「それで、あの……結婚式なのですが」と、院長が話を切り出す。
「私どもの仕事の関係で、ある程度の規模の式を挙げさせていただけたらと思っています。ああ、費用はすべてこちらで持たせていただきます」
「いや、ドレス代なんかはもちろんこちらで払いますが……そうか、結婚式か。いつ頃やる予定なんだ?」
宗治が佳菜を見た。
院長が出てきたことで、この突然の結婚話が本当なのだと信じられたようで、もう訝しげな様子はない。
「春頃にできたらって思ってるけど……おじいちゃんの体調が、その頃どうかだよね」
さりげないふうを装って言ったが、佳菜は緊張していた。ここまで断りづらい状況を作っても手術を固辞されてしまったら、契約結婚をする意味がない。
「俺? 俺かぁ……」
宗治はぽりぽりと頭を掻いた。
「森下先生、和樹は若いですが腕はいいです」
院長は自信ありげに言った。
和樹は口を開かなかった。ここで押しすぎるのもよくないと思ったのかもしれない。
「ううむ……」
さすがに親を前にして「おたくの息子の腕が信用できない」とは言えないらしく、宗治は気まずそうにしている。
「……少し、考えさせてください」
「もちろんです」
院長の横で、佳菜は宗治の口から少しでも譲歩する言葉が出てきたことにホッとしていた。
あとは、和樹と結婚して佳菜は幸せに暮らしていると安心してもらえたら、もっと態度が軟化しそうだ。
「森下先生、今後とも末永く、どうぞよろしくお願いいたします」
院長が右手を差し出す。宗治がその手を握り返す。
「こちらこそ、なにとぞよろしくお願いします」
固く手を握り合うふたりを前に、佳菜は覚悟を決めた。
この結婚に、恋愛感情はない。それでも、宗治や院長からは誰よりも幸せな夫婦に見えるように、全力で頑張ろう。
ふたりの結婚のニュースは、光の速さで病院中に伝わった。
翌日のナースステーションで、佳菜はさっそく同僚たちに囲まれた。
「いやあ……今年一番の衝撃的なニュースだよね。まさか森下さんが、和樹先生と結婚するなんて」
先輩看護師の田辺鈴奈が、いまだに信じられないという様子で言った。
今年で三十歳になる鈴奈は、仕事ができて、すらりと背が高く、スタイルがいい。佳菜はひそかに鈴奈に憧れていた。
「そんな気配、みじんもなかったもん」
みんながうんうんと頷く。
そりゃそうだと佳菜は思った。隠していたのではなく、そもそも交際している事実がなかったのだから。
「どうして昨日の今日でみんな知ってるのか、私もびっくりなんですけど……」
「昨日の朝、けっこう早い時間に、院長が小児科に来たんだよね」
鈴奈が言った。
「え、そうだったんですか」
「それで、森下さんのことをあれこれ聞いていったの。たぶん小児科のドクターとも話をしていったんだと思うよ」
昨日の朝ということは、和樹とふたりで家を訪ねる前だ。身辺調査というほどではないが、サッと評判を確認するくらいのことはされていたらしい。
「感謝してよねー、真面目で仕事熱心で患者さん思いで、あんないい看護師はそうそういないって褒めちぎっておいたんだから」
同期の早川愛理が、胸を張って言った。
「あ、ありがとう……」
なんだか恥ずかしくて、顔が熱くなってしまう。
みんなニコニコ笑っている。小児科の仲間たちは、ものすごく驚きはしたようだが、おおむね祝福してくれているようだ。
「……だけどね、他科の人たちまでもれなく手放しで祝福してくれてるとは思わない方がいいよ」
愛理が声量を落として言った。
「さすがにそこまでは思ってないけど」
「特に、和樹先生と、ついこの前和樹先生に振られた佐藤さんのいる心臓血管外科とか。急に現れて和樹先生をかっさらっていった佳菜のこと、おもしろく思ってないのが丸わかり」
「ああ……」
佐藤さんの気持ちになれば、そんな話聞いてないよと思ってしまうだろう。佐藤さんと仲のいい看護師たちが、佳菜のことを許せない気持ちになってしまうのもわかる。
愛し合って結婚するわけではないことを知っているのは、和樹と佳菜だけなのだから。
もしこの結婚で、心臓血管外科のチームワークによくない影響があったらどうしよう。
いままでそんなこと考えていなかったが、急に不安になる。
「……森下さん」
不安は顔に出ていたらしく、鈴奈にポンと肩を叩かれた。
「おじいさんが心臓血管外科に入院してらっしゃるから、気になってしまうのはわかるけど、気にしすぎるのは彼女たちに失礼よ。みんなプロなんだから、たとえ心のなかでおもしろくない思いをしていようと、仕事はきっちりしてくれるわよ」
「そう……ですよね」
佳菜は素直に反省した。
「それで、結婚式はどうするの?」
鈴奈が尋ねてきた。
「籍だけ先に入れて、式は春くらいって考えてはいるんですけど……祖父の病状が落ち着いてからかなって」
「ああ、そういえばおじいさん、心臓血管外科に入院してるんだっけ」
「今日退院なんです」
「え、行かなくていいの?」
「さっき病室に顔出したんですけど、一人で帰れるから、しっかり働けって追い出されちゃいました」
タクシーで帰ると言うし、付き添わなくても大丈夫だろう。
「結婚式かあ……いいなあ、藤本病院の院長の息子だもんね。きっと豪華なのやるんだろうなあ」
「結婚式には呼んでよね。あ、でも全員呼んだら、小児科がカラになっちゃうか」
同僚たちは、きゃっきゃと楽しそうだ。
まさか佳菜が、春までこの結婚が続いているかわからないと思っているなんて、考えもしないのだろう。
「──おはようございます。さ、ミーティングしますよ」
副師長がナースステーションに入ってきた。
佳菜たちは気を引き締めて、頭を仕事モードに切り替えた。