愛に目覚めた凄腕ドクターは、契約婚では終わらせない
第四章 ふたり暮らし、はじまる
 婚姻届けは、宗治が退院した翌日の夜に、和樹とふたりで区役所に出しにいった。佳菜は出しにいこうと言われて初めて、そういった届け出が二十四時間受け付けてもらえることを知った。
 これから宗治はとりあえず通院して、薬を飲みながら様子を見ることになっている。一番悪かった病変にはステントが入っているとはいえ、心配は尽きない。一刻も早く冠動脈バイパス手術に向けての検査や準備をしてほしいと佳菜は思っているが、あまり言うとより意固地になられてしまいそうなので、言わないことにしている。
 この冷え込む季節に宗治を一人にしておくのが不安で、佳菜は当初、しばらくの間通い婚にしてはどうかと提案した。和樹もそれに賛成してくれたが、猛反対したのが、他の誰でもなく、宗治だった。
 夫婦になったというのに別々に住むやつがあるかと叱りつけられ、佳菜は数日後、追い出されるようにして長年住み慣れた家を出た。
 有給を取って引っ越した先は、和樹が一人暮らししていたマンションだ。
 病院からも、佳菜の実家からも車で十分ほどと便利なところにある高級低層マンションで、エントランスやロビーの落ち着いた雰囲気を佳菜は気に入った。セキュリティも申し分ない。
 和樹が住んでいたのは、広い3LDKで、ほとんど使っていなかった部屋をひとつ、佳菜にあてがってくれた。
 和樹は仕事で不在だったが、彼が手配してくれた引っ越し屋は梱包からすべてやってくれる至れり尽くせりのところで、佳菜は聞かれたときに指示を出すくらいしかやることがなかった。
 実家がなくなるわけではないので、荷物は少なく、朝からはじめた引っ越し作業は午前中のうちにすべて終わってしまった。
 見慣れた家具の並ぶ、見慣れない部屋を眺める。
 一応仮にも夫婦になるということで、一瞬迷ったのだが、ベッドは持ってきた。
 結婚したという実感は、まだ全然湧かなかった。もう籍は入れたのだし、恋愛感情があろうがなかろうが、間違いなく和樹とは夫婦になったのだが。
 自分のものに囲まれているからかと思い、リビングに出てみる。応接セットはダークブラウンで統一されていて、テーブルの上にはなにも載っていない。週に一度は業者に家中の掃除を頼んでいると言っていただけあって、サイドボードやその上に置かれている時計には埃ひとつない。
 リビングに面したアイランド型のキッチンは、綺麗すぎるところを見ると、ほとんど使われていないのだろう。調理器具は一通りそろっている。
 どこでも自由に出入りしたり触ったりしていいと言われているので、そのあと佳菜は、家の中をざっと見て回ってみた。
 玄関のシューズクローゼットは大きく、佳菜の靴を入れさせてもらってもまだ半分以上スペースが空いている。
 浴室は窓があって明るく、ワイドタイプの浴槽にお湯をたっぷり入れて浸かったら気持ちよさそうだ。
 和樹が普段寝ているであろう主寝室にあるベッドは大きく、クイーンサイズはありそうだった。多忙な外科医である彼が、睡眠を大事にしているのがよくわかる。
 佳菜は、和樹と一緒にそこに横たわっている自分を想像しかけて、慌てて頭を左右に振った。
 なにを考えているのだろう。
 この結婚は、そういう性格のものではない。同居する以上仲良く暮らしたいとは思っているが、一般的な夫婦がするような肌の触れ合いは、する必要がないはずだ。
 ひとりで恥ずかしくなり、パタパタと熱くなった顔を仰ぎながらキッチンに戻る。
 時刻はもうすぐ午後十二時になるところだ。空腹を覚えたが、この家にサッと食べられるようなものはなにもない。
 和樹はいつも食事をどうしているのだろう。昼は病院内の食堂かコンビニ、夜は適当なところで外食というパターンだろうか。家の様子からすると、朝もどこかで買って、病院の休憩室で済ませていそうだ。
 佳菜は基本的に朝晩自炊する。昼も、お弁当を持参することが多い。特別料理が得意なわけではないが、祖母が亡くなってからはずっと自分で食事を用意してきたので、一通りのことはできる。ただし、祖父の好みに合わせて作っていたので、レパートリーが和食に偏り気味ではある。
 食事を用意したら、和樹は食べてくれるだろうか。もちろん、緊急手術などで帰ってこられない日もあるだろうが、当面同居するにあたり、ある程度のルールは作っておきたい。その辺のことは和樹が帰ってきてから、話し合うことにしよう。
 とりあえず、引っ越しの作業はすっかり済んでしまったことだし、ほとんど空っぽの冷蔵庫を食材で埋めるため、買い出しに出かけることにした。

 マンションの近所を少し歩いていると、住宅街の中にポツンと立っている雰囲気のいいカフェを見つけた。そこで手作りのキッシュランチを食べ、佳菜と同じくらいの年齢のオーナーに、近くにいいスーパーはないか尋ねた。
 教えてもらったスーパーは、マンションから徒歩三分程と近く、野菜や魚が新鮮で品揃えも豊富でとてもよかった。
 楽しく店内を見て回り、佳菜は大ぶりなエコバッグふたつ分の買い物をして帰ってきた。
「──重っ」
 ダイニングテーブルにエコバッグを置いて、ぐるぐると肩を回す。
 テンションが上がって、つい買いすぎてしまった。
 今晩は、特売だったブリを照り焼きにして、ポテトサラダを作ろう。味噌汁は、なめこと豆腐がいい。他にも何品かおかずを作り置きして、明日からの自分のお弁当作りを楽にしたい。
 まだ時間が早いし、まずは祖父の分のおかずをいろいろ作って、届けに行こう。
 佳菜が今朝まで住んでいた実家は、ここから車で十分ほどの距離にある。佳菜は自分の車を持っていないが、バスでも十五分程度で着くので、気楽に帰れるのがありがたい。
 さっそく料理をはじめようと、佳菜は張り切ってエプロンをつけた。

 夕方頃、保存容器に入れたおかずをたくさん持って、バスに揺られて実家に帰った。
「ただいまー」
 鍵を開けて家に入る。
「なんだ佳菜、お前、もう帰ってきたのか」
 半日ぶりに会う宗治が驚いた顔で玄関に出てきた。
「和樹くんと喧嘩でもしたか?」
「喧嘩もなにも、まだ会ってないよ、今日は。和樹先生お仕事だもん」
「それもそうか」
「おかず持ってきた。あとはお米炊けば、二、三日はすぐご飯食べられるよ」
「おお、ありがとう」
 差し出した袋を受け取ったあと、宗治は複雑そうな顔をした。
「佳菜……お前、こんなことしなくていいんだからな」
「え?」
「俺だって自分の飯くらいどうにでもできる。俺より、和樹くんに気を使ってやれ」
「そっちはそっちで、もちろんやるよ。おじいちゃんの分は、ついで」
「そうか、ついでか」
 宗治はフッと笑った。
「ならいい。引っ越しは無事済んだんだな?」
「うん。広くて綺麗なマンションだよ。おじいちゃんも今度遊びにきて」
「ああ、わかった」
「体調は? 胸が痛んだりしてない? 薬ちゃんと飲んでる?」
「問題ない。そんなにじじい扱いするな」
 さっさと戻れとばかりにシッシと手を振られ、佳菜は家に上がらず、退散した。

 時計の針が午後八時を回った頃、玄関の方からガチャっと扉の開く音が聞こえてきた。
 広々としたキッチンは使いやすく、夢中で料理していたからあっという間だった。
 廊下を歩く音がして、少ししてリビングのドアが開いた。
 スーツの上にコートを着た和樹が、冬の空気をまとって帰ってきた。
「おかえりなさい」
 エプロン姿のまま笑顔で言った佳菜を前に、和樹は一瞬固まった。
「……た、だいま」
 この間はなんだろう、と少し不思議に思う。
「ご飯できてますよ。それとも先に、お風呂にします?」
 言ってから、ものすごく新婚っぽいことを言ってしまったと、ちょっと恥ずかしくなる。
「食事を先に……着替えてきます」
 和樹はそそくさと自分の部屋へ引き上げていった。
 なんとなく、引かれているような感じがする。
 距離感が近すぎただろうか。
 一般的な夫婦ではないのだし、あまりなれなれしいのはよくないのかもしれない。
 反省しているうちに、上下スウェット姿になって、和樹が戻ってきた。
 佳菜はすぐに汁物を温め、ご飯をよそった。食事せずに待っていたので、自分の分も用意した。
 和樹は立ったまま、夕食の並んだ食卓をまじまじと見ている。
「ごちそうですね」
「品数が多いだけです。そんなに手はかかっていないんです」
 明日からのために作り置きをいろいろしておきたかったから、少し張り切ってしまった。
 エプロンを外し、和樹と向かい合って食卓につく。
「いただきます」
 と、和樹が両手を合わせて、ブリの照り焼きを食べはじめた。
 佳菜は少し緊張した。彼の口に合えばいいのだが。
「美味しいです、とても」
 口元をほころばせてそう言われ、ホッとした。
「よかったです」
 ふたりはしばらく無言で箸を進めた。
 半分ほど食べたところで、ふと和樹が言った。
「……二人で生活していくための、ルールを決めた方がいいと思うんです、ある程度」
「ルール、ですか」
 それは、佳菜も思っていた。
「例えば食事のことだと、今日はわりと早く帰ってこられましたが、もっと遅くなってしまう日もあります。『遅くなる』と連絡することすらできないことも、少なくないと思います」
「私も、夜勤で夜いないときがあります」
「ですよね。なので、八時なら八時と決めて、その時点で帰ってきていなかったら、お互いそれ以上待たずに食事してしまいましょう」
「はい、わかりました」
 料理をしても和樹の帰りが遅くなったら、ラップをして冷蔵庫にしまっておけばいいし、翌朝を過ぎても食べられないようなら、佳菜のお弁当に入れたっていい。
「料理も、ないならないでどうにでもしますから、あまり頑張りすぎないでください。僕は簡単なものしか作れませんし」
「お昼ご飯にはいつもお弁当を持っていっているのと、祖父におかずを届けたいのもあるので、料理は毎日すると思います。和樹先生に食べられない日があるのはわかっているので大丈夫です」
「……和樹先生」
 和樹がぼそっと言った。
「はい?」
「夫婦でその呼び方は、少々おかしくないでしょうか」
「あ……そっか、そうですよね」
 言われるまで気が付かなかった。気を付けないと、周囲から夫婦としてうまくいっていないように見られてしまう。
「ええと……では、和樹……さん?」
 おずおずと呼んでみると、和樹が胸を押さえて黙った。
「あの、どうかなさいました?」
「……なんでもないです……佳菜さん」
 佳菜も下の名前で呼ばれるのは、まだ慣れない。
 気恥ずかしいような、甘酸っぱいような妙な空気が食卓に漂う。食事を摂る手は、二人ともさっきから止まってる。
「そ、そうそう、好き嫌いはありますか? 苦手な食材や料理があったら、いまのうちに聞いておきたいです」
 空気を変えたくて、佳菜は明るい声で言った。
「なんでも食べられますけど、あえて言うならエスニック系はあんまり……」
「了解です」
 佳菜も、エスニック料理は作るのも食べるのもあまり得意ではない。
 会話が途切れ、二人してまた箸を動かしはじめる。
 食卓の上の皿を見ると、和樹は満遍なくすべてのおかずに手を付けてくれているようだ。魚の食べ方も綺麗で、佳菜は好感を持った。まだこの結婚がどうなるのかはわからないが、食事の面では、うまくやっていけそうだ。
「……今日は引っ越しの手伝いができず、すみませんでした」
「いえ。和樹さんが手配してくださった引っ越し屋さんが梱包からなにからすべてやってくれたので、私もやることがなくてなにもしなかったくらいです」
 和樹はリビングやキッチンの方を眺めた。
「本当にこの家に引っ越してくる形でよかったんですか?」
 リビングにもキッチンにも、佳菜の選んだものがまったくないのを気にしての言葉だろう。和樹の気持ちはありがたい。
 しかし佳菜としては、いつまで続くのかもわからない結婚生活のために、わざわざ新居を買ったり家具を一から揃えたりなんてことは、恐ろしくてできない。
「全然問題ないです。べつに遠慮してるわけじゃないですよ。素敵なおうちなので、なんの不満もないだけです」
「それならいいですけど……部屋はどうです? 狭くはなかった?」
「実家で使っていた部屋よりずっと広いです。大きいベッドに買い替えちゃおうかと思ったくらい」
「……ベッド、持ってきたんだ」
 和樹がぼそっと言った。
「え? あ、はい」
 いけなかったんだろうか。
 また妙な空気になりかかったが、二人とも食べ終わったことでひとまず会話は終わった。
「ごちそうさまでした」
「はい、おそまつさまでした」
 和樹が食卓から皿を下げるのを手伝ってくれた。下げた皿は、サッと流してビルトイン食洗器に入れていく。実家で使っていたものより大容量なのが嬉しい。これなら皿だけでなく、鍋やフライパンもみんな入る。
 食事の後は、お風呂を沸かして、順番に入った。
 後に入った佳菜は、お気に入りのふわふわしたルームウエアを着てから、すっぴんで洗面室から出ていいものか、しばし迷った。
 結局、色なしのフェイスパウダーを軽くはたいてリビングに戻ると、和樹はソファに座って文庫本を読んでいた。
「お風呂いただきました」
「あ、はい……」
 和樹はパっと顔を上げて佳菜を見た後、視線を泳がせた。
 なんだろうなと思いながら、佳菜は冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを出し、コップに一杯飲んだ。
 時刻は午後十時を過ぎたところだ。
 まだ寝るには早いが、いきなり隣に座るのも気まずい。
 少し考えて、テーブルの角に沿って置かれている一人掛けのソファに腰を落とした。
「朝は、いつも何時ごろ出ていらっしゃるんですか? 朝ご飯はどうしましょう」
「仕事の日は、だいたい七時半には家を出ています」
 佳菜が家を出る時間より、三十分は早い。
「俺に合わせてくれなくていいですよ。朝は適当にコンビニで買ったりして済ませてますので」
「いえ、私も普段六時には起きてますから、簡単なものでよかったら作りますよ。一緒に食べたいですし」
 夕食は毎日一緒というわけにはいかないだろうから、せめて朝だけでも同じ時間を共有したい。そうすることで、形からでも少しずつでも夫婦というものに近づいていける気がした。
「……嬉しいです」
 和樹がはにかんだように笑った。
 その顔が、いままで見た彼の大人っぽい笑顔とは全然違って見えて、ドキッとした。



 藤本和樹という人は、オンオフのハッキリした人だ。そしてオフのときは、オンのときの十倍くらい表情豊かだ。
 一週間ほど一緒に暮らしてみて、佳菜はそう理解した。
 仕事の日と休みの日では、まず朝起きるところから、全然違う。
 仕事がある日は、目覚まし時計がなる前にシャキッと目を覚まして、洗面と着替えをサッと済ませたら、佳菜が朝食を準備している間に真面目な顔で新聞を読む。その姿は、病院で見かけてきた和樹から想像するのと同じ感じだ。
 これが休みの日だと、なかなか部屋から出てこない。何度か部屋をノックし、普段より二時間近く遅く、のそのそと部屋着のまま出てきたかと思うと、リビングのカーペットの上で体育座りをしてまたうとうとしている。
 義実家に結婚の挨拶に行ったとき「あいつ家ではほんとポンコツだから、なにとぞよろしく頼みます」と、義兄に言われた。
 そのときはピンとこなかったけれど、なるほどこういうことかと、わかりかけてきた。
 普段の朝食は、ご飯に味噌汁、焼き魚と玉子焼きといった純和食な内容がほとんどだ。
 和樹はそれで不満がなさそうだが、休日のブランチには向かないかなと思い、試しにふんわりしたパンケーキにバターと蜂蜜を添えて出してみたら、いままで見たなかで一番幸せそうな顔をされた。
「すごい。ふわふわだ。佳菜さんは、パンケーキの天才ですね」
「あ、ありがとうございます……」
 そんな難しいものではないのに手放しで褒められ、照れてしまう。
 和樹の向かいの席で、佳菜もパンケーキに蜂蜜をかけて、一口食べた。卵を軽く泡立ててから作っているので、ふんわりととろけるような食感だった。
 一緒に食事を摂るのは、だいぶ慣れた。
 最初はなにを話していいのかよくわからなかったし、沈黙が続くと気になってしかたなかったのだが、いまは会話が途切れてもさほど気にならなくなった。
 結婚当初、家事を分担できないことを和樹は気にしていたが、佳菜は料理が苦にならないし、苦になる掃除はいままで通り週二で掃除業者に頼むことで、解決した。
 佳菜としては、そこそこ順調な結婚生活だと思っている。
 しかし、周囲もそう思ってくれるとは限らない。

 昨日のことだ。
 仕事を終えた佳菜は、病院の更衣室に入ろうとしたとき、ドアの向こうから自分の名前が聞こえてきて、立ち止まった。
「──森下さんと和樹先生って、全然夫婦っぽくないよね」
「まじそれ」
「森下さんが仕事は旧姓のまま続けるのはわかるし、指輪ができないのは病院勤めだからしょうがないとして、この前廊下でふたりで話してるの見かけたんだけど、めちゃめちゃよそよそしかったよ。ただの業務連絡って感じで」
 佳菜の帰りが遅くなりそうだから、夕食はそれぞれで摂りましょうと言いにいったときのことだろう。私用のスマートフォンは業務中は使えないので、私的な話がしたかったら直接会いに行くしかない。午後八時を過ぎたら、お互いそれ以上待たないという約束はしているが、それまで待たせてしまうのが忍びなかったのだ。
 それで昼休みにサッと話しに行ったのだが、それが裏目に出たようだ。

「私、思ったんですけど」
「はい」
「いまみたいに二人とも敬語で話すのは、夫婦としてよそよそしく見えてしまうんじゃないでしょうか」
「そうですね。その通りだと思います」
 パンケーキを飲み込んで、和樹が頷く。
「なので、和樹さんは私に敬語を使うのをやめてください。いまから」
「え、俺だけですか」
 佳菜は和樹にタメ口で話す自分を想像した。
「わ、私は無理です……年も立場も違いますし」
「そういうものですか」
 和樹はいまいち納得していないようだったが、強くは意見してこなかった。
「それじゃ、名前も呼び捨てにするよ……佳菜」
「っ、はい」
 ふいに名前を呼ばれ、椅子の上でビクッとしてしまった。
 それを見て、和樹がフッと笑う。
「なんか、慣れないな。話していれば慣れるかな……じゃあ。俺と暮らしだして一週間経ったわけだけど、なにか不満はない?」
「不満、ですか」
「俺はあまり気の利くタイプじゃないから、なにかあれば、ささいなことでもいいから言葉に出して言ってほしい」
 んー、と佳菜は顎に指を当てて考えた。
 平日の帰りが遅くなりがちなのは、外科医なら当然だ。
 休日の朝が弱いのも、人間味があってむしろ親しみが増した。
 家事をしてほしいとはまったく思っていないし、佳菜が作ったものを美味しそうに食べてくれるだけで十分だ、というところまで考えて、ひとつ思い出した。
「不満というわけではないんですが。要望というか」
「なに? なんでも言って」
「お昼のお弁当を作ってもいいですか」
「お弁当?」
 予想外の言葉だったのか、和樹はきょとんとした顔をした。
「いつもコンビニのパンで済ませているって聞いて、気になっていたんです。たいしたものは入れられませんけど、パンだけよりはましかなって思って」
「それは嬉しいけど……大変じゃない?」
「いまも自分の分を作っているので、もうひとつ増えても手間は変わりません」
「そうなんだ」
 と、和樹は納得してくれたようだった。
「作ってくれるなら、俺はすごく嬉しいよ。ただ、なければないでどうにでもするから、夜勤明けのときとかまで無理して作らないでほしい」
「わかりました」
「あとは? 他になにかない? お弁当のことだけだと、俺が嬉しいだけなんだけど」
「他に、ですか……んん……」
 腕を組んでよく考えてみたが、なにも浮かんでこない。
「本当にないんですよね……逆に聞きますけど、和樹さんはなにか私に不満はないんですか?」
「え、俺?」
「はい」
 頷くと、和樹はんんーっと唇を尖らせた。
 これは、なにか言いたいことがある顔だ。休日の彼はわかりやすくていい。
「不満というわけではないんだけど。要望というか」
「なんですか? なんでも言ってください」
 迷うように視線をさまよわせ、五秒黙ってから、和樹は口を開いた。
「──たまには、一緒に寝たい」
「えっ」
 予想していなかった方向からの要望に、佳菜は言葉を失う。
 たしかに、一般的に夫婦というものは一つのベッドで眠るものなのかもしれないが、自分たちはそういう関係ではないのだと思っていた。
 だから、引っ越しのとき自分のベッドを持ってきたのだ。
「お互い、休息をしっかりとるのも大事な仕事だし、佳菜は俺と同じベッドだとゆっくり休めないかなと思っていままで言わなかったんだけど……せめて二人とも休日のときくらいは、同じベッドで眠りたい」
「そ、そうですか……」
 返事をした声が、裏返ってしまった。
 男性と交際した経験がないとはいえ、佳菜だってもう二十四だ。
『同じベッドで眠りたい』と言われて、同じベッドで眠ればいいんだなと無邪気に考えるほど子供ではない。
 和樹がそういう面でも妻であることを佳菜に求めていたとは、気づかなかった。
「そんなに緊張しないで。佳菜が嫌がるようなことはしないから」
 和樹が困ったような顔で笑う。
「嫌というわけでは……」
 経験がないから、どうしていいのかわからない。
 それと、それなりに仲良くは暮らせていると思うけれど、躊躇なく裸体をさらけ出せるほど打ち解けたかと言われると、まだそこまではいっていないように思う。
「もっと具体的に言った方がいいかな。添い寝してほしい」
「あ、添い寝でいいんですか」
 あからさまにホッとした顔をしてしまった佳菜を見て、和樹がおかしそうに笑う。
「とりあえずは。それじゃ、今晩さっそく、どう?」
「フフッ、わかりました」
 軽い誘い方がおかしくて、佳菜も少し笑ってしまった。

 その晩。
 就寝する準備をすっかり整えてから、佳菜は初めて自分の枕を持って和樹の部屋を訪れた。
「……」
 ドアをノックしようとしている手が、動かない。
 誘われたときは、和樹の軽い言い方もあって、添い寝ならと気軽に了承してしまったものの、いざとなると緊張してきた。
 和樹のベッドは広いが、添い寝という以上、端と端に寝るわけにはいかないだろう。
 佳菜はパーソナルスペースがそんなに狭い方ではない。それに考えてみたら、結婚して十日ほど経つというのに、和樹とはまだ一度も体が触れたことがない。
 添い寝というもののハードルの高さを思い知らされ、くるりと向きを変えて自分の部屋に帰りたくなってしまった。
 いやいやいや。それはまずい。和樹はきっと、自分を待っている。
 佳菜は勇気を奮い起こして、再び拳を握った。
 コン、コン、とドアを叩く。
「どうぞ」
 と、中からすぐに返事があった。
「……失礼します」
 扉を開けると、和樹はヘッドボードを背もたれにして座り、文庫本を読んでいた。ニコッと笑い、その本を閉じて、ベッド脇の引き出しに置く。
「お、お待たせしました」
「うん、早くノックしてくれないかなあと思って、待ってた」
「えっ、そこにいたの、気づいてたんですかっ……!」
 それは恥ずかしすぎて、顔が熱くなってしまう。
「あと一分ノックしてくれなかったら、ドアを開けにいこうと思ってた」
 楽しそうに言って、和樹は掛け布団をめくった。
「さ、どうぞ」
「あ……は、はい……」
 両手で枕を抱き締めて、おずおずとベッドに膝を乗せる。
 そして和樹から三十センチほど離れたところで、布団に入って横になった。
「それは、抱き枕なの?」
「あ、いえ、普通の枕です……」
 抱き締めたままだった枕を、頭の下に入れる。
 佳菜の一挙一動を、和樹は座ったままじっと見ていた。
「お、おやすみなさい」
 緊張と恥ずかしさで雑談できる気がせず、佳菜はそうそうにまぶたを閉じた。
 口元まで掛け布団に潜り、完全に寝る体勢に入ったものの、まるで眠れる気はしない。
「おやすみ」
 返事をした和樹の声は、わずかに笑っている感じがした。
 部屋の電灯が消された。
 もそもそと、和樹も布団に潜ってきた気配がする。
 それからしばらくは、二人とも動かなかった。同じベッドで、離れた場所に横になり、お互いの吐息の音を聞いていた。
 ──添い寝というのは、これで合っているのだろうか。
 よくわからないが、初め固くなっていた佳菜も、温かい布団の中でじっとしていると、徐々に緊張が和らいできた。
 というか、眠くなってきた。
 うとうとしてきた佳菜が寝返りを打ち、和樹に背を向ける体勢になったときだった。
 後ろから腕が伸びてきたかと思うと、佳菜の体は和樹の胸に閉じ込められた。
「あっ……」
 一気に目が覚めて、体が強張る。
「大丈夫、なにもしない」
「……え?」
「抱き枕になって」
「……抱き枕」
 背中全体に、和樹の胸やお腹が当たっている。腕は片方お腹に回されている。
 こんなの絶対に眠れるはずがないと佳菜は思った。それでも、彼が望むなら、朝まで抱き枕とやらを務めてもいいとも思った。
 そうしているうちに、和樹の方が体温が高いようで、体がポカポカしてきた。人の体温がこんなに気持ちいいなんて、いままで知らなかった。
 和樹の呼吸が、うなじの辺りにかかる。
 同じリズムで呼吸しているうちに、佳菜はまた眠くなってきた。
「……おやすみ」
 意識が落ちる寸前、こめかみに柔らかいものが当てられたのを、かすかに感じた。
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